カインの子、約束の地にて天に召され(1)
日差しはまだそんなに高くはない。普段ならば、まだベッドの中で微睡んでいる事もあるような時間だった。
朝の九時。今日も定刻通りに、巧が待機する車の窓を、白井虎太郎が叩いた。
「お疲れ様」
ドアを開けると、虎太郎は人懐こそうな笑みを浮かべて、いつも通りに、パンと牛乳の入ったポリ袋を差し出しながら、助手席へと乗り込んだ。
「今日も何もなかったぞ。本当にあの仏頂面を攫いたいなんて物好きが存在してんのか?」
「あれでも結構、感情が顔に出るようになってきたんだよ、始。何事も起きないのが一番だしさ」
「そりゃそうだがな……こっちは眠くてたまんねぇよ」
ぼやいて巧は、受け取ったポリ袋から牛乳の瓶を取り出し、紙蓋を外して、一息に半分程を飲み干した。
ハカランダの側の道で、虎太郎の車を使って張り込みを始めて、二日になる。
手がかりもないままに闇雲に王を捜し回るよりは、恐らく再度始を狙って姿を見せるに違いない敵を待つ方が、幾分かは確実性が高いように思われたし、それに、ハカランダを離れて栗原親子から目を離すのを、始が断固拒否した。
昼は啓太郎と虎太郎が、夜は三原と巧が交替で待機し、有事に備えていた。
今のところ、オルフェノクの気配はない。不気味な程静かに、時間だけが過ぎていく。
袋を開け、巧がアンパンに齧りつくと、ハカランダのドアが開いて、出て来たエプロン姿の始が、手にした箒と塵取りで、周囲を掃き清め始めた。
何か起こるなど思いもよらないほど、冬の朝は穏やかに流れている。もそもそとアンパンを噛みながら、巧は面白くなさそうな顔で、掃き掃除が進む様を眺めた。
「あのさ……」
「ん、何だ」
自分から呼び掛けておいて、虎太郎は何か躊躇ったのか、言葉を継がずに黙ってしまった。
巧が正面から助手席へと視線を移すと、ちらと巧を見て、照れ臭そうに笑う。
「あの、始の事、手伝ってくれて、ありがと」
「……別に、あいつを助けるとかじゃない。こっちもオルフェノクに用事があるだけだ」
巧は嘘偽りない心境を口にしたが、それをどう解釈したのか、虎太郎は嬉しそうに目を細めた。
「それでもさ、ありがと。あいつあんな奴だから誤解されやすいんだけど、今はほんとに、あそこで静かに、暮らしたいだけなんだ。それだっていつまで居られるか分かんないけど……だから僕達、あいつの居場所だけは、どうしても守りたい」
虎太郎は、まるで独り言みたいに、訥々と言葉を継いだ。ゆっくり噛み締めるような、誰に向いているのか分からない独白を聞きながら、巧はアンパンの最後の一口を飲み込んだ。
「……お前もあの橘って奴も、随分仲間思いだな」
素直な感想を口にすると、虎太郎は今度は、僅かに困ったように眉を下げて、目を細めた。
「ホントはね、僕も橘さんも、始とは凄く仲悪かったんだけど……何か、約束っていうか、そういうのが出来ちゃって……。剣崎君っていってさ。あいつと親友で、僕の友達だったんだけど、どうしても側に居られなくなって、離れてったんだ」
虎太郎の話は、今一つ掴み所がない。残りの牛乳を噛みながら、巧は相槌を返さず、ただ虎太郎の言葉を聞いていた。
「剣崎君はね、あいつがあそこにずっといられるように、その為に、いなくなっちゃった。だから僕も橘さんも、その剣崎君の気持ちを、きっと守りたいんだ。それにさ、始もあれで、慣れればいいとこあるし、あいつがいないと僕の姉さんと可愛い姪が悲しむから、それもあるけどね」
虎太郎は、淡々と長い台詞を口にして、最後に、淋しそうに笑ってみせた。
その笑顔はよく知っている。失ったものが埋められない、戻らない事を知った者の笑顔だ。
木場も、見せていた笑顔だ。
「……まあ、何だか知らねぇけど、俺はオルフェノクの馬鹿野郎共をとっ捕まえられりゃそれでいい。お前等はお前等の事情でやれよ。それだけだろ」
