一
そういえば、と川島美恵子は言葉を継いだ。
口数の多い同窓生との会話を早く切り上げたいと考えていたものの話を切る事ができず、長谷雄一郎は、念入りにマスカラが塗られ盛られくるりと上向きにカールした川島の睫毛を、目を細めて遠目に眺めていた。
川島は近い内に同窓会を開く事を計画していた。同窓の集まりに長谷は興味はなかったが、三十分ほど前に、二十年近くぶりにばったり川島と顔を合わせてしまい、久し振りだからとコーヒーショップに連れ込まれて計画を聞かされた。一緒に幹事をしてほしい、というのが思惑のようだった。
夏の暑い盛りで、外を歩いてアスファルトからの照り返しに焼かれるのもうんざり来ていたから、適度に冷房の効いた店内で寛げるのは悪い話ではないのだが、興味のない話を延々と続けられるのも少々困る。高校の頃の事など記憶も既におぼろで、簡単な返事にも長谷は戸惑わねばならない。
東京で開くか故郷の青森県|五所川原市で開くのがいいか、という話から始まり、同級生の近況にいつの間にか話が移っていた。昔からそうだが川島の話はとりとめがなくあちこちに飛んで、しかもいつまでも続く。
ゆったりとした合皮のソファが並んだ店内は広々として、暖色の照明は落ち着いてやや暗い。細い音量で管弦楽が流れている。この店舗は若者よりは年配者をターゲットにしているようだった。川島のような知り合いと座るにも、普通のコーヒーショップのように椅子が小さく席が近いよりはずっと座りやすい。
「長谷くんって、加賀谷くんと仲良かったよね」
川島の切り出した質問に、長谷は曖昧に頷いた。嘗かつて事実だったのだし、川島の知る長谷と加賀谷樹は親友と言っていい間柄だったから、否定する理由は見当たらなかった。
「あの頃はな。もう十何年も連絡はとってないよ」
答えてコーヒーを啜って、作り笑いが自然に長谷の頬に浮かんだ。
川島は怪訝そうに目を細めたけれども、すぐにぱちりと目を開いて、何度か瞬きをした。
「あのね……亡くなったって、聞いたんだけど、何か知らない? 全然連絡来なかったから知らなかったんだけど、全然関係ないところからそんな話聞いて。長谷くんなら何か聞いてるかなって」
暫しの間、返事を忘れてぽかんと口を開いてぼんやりと川島の顔を眺めてから、目を細めたままで長谷は首を横に振った。
加賀谷の死はもしかしたら長谷の実家には知らせが届いていたかもしれない。だが長谷は実家とも疎遠だった。忙しさを理由にずっと帰らず、碌に連絡もしていない。
何年も前に加賀谷から実家に手紙が届き兄経由で転送されてきたが、それも開けずじまいで、どこにしまいこんだのかももう定かでない。その手紙はもしかしたら、別れの挨拶だったのかもしれない。だが、家に帰って手紙を探し出し今すぐ読もうという勇気や気力は、長谷の胸には湧かなかった。
置いたカップを再び持ち上げて、半分ほど残ったコーヒーを口に含む。冷めたコーヒーは苦味ばかりが勝って舌に残る。
「何も聞いてない、今まで知らなかった」
「……そっか」
「うん。俺もう、あいつと十五年以上会ってないし、何してたかも知らないから」
「そうなんだ、あんなに仲良かったのにね。大学も確か同じとこでしょ?」
「ちょっとあってさ。ま、とにかく俺は知らなかったって事」
そうなんだ、ともう一度呟いて川島は長谷から目線を外してコーヒーを啜った。大して興味もなさそうな軽い口調だった。
「悪いけど俺仕事が結構忙しくてさ、同窓会も行けるか分かんないから幹事とか無理だな。日にちが分かったら出来るだけ予定は空けとくけど」
「そっか、仕事じゃ仕方ないけど、なるべく来てよね。皆長谷くんに会いたがってるんだから」
「またそんな」
「ほんとだって、あなた一度もこういう集まり来た事ないでしょ。男子連中も気にしてたし、ユッコとか真美とか会いたがって」
「渡辺さんに、設楽さん? 何で俺に」
「鈍いわねえ、好きだったのよ、あなたが」
