その12(後編)
紅渡は、今、非常に困惑していた。
名護の弟子になったのは確かだが、その関係はとうの昔に解消したと渡の側では認識していたし、いきなり他の人間に弟子入りして鍛えられろというのも、意味が分からない。
つい先日、バイオリン修理の仕事が一段落したので、渡はこれから数日は、理想のニス作りに充てるつもりだったのだ。その為に昨日公園で、前々から材料として目星を付けていたタンポポの根を集めてきたのだ。
それが何で知らない人に弟子入り。しかも何故、呼び出された場所がバッティングセンター。
「まずは君の基本的な能力から知りたい」
「……何のですか?」
「今から手本を見せる」
渡は元々人と話すのがあまり得意ではない。その上に、この男――橘朔也と名乗る青年は、名護同様に少々話が通じづらい所があるらしい。会話が成立していなかった。
橘は何も持たずにボックスに立った。何をするのだろうと見ていると、ピッチングマシーンからボールが放たれた。
「九!」
橘が鋭く叫び、百五十キロの速度にセットされている筈のボールを、素手で掴み受け止めた。
そして、渡を顧みて、手の中のボールを示す。
ボールには、黒く数字の九が書き込まれていた。
……まさか、素手で掴めと言うのだろうか?
百五十キロのボールを打つには、高い動体視力を要求される。普通の人間では、まず速すぎて、怖くて腰が引けてしまう。打つのでも、出来るようになるには訓練が必要だ。
しかもここはバッティングセンター。渡は、すっかり、ボールをバットで打つものだとばかり思っていたのだが、素手で掴めと言うのだろうか?
その上飛ばしているのは硬球だ。プロ野球でも、デッドボールで当たり所が悪ければ、骨折したり選手生命を断たれるような障害を負ったりする。それを、やれと?
「百五十キロのスピードボールに書かれた数字を読み取り当てる。動体視力を鍛える基礎訓練だ。やってみろ」
「あの……ミットとか、ないんですか?」
「……そんな事を言われたのは初めてだな。悪いが用意していない」
ボックスから下がってきた橘にさらりと言われ、予測通りではあったものの、渡は切なくなり、はぁ、と息を吐いた。
幸い、渡は普通ではない。
肩を落として気怠そうにボックスに入り、前を見る。
体に半分流れるファンガイアの血、その力を使いこなせるようになった渡にとっては、これはそんなに難しい事ではない。放たれたボールを見据える。
「八……」
告げて、ボールを右手で受け止める。
右手のボールに書かれた数字を示すと、さしもの橘も、驚きを隠し切れない様子で渡を見た。
「凄いな君は……最初から当てられたのは君が初めてだ」
「それより、百五十キロのボールを素手で掴める事の方がおかしいと思うんですけど……」
「よし、まぐれでないか見たい。もう二、三球やってみせてくれるか」
ツッコミをさらりと無視された。やはり会話は成立しない。
こうなればもう、諦めるしかないのか。渡は深く溜息を吐くと、再びボックスへと入っていった。
* * *
じとりとした目線が睦月に向けられている。
学校帰りに早速名護を訪ねて、mald‘amourというカフェを訪れた睦月は、名護と一緒に睦月を助けた女性に、呆れたような顔で睨まれていた。
「……何でよりによって弟子なの……。君ねえ、啓介がそんなに素晴らしい人間だと思うの?」
「失礼だな、訂正しなさい恵。この地上に俺のように素晴らしい人間は他にいない、と」
カウンターでは名護の右側に睦月が座り、名護啓介を挟む形で左側から恵が睦月に視線を投げている。二人の間で、名護は涼しい顔をしてコーヒーを口にしていた。
「なーにが俺のように素晴らしい人間、よ。バッカじゃないの。それなら私だって教科書に載れるレベルの偉い人になっちゃうわよ」
「それは有り得ないな。君はまだまだ未熟だ」
「……あー、ホントムカつく。いい君、こんなムカつく男の弟子なんて、絶対どうかしてるわよ。考え直すなら今のうちよ」
