星をみるひと1
声というのではない。
視線でもない。
ただ、そこにいる。いつもいる。
その眼が冥い宇宙の冷たい闇に浮かび、視界に届くまでに温度を失ってしまった遠い星の煌めきに向いているのだという事が、分かっていた。
どうして分かるのだろう。
知らなければそのままに済ませる事ができることも、たくさんあるというのに。
地球圏だからといって何が特別変わるわけでもない。
色々違う部分はあるのだけれども、人がいて、忙しく立ち働き、日々を送っているのには変わりはなかった。
ただ、人は多いとは思う。
ゲートを潜り、これから乗り込む人々や着いた艦から降りこれから目的地へ向かう人々、誰かを見送る人々や迎えに来た人々、職員が忙しなく行き交う人の波の中に、ジュドーは足を止め立ち止まった。
感じる雑多で数多い感情の波は、久しぶりに感じるものだった。
あぁ、これが、地球圏。人の住む場所。
忘れていたわけではないけれども、やはり、考えないようにはしていたのかも知れない。
そこには太陽の光と熱が届き、そこでは多くの人が生まれ、死ぬ。
その大きな流れを感じる中に、やはりその人は、そこにいた。
誰なのか分からない。よく知っている人である筈なのに、誰なのか分からなくなっている、そんな感じがした。
「ジュドーだろ!?こっち!」
よく知っている声に名前を呼ばれ声のした方へと振り向くと、やっと誰なのか判別できる程度に離れた距離からトーレスが手を振っているのが見えた。
久しぶりだ。本当に、久しぶりだ。
純粋な嬉しさに、頬が弛んだ。
前から実際の歳よりは年嵩に見えたトーレスの顔は、頬の丸みも取れ、働き盛りの青年らしい精気に溢れていた。
月、フォン・ブラウン。現在はグラナダに住んでいるトーレスは、ジュドーが地球に向かうのを聞き、わざわざ会いに来てくれた。
ジュドーはすぐに地球行きのシャトルに乗らなくてはならない為、時間はあまりない。空港の中の適当なカフェに入り、飲み物を頼んだ。
「お前、むやみやたらに伸びたなぁ。誰だか分からなかったぞ」
「そうかな?」
笑顔のトーレスとテーブルに向かい合って座ると、思い出される光景がある。
あれは、月の裏側。ピザ屋で、やはりトーレスがいて、エルとミリィもいた。そのピザ屋で働いていた、おとなしそうな、セシリアという女性が、泣いていた。
彼女は、泣いていた。
どうしてあの時爆弾を抱えていたのがセシリアであると分かったのかは、何故抱えられていたものが爆弾であると分かったのかは、分からない。だが、確信があった。
彼女の幼なじみで、アーガマの動向をネオジオンに漏らしていたスパイであった彼女を必死に気遣っていたトーレスには、その事を結局話せなかった。
いつになったら話せるのかは分からない。もしかしたら一生話す事はできないのかもしれない。
あのノーマルスーツがセシリアであると知ることがなければ、トーレスと顔を合わせても、こうして微かに苦い思いにとらわれることはなかったのかも知れない。
ジュドーは何も知らない子供だった。それでよかったし、寧ろ歳よりは大人びていたのだから。
彼は掃き溜めのようなシャングリラの下町で、妹を学校にやり食べていけるだけの稼ぎを得る事ができれば、それで満足していた。宇宙、もっと広い世界への憧れがないと言えば嘘になったが、妹と穏やかに暮らす事に比べれば、些末事だった。
やろうとさえ思えば何でも出来ると思っていた。
いつかはできるのだと。
知らなくていい事だったと今でも思う。顔も知らずに、見知らぬ誰かと命のやりとりをするということ。その感情の流れを、感じてしまうこと。
これは戦争なんだぞ、とトーレスに怒鳴られた。それでもジュドーは、とうとう最後まで、人間だと判別できる対象に当てようとして銃を撃つ事はできなかった。
それがモビルスーツの形をしていれば、撃墜数に誇らしげな気分を抱く事すらできたというのに。
ハマーンには理想があり、彼女の哀しみがあり、それでも、そのやり方、もたらされた痛み、失われた命を思えば相容れる事もできずに。
何が正しいのか、どうすれば正しかったのか。全てが分からなくなった。
ジュドーの培ってきた判断の基準はそこではものの役には立たず、彼は納得することのできる答えを見失った。