川島の返事はきびきびとしていて、打てば響く受け答えだった。だがその答えの内容自体が長谷にはぴんと来なかった。
川島はさっぱりした性格だったので気軽によく喋っていたが、渡辺優子も設楽真美も高校の頃特に仲が良かったという事はなく、碌に会話をした記憶もない。たかだか高校の頃恋に恋するように憧れた対象だからといって何だろう、擦り切れくたびれた姿を目にして失望するのがオチだろう。そんな風に思った。
もう若くはない、もうじき長谷は三十九になる。日頃から脂っこいものや食べ過ぎは避けて運動を心がけて体を絞ってはいるが、気を抜いて不摂生しようものならすぐに腹が出てくるし、体力も落ちた。痩せる時には頬から痩せるようになって、目の辺りも落ち窪んできて、笑ってもいないのに目尻にうっすら笑い皺が刻まれ始めてきた。否が応にも時間が流れて年齢は身体に刻まれていく。あの頃と同じままでなど、誰もいられない。
だが、あの頃に一番縛られているのはもしかすれば長谷自身であり、それに比べれば、恥じらいが勝って口に出せなかったような淡い想いを懐かしむなど微笑ましく可愛らしいではないか。自然と、苦い笑いが長谷の口許に浮かんだ。
長谷が同窓会に一度も行かなかったのは、興味がなかったからというのは勿論ある。けれども本当は、それを口実にして長谷は恐れていた。加賀谷と顔を合わせて平静でいられる自信が、長谷にはなかった。
整理をつけないままに無理矢理胸の中に押し込んだ思いは、ぶつける対象を見つければ、増水しすぎた川の水がちっぽけな土嚢どのうを崩し押し流すように止とめ処なく溢れてしまうだろう。解決されない思いというのものは、整理を付けてやらなければ何もしなくても消えるなんて事はない。忘れたつもりになっていても胸のどこかにしまわれていて、何かきっかけさえあればいとも簡単に蘇ってしまう。
店内に流れているBGMが切り替わった。弦楽器とピアノ、シューベルト、という所までしか分からない。旋律は柔らかく穏やかで、何かを許そうとするようだった。
何を、誰を許すというだろう。誰かを許せるような資格は長谷にはない。不誠実で理不尽な行動で全てをぶち壊したのは長谷だった。
連絡をとってみようと思い立った。加賀谷には恐らく妻がいる筈で、もしかしたら子供もいるかもしれない。彼の実家に問い合わせれば所在も分かる筈だった。彼がもういないというのであれば、彼女にも素直な気持ちで謝罪ができるかもしれない。そんな長谷の自己満足にしか過ぎないものが先方にとって今更何になるだろう、とは思ったが、長谷は、とにかく自分の気持ちに整理を付けたかった。けじめだとか区切りだとか、そんな名前で呼ばれるものが何かあれば整理が容易になるのではないかという期待があった。
やっぱりたまの里帰りって事で五所川原開催かしらね。川島の言葉はどこか遠くから流れてくるように響く。繋がっていないように聞こえても、川島の中では全ての話は繋がっているから唐突に戻ってくる。生返事をして、長谷はまた目を伏せて冷たくなったコーヒーを啜った。
数日後、盆休みと有給消化の名目で三連休をとって、長谷は五所川原市に来ていた。
川島には仕事が忙しいと言ったが、お盆の時期は閉まっている取引先も多いから閑散期、別に長谷が二日三日抜けたところで回らなくなるような仕事ではない。
小規模な食品メーカーの営業部の係長、部下は三人。小さいなりにやり甲斐はあるしつまらないとは考えていない、精一杯取り組んでいる。自分がいなければ回らない、というような格別の成果は挙げられていないが、それに別段の寂しさも覚えない、物事とは概ねそういうものだ。
この世は、大抵は代替のきく事柄で構成されている。社員は新しく雇えばいいし、恋人はまた見つければいい。物なら尚更、買い直せばいい。自分で勝手に諦めないうちは、新しくやり直す事が出来る。それは「希望」と名付けられるものだろうし、それならば希望とは「代わりならいくらでもある」という事実に裏付けられた感情という事になる。
