美しい男

 目が覚めると、辺りはすっかり暗かった。目を開いたばかりでまだ闇に目が慣れない。体調は寝入る前からあまり変わっておらず、相変わらず鉛でも入ったように体は重かった。
 全身の薄皮一枚の下にある痛覚神経が、体の内側からもたらされる熱と痛みに耐えかねてひっきりなしの悲鳴を上げ続けている。症状は日増しに酷くなっていく心地がした。
 終着点はどこなのだろう、一体この体はどうなってしまうのだろう。あの声は、自分を操ろうとするあの声は何なのだろう。胸を過ぎらざるを得ない思考はますます葦原を不安にさせた。
 何でも打ち明けられると信頼していた人には拒絶された。だから、一人で抱えるほかはない。夢とか希望とかそんな少々面映ゆい、だがようやく見付けたと思えたものも手放した。
 葦原にはもう何もなかった。
 とにかく誰かに少しでも分かってほしい、聞いてほしい。そう願った。父の死に深く関わると思われるあかつき号の事故に巻き込まれた榊亜紀は、葦原の変わり果てた姿を目にして、恐れはしても拒絶まではしない、それどころか受け入れようと努力してくれる、初めての人間だった。
 もしかしたら、生きていけるかもしれない、一緒に。その言葉は、どれだけ力強く深く胸に響いただろう。もう誰もいないだろう、誰にも巡り合えないだろう。そんな諦観をやさしく突き崩してくれる言葉だった。
 亜紀の思惑が何であれ、葦原を利用しようとするだけでも構わないと思った。誰もいないよりは遥かにましだった。少なくとも亜紀には、どう痛いのかどう辛いのかを、話すことができる。亜紀の痛みや苦しみも、きっと葦原は聞いてやる事ができるのだから。
 何をしたらいいのか分からないのはきっと、誰もいないからだ。世界には自分が一人だけで誰も話を聞いてくれないのならば、何をしてもどうにもならないだろう。だから亜紀がいてくれたら、葦原はきっと自分が為す事をきちんと見付けられる。そんな気がした。
 一人は嫌だった。
 何でどうして自分だけが。納得できそうな答えは見付かる気配もない。先も見えず受け入れがたい現状は、一人で抱えるには手に余った。
 だが、ようやく見付けられたと思った亜紀も、いなくなっていた。葦原が警察に囲まれ銃弾を浴びせられたあの日に別れたきり、亜紀は部屋に帰っておらず、亜紀の部屋には家主の代わりに妙な男が居着いていた。
 その青年とは、亜紀と出会う以前に一度会っていた。彼は、やはりあかつき号に関係する篠原佐恵子を、失った記憶の手掛かりを求めて訪れていた。
 篠原佐恵子は(何に、かは分からないが)ひどく怯えていた。己に起こった事とはきっと事情は違うだろうが、葦原にはその気持ちが分かるような気がした。葦原が変わっていく己の姿を受け入れられず誰にも受け入れてもらえない事実から目を背けてしまいたくなるように、篠原佐恵子にも恐らく、(あかつき号の事故の際に遭遇したと推測される)まともには向き合えない何かがあり、それは葦原の父を死に追い込んで、そして亜紀をも苦しめているのだろう。
 兄のついた嘘の幻想にきっと嘘と知りつつ縋り、ひたすら湖へと潜り現実から眼を背け続ける佐恵子を見て、彼は、そんなのはおかしいと言った。
 何が分かる、と思った。一体何が分かるというだろう。世界は美しいというが、佐恵子が葦原がどんなに苦しもうと、世界はそんな事はお構いなしに、冷然と美しいのではないか。美しさを楽しめるのは楽しむゆとりがあるからだ。心底から苦しんでいないからだ。そう思った。
 何も知らない能天気さに虫酸が走った。希望に溢れた言葉を口にできる、幸せそうな男に嫉妬をしたのかもしれない。葦原は彼を殴り飛ばしてその場を離れた。
 もう会うこともないだろうと思っていたから、亜紀と一緒に現れて、以前付き合っていたなどと言い出した時には面食らった。あの訳の分からない怪物どもから自分を守ってくれるなら、亜紀にとっては誰でもいいのだろう。
 誰でもいいのはお互い様だった。最初の内は誰でも大差がないのは当たり前の事で、その人しかいないという価値は段々に積み上げていくものだ。今のところは葦原だって、話を聞いてくれるならば誰でもいいのだ。これから亜紀は葦原の話を聞いてくれて、葦原は亜紀を守って、お互いはその人でなくてはならない価値を持つようになる筈だった。