「そうだね。でもやっぱり、ありがと」
今度はにこりと優しげに微笑まれて、巧はやや目を眇めると、帰る、と短く言い捨てて、ドアを開けた。
「何かあったらすぐ電話しろ」
「うん、分かってるよ。気を付けてね」
虎太郎の返事にはもう振り向かないで、巧はドアを潜って、やや離れた場所に停めたバイクへと歩いていった。
その背中を眺めた虎太郎が、始と何だか似てる、などと感想を抱いている事は、勿論巧は知りようがなかった。
***
眠りを破ったのは携帯電話の着信音。布団を撥ね上げて、巧は枕元に置いたファイズフォンを開いた。
辺りはやや薄暗くなりかけている。冬の日は早い、夕刻になるかならないかだろう。
液晶画面に表示されていた名前は、白井虎太郎でも啓太郎でもない。津上翔一からの着信だった。
「何だ」
通話ボタンを押し、寝起きの、擦れた低い声で、巧が声を出すと、相変わらずからりとした翔一の声が返ってきた。
「あっ乾さん、今大丈夫ですか?」
「……安眠は妨害されたけど、話を聞く時間ならある」
「ああ、すいません。でも、そんな爛れた生活を送っちゃいけませんよ」
「こっちだって好きでこんな時間に寝てねぇよ……言ったろうが、寝ずの番してるって。いいからさっさと用件を話せ」
「あ、すみません。あの、実は、警視庁の知り合いにオルフェノクのアジトを探してもらうって言ったじゃないですか。あれが上手くいきそうで」
「本当か?」
「はい、多分。だから報告会したいんですけど……ちょーっと問題が……」
声を潜めて言うと、翔一はよく動く筈の口を止めて、言い淀んでしまう。やや苛立ちを覚えて、巧は顔を歪めた。
「何だ、勿体付けてねぇでさっさと話せ」
「あの……刑事さんが一緒だったら、やっぱり嫌ですよね?」
「……何をしたんだ? やっぱりお前……」
「あ、何かちょっと失礼な想像しましたね今。残念だけど俺は逮捕されてません。寧ろ逆に、警察にお願いされてる事があるんです。それから、まだ内緒ですけど、今凄い人と一緒にいるんですよ?」
「……勿体付けるな」
「ふっふっふ、本人の希望で秘密です。とにかくちょっと、会えないかなって。乾さん、うちのレストランに来てもらうのって、出来ます? 都合のいい日でいいんですけど、なるべく早くに」
明かせないなら始めから存在を匂わせなければいいものを。巧はやや苛つくと、長く溜息を吐き出した。
「……明日なら多分、多少は時間が取れる。そっちは店は大丈夫なのか」
「あ、今ちょっと休んでるんですよ。店の事は大丈夫です」
「分かった。じゃあ、明日の昼でいいか、二時頃」
「はい、お待ちしてますね。また明日」
「ああ、明日な」
電話を切ると、念の為三原と啓太郎に、翔一に会いに行く旨を連絡する。
オルフェノクの潜伏場所さえ探し出せれば、乗り込んで叩き潰せばいい。その方が話が早いし、睡眠時間がおかしくなる事もなくなる。朗報だった。
だが今の巧は、今日の晩に何が起こるのかなど、勿論知る由もなかった。
***
「どういう事ですか、これは! 警察はこの事件の捜査情報をマスコミに公開していない!」
北條が受話器を片手に声を荒げるが、暫くすると、苦いものを噛んだように顔を顰めて受話器を置いた。電話は相手に切られたようだった。
「駄目です、毎朝も話にならない。こんなものがもう配られているなんて……」
やや目元に疲れを滲ませて、北條が呟いた。未確認生命体対策本部の電話はフル稼働しているが、皆北條のように門前払いを食らっているらしかった。
北條の横でやはり電話をしていた河野も、溜息をついて首を横に振った。
二人の前の机には、主要新聞各紙の夕刊と号外が置かれていた。
一面の見出しはどれも似たり寄ったりのものだった。
『未確認生命体以上の脅威、オルフェノク』
『警視庁は捜査情報を隠匿、市民に危険を知らせず』