だが、取り返しのつかない事も、この世には確実に存在している。例えば肉親、思い出の品、この世にただ一つしか存在しないもの、他に引き換ようのない価値を持っているもの。
もしかしたら取り返せたかもしれないのに、無為に時間を過ごした為に取り返しがつかなくなってしまうものも、確実に存在する。
取り返しようのない大切なものを失えば、胸には穴が開いたようにすうすうと隙間風が吹き込む。例えば誰かを失って開いた穴なら、その人は世界にただ一人しかいないのだから、他の誰かでは埋めようがない、穴は永久に塞がる事はない。埋めたつもりになったところで、形が違うのだから隙間が開いて隙間風が吹く。その音を、どれだけの年月聞き続けてきただろう。
穴は塞がらなかった。時を置けば忘れ去り紛れるだろうと思っていたのに、記憶の奥底に紛れたように見せかけて、折に触れて風は穴を通り胸を吹き抜けていく。決して消えはしなかった。恐らく寒いのだし、風の鳴る音を聞けば寂しくもなるだろう。
川島と別れた後、加賀谷樹の実家に連絡をとった。高校時代にはよく電話をかけたし家にも遊びに行ったから、電話に出た加賀谷の母親は、雄一郎くんかと懐かしそうな嬉しそうな弾んだ声で応対してくれた。
加賀谷はもう五年も前に亡くなっていた。胃癌だったという。彼の妻も最近交通事故で亡くなり、一人息子を今実家で引き取っているのだと加賀谷の母は教えてくれた。
親友が死んでから五年もの間音沙汰がなかったというのに。川島同様に加賀谷の母にとっても、加賀谷と長谷の間柄は高校の頃の記憶のままで止まってしまっているのかもしれない。
駅から乗ったバスの車窓の外の景色は相変わらずの田舎町だったが、あの頃と変わらない、とは言い切れない。昼下がりの街中は車は多いが人通りは閑散としていて、シャッターの閉まっている店も多い。閉店した店新しく出来た店、新しく建った家、空き地がマンションになって川べりはコンクリートで護岸された。昔のままの建物は年月につれて風化して、壁の色はくすみ錆が浮いている。道順は体に染み付いて、目に入る風景も概ね同じなのに、あの頃と何もかも同じではない、微妙に違う、なまじ同じに見えるから違和感が際立った。
当たり前の話だった。変わらない方がおかしい。今も変わらないのは、見ない振りをしてもう忘れたと思い込もうとして、置き去りになった気持ちだけだ。
最寄りの停留所でバスを降りて歩き、角を曲がると緩い坂になっている。角から二軒目には安保さんが住んでいて、そこのお爺ちゃんは高校の柔道部で好成績を修めていた加賀谷を応援してくれていたから、二人で家の前を通るのを見かけると、嬉しそうに声をかけてくれたものだった。表札はまだ「安保」と書かれているが、改築したのか外壁は真新しい煉瓦様の見た目になっていた。塀も塗り直されて真新しく白い。
空は、あの頃と何も変わらないように見えた。東京よりもずっと近くに見える山並みの山の端は烟って白く霞み、夏らしくもくもくと大きな入道雲が湧き出していた。天高くに伸びた白い入道雲と濃い青をした空の境はくっきりとしている。だがあの頃の雲とは別の雲だろう。ミンミンゼミの声も変わらないように聞こえたが、蝉は地上に出て七日や十日で死んでしまうのだから、あの頃の蝉である筈がない、種類が同じだから鳴き声も同じなだけだ。
通い慣れた道に何よりも足りないのは加賀谷だった。こんな汗ばむ夏の日も通った。雪の積もった冬の坂道も足を滑らせながら登った。いつも隣にいたのは、ずっとつるんでいた加賀谷だった。ここを一人で通るのは、加賀谷を迎えに行くとか家に遊びに行くとか、とにかく加賀谷に会う為だった。
もういないのだから、二度と会う事はできない。
