星をみるひと2

 陽光の眩しさに眼を覚ますと、こんがりと焼けたパンの香ばしい匂いがした。
 懐かしい匂いだった。
 世界がまだシャングリラの下町の一角だけだった頃、毎朝嗅ぎ、飽きたとすら思っていた匂い。
 あまり厚くはないドアごしに、野菜を刻む小気味いいナイフの音が響いてくる。
 ゆっくりと体を起こして伸びをする。まだ重力には慣れないのだろうか、どこか、体が重い気がする。
 ベッドから下りてカーテンを開き、窓を開け放つと、少し灰色がかったくすんだ空は、蒼く、どこまでも蒼く、朝の強く鋭く、温度の低い日射しにうっすらと白く霞んでいた。
 コロニーでも、もちろん宇宙でも、決して見る事の出来なかった空、色。
 これが地球、人の住む場所、美しい場所。
 空を見ているという事は、宇宙を見ているということなのに。空の彼方、大気の向こうに広がるのは、深く冷たい真空なのだから。
 それなのにどうして、空はこうも蒼く優しく。
 ジュドーは遠くに眼を凝らしたが、白く強い陽光に彩度を落として陰影濃く聳える屋根の続くばかりで、その向こうにある筈の海は、見えなかった。
 コンコン、と二三度、軽くドアをノックする音が響いた。
「お兄ちゃん、そろそろ起きてよ」
 懐かしい声は、あの頃よりは少し落ち着いたトーンなのに、あの頃のままの台詞。
 起こされても寝坊ばかりをしていた。起こされる前に起きていた記憶などない。
 もう起きてるよ、と答えると、また嘘ばっかり、とドアを開けたリィナは、窓辺に立っていたジュドーの姿に、心底驚いた顔を見せた。
「俺だっていつまでも、起こされるまで寝てる訳じゃないぞ。これでもずっと一人で起きてたんだから」
「お兄ちゃんは起こしたって寝てたじゃない。でも、えらいわ」
 ご飯できてるから早く服着て顔洗ってね、とドアを閉めたリィナの顔は、心から嬉しそうであったのに、少し寂しげでもあった。
 変わってもいつかは慣れる。慣れていく。それが当たり前になって、価値を生みはじめて。
 変わることを、徒に恐れる事はない。意味と価値を、忘れさえしなければ。
 変わらないリィナの甲斐甲斐しさは、そんな事を思わせてくれた。
 ジュドーにとっては、意味と価値は、失って初めて気付かされたものだったけれども。
 それを、知らなければ良かったとは思わない。気付けて良かったと思う。
 失わなければ価値に気付けない事は愚かだけれども、そんな風にしか悟る事はできない事だったのかもしれないと思う。
 当たり前にある筈だったもの、当たり前にあったものは、小さなきっかけで、いとも簡単に失われるのだと。
 このパンの匂いは、目玉焼きの匂いは、無くしてはいけないものだった。それに気付けただけで、自分にとっては上出来だったのかもしれない。
 鞄の中から服を取り出し身につけると、洗面所で顔を洗う。リィナは足で床を軽く踏んでリズムを取り何かの歌をハミングしながら、スープをカップによそっていた。
 椅子に座ると、食事の準備はすっかり整っていた。昔からリィナは早起きで、ジュドーが起きる頃にはこうして朝食の準備がすっかり整っているのも昔のまま。昔は、寝坊をして冷めたパンをかじったりしていたけれども。
 二人で住む為に借りた部屋は、ゆったりと余裕を持った広い造りだった。あまり物が多くないのも手伝ってか、几帳面に整頓されて片づいている。
「お兄ちゃん、仕事っていつからなの?」
 目玉焼きをフォークで切り分けながらリィナが口を開いた。
「んーと、確か、あさってからだったかな。今日挨拶に行ってきてちゃんと聞いてくる」
「うん、きちんと挨拶してくるのよ。あたしの学校は来週から」
 リィナは目玉焼きを口に運ぶ事なく、眩しそうに笑いながらジュドーの顔をじっと見つめていた。
「なんだよ、ちゃんと顔洗ったぞ」
「…違うの。お兄ちゃんがきちんとした仕事するんだなって思ったら、嬉しかったの」
 その言葉に、パンを口に運ぼうとしていたジュドーの手も止まった。照れたような苦い笑いが浮かぶ。
「もうお前に心配かけるような事はできないよ。少しはお兄ちゃんを信用しなさい」
 茶化した語尾に、リィナはいつものように怒るでもなく、笑うでもなく、小さく頷いて目玉焼きをようやく口に運んだ。