 亜紀はどこに行ってしまったのだろう。会いたかった。だが葦原の体は異形への変化に耐えきれないように痛み重く、今は起き上がり歩く事すらままならなかった。
 薄いドアの向こうから階段を駆け上がる足音が響いて、部屋の前で止まった。鍵が鍵穴に擦れて回り、少々喧しくドアが開いた。
 恐らく亜紀ではない。物音から判断するに、あの変な男が帰宅したらしかった。キッチンの電灯が灯されて、光が葦原の眠る奥の寝室にも漏れてきた。
「起きてます?」
 そっと部屋を覗き込んだ男に目線を向けるだけの動作も、今は出来そうになかった。
 記憶がなく何も持たないまま、世界は美しいのだと言う男。確か、しょういちくん、と呼ばれていた。
 例えば、記憶がなくなって何も思い出せないならば、どんな心地がするのだろう。ふと葦原の胸に疑問が浮かんだ。
 葦原にはもう何もないけれども、葦原が欲しいものではないだけで、過去は存在しているし記憶もある。思い出そうとすれば、いいものも悪いものも、思い出すことができる。そこには、世界が美しいと思えた瞬間もあった。
 水底から見上げる光、水面に上がると頭上いっぱいに広がった青い青い空。葦原の知っている美しさは水の中にあった。泳ぐ事は葦原にとって、世界と自分が断絶していない、関係があると実感を抱ける行いだった。
 そんな記憶も持っていないのならば、きっとたまらなく不安になってしまう。思い出せないという事実はそれだけで人を心細くさせるに十分だろうし、どうしていいのか分からなくなるだろう。何がしたかったのか欲しかったのかすら、何もかも消えてしまうなら。
 今の葦原は、他にする事がないからという理由で父の死について調べているが、記憶を失えば、そんなそれらしい理由も言い訳も何もかも消えてしまう。
 それでも人は生きられるだろう。だが、自分が生きているのだと、例えば葦原が水泳に打ち込んでいた時のように感じることはできるのだろうか。何も持たないままで。
 してみれば、本当に何も持たない状態にはなった事がないから、未だに葦原は失う事を恐れているのかもしれなかった。
 だからといって、葦原の欲しいものはもう全て失われてしまった。何かを探さなければ見つけなければ、何の為にどうやって歩いていいのかが分からなかった。
 うっすらと開いた瞼が重い。暫く葦原を眺めていた男はふいと背中を向けて襖を閉め、訪れた暗闇に誘われるように、再び葦原は目を閉じた。

* * *

 自室のベッドに自分以外の男が寝るのは初めてだった。
 妙な心地がした。ベッドの横に置いた椅子に腰掛けて、苦しげに魘される津上翔一を眺めて、葦原は息を吐いて口許を軽く歪めた。
 このベッドに寝たのは他には、そんな事をとりとめなく思い出して、片平真由美の記憶が微かに過ぎる。もう手は届かないのに、決して消えはしない。
 以前葦原が亜紀の部屋に転がり込んだ時と、まるで逆の状態だった。
 亜紀を殺した仇として葦原が深く憎んだアギトの正体は津上翔一で、亜紀を殺したというのは全くの誤解だった。津上には、人を殺せるような種類の勇気も理由も胆力も覚悟も、ありはしないだろう。
 今は何らかの変化が津上の体に起こっていて、葦原の体が変化に苦しんだのと同様に苦しんでいる。
 何が違うだろう、自分と。
 苦しげに短い息を吐いて眼を閉じ横たわる津上を見下ろして、葦原はそう感じた。
 津上はアンノウンに命を狙われ、ひどく怯えていた。巻き込むのを恐れて葦原や真魚まで拒絶しようとし、恐ろしいのにそれでもアンノウンに立ち向かおうとしていた。明るく能天気で何も知らない、と感じていた今までの印象からは遠い姿だった。
 津上には風谷真魚がいて、彼女は津上の正体がアギトである事を知りつつ翔一を家族のように案じ見守っている。それは、大きな違いだった。
 許して受け入れてくれる人がいる。それは葦原が今まで求めて得られなかった、ようやく見付けたと思えば簡単に失われたもので、それがあればこそ津上も明るく振る舞う事ができていただろう。だがそれは、津上が何も知らないという事ではない。津上もまた、こうして葦原と同様に恐れ怯えている。
 しかし、ならば何故、津上翔一は世界は美しいと言えたのだろうか。世界に遍く全ては美しい、そんな事を。
 あんな姿になって、恐ろしい怪物と命の遣り取りをしてそれでも、世界は色を失わなかったというのだろうか。
 変な男だ。
 津上を眺めて、葦原はぼんやりと感想を胸に浮かべた。