全てが終わった時、ジュドーがまず為すべき事は、妹を捜す事の筈だった。彼は妹の死を信じてはおらず、気配を感じ、生きている事を確信していたのだから。彼はその為にこそ、戦っていた筈なのだから。
だが、それをしなかった。できなかったのだとジュドーは思う。
生きてさえいてくれればそれでいい、などと思ったのではない。
自分にとっては何も終わりはせず、ただ、多くのものを失くしてしまっただけであったような気がした。
アーガマがどれだけ奮戦しようと、ハマーンがどれだけ理想を燃やそうと、結局、何も変わりはしなかった。
徒に人が死んでいった。溢れた悲しみに満ち満ちた宇宙に身を置いている事が、うねりを感じてしまう事が、たまらなく苦痛だった。
遠くに行けば、感じずに済む。知らない場所に行けば、今までは見えなかった何かが見つかるかもしれない。
見失ってしまったものを埋める、何かがあるかもしれない。
逃げたのだと思う。目を背けずにいる事ができなかったのだと思う。
見続けていては、その無意味さに押しつぶされてしまうような気がした。
少なくとも無為ではなかったのだと、何某かの意味はあったのだと。そうでなくては、セシリアが。サラサが。エマリー艦長代理が。あんなに小さかったプルが。悲しいままだったハマーンが、ハマーンの為に戦った人たちが。力を誇示する為だけに殺された数多の人々の死が、無意味になってしまうのでは、たまらない。
無意味だったという事を、認めたくなかったのかもしれない。
怒りを戦う理由にしているのならば、怒りをぶつける対象を失えば、戦うことはできなくなってしまうのだと思った。
もう戦う必要も理由もなくなったのに、ジュドーはなくすばかりで、まだ何も終わらなくて。
何も終わりはしなかったのに、何をしていいのか、もう分からなくなった。
リィナを捜すのは全てが終わった後、そう思っていたから。
何もできなかったとは思わない。守れたものはあった筈だ。それでも、守れなかったものの重さばかりが胸を押しつぶした。
守れなかったことにすら、何の意味もなかったことが。
生きている意味は自ら作り出すもの、木星はそんな場所だった。無為に生きている余裕も暇もなかった。
そんな意味では、選択は間違っていなかったのだと思う。だが、そこでもやはり、死の意味など分からなかった。
地球圏に溢れる意志の届かぬ宇宙はただ真空の熱のなさを感じさせるだけだったから、何も感じることの出来ぬ事は恐ろしく寂しくはあったけれども、心がかき乱されることもなかった。
そこは、静かですらなかった。
音も、流れすらないその場所で、それでもその人は、そこにいた。
それにすら、意味はないのだろうか。ジュドーは必死に意味を探したけれども、誰なのかも分からぬその人に、何かを求めるのは無駄な事だった。
「そこ」にいる「その」人は、何も求めず、何を与える事もなく、ジュドーを見てすらおらずに、そこにいるだけだった。
何もなかったわけではないのだ。それでも、風穴を塞ぐものを、探し当てることはできなかった。
もうずっと昔から、あの戦いの前から、開いていたような気もする。
気づいていたか、いなかったか、それだけのような気がする。
気づかなければ、そのままに、貧しくともリィナと喧嘩をしながらでも、悪いことはしても殺しはやらないなどと見栄を切りながら、生きてゆけていたのに。
それでも、知ってしまったものを忘れることはできずに。
「なんでさ、こっち帰ってくる事にしたんだ?」
ごく当たり前のトーレスの疑問に、ジュドーは答えづらそうに目線を下に逸らし、口をつぐんだ。
「…ま、いろいろあるんだな、お前も」
「まぁね。トーレスこそ、ミリィさんとどうなってんの」
「どうもこうも…真面目に、結婚を前提にお付き合いさせてもらってるよ。俺は真面目だからね。お前こそ、あっちに女作って残してきて泣かせてたりするんじゃないのか?」
にやにやと唇を歪ませて興味津々に顔を覗きこむトーレスに、ジュドーは怪訝そうな視線を向け、一つ息を吐いた。
「なんでそうなるの」
「だってお前モテてたじゃないか。エルだろ、キャラだろ、プルに、ルー」
「あれ、モテてたっていうの?」
「何言ってんだよお前!っかー、もう、やってらんないね!」