『G5部隊未だ成果なし、問われる有用性』
北條はぼんやりと新聞の束を眺めると、突然腕を振り上げて、ばんと新聞を掌で叩いた。
「どうして捜査情報が漏れてるんだ! 何でこんな記事が!」
苛ついた声で叫ぶが、北條の問いに答えられる者はいない。警察の非公開情報を、何の断りもなく各紙が一斉にスッパ抜くなど、最悪の事態としても想定しがたい、アンノウンやオルフェノクという存在の成り立ちと同じ位に不可解な事象だった。
気まずい空気の中、また電話を切られて、誰かの声が途中で途切れる。
「ほっ、ほ、北條さん!」
駆け込んできた氷川の叫び声が重い空気を打ち破った。
氷川は今、G5ユニットと、オルフェノクに取り付けた発信装置の行方を追っている筈だった。
「何ですか氷川さん、騒々しい」
「てて、テレビ、テレビを! どのチャンネルでもいいですから!」
息を切らしながら喚く氷川の勢いに押されて、捜査員の一人が側に置いてあったリモコンを操作してテレビを点ける。画面には、少し前によくテレビ画面に写っていた女性が、久しぶりにその姿を見せていた。
「だからね、オルフェノクちゃん達。今こそ立ち上がる時なんです。黙ってたら、警察の皆さんやアンノウンが、あなたたちを次々狩っていくんです。やられる前にやる、それがあなた達には出来るんです。だってあなた達は人間を超えた、進化した存在なんですから。人間なんてつまらない存在に、むざむざ滅ぼされちゃう事はないんですよ。やっつけちゃえばいいんです。その為のお手伝いを、お姉さん達は惜しみませんから、なーんでも言ってください! 一緒に理不尽な抑圧と戦って、自分自身の生きる権利を獲得するんです!」
「…………何です、これは」
画面を呆然と見つめる北條の顔からは、一気に血の気が引いていた。どんな出だしで始まったのかは分からないが、人間と戦うようにオルフェノクを扇動している。何故こんな内容がテレビ画面に流れているのか。
この女は確か、スマートレディと呼ばれ、スマートブレインのコマーシャルに出演していた。その活動ははっきりとしていない部分が多いが、歴代社長の側近として、何やら怪しげな動きをしていた痕跡もある。
「こいつ、この前、俺と氷川を襲った女じゃないか」
ぽかんとして、ぼんやりした口調で河野が口を開いた。ようやく息が整ってきた氷川が、無言で頷く。
「オルフェノクちゃん達、あなた達を邪魔するものは何もありません。お好きになさい。あなた達は選ばれた人間なんだから、何をしてもいいの。人間がいなくなれば、もうオルフェノクである事を隠してコソコソしなくてもいい、そう思わない? どっちがお得か、よーく考えてね」
画面は唐突にふつりと暗くなり、音声もなくなる。数瞬の後に無音のまま、『しばらくお待ちください』とテロップの入った、アルプスの農村の長閑な風景へと切り替わった。
暫し、沈黙が流れる。テレビの音が消えた以上、その場に居合わせた者達には口を開く材料がなかった。
一体何が起こっているのか、オルフェノクは何がしたいのか。
今の映像が新聞報道のタイミングと関係があるであろう事は明らかだったが、狙いは見えない。
沈黙を破ったのは、無線通信の入線を知らせるアラームだった。
「警視庁より各局、現在、複数地域でオルフェノクと思われる生命体出現との通報あり、現在も入電中。板橋区下板橋、北区王子、葛飾区青砥――」
十ヶ所近く、地名の読み上げが続く。あまりに、タイミングが良すぎる。
「……これは、計画されていた、今暴れているオルフェノクも彼女の放送が終わるのを、待機していた……?」
「何故、そんな」
「奴らは、演出したいんじゃないんですか。人間とオルフェノクの対立を」
北條の答えに、氷川ははっとなって北條を見つめた。