 暫く眺めていると、津上の瞼が幾度か緩く震え、やがてゆっくりと瞼が上がって眼が開いた。
「目が覚めたか、気分はどうだ」
 声をかけると、葦原がいる事にほっとしたかのように、津上は緩く微笑んだ。
「……大分、楽になりました。すいません迷惑かけて。葦原さんこそ昨日の怪我大丈夫ですか」
「人の心配はいい、自分の心配だけしてろ」
 答えた津上のこめかみにはうっすら汗が浮かんで、声も昨日同様に擦れ震えていた。言葉とは裏腹に状態は改善されていないのだろう。
「あっ葦原さん、一個、お願いがあるんですけど」
「何だ?」
「これ……すいません、そこにあった紙と鉛筆勝手に使っちゃいましたけど、これ真魚ちゃんに届けてほしいんです」
 葦原は、気にした様子もなく津上が差し出さしたメモ紙を受け取って眺めた。水の遣り方や草抜きの注意点、肥料の与え方、収穫のタイミング。野菜の栽培方法が事細かに記されていた。
「……何だ、これは」
「あっ、俺、うちで家庭菜園作ってて。夏って色々しなきゃならない事多くて気になってしょうがないんですけど今帰れないし、もう帰れなくても、俺がいなくても育ててほしくって、だから真魚ちゃんにお願い、したいんです」
 もう帰れなくても、俺がいなくても。そんな言葉を他に紛れさせて軽い調子で、津上は口にした。
 この男には、世界が美しい事も、野菜を育てる事も、自分が死ぬ事も、等価で在るのだろうか。恐れても怯んでも、物事は在るがままに在り、心が物事の価値を決める事をしない、価値は受け取り受け入れているのではないか。
 葦原とは違った。葦原には、自分を受け入れない場所は価値がない。愛すれば失いたくない、理不尽に奪う者は憎い。ものごとの価値は、己の心が決める己だけのものだった。
「帰れなくてもなんて、そんな事は言うな。何とかしてやるとも言えないが、そう投げ遣りになるもんでもない」
 葦原のきつい目線を怒っていると感じたのだろう、津上は申し訳なさそうに目を細めた。
「……これは届けといてやる。だからお前も、帰る事は諦めるな」
「はい……すいません」
 答えると津上は、頬を緩めてまた微笑んだ。何か笑うような事は何かあったろうか、葦原には分からなかった。
「……何か、可笑しいか?」
「あっ、いえ、すいません。俺嬉しくって。葦原さんってすごく優しいんだなって思って。今まで葦原さんの事乱暴な人だなって誤解してました、すいません」
「いきなり殴ったからな、仕方ないだろう。それより、一つ聞いてもいいか」
「はい、何ですか?」
 切り出して葦原は、続けるのを躊躇うように目線を伏せた。何呼吸かを置いて、目線を上げ津上の目を見つめる。
「もう殴ったりしないから教えてくれ。お前は今でも、世界は綺麗で、幻想になんて逃げ込む必要はないって、そう思うのか」
 質問を聞いて津上は、不思議そうな顔をして葦原を眺め返した。暫く無言で互いに見つめ合う。やがて、さも可笑しそうに津上が吹き出して表情を緩めた。
「そういえば言いましたねそんな事。俺、いつだって世界は綺麗だって、思ってますよ。今もです。それがすごく、嬉しくて」
「……嬉しい?」
「はい。だって俺が例えば死んじゃったって、綺麗なものはなくなったりしないんです。空は青いまんまで、菜園の野菜だってちゃんと育ってって。もしなくなっちゃったら悲しいじゃないですか。だからなくならなくてずっとあるんだなって思うと、なんだか嬉しくって」
 緩く微笑んだままで、やはりかすれて弱い声で津上は答えた。
 やはり、葦原には津上の言葉の意味は分からなかった。だが、津上はとにかく失いたくないのだ、手に持つものばかりでなく何もかも、関係のないものまで。そんな事が思われて悲しくもなった。
 質問を投げておきながら反応を返さないで、葦原は椅子を立った。風谷真魚の所に行って来る、と告げてそのまま振り返らずまっすぐに部屋を出た。夏の日は今日も鋭く照りつけてアスファルトを焼き、緩く陽炎が立ち上っていた。
 今日もきっと暑くなるだろう。今まではそんな事を考えれば気が重くなるだけだったが、津上が育ち続けてほしい野菜は陽光を浴びるのだろうと思うと、不思議と重さがなかった。
 ヘルメットを被ってスターターを押し、葦原は風谷真魚の住む美杉家への道を走り始めた。

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