 決まっている仕事先は、木星にいた時によくしてくれた上司が、知り合いに頼み込んでくれた所だった。
 運輸会社のターミナルで荷物の積み替え。昔のジュドーならば、そんな退屈な仕事はしていられないときっと思ったろう。
 今でも、毎日決められた仕事をこなして決められた給料を受け取るなど、性には合わないと思っている。
 それでも、嫌悪があるというわけではないから、上司の好意を素直に受け取る事にした。
 木星にいる間、いや、アーガマに乗っている頃から、彼はずっと給料取りだったのだから、もう慣れてしまったのかも知れない。
 そんなに多くの金を稼ぐ必要がなくなったという理由もあった。
 木星公社に属している間、彼はかなりの額支払われる給料のほとんどを、セイラ・マスに送金していた。
 リィナを預かってもらう間にかかる費用まで、セイラに負担して貰うつもりはなかった。
 地球に帰ってくる際に、以後の送金は無用とセイラに言われた。今までのお金で大学を卒業しておつりがきてしまうわ、と。
 その言葉の真偽は分からなかったが、そうまで言われて、意地を張って払い続けるのも大人気がないように思われ、ジュドーは素直にその言葉に従う事にした。
 たとえ嘘でも、そこまでしてもらう義理などジュドーにはなくても、セイラとリィナに絆が生まれているのならば、それを遮る理由などなかった。
 退職金も相当の額が支払われた。当面は、食べていけて、リィナがいつか嫁に行く日の為にでも、少しづつでも貯金ができるだけの収入があればいい。
 紹介された仕事は、リィナと相談した結果、それには十分な収入であると分かった。
「お昼は、外で食べるの?」
「うん、そうなるかな。なるべく早く帰ってくるけど。荷物受け取っておいてな」
「外で食べるなら気をつけてね」
「何に気をつけるんだよ」
「ここらへんの食べ物って、すごく脂っこいのよ。健康に悪いしお腹にもたれちゃうから、生野菜とかもちゃんと一緒に頼むのよ」
「はいはい」
「んもう、ちゃんと聞いてるの?」
 リィナのまるで母親のような口うるささも相変わらずで、思わず笑いが漏れる。
 吹き出したジュドーを見て、リィナはますます眉を顰め、まったく、と仕方なさそうに漏らしてから、同じように小さく吹き出した。
「なるべく早く帰ってきてね。今日、びっくりする人が来るから」
「ん…誰?」
「会ってからのお楽しみよ。ふふ」
 小首を傾げて、釈然としない声色でわかったと答えると、リィナはまた、ふふ、と悪戯っぽく笑った。

 約束の時間に紹介された会社に行き、仕事の内容や構内の簡単な説明を受けて、明後日からよろしくお願いしますと頭を下げ、家路についた頃には、時刻は昼を回っていた。
 小腹が空いていたが何を食べたいという希望も思い浮かばず、店の看板を眺めながら大通りを歩いた。
 風雨に晒されくすんだ色をした、歴史を感じさせる石の壁の建物たちは、丸みを帯びた優美な屋根や、ほっそりと美しく高い尖塔を持っていた。
 ここは、戦火にはさらされなかったらしい。標的になる事はないのだろうという事が、落ち着いて、港町としては寂れている、と言った方がいいのかもしれない空気から伝わってくる。車の通りもそう多くはなく、道行く人も目で捉えて数を数えられるほどだった。
 マージー川を左手に見て、河畔を港の方へとあてもなく歩いていく。家とはまるで逆の方向だったが、海を見たいと思った。
 こんな大きな川の側を歩くのは初めての経験かもしれなかった。コロニーにはこんな大きな川はない。
 川と言えば、公園の中にある小さな小川くらいのものだ。観光コロニーには大きな川も湖もあるらしいが、そんな場所を見る余裕などこれまで持ち合わせていなかった。
 白い船体の電動ボートが上流へと穏やかな波を立てる川面を滑っていく。川の水は澱んで少し黒ずんだ深い緑色をしていた。
 ずいぶん歩くと、ようやく、河口が見え視界が開けてきた。林立した建物に遮られていた低い空の向こうに、水平線が見える。
 青黒く静かにゆったりとうねるアイリッシュ海は、記憶にある、対岸から見たそれと何も変わってはいなかった。