会話が今ひとつ噛みあっていないながらも、ポンポンポンポンとテンポよく言葉がやりとりされる。カウンターの中のマスターは、またやってる、と言いたげな目線を二人に向けただけで、洗ったカップを拭き始めた。
「だって、この前実際に見ましたから。名護さんは素晴らしい人です。あなたはどうして名護さんの事をそんなに悪く言うんですか」
「あんまり名護名護って言わないで、私だって一応名護なんだから」
「……えっ?」
「あー、君、知らないんだ。この子、名護君の奥さん」
マスターが恵を指差して睦月に教える。それを聞いて、睦月は目をやや見開きびっくりして恵を見た。
「恵、君は夫への尊敬というものがないのか」
「あなたは自分が尊敬に足る人間だと……思ってるんでしょうけど。お生憎様、私は思ってないの」
「これだけ時間を共にしているというのに、君はまだ俺という人間についてしっかりと理解していないようだな」
「……私だって分かりたくなんかなかったわよ、全く」
やはり会話は微妙に噛み合っていない。恵は大きく聞こえるように溜息を吐いて、ぷいと横を向いた。
「まあ、そこが君の可愛い所でもある。おっと、のろけてしまったな。それよりもだ、睦月君、まずは君の心構えから確認したい。君は戦士にとって、一番大切な物は何だと思う?」
「えっ……ええと……。……自分の弱さに負けないで打ち勝つ、戦っていく事が、大切だって思います」
名護の質問への答えは、睦月の実感だった。彼が彼なりに戦ってきた中で掴み得た答えでもあった。
それを聞いて名護は満足そうに微笑み、何度か頷いた。
「いい答えだ。だがそれだけでは、まだ充分とはいえないな」
「充分じゃない……何か足りないんですか?」
「そうだ。戦う為の力は、正しい事に使われなくてはいけない。正しい理念を持ち、常に広い視野で物事を見て、世界をより良くするために戦う。それが、この名護啓介が目指している理想だ。君も俺の弟子になるなら、それを目指してほしい」
「名護さん……分かりました! 広い視野を持って世界の平和の為に……俺に足りなかったのは、きっとそれなんだ!」
目をきらきらと輝かせて睦月が明るく言い、至極満足そうに名護が頷いた。
頬杖を突きながら横目でその光景を見て、恵はもう一つ、長く大きな溜息を吐いた。
* * *
「待てコラァ!」
後ろから声が追い掛けてくるが、渡は構わず走り続けた。
追い掛けてきているのは、先程までいたバッティングセンターの隣に知らない内に出来ていた、探偵事務所の探偵だった。
あんな事務所、この間までなかったのに。走りながらどうでもいい、関係のない疑問が浮かんだ。
あの後、四、五球のボールに書かれた数字を全て当てた渡を満足そうに見て、橘はバッティングセンターを出た。
そして、次はどこに移動するのかと思って後を歩いていると、隣の探偵事務所へと入っていった。
何事かと渡も続くと、橘は応対した女性に、渡が逃げるからそれを追い掛けて捕まえてほしい、という内容の依頼をしていた。
目の前に出された諭吉を見て、更に成功報酬も出すと告げられて、女性が一も二もなく頷いて、奥の机に座っていた青年に声をかけた。
追い掛けられて渡は、半ば反射的に逃げ出してしまい、今に至る。
よく考えれば、渡には逃げる理由がない。だが、捕まるのも何か釈然としないものがある。
彼を追う探偵はタフだった。かれこれ十五分程は走り続けている気がするが、渡を追うスピードは衰える様子がない。
何とか引き離したいが、下手に地理に明るくない場所で裏路地に入って、行き止まりだったら目も当てられない。渡は真直ぐに走り続けていた。
ふと見れば、曲がり角から橘が出てきた。バイクで先回りしたのだろう。行く手を塞ぐように立ち塞がる。
一体これは何の訓練なんだろう。考えたところで渡には橘の意図は恐らく理解できない。
このまま走り続ければ、眼前の橘にぶつかる。ぎりぎりの所まで渡はスピードを落とさずに駆け抜け、斜め右に跳んだ。
「甘い!」
その動きは橘に読まれていた。半分とはいえファンガイアの血を持ち、人間を越えた身体能力を持つ渡の動きを読んで咄嗟に対応できる橘は、正直おかしい。