掌を額に当て、トーレスは天を仰ぐ。今ひとつトーレスの言わんとする事が飲み込めないジュドーは、ただ困惑して呆然と言葉を探すのみだった。
「お前モテモテだよ!モ・テ・モ・テ!!」
「そ、そうかなぁ…」
「そうかな、じゃない!キャラのでかい胸に顔を埋めておいてなにを言ってるんだ!!」
一度目はアーガマ艦内。現場を目撃したシンタとクムは子供らしい口の軽さで、目撃談はあっという間に艦内中に広まり、エルの機嫌が数日間異様に悪かった記憶がある。二度目はキケロ。ビーチャあたりが尾鰭をつけて言いふらしたに違いなく、やはり艦内中にあっという間に広まっていた。
しかし、今はその話は論点が違う。
「そ、そんなの、今関係ないでしょ!別に俺がやってくれって頼んだわけじゃないよ!?」
「だから!頼みもしないのにそんなことされちゃうのはモテるからだろうが!」
そう言われてみればそんな気もして、ジュドーは反論の言葉が浮かばず、ぐっと喉を詰まらせた。
ほらな、と勝ち誇ったトーレスの顔がやけに忌々しく、懐かしく胸が詰まる。
「…そんな、人がいたら、残して、帰ってきたりしないよ」
ぼそりと、途切れ途切れに、小さく零れるように呟かれたその低い音に、トーレスは意外そうな拍子抜けしたような力の抜けた驚きを見せて、そうだよな、とやはり静かに返した。
好いた人がいなかったわけではない。
最初はルー・ルカ。当然といえば当然の成り行きだった。彼女は美人だったし、自分で自覚しているように可愛らしかった。そして、ジュドーをよく理解してくれる人でもあった。他に知る人もない木星船団の中で、親密になるのにそう時間はかからなかった。
しかし、一ヶ月も経った頃、突然振られた。
曰く、あんたどこ見てるのかわからないのよ。
意味が分からなかった。どういう事なのかと幾度尋ねても、どうせ説明しても分からないわよ、という答えしか返ってはこなかった。
好きだと思った。好きだと、幾度も口に出した。好きだった。
だから、そんな納得のいかない理由で関係を絶たれようとする事に、怒りと苛立ちが募った。
何度目の口喧嘩だったろう。あんまりしつこい男は嫌われるわよ、という売り言葉に、グレミーもしつこかったから振ったのかよ、と返してしまった。
口に出してからはっとした。
ルーの表情は明らかに強張って、何かに耐えるように噛んだ唇を震わせていた。
謝っても口に出した言葉は引っ込みはしない。それでも、ジュドーは、何度も何度も、ごめんと呟き続けた。
触れられたくない傷を抉るような真似をするなんて、これでは振られても仕方がないと思った。自分の弱さと情けなさに、腹が立った。
それから、何人かの女性と付き合っては、類する理由で振られ続けていた。
わたしだけを見ていない。どこか別のところを見ている。
そんな覚えは全くなかった。ジュドーはその類の器用さは持ち合わせてはおらず、どちらかといえば一人の人を守り通したいなどという事を考えているロマンチストのきらいすらあった。好きだと思った人の事は、本当に好きだった。
一生懸命に、考えつく限りに、自分の気持ちを表現しているつもりだった。留めておくのは苦手だったし、思った事は口にしていた。
なぜ、どうして。分からなかった。
地球圏に帰ってくる少し前に、ルーに言われた。
あなたは、本当にどこを見ているのか分からなくなる時があるのよ。とんでもない遠くを見ているもんだから、側にいる方は怖くなるんだわ。
ルーが依然として友人でいてくれる事には感謝していたが、その言葉は、やはり分からなかった。
あなたがどこを見てるんだか分かる人じゃないと駄目なのかしらね、と微笑んだルーの目は、とても淋しそうだった。
時間が来たのでカフェを後にし、シャトルの搭乗ゲートまでトーレスは見送りに来てくれた。
「シャングリラには帰らないのか?顔だけでも見せるとかさ。皆会いたがってるだろ」
「…ん、まだ、帰れない」
「そっか…時々、連絡しろよ。ミリィも心配してるから」
にこりと、笑みを作って返事に替え、ジュドーは手を振ってゲートを潜った。
月から約二十四時間。シャトルは空港へと到着した。
そこからリニアを何度か乗り継ぐ。
荷物はもともと多くはないし、大半は月で輸送便へと回していた。明日にはこれから住む家へと届く筈だった。
地球へ住む事になったのは、リィナに呼ばれたからだった。