 さすがに港町らしく、倉庫らしき建物が幾つも並んでいる。船に荷物を積み込む作業車やトラックがいくつも走り回り、作業員達が忙しく動き回っていた。
 作業の邪魔にならないように気をつけて道の隅を歩き、どこかの倉庫の裏、海へと開けた堤防の上へと出た。柵はなく、堤防にかかる波は時々高く、靴を濡らしそうになる。
 いつから泣けなくなったのだろう。
 もう、忘れてしまった。
 この海の向こうで、黒い雨が降った日も、泣きたいのに涙は一滴も出てきはしなかった。
 悲しくて、悲しくて。
 まだ頭の中に響き続けていた断末魔、息のある人々の呻き声。数え切れない。
 ひょっとすると次の瞬間には、ひょっこりと姿を現して、雨で体が汚れてしまったから風呂に入りたいと騒ぎ出すのではないか。
 信じられない、というのが正直なところだったのかもしれないし、あまりに多くの人の死を目の前にし、感じて、感覚が麻痺していたのかもしれない。
 それでも、失った重さは、埋めようもなく、胸を締め付けたのに。
 彼女のいなくなった隙間を、悲しく思っているのだと、埋めがたく思っているのだと、その気持ちの強さは内にこもっていって胸を痛ませるばかりで、涙となって外に出る事はなかった。
 泣いている時ではない。そんな事は知っていた。
 なりふり構わず喚き散らして悲しみたかった。それでも、それをしても彼女が帰ってくる事は決してない。そんな言葉を幾度も幾度も、頭の中で呟き続けた。
 泣いている暇など、悲しんでいる暇などないのだから、悲しむのは無駄な事で、彼女の死を無駄にせぬ事こそが、為すべき事なのだと。
 ただ、黒い雨は肌に痛く刺さった。冷たいのではなく、温くもなく、ただ、痛かった。
 悲しむ暇のない俺の代わりに、沢山の人が、悲しんで泣いているのならば、それはなんとかしなくちゃならない。
 こんな痛い雨のような涙を流しているのならば。
 二度とこんな事、あっちゃならない。許してはいけない。
 俺がすべきこと。俺にしかできない事。
 そんな思いは決意のように意識して気張ったものではなく、心の底から自然と沸き起こったものだった。
 何より、こんな思いを、二度としたくはなかったから。


 ジュドー、元気出してジュドー。
 元気のないジュドーなんて、ジュドーじゃない。
 戦争するのが元気だって、思わないけどさ。

 そうだよな、そうだと思うよ、プル。
 俺は、ジュドーだものな。


 いつから、悔しさでしか涙は出なくなったのだろう。
 分かって貰えない悔しさ、分かることのできない悔しさ、分かっても動くことのできない悔しさ、分かっても何も動きはしない悔しさ。
 想いは想い以上の何者でもなく、決して目に見える形で現実を動かしはしなかった。
 現実は厳しい。昔から呟き続けてきた筈のその言葉が、もうとっくの昔に諦めていた筈のその言葉が、どうしてこうも胸を締め付けるのか。
 ジュドーにとっての現実は、あの戦いの前と後では、まるで規模と密度を変えていたせいかもしれない。
 現実とは、捉え切れぬほどに大きく。
 変わらなくてはならないのに、このままではいけないのに。現実を動かそうと思うのは、まるで、大きなビルの壁に手をかけて動かそうとするようなもので。
 基礎を穿ち、土台を築き、その上に丈夫な柱、硬い壁。そびえ立つ高さ、重さ。
 沢山の人が、本当に沢山の人が、心から願わなくては、動かせないものなのだと思い知らされるばかりで。
 二度とあってはならない、そんな怒りに、心は急かされて。
 急かされても、どこに走っていけばいいのか、全く分からなかった。
 何が出来るというのか。これ以上。きっと出来る事はあるのだと思っても、それがどのような事なのかは想像もつかなかった。
 俺には、何ができる。
 問いかけても、その人は気付いてすらいない風に、白く浮かぶ昼の月を見ていた。
 誰かも分からないその人に聞くような事ではないと思ったが、何故だか、その人ならば、答えを知っているような気がした。
 あんたは、海を見ないのか。どうして空を見上げてばかりいるんだ。
 答えは返ってはこなかったけれども、その時、今まで感じることすらなかった流れが、微かに動いたのを感じた。
 帰りたいのか。
 ほんの刹那、揺れた波から伝わってきた想いは、それだけ。問いには相変わらず答えはない。