渡を捕まえようと橘が駆け寄ってくる、後ろには探偵も追い付いてきている。渡は、助走なしで強く地を蹴った。
「ごめんなさいっ!」
思わず、渡の口からは謝罪の言葉が漏れていた。真正面の橘に向かってジャンプし、その肩を踏みつけ台にして、橘の背後へと飛んで、着地もそこそこに渡は再度駆け出した。
「俺を踏み台にした……⁉」
「なんだありゃ、おい、あんなの捕まえられっかよ!」
「……よし、合格だ。渡、もういいぞ」
探偵が橘に文句を付けて、橘は探偵には答えずに渡に声をかけた。
立ち止まって、振り返り戻ると、探偵は俯いて肩を大きく上下させ、深呼吸を繰り返していた。
「おまっ……やるじゃ……ねぇか…………この……ハード、ボイル、ド……探偵の、追跡を……振り切って……息も、切れて……ねぇのかよ……」
顔を上げないまま、切れ切れに探偵は言葉を絞り出した。仕事とはいえ気の毒になり、渡はすいませんすいませんと、何度も頭を下げた。
「くっそ……次は、捕まえ、る……!」
「……いや、僕はもうやりたくないです」
探偵は相当な負けず嫌いのようだった。だが渡には、そもそも探偵から逃げる理由がないのだ。
「君のような弟子を育て上げるとは……名護啓介とは恐ろしい男だな……」
「……すいません、僕正直、あまり名護さんに育てられた覚えは……」
「俺は、あの男に勝てないかもしれない……!」
橘は依然として人の話を聞いていなかった。
次は一体何をさせられるのだろう。この状況がこれから三日続く事を思い、渡は細く長く溜息を吐き出した。
* * *
宵闇に誘われ、昼の間しがらみに束縛されていた人々は、今日という一日の責務から解放されて、夜の街へと吸い寄せられていく。
その空間は、名護が狙う賞金首達が好む場所でもあった。
人混みを縫って、名護は早足で歩いていく。その後ろを睦月は懸命に追った。
弟子入りするということは、単に戦士としての力を鍛えるだけにあらず。心を、生き方を学ぶべし。名護は睦月に何かを具体的に教えようとはせず、自分の後を着いて歩かせた。
睦月はすっかり名護を立派な人間として崇拝している。名護の言葉を疑う余地などない。
剣崎は、気掛かりのあまり、そんな二人の後を追っていた。
やはり賞金首などそう簡単に見つかるものではないのだろう。月曜日は何事もなく過ぎた。
いっそ三日間何も起こらずにいてくれればいい、と思った。
睦月の性格なら、次第に具体的な指導をしない名護に苛立ちを覚えるだろう。もし一時的に橘が負けたとしても、睦月が業を煮やした時に、戻ってくるよう説得はできる。
それより、体術の未熟な睦月が、巻き込まれて怪我など負いはしないか、という事の方が気懸かりだった。
二人の歩く速度は速い。見失わぬよう必死に後ろ姿を追いながら、剣崎も足速に歩いた。
やがて、名護が足を止めた。続いて睦月が立ち止まる。少し後ろで剣崎も足を止め、脇の路地に入って物陰から二人を見た。
名護の前には、体格のいい、険しい目をした男が立っていた。
「西本孝二だな」
「何だお前?」
「振込め詐欺グループを組織して多額の金を詐取していた件で、お前の首に賞金がかかっている。大人しく罪を認め、悔い改めなさい」
「……はぁ? アホか?」
西本は唸ると、名護へと飛び掛かった。雑踏の人垣が軽い悲鳴を伴って割れた。
西本のパンチを名護は軽く避けた。何となく躱したように見えるが、動きを見れば、西本という男も何か武道の心得があるように見える。名護啓介は気に食わない男だが、実力は確かなのだろう。
だが問題は、睦月が、自分は手を出すべきではないと判断できるかどうかだった。
悲しいかな、剣崎の心配はすぐに現実のものとなってしまった。
周囲の人々は西本が動き出すと、気配を察して道を開け避けていたが、勘が鈍いというべきか、逃げ遅れた少女が一人いた。
見たところ中学生位だろうか。
名護の動きに合わせて西本は少女の方へと駆け出す形となる。睦月がそれを放っておける筈がない。
「このっ!」