当たり前の事に今更思い当たり、動かしたくてもどうしようもない事実に後頭部を殴りつけられたような感覚が頭の中を襲って、暫し白く塗り潰される。長谷は深く息をついた。草いきれ、土の匂い、どこかの家の昼食に出たのか、玉子焼きの匂い。遠くで車が行き過ぎて、風が流れる音。開け放たれた窓から流れるテレビの音。世界は白い闇の中に薄ぼんやりと浮かんで、徐々にくっきりとした姿を取り戻す。
大人になるという事は理不尽を諦めるという事だ。理不尽だと感じるのは、自分がしたい出来ると思っている事と実際に可能な事の間にギャップがあり、それが納得できない程に大きいからだ。複雑に絡み合い縺れた不可能の要因を解きほぐすのは容易ではなく、だから人はきりのいい所で諦めてやり過ごす事を覚える。区切りをつけ、望む心に整理をつける。時間は有限で、一人の力はちっぽけなもので、理想に対する理解を得るのは難しい。じゃあどうするの、と具体的な方策を問う声を即座に解決する妙案など大抵の場合ありはしない。
人の死を覆す事はできない、しかも五年も前の話だ。
じきに加賀谷の家が見えた。門をくぐり玄関先のインターホンのボタンを押すと、ややあって加賀谷の母が応答した。
「長谷です、お久しぶりです、先日お話した通り、お線香を上げさせて頂きたいのですが」
『まぁまぁ、よぐ来たなス、わんつか(少し)待ってけぇ』
訛りの強い懐かしい声がスピーカーから流れた。加賀谷の母だった。ドアの中からすぐにぱたぱたと物音が響いてドアが開いた。
「長谷くんハァ、まんず懐かしいのォ」
「ご無沙汰、してました、お久しぶりです」
軽く礼をする。加賀谷の母は、細めた目を沢山の皺に埋め満面の笑みを浮かべて長谷の肩をとった。
「玄関先でも何だはんで、上がってけぇじゃ、相変わらず狭ぇ家だばって、前みてくあずましくして(寛いで)けぇ。暑かったべ、ひゃっこい(冷たい)麦茶でも淹れるはんで」
取った肩を玄関に引き入れて、加賀谷の母は上機嫌に歓迎の言葉を口にした。高校の頃はもっと若かった、すっかり白髪になってしまい、少し背中が曲がって縮んだ。加賀谷には兄がいて、この家はその兄夫婦との同居の筈だし、加賀谷の父もまだ健在だからそこまで寂しくはないだろうが、息子に先立たれるのがどれほど辛く寂しいのかは、子を持たぬ長谷には想像のしようもなかった。
家の中の様子は、高校の時とほぼ変わっていなかった。物の配置も記憶の通り。玄関の靴箱の上には大きな白磁の花瓶に大ぶりの花がいつも生けてあって、玄関を上がってすぐ横に襖がありここは昔は加賀谷の祖母の部屋だった。右側は物置の扉になっていて、廊下を少し進むと階段がある。突き当たりの左にある摺りガラスの引き戸を開けて居間に入る。仏間はその奥にあった。高校の時に加賀谷が築二十年のボロ屋だ、とぼやいていたから、もう築四十年以上の計算になる。こまめに掃除されている廊下や柱はそれでも長い年月の間に煤を被り、家の中は真昼でもやや薄暗い印象がある。
網戸から心地よい風が吹きこんで、吊り下げられた青いガラスの風鈴がちりんと涼やかな音を鳴らした。庭には加賀谷の母が趣味で作っている家庭菜園が今でもあって、今はピーマンが青い実をぶら下げている。
加賀谷の母がお茶を用意している間に、仏間に据え置かれた仏壇の前で線香を焚き手を合わせた。飾られた遺影は以前は加賀谷の祖父のものだけだったが、今は加賀谷とその妻・理恵、それに祖母のものが加わっている。
手を合わせて黙祷し、何を思えば良かっただろう。もう一度だけ、会えたなら。考えても詮無い思いが浮かんだ。叶わない事ばかり願う、長谷の悪い癖だった。
加賀谷の母が居間のテーブルに戻ってきた様子で、トレイが置かれた音がした。合わせた手を下ろし軽く頭を下げて、長谷は居間に戻った。冷たい麦茶の注がれたグラスは既にぐっしょり汗をかいていた。気にせずに掴むと二口三口、勢い良く麦茶を飲む。ほのかに甘く香ばしい麦茶の味も、やはり昔と変わりがないように思えた。