 腹減ったな、早く帰ってこいって言われてたんだった。
 感じた想いを振り切るように別の事を考え始め、ジュドーは海に背を向けた。

 昼食を摂る為に入った店で出された食事の揚げ物の多さとベーコンと卵の脂っこさに少々辟易しながら、ジュドーが家に帰り着いたのは午後三時を少し回った頃だった。
 今日の晩飯は何だろう。帰り道、ジュドーはそればかりを繰り返し考えた。
 昼食は口に合わなかったし、やはり自分の一番の好物はリィナの作る料理らしいという事もよく分かった。
 何かを意識して考えていないと、余計な事が頭に浮かぶのを、十分に知っていたから。
 仕事の事であるとか、気にかかる事は他にもある筈だったが、彼の思考の殆どを占めていたのは、空を見上げるその人の事だった。
 流れを感じる事は彼にとっては既に当たり前の事であったけれども、その人を感じる事だけは、不自然と言わざるを得なかった。
 どれだけ離れていても感じるほどに、強い想いなのか。その人を存在としてはっきりと感じる事ができるほど強く感じる事も、そうある事ではなかった。
 例えば、プル、ハマーン。カミーユ・ビダン。
 強く惹き合うとか、そんな言葉で表現される人たち。
 ジュドーの思いつく限りのそんな人たちの誰も、木星にまで離れて感じられはしなかったし、その人は思いつく誰とも違っていた。
 気になりはしたが、分からないものを考え続けても仕方がないとも思った。
 部屋には既に荷物が届いており、リィナは荷ほどきを始めていた。
「夜までに片づけちゃいましょ。今日はごちそうよ」
 うきうきとした様子でリィナは服をクローゼットへ収めている。そういった物はリィナに任せた方が整理されるだろうと思い、ジュドーは小さな箱を梱包したテープを剥がし、中にしまわれた何冊かの本であるとか何某かの紙を据え付けられた机に収め始めた。
 ふと、箱の中の小さな木のフォトフレームが目に止まった。
 木星にいる間、ずっとしまい込んだままだったそのフレームに入れられているのは、たった一枚しかないプルの写真。
 照れくささから嫌がるジュドーに、一枚くらい撮っておけよとビーチャが強く勧め、一緒に撮った、ただ一枚の写真。
 今となってはビーチャに強く感謝している。
 それを手に取り写真を見ずに、引き出しの奥へと、伏せたまましまい込んだ。
「ちょっとお兄ちゃん!何これ、なんでこんな場所に穴開いてるの!んもう、こんなの捨てなさいよ!!」
「うわ、広げる事ないだろ!もう捨てていいから!」
 リィナは妙な場所に穴の開いた下着を広げて顔を赤らめながらジュドーを睨んでいる。さすがに広げられるとジュドーも気恥ずかしくなり、焦って取り上げ屑箱へと放り込んだ。
 まったく、とぶつぶつ不満そうに呟きながら、リィナは下着を畳み直す作業を再開した。自分で梱包の際に畳んだものと比べると、リィナの畳んだものはやはりきっちりとしていて、かなわないと知る。
 一人でいて、ずいぶんとしっかり成長したつもりであったのに、リィナにかなわないところが、沢山ある。
 それは、嬉しい事だった。
 荷物は少なさも手伝ってすぐに片づき、リィナは夕食の準備の為に台所へと立ち、ジュドーは後に残ったダンボールを小さく畳み始めた。
 日射しは暖かさがあるけれども、日は短い。すっかり傾いた夕陽が、窓から斜めに入り込み部屋を照らす。
 畳んだダンボールをビニールテープで縛り、縛り目を鋏でぱちりと切り離すと、息が一つ漏れた。
 何の不満があるというのだろう。
 何も不足などない筈なのに、心ばかりが急かされて、かといって何をすればいいのかも分からずに。
 今に始まった話ではない。きっとずっと昔から。
 だから、知らない場所にはきっと何か新しいものがあるのだと思い。知らないものが沢山あった。
 新しくても、知らなかった事でも、それは、探していた物とどこか違っていて。何を探しているのかすら分からなくて。
 鋏を置いてダンボールをまとめ始めると、ピンポン、と前時代風の可愛らしいドアホンの音が響いた。
 リィナが小走りに玄関に駆けていく足音がして、ドアが開く音。
 今日訪ねてくる人が着いたのだろうかと考えていると、ドアの向こうからリィナの声がした。