睦月が西本を取り押さえようと飛び掛かるが、軽く躱されると、睦月の背中に肘が入る。
「君は下がっていなさい!」
名護が今更叫ぶが、遅きに失している。
どうする、飛び出して睦月を助けるべきか、少女を庇うべきか。
だが、剣崎に助けられれば、睦月は態度を硬化させ、ますます話がややこしくなる危険もある。
剣崎が躊躇する間に、西本は倒れこんだ睦月を目がけて脚を振り下ろしていた。
「危ない!」
横合いから名護が西本に体当たりをぶつける。脚は睦月には振り下ろされず、西本はバランスを崩した。
好機とみたのか、名護は体勢を崩した西本に殴りかかるが、西本は予想外に素早くバランスを立て直し、名護の拳を躱していた。
「うざったいんだよっ!」
すぐさまカウンターの形で、名護目がけてパンチが放たれた。さしもの名護も躱しきることができず、大きく後方に吹き飛ばされる。
それを見るや、長居は無用と判断したのだろう。西本は素早く踵を返し、走り去っていった。
「あっ、待て!」
「止しなさい!」
睦月が後を追おうとするが、鋭い声で名護に制止され、動きを止めた。
睦月は俯いて立ち止まり、名護は立ち上がって、ぱんぱんと服の埃を払った。
「……すいません、名護さん。俺が余計な事をしたせいで」
「君は、己の力量を知る所から始めなくてはいけないな。勇気があるのは結構だが、実力が伴わなければ蛮勇にすぎん」
「……はい」
答えた睦月の声はしょんぼりとしていた。心底堪えているのだろう。信じたものに対してまっすぐで懸命な所は、睦月の美点だ。
へたりこんでいた少女が立ち上がって、睦月にぺこりと頭を下げて去っていったが、睦月は多分気付いていない。
アンデッドも、封印せずに話し合い分かり合う事が出来ないかと言い出すような睦月の優しい心根が、剣崎は好きだった。
だけれども、それをすぐに分かれとは、三日で分かれとは、言えない。
本当ならば、今すぐにでも飛び出して行って、睦月の事を名護に説明したい気持ちが剣崎にはあったけれども、そんな事をしても何にもならないし、余計に話をこじらせるのは目に見えていた。
道の先、西本が逃げていった方から罵声とざわめきが聞こえて、やがて消えた。名護も睦月も動かないで、そちらを見ていた。
「そんな奴に謝ってやる事はないのよ」
やがて、人垣を割って現れたのは恵だった。憔悴した顔の睦月は、しょんぼりとしたまま顔を上げて恵を見た。
「西本は捕まえておいたわよ。感謝しなさいよ、啓介」
「余計な事を……と言いたい所だが、助かった。しかし、君は俺達の後をつけていたのか」
「渡君の時の事を見てれば心配になって当たり前でしょ」
つらっと言い切った恵に、名護は特に反論しなかった。
渡、といえば、今橘が預かっている、名護の弟子という青年だ。何があったのかは剣崎は知るはずがないが、名護の様子を見ていれば、心配になる恵の気持ちは良く分かる気がした。
「ま、負けたのは俺じゃない、とか言い出さないだけ進歩したって所かしらね」
「当然だ。それは過去の俺だ、今の俺とは違う」
「はいはい分かった。さ、帰りましょう。君もあんまり遅くなったら学校に差し障るでしょ」
しょんぼりしたままだったが睦月は恵の言葉に素直に頷いて歩き出した。
飛び出して行って睦月を励ましたかったが、それでは今まで何のために飛び出すのを我慢したのかが分からなくなる。
俺一体何してるんだろう。考えたが、明確な理由などない。ただ剣崎は居ても立ってもいられないだけだった。
これは睦月の問題なのだという事は、最初からよく分かっていた。
* * *
約束の木曜日はあっという間にやって来た。
午後五時、名護と橘、渡と睦月、そして恵と剣崎は、名護達の行きつけというmald‘amourに集合していた。
「じゃあ、さっさと終わらせちゃいましょ。さ、渡君に睦月君、どっちがいいか教えて」
あまり興味もなさそうに恵が口にしたが、渡も睦月も何か口を開き辛そうな顔をして黙ったままだった。
「何なのよもう、男の癖にはっきりしないわねえ」