「まんず、わざわざ線香さ上げに来てけて、かたじけねえのう」
「いえ、加賀谷には本当に世話になったしお母さんにもよくしてもらったのに、来るのがこんなに遅くなってしまってすいません」
「仕事忙しいんだべ、だばって、盆と正月くれぇ、家さ帰ってお父さとお母ささ顔見せねば」
「はい、そう思って今年はお盆休みをとったんです。孝行できるうちにしておかないとと思って」
「んだ、ほんとの順番だば、親の方が先に死ぬんだ。顔だけでも見して、安心させねば」
顔の中に埋もれ消えてしまいそうになるほど目を細めて、加賀谷の母は一人で納得した様子で何度も頷いた。
「樹だば、まんずほんつけねぇ(馬鹿だ)。ちっちぇ息子ば遺して、理恵さん苦労したんだ、だばっておっきくなって楽さしてける前に事故であっけなく死んでまってはぁ……」
言葉を詰まらせて、加賀谷の母は俯いて麦茶を一口飲んだ。答える言葉が浮かばなくて、長谷もやはり麦茶を一口含んで飲み下した。
「ああ、んだんだ、智志もそろそろ帰ってくるべな」
「さとしくん、と仰るんですか、あいつの息子さん」
「んだ、もう今年で十六だなぁ。樹に似ねぇで出来が良ぐってハァ、東京で星明だかってえれぇ高校さ入ぇったって」
「えっ、星明って凄いですね」
星明高校といえば東大京大の合格者数トップ争いに毎年名を連ねる有名校だった。加賀谷は柔道ばかりしていて、普段の数学の成績などは後ろから数えた方が早い程だったから、意外さに驚いて長谷の声も高くなった。
「学費の貯金は樹と理恵さんでやってたみてぇだども、東京はおっかねえのに今から一人暮らしってのも危ねぇべ。だばってあっちさ頼める親戚もねえし、折角入ぇったのにこっちの高校さ通わすのも勿体ねえし、智志はこっちの高校でいいって言うんだども、参ってまって」
「それは勿体無いですよ。しかし一人暮らしだと色々心配ですよね……」
長谷が応じて、二人は眉を寄せて軽く首を捻り、向かい合って考え込んでしまった。暫く沈黙が流れる。そよ風が吹いて、ちりんと風鈴が揺れた。
「あっそうだ、あの、もし良かったらなんですけど」
突然長谷が大きな声を上げた。首の角度をまっすぐ戻して、加賀谷の母は軽く目を見開いて長谷を見やった。
「どした?」
「うち、一部屋空いてるんですよね。今物置にしてるんですけど、片付ければ使えますから、どうでしょうか?」
「んだかんだか、だばってのう……」
再び眉を寄せて、加賀谷の母は考え込んでしまう。長谷は二十年近く振りに顔を見せた他人だ、そこまで世話になるわけにもと二の足を踏むのは当然だった。長谷にしても大して深い考えはなく、単なる思い付きから軽い気持ちで口にした提案だった。
ただ、深い考えはなかったが、それくらいはしてやりたい、という気持ちはあった。加賀谷と理恵の息子ならば、まだ会った事のないその高校生は、長谷にとっても特別な存在だった。二人が鬼籍に入ってしまった今となっては尚更だった。まして彼は将来有望だし、五所川原の高校に転校するのと星明に通い続けるのでは学業に大きな差が出る事は明白、単純に人助けになるという意識も働いた。
「まあもしよければなんで、ゆっくり考えてみてください。俺の方はいつ来てもらっても構いませんから」
軽く微笑んで長谷が告げると、んだか、と弱い声色で加賀谷の母が返した。
そこに、玄関のドアが開く音が流れこんできた。続いてぱたぱたと靴下が廊下を叩く音が響く。からからと音を立てて摺りガラスの引き戸が滑って開いた。
「ただいまあ」
「お帰ぇり、智志、父っちゃのお友達が線香さ上げに来てくれたべ、挨拶しぇ」
ガラス戸の向こうから顔を覗かせた少年は、加賀谷の母の言葉に長谷を見やった。