「お兄ちゃん、ちょっと来て」
 広がらないようにダンボールを踏みつけて、ドアを開けてダイニングに出ると、そこには二十代半ばの、アジア系の女性が立っていた。
「ファ…ユイリィ、ファさん?」
 久しぶり、と笑った顔は、最後に会った時と少しも変わってはいない。リィナの思惑通りに度肝を抜かれ、ジュドーは続ける言葉を失ってしまった。
 ファさん座って、とリィナが椅子を勧め、ファは礼の言葉を口にしながら座る。
 少女の面影のすっかり消えたファは、それでも少し釣り上がり気味に大きな黒い瞳の中に湛える光の強さは失わずにいた。
「どうしてファさんがここにいるの?」
「ご挨拶ね。あなたが来たっていうから会いに来たのよ。おかえりなさい」
 笑顔で冗談めかして言うファに、ただいま、と戸惑い気味に応じると、リィナがティーポットとカップをテーブルにセットする。促されジュドーも席についた。
 ファは何がおかしいのか、ジュドーの顔を見ては一人でくすくすと笑っている。
「男の子って、あっという間に大きくなっちゃうのね。最初、誰なのかと思ったわ」
「月で会ったトーレスにも言われたよ…そりゃ六年も経ったんだから、伸びるさ」
「もうそんなになるのね」
 少し目を細めたファは、記憶の中の、あの頃のジュドーを見ているのだろうか。
 リィナと自分の事しか考えられずに、ただ乗れるから、リィナに言われたからという理由でなんとなくガンダムに乗っていた頃。
 これは戦争なのだ、とはっきり思ったのは、宇宙に出てファと別れた時が最初だったように思う。
 カミーユ・ビダンを気遣う少女でもなく、口うるさい先輩でもなく、ただ宇宙で戦うパイロットの顔をしていたファ。
 世話好きで少し口うるさい女性、といった印象であったファがそんな顔をするなど、想像した事もなかった。
 今巻き込まれている事態は、ファにこんな表情をさせるのだと。
 その実感も少しづつしか本当の意味で悟る事はできなかったから、甘い考えに、リィナは危険に晒されてしまったのだけれども。
「ファさんは、今何してんの」
「グラスゴーに降りた後、きちんと看護婦の資格取ってね、今はマンチェスターで病院に勤めてるわ。今日は休みなの」
 リィナは席を立ち、再び夕食の準備に取りかかっている。横に据え付けた棚からクッキーを出すと、ジュドーは一枚手に取りつまんだ。
「カミーユさんはどうしてんの?治ったんだったよね?」
 随分前、まだ木星に向かっている頃、確かブライトからそんな話を聞いていた。
 カミーユは自我を取り戻し、言葉を話し現実を認識する能力を取り戻したと。
 だが、ファは表情を曇らせ、口を噤み目を伏せた。
「…なんか、訊いちゃいけなかった?」
「ううん、違うのよ…でも、あんなの、治ったなんて言えないわ。今日も来るように言ったんだけど…」
 ファの面に浮かぶ薄い苦悩の色もまた、あの頃のままだった。
 濁した物言いからは、ファの言わんとする事はまるで分からない。
「治っては、いるのよ。もうあたしの世話も必要ない。この街に住んでるわ」
「え……?」
 当然、ファはカミーユと暮らしているのだろうと思っていたジュドーは、ファの言葉に思わず低く声を上げた。
 言葉を取り戻したカミーユがどんな人であるのかは知らないが、ジュドーの知るファの記憶からは、二人が別々に住んでいるというのは不自然に思われた。
 それほどに強い絆が、二人の間に流れていたのを、感じていた。
 ファから流れてくる想いは、やはりその頃と何の変わりもなく、だからといって、いやだからこそ、他者の立ち入る問題ではないのだろうと思われ、ジュドーは口の端を上げて笑みを作った。
「ま、元気ならいいさ。会いたけりゃこっちから行くしさ」
「あのね…カミーユ、覚えてないのよ」
 その言葉に、ジュドーは再び、短く怪訝そうな声を漏らした。
「あなたの事、知らないの。話してはいるけど…あの一年の事、殆ど覚えていないのよ」
「そっか……それなら…その方がいいさ」
 浮かんだ微笑みは、作ったものではなかった。
 知らなければ知らない方がいい。
 辛い戦いに言葉を失ったのならば、それ以上のものを抱えることなど、何もない。