「報道で人間側にオルフェノクが危険な存在である事を印象づけるのと同時に、オルフェノク側に独立を促す。口火は既に手懐けているオルフェノクが切るように仕向ける。騒ぎが起これば、人間の側も黙っていられないし、オルフェノク側でも同調する者が多く出るかもしれない。何故今なのかが分からないが、今はそんな事を言っている時ではありません。現状の捜査は後回しです、我々はG5部隊のバックアップに回ります。各自、予め決めておいた各々の班に分かれてG5部隊に合流、周辺住民の保護と安全確保を最優先で行動してください」
北條の言葉に各員が頷き、会議室を出て行く。氷川と河野も続こうとするが、後ろから北條が呼び止めた。
「氷川さん、待って下さい」
「はい」
「あなたのあたっていた件はどうなりました?」
「現在、捜査員二名が追跡しています。発信機も靴の外側に付いたせいか、まだ気付かれていません。中々本拠地には寄り付かないのですが、事態が動きましたから、コンタクトをとるかもしれません」
その言葉に北條は頷くと、無線のスイッチを入れ操作した。
「こちら北條。尾室さん、まだ警視庁内におられますか」
「こちらG5ユニット第一隊、まだ格納庫内で出動準備中です」
「第一隊は、引き続き発信機の追跡にあたっていただけますか、私としてはそちらを中断したくない。河野さんと氷川さんをバックアップに回しますので。G5の指揮は私がここで執ります」
「えっ、でも……」
「どちらにせよオルフェノクと戦う事にはなります。本拠地が判明すれば、そこらで暴れている奴より強力な個体と相対しなければならないかもしれない。アンノウンが出現する可能性もあります。G5なしで本拠地の捜索は出来ないんです」
「……了解しました」
無線が切れる。振り返った北條に、河野と氷川はやや戸惑いながらも頷いてみせた。
「頼みましたよ。こうも何も出来ずに好きなようにされたままではいられません。オルフェノクであれ何も知らないのならばアンノウンから守るべきかもしれないが、騒乱を起こそうとするなら話は別です。何としても阻止しなければ」
長い夜になりそうだった。もしかしたら、いつ果てるともしれない戦いの幕開けになる可能性もあった。
もう一度二人は頷いて、早足に会議室を出て行った。閉じていたノートパソコンを開いて、北條は軽く一つ息をついて、パソコンを右手で操作しつつ携帯電話を取り出した。
夕刊もテレビも全国に流れるメディアだ。全国規模で、騒乱が起こる可能性があった。上の指示を仰ぎつつG5部隊を指揮せねばならない。
携帯電話のボタンを左手で押して、北條はもう一度、軽く息を吐き出した。
***
「あなたがいれば心配ないとは思いますが、十分警戒して下さい、分かってますか?」
河野の背中を追いながら、氷川が携帯電話に向かって早口で捲し立てる。
「分かってますよ。俺もお手伝いしたいところですけど……」
「気にしないで下さい。気持ちは有り難いですが、海堂さんを見てくれているだけで十分です」
「そうですか……? 分かりました、こっちは任せて下さい。氷川さん、あんまり無理しないで下さいね」
「分かってます。それじゃ」
手短に別れの言葉を告げて、津上翔一へかけた電話を終話させた。
地下に降り、Gトレーラー格納庫へと足を踏み入れる。先日のアンノウン襲撃で崩れた瓦礫などは片付けられていたが、修繕はされていない。あちこちの壁や柱が崩れ、穴が開いている。
一台だけ残っているトレーラーへと近づくと、氷川と河野の接近を察知したのかドアが開く。中に入ると、尾室とオペレーターが二人を迎えた。
G5装着員は一隊に五名、後部格納庫で寿司詰めになり待機している筈だった。
「尾室さん、どうですか状況は」
「さっき報告がありました。発信機を取り付けたオルフェノクは移動を始めてます。僕たちも向かいましょう」
二人が頷くと、直にトレーラーが発進を始め、地下を出て通りへと走り出した。
コメントを送る