加賀谷智志は色が白く線が細いが、力弱い感じは受けない。真っ黒い髪は加賀谷に似て硬いのか、あちこちがぴんと跳ねて飛び出している。眉骨は高いが描いた曲線は滑らかで、綺麗に通った眉の下に、やや釣り上がってくっきりとした大きな眼があった。瞬きをすると、驚くほど睫毛が濃く長い事に気付かされる。鼻筋も顎も細い、唇は厚くも薄くもなく、やや不審げに突き出されていた。身長は百七十センチほどだろうか、高くはないが低くもないという印象を受けた。身体の線は全体的に細いが、半袖から覗いた腕は太くはないものの骨張って筋肉が浮き出ている。柔道では重量級で、人の三倍は食べて体つきががっちりしていた加賀谷とは、見た目の印象は然程似ていなかった。
理恵に似ている、と長谷は思った。目元などはそっくりで、まるで理恵を見ているようだった。
「長谷と申します。お父様には生前、大変お世話になりました」
長谷がそう告げて座ったまま軽く頭を下げると、智志の表情が明らかに強張った。僅かに眼が細められて、口許が固く引き結ばれた。
緊張、それよりはもっと強いものがあるように感じられた。例えば不快感、敵意。
そんなものを向けられる覚えは勿論長谷にはない。不審に思い不思議そうに見つめ返すと、智志は厳しい表情のままぺこりと頭を下げて、どうも、と告げて背中を向けた。
「智志、どさ行くんだ」
「部屋で勉強してる」
加賀谷の母の問いかけに、先程ただいまの挨拶を告げた声とは別人のような、暗く硬い声が返ってきた。
ガラス戸が静かに閉められて、今度は階段を駆け上がる音が軽く響いた。
「申ス訳ねえのう、いつもだばお客さんさちゃあんと挨拶すっけど……」
「いえ、気にしないでください。初対面ですしあの年頃ですから、人見知りしたんでしょ」
軽く笑って長谷が流すが、加賀谷の母は困惑して首を捻った。普段は礼儀正しい、というのは恐らく本当なのだろう。
もしかしたら機嫌が悪かったのかもしれない。何せ思春期なのだ、些細な事で機嫌が悪くなったり落ち込んだりする事はよくある。自身も不審には感じたものの思い当たる節もないから、長谷は適当に理由を付けて納得する事にした。
加賀谷の家を辞すると実家へと戻った。一泊して、次の日に墓参りをした。家の墓に参った後に加賀谷と理恵の墓にも花を供え、手を合わせた。伝えたかった事は色々ある筈なのに、はっきりした形をとって言葉にはならず、ぐちゃぐちゃと胸の中を流れるばかりだった。すまないと、そればかりを思った。黒い御影石の墓石は強い日差しを照り返して光るばかりで、何も答える事はなかった。人の身に死者の声は聞こえない、聞こえたとしてもそれはきっと、聞きたいと思うものを聞いたと思い込んだだけだ、そう思う。
長谷にも上に二人兄がいて、実家では父母と一番上の兄が同居していた。末っ子だからって飛び出してったきり音沙汰なしか、と愚痴られるのは想定の内だったし、それが聞きたくない故に忙しいのを理由にして実家に寄り付かなかった面もある。だがそういった煩わしさを避けていれば、本当にしたい事は何も成せないままになってしまうのだろう。
もし本当に成したいのならば、煩わしさや傷付く事を厭っていてはいけない。そう気付かされるのは、いつも手遅れになってからだ。
父と母は、もう七十も半ばだった。母はずっとにこにことしていて、晩ご飯には長谷の好物ばかりが並んだ。父はむすっとしていたが、酌をするとコップの酒をぐいと呷って、にやりと口角を上げた。お前、たまにはそっちから電話せえ。父が低い声でぼそぼそと呟いて、長谷は返す言葉もなくただ頷いた。
東京に戻って一週間ほど経ったある日、加賀谷の母から長谷の家の留守番電話にメッセージが残されていた。
先日の訪問に対する改めての礼と、智志の事について話をしたい旨が吹きこまれていた。
長谷は今帰宅したところで、時刻は二十時過ぎ。田舎ではもう寝る家もある、やや遅い時間だったが、早い方がいいだろうと思い折り返しの電話をかけた。
用件は、先日話した、長谷の住まいの空室を智志に提供する話をお願いしたい、というものだった。智志本人は最初難色を示したものの、星明に通い続けてほしいという祖父と祖母の説得に根負けしたようだった。