最後に会ってから約六年。十八になっている筈のリィナは、イングランド、リバプールにある大学への進学が決まっていた。
あの掃き溜めのような薄汚い街で食べるのにも苦労していた筈の自分たちなのに、リィナがよりにもよって地球の学校へ行く事ができるなど、想像した事もなかった。
ありがたくはあったが、あまりにも身に過ぎたセイラ・マスのリィナに対する厚遇は、よくわからないものだった。
一度だけ会った時に、あなたたちはそれだけの事をしたのよ、と語った、気の強そうな品のある女性。
あの時のジュドーは、その厚意に甘えるほかはなかった。
リィナと会えた。また前のように暮らせるかもしれない。そう思えば心が残らないわけではなかったが、前と同じには戻れないのだと感じた。
ジュドーも、リィナも、あまりに変わりすぎていた。知る前には戻れない。
目を背けることはできても、なかったことにはできず、忘れることもできはしない。
本当はまだ地球圏に帰ってくるつもりはなかった。何も見つけられぬまま、何も為さぬままには帰れないと思っていた。
一年半ほど前から、通信に映るリィナの顔は曇りがちになり、ジュドーがどうしたのかと何度か尋ねると、やがて躊躇いがちに口を開いた。
お兄ちゃん帰っていらっしゃい。
その一言だけだったけれども、リィナが何を言いたいのか、何を思っているのかが痛い程に、その声からは伝わってきた。
こんなに離れていても、リィナには隠し事ができない。
これがしがらみだというのならば、解き放たれて一人になってしまうのは、とても寂しく恐ろしい事だと思った。
甘えられないよ、と答えると、あたしには甘えたらいいのよ、とリィナは明るく笑った。
結局甘えて、ジュドーは今、地球にいる。
四年以上、木星にいた。これから先何かを見いだせるのかもしれなかったが、同じだけ、何も見いだせぬままに日々が過ぎていく可能性もあった。
もともと、何を探しているのかも分からないのに、捜し物など見つかるはずもなかった。
目的地、リバプールに着いた頃には、日はすっかり沈みかけ、薄闇が蒼く車窓の向こうで流れていく空を染め始めていた。
西に傾いた太陽が、山の端を朱色に染めている。
地球では夕焼けが見えると、次の日は晴れなんだっけ。どうでもいいような記憶の断片がふと浮かんだ。明日は晴れなのだと思うと、なぜだか少し心が明るく軽やかになった気がした。
東の方の空はもうすっかり彩度と明度を落とし、星が瞬き始めていた。
恒星であるはずなのに、熱を感じさせずに、冷たく瞬く星達。
その人は、やはり側にいて、ようやく姿を現した星を、そっと見上げていた。
あんたは、誰なんだ。
とうの昔に問うのを諦めた筈の疑問が、最近また浮かぶようになったのは、地球圏に来てからその気配をより色濃く感じているせいかもしれない。
徐々に速度を落としていたリニアカーがホームに完全に停車する。コートを羽織り、膝に抱えていた荷物を持ち直して席を立ち、小走りにホームに降り立った。
リバプールの位置を聞いて、ジュドーに躊躇が生まれなかったわけではなかった。
イングランド東岸の港町。ダブリンの、対岸。
コロニーはとうの昔に撤去され、今は住む人もない荒れ野となっているという。
目を背けたくて遠くへ行った筈なのに、一番近い場所へと戻ってくるなど、皮肉な話だった。
改札を出ると、見まごうはずもない、リィナが少し離れた木の下に立っていた。
すっかり背も伸び、癖の強い巻き毛は肩のあたりまで伸ばしてある。
リィナからのこまめな連絡のおかげで成長は知っていたのだけれども、実際に目にすると、記憶とのあまりの相違に、驚きしか湧いてはこなかった。
駆け寄ると、リィナも小走りに駆けてきた。忙しなく人々が行き交う改札前の人混みの中で、それでも抱き合わずにはおられなかった。
「リィナ、リィナ…きれいになったなぁ……こんな大きくなって」
「お兄ちゃんの方が、大きくなったわよ。モニタじゃ、わかんなかったわ」
少し涙ぐんだリィナは満面の笑みを浮かべていた。きっと自分もよく似た顔をしているのだろう。それがジュドーには、たまらなく嬉しく感じられた。
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