 彼はあまりに多い絶望と悲しみを聴いた。彼はジュドーを導く声であった。その事を、ジュドーは確かに覚えている。それだけでいい。
 立ち上がれなくなりそうになった時響いた彼の声の力強さを、覚えている。
 強い人なのだと思った。だがそれ以上に、心に素直に染み渡り響いてきた声は不思議であり、同じだけ、当然のようにも思われ。
 差し出された手の冷たさは、芯から冷えたものではなく、生きているのだという熱を確かに伝え。
 それを、知らなければ良かったとは、思っていない。
 なぜ、手が差し出されたのか。なぜ自分はその手をとったのか。ジュドーにとっては、全ての始まりだったその出来事についてを、訊きたかったかもしれない。
 だが、覚えていないのであればきっとその方がいいし、理由など元々なかったから、いくら考えても分からないのかもしれない。
 寂しさは感じるけれども、それも、ほんの少しのこと。
 手が触れた瞬間に流れ込んできた、宇宙の広さを、眩しさを、暖かさを覚えている。
 遠い記憶のように、懐かしさと慕わしささえ覚えるその風景は、知らないものであった筈なのにぴたりと胸を埋め。
 俺は、あれを、探しているのかもしれない。ふと、そう思った。

 リィナが腕を振るった料理を三人ですっかり平らげ、ファが帰ると言い出した頃には、すっかり日は暮れ、深い闇が辺りを包んでいた。
「駅まで送ってくよ。あ、リィナ、なんか買ってきてほしいもんとかある?」
 言いながらジュドーは上着を羽織り、財布をポケットに入れた。
「うーん…特にないわ。あ、買い食いしちゃダメよ」
「へいへい。もう、俺ってどこまで信用ないんだか」
 そのやりとりを見て、ファは機嫌良さそうにくすくすと笑っている。
「そういう所、あの頃のまんまね」
「俺の成長を認めてくんないの、この妹は。俺一生注意され続けそう」
「あら、ちゃーんと認めてるわよ。でも、油断してるとすぐフィギュア付きのお菓子を何個も買い込んで来るのは誰?」
「そ、それは…いいじゃない、カッコいいんだから!」
 反論できずに悔しそうに呟くジュドーを見て、ファはおかしそうに笑いながら、ドアを開けた。
「おやすみなさい、また遊びに来て下さいね」
「えぇ、二人とも、今度うちにも遊びに来て。今度はあたしがご飯作るから。じゃあ、おやすみなさい」
 ジュドーが身支度を整えた事を確認して、ファはそう微笑んで告げて、ドアを出た。
 後に続いてジュドーも外に出て、ファと並んで歩く。古びたアパートの剥き出しの鉄の階段が、ぎしりときしんだ。
 夜の空気は水分を多く含んで、しっとりと冷たい。
 満ち足りた空気に包まれ、ジュドーにもファにも言葉はなかった。
 話す事は色々あった筈なのに、言葉なく、ただ二人で並んで、駅までの道を辿る。
 話したい事が多すぎて、何を言っていいのか、分からなくなってしまったのかもしれない。
 ふと、ファが足を止め、ジュドーも立ち止まり、ファが首を向けた方向を見やった。
 交差点から左手に道の一本向こうはマージー河。ファは、そちらをじっと見ていた。
 感じた。
 その人は、そこで、星を見ていると。
 ジュドーが駅とは違う方向の河へと歩き出すと、ファも少し遅れて足を踏み出した。
 小走りに、足が急ぐのは、何に焦るからなのだろうか。
 心が急かされる。胸が苦しい。
 その人は、静かに、星を見ているだけなのに。
 河岸は電灯もなく、川面を照らす月明かりだけが眩しかった。腰の高さほどの低い柵の側で黒く冷たく光っているのは、旧世紀のもののレプリカと思われる中型のバイクだった。
 その側にその人は立っていた。
 くすんだ青のメッシュのライダージャケットをふわりとまとい、柵に軽く手をかけ、その人は冥い宙を見ていた。
 満月に近い月の光は眩しいほどで、星はほとんど見えない。
「君は、誰」
 その人は、ゆっくりと振り向き、不思議そうにジュドーを見つめた。
 吸い込まれそうに深い、夜空の紺色の瞳を、知っている。
「カミーユ!」
 高く響いたファの声に、ジュドーははっと目の前の人を見た。
 眼の光ははっきりとして意志が強そうであったけれども、目の前の人は確かに、カミーユ・ビダンであった。
 なぜ、どうして。この人がカミーユなのだろう?