智志は元々奨学生として星明に入学していた。成績を維持し奨学生の資格を失わない限りは、高校の学費はほぼかからないも同然だった。大学や学部によっても変わってくるが、これからの学費と進学費用は加賀谷と理恵が残していた学資貯金で概ね賄えるし、加賀谷の家としても足りない分は出すつもりだという話だった。
加賀谷の母は賃料と生活費の一部を支払いたい旨を申し出たが、長谷はその申し出を断った。物が多いので2LDKを借りたが、遊んでいる部屋に入れている物は、例えば大して行きもしないスキーやスノーボード、アウトドアの用品、もう着ない服、昔使っていたパソコンやモニタ、そんな処分してしまって構わないような物ばかりだった。大学進学にはとにかく費用がかかる、他の金額はかからないに越した事はない。長谷は自分では使い道のない空室を有効に利用して貰うだけなのだし、見ず知らずの他人ならまだしも加賀谷の息子から金を取ろうとは思っていなかった。
こんな事で許されるとは思っていないが、罪滅ぼしをしたい、という気持ちも確かに働いていた。一体誰に許してもらうのだろう、加賀谷か理恵か。二人はもういないのだから、長谷を許す事も二度とないというのに。結局、長谷には勇気がなかったから、二人が死んでからでなければまともに向き合おうとする事すらできなかった。後悔する他なくなるまで逃げ続けてしまうのは、愚かだった。
簡単な日程を加賀谷の母と打ち合わせて、次の休みには不用品買取の業者を呼んで部屋の中の物をすっかり引きとってもらった。二束三文どころか大抵の物には値段が付かずに引き取り料を請求されたが、元々使わない物ばかりだから処分してもらう費用と思えば何という事はない。リサイクルショップで机と椅子と本棚、ベッドを見繕い、物が無くなってがらんとした部屋に届けてもらう。他にも色々必要な物は出てくるだろうが、検討するのは本人が来て暮らし始めてからでも遅くはないだろうと思われた。
智志が東京へと戻ってきたのは、夏休みももう終わる、八月三十日の事だった。
待ち合わせ場所に指定した東京駅の改札前で待っていると、津波のように押し寄せ改札を通る人の波の中に智志の姿が見つかった。Tシャツにダークグレイの綿のベストを羽織り、ジーンズ姿。荷物は大きなショルダーバッグとリュックサック。五所川原も東京より涼しいとはいえ夏はそれなりに暑さは厳しい、日差しも強いのに、白い肌は焼けた様子はなかった。
「智志くん」
大声で呼びかけて手を振ると、智志は長谷へと目線を向けた。無表情で、刺すような強い視線だけがある。
あまり好かれてはいないようだが、何せ会うのはまだ二度目だ。警戒されて当然とも思えた。
早足で人ごみを掻き分けすり抜けて、智志は長谷の前に立って小さく頭を下げた。
「改めまして、長谷雄一郎だ、これからよろしく。荷物持つよ、車あるから、まずはうちまで行こうか」
努めて柔らかく微笑んで告げるが、智志は尚も無表情のまま小さく頷いただけだった。
ショルダーバッグを受け取って歩き出す。荷物を車に積み込み、智志を助手席に乗せると走り出す。腹は減っていないか、喉は乾いていないか、質問を投げてみるものの、返ってくるのは無表情のまま言葉なく首を小さく横に振る返事だけだった。
「狭い部屋だけど、気を使わないで自分の家みたいにしてくれていいから。お父さんとは高校の頃親友だったんだ」
「ふうん。じゃあ大学ではどうだったの。同じ大学だったんだろ」
智志から漸く返事が返ってきたが、その内容は一番話したくない部分に踏み込むものだった。
答えを迷ううちに、智志はちらりと長谷を見て、目線を逸らした。
「最初に言っておくけど、俺、あんたの事嫌いだよ」
「え……どうして」
目線を前に向けたまま智志が告げた言葉の内容に長谷は戸惑った。会うのは二度目だ、まともに会話した事もない。嫌われる理由がない。