「ちょっと待ってくれ。二人の意見を聞く前に、俺から言いたい事がある」
恵の言葉を遮ったのは橘だった。何? と恵が尋ねると、橘は一度俯いて、意を決したように顔を上げた。
「名護啓介……俺は君に、睦月を預けたいと考えている」
その発言内容に、その場の誰もが凍り固まった。その言葉は、名護啓介さえも予想もしていないものだった。
「…………は?」
「なな、な、何言ってるんですか? 橘さん?」
あんぐりと口を開けながらも、ようやく恵と剣崎が言葉を発するが、橘はそれには特に返答しなかった。
「紅渡は、俺が鍛える必要などない。これだけの優れた戦士を育てる事が出来る男ならば、睦月も君に預けた方がより強くなれる、そう思った」
「……あの、だから、何度も言ってもますけど、正直僕はあまり名護さんには育てられてない……」
「何という素晴らしい男だ、橘朔也……! 俺は今まで君の事を誤解していたようだ!」
渡のツッコミは、橘にも名護にも届かないようだった。渡の言葉を遮って、名護は感動を素直に面に現して橘を見ていた。
このままでは纏まる話も纏まらない。名護と橘以外の四人は頭を抱えた。
「……だから、啓介、ちょっと黙って。橘さんだっけ、あなたも。今回のルールは何だっけ? 渡君と睦月君が判定するんだったわよね? あなた達の意見は聞いてないわけ。……分かる?」
強い。妻は強い。立ち上るオーラが見えるかと思えるほど、恵からは反論を許さない一触即発の空気が漂っている。
その只ならぬ殺気に、勿論名護は何度も縦に首を振って黙り、橘も気圧されたのか口を噤んだ。
「じゃああの……僕、今は師匠とか鍛えるとか考えてません。二人のうちどっちがいいかって聞かれても……」
「俺は……名護さんに鍛えてもらうにはまだまだ力不足だって思ったから、自分の力に納得できる所まで自分でやってみたいって思います。それに、橘さんが俺の事本当に考えてくれてるんだっていうのも、良く分かりました。だから俺も、どっちって選べないです……」
ようやく口を開いた渡と睦月、二人の答えに、恵は長く溜息を吐いた。稀に見る優柔不断が二人揃って、こんな事で結論が出る筈もない。
要するに、引っ掻き回されて特に何も得るものもなく終わった、という事だった。
「……だそうだけど、それでいい?」
振り向いて名護と橘を見れば、二人とも大きく頷いていた。
「師匠と弟子、という間柄ではなくても、俺はいつだって君達の力になるつもりだ。悩み事があれば何でも相談しなさい!」
「俺もいつでもお前達の力になる用意はある」
そう言った二人の笑顔は実に爽やかだった。睦月の顔も、ぱっと明るくなる。
「名護さん! 橘さん!」
見つめ合う三人の間に生まれていたのは、紛れもなく固い信頼だった。
そしてそれは残り三人の間に、喩えようもなくげんなりとした空気を流し込む。
「まさか……啓介と同レベルで話が通じない相手がいるなんて……私も予想してなかったわ」
「……僕一体何のために…………」
「何か、済まないな、渡君……」
三人は揃って大きく息を吐くが、そんな空気を読める相手だったなら、そもそも溜息など吐く必要はなかったのだ。
* * *
結局、睦月の鍛錬は今まで通り橘が面倒を見る事となったので、結局は睦月の気まぐれに周囲が振り回されただけの形となった。
実際には睦月の名護に対する尊敬の念が気まぐれだったのかどうかは、時間が経ってみないと分からないが。
元の鞘に収まってめでたし、の筈だったが、何とも釈然としない。
剣崎にとって良かった事といえば、コーヒーの美味しい喫茶店が身近にあると知った事位だろうか。恵や渡と知り合って、顔を合わせると雑談などするようになったのも、良かった事といえばそうかもしれない。名護啓介と恵が夫婦というのはびっくりしたが。
とにかく、橘さんも元気になったし、まあいっか。
一つ息を吐いて、それで剣崎はこの件についての蟠りを忘れる事にした。
橘と睦月に、スポーツドリンクでも差し入れしよう。研究所を出ると空はよく晴れていた。
コメントを送る