 違っていた筈だった。星を見ているその人は、知らない人である筈だった。
「どうして、星を、見てるんだ」
 口をついて、場違いな質問が出ていた。
 誰なのかを訊かれたのに、質問を返してどうするのだろう。自分でもそう思ったが、気が付けば口に出ていたのはその言葉だった。
「あの人が、見つからないんだ」
「あの…人……?」
「エマさんも、レコアさんも、カツも、サラもいるんだ。フォウも、ロザミィもいるのに。あの人だけ、返事をしてくれないんだ」
 知らない名前だけど、感じる。その人たちは確かにいた。
 優しい人たちだ。この人を守っている。
「あの人は死んだのよ、カミーユ。どうしてまだ待っているの」
 ファの声は震えていた。
 ファさんは泣いているのだ。悲しくて泣いているのだ。
 後ろのファの顔を見たわけでもなく、声は微かに震えているだけで平静を保っている。それなのに、そう思った。
 何が、悲しいのだろう。
 それは、きっと分からない事なのだと思った。
「どうして、こんな事話したんだろうな…誰にも言った事、なかったのに」
 柔らかい微笑みは、ファに向いていた。
 どうして、この二人は、離れていて、ファさんは泣いているのだろう。
 穏やかな微笑みは、不思議なものに映った。
「あなたは、わたしには何も話してくれないもの。見えないから、話してくれない」
「話してる」
「嘘」
 カミーユの頬は軽く強張り、微かに開いた唇から、息が一つ漏れた。
 こんな言い争いを幾度か繰り返したのだろうか。
「…で、君は、誰」
 少しの警戒の滲んだ声色、冷たい目線。
 この人は俺を知らない。少しの寂しさが伴うだけであったその事実も、こうして目の前に突きつけられると、強く胸を刺した。
「話したでしょう、ジュドーよ」
 カミーユはそのファの答えにも目線を動かさずに、ジュドーを見つめ続けていた。
 きっと、近くまで来て、訪ねる事はできずにいたのだろう。それが何故なのかはジュドーには分からなかったけれども。
 訊きたい事は、他の事なのだろうと思った。
「あんた…ずっと、星を見てた…?」
「どうして知ってる」
「俺の…側に、いたから」
「君は、誰なんだ」
「俺は、ジュドー、だよ」
「君の事なんか、知らない…」
「俺は知ってる」
「何を知ってるっていうんだ」
 何を知っているのか。そう問われ、それをはっきりとした言葉にする事はできずに、ジュドーは口を噤んだ。
 カミーユはその様子をつまらなさそうに一瞥すると、柵から手を離し、歩き出しバイクのハンドルに手をかけた。
「ファ、後で電話するよ」
「待ってカミーユ」
 カミーユはファの制止を聞かず、キーを差し込みエンジンをかけるとシートに跨り、ゆっくりと走り出していった。
 走り去る後ろ姿を見つめながら、ジュドーは答えを探し続けた。
 どうして、あの人が、カミーユなのだろう?

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