押し付けがましいお節介が鬱陶しいなら、長谷の申し出を頑として断ればいい。強制力は何もないのだ。
続ける言葉も浮かばず黙りこくっていると、智志が鼻から長く溜息を吐き出した。
「母さんの遺品を整理してて、切手まで貼ってるのに出してない手紙が見つかった。あんた宛で、まだ新しかった。悪いと思ったけど中を開けて読んでみたら、あんたに詫びる手紙だった。婆ちゃんには話してないみたいだけど、あんた大学の頃母さんと付き合ってて、浮気しまくって、まるでゴミみたいに捨てたんだろ。母さんの大学時代の友達から聞き出したよ。母さんはそのせいであんたと親父の仲も壊れた、親父は死ぬまであんたの事忘れてなくて、それが気にかかっててずっと謝りたかったって書いてた。謝るならあんただろ、何で母さんが謝るのか意味が分からないしあんたの事も信用できない」
全部ばれている。
顔から血の気が引くのが自分でも分かった。ハンドルを握る自分の手がいやに白いが、どの程度力を込めているのかが認識できない。ハンドルはそんなに強く掴むものではない。
丸の内付近は混み合っていて、車は遅々として進まない。今すぐここから逃げ出してしまいたかったが、痺れてしまったように身体は動かなかった。
「……その事については、俺が全部悪い。君の言う通り理恵が謝る理由は一個もないし、詫びれるなら何でもしたいと思ってる」
「何でも?」
「俺に出来る範囲なら、何でも」
「じゃあまず、俺の質問に正直に答えてくれる、嘘つかないで」
智志の言葉に、長谷は軽く頷いた。長谷が頷くのをちらと横目で確認しただけで前を向いたまま、智志はまた深く息を吐いた。
やや伏せられた眼には、強い日差しを受けて長い睫毛が濃い影を落としていた。取り付く島の見当たらぬほど鋭く冷たい拒絶がそこにあって、残暑の日差しの熱にも溶ける様子はなかった。
「母さんは、馬鹿みたいだから答えなくていいって冗談みたいに書いてたけど、ちゃんと答えて。本当は母さんの墓の前で言わせたいとこだけど、そうもいかないから。母さんは、あんたが本当に好きだったのは親父じゃないか、って書いてた。そんな訳ない、馬鹿みたいだと思って聞けなかったって。どうなの」
「……それは」
「イエスかノーかで答えればいいだけだろ。何で否定しないわけ」
苛立ちが篭って智志の声は強く太くなった。やや先に見える信号はまた赤に切り替わって、車が進む様子はない。
否定してしまっても良かった。誰にも言った事はない、もう届ける先もない思いだ。否定してしまったところで誰も嘘だとは分からないし、否定さえしてしまえばなかった事になるようにも思えた。それなのに出来なかった。否定する事は、長谷がこれまでに捨てざるを得なかったもの全てを否定するのと同じだ、そんな風に思われた。
「……」
何も答える事が出来なかった。喉はからからに渇いていて、口の中がべとついた。信号を睨み何とか平静を取り繕っているが、今すぐ何もかもを放り投げて逃げ出してしまいたい。
長谷が答えないのを見て、智志はふうんと呟くと、さもつまらなさそうに鼻で笑った。
「じゃあ何で母さんと付き合うんだよ、おかしいだろ」
「上手くやれると思ったし、お母さんの、理恵の事を、愛せると思った」
「……何だよそれ、いい加減だな」
「済まないと思ってる」
「黙れよ!」
智志の掌がダッシュボードを強く叩きつけて、ばんと大きな音が響いた。
「ふざけんなよ、あんた、今更何なんだよ。謝る相手が違うだろ」
「理恵は、俺の事なんかもう、忘れたと思ってた」
「そっちはそうだろうけどな、母さんは忘れちゃいなかった」
苦々しげに智志が答えた。忘れる筈などない、自分のしでかした事に一番縛られ続けていたのは長谷だった。だが智志に言ったところで何がどうなる、言い訳にしかならないだろう。
理恵は、幸せではなかったのだろうか。ふと長谷は思い当たった。加賀谷は嘘がなくて人がいい男で、長谷のように理恵を裏切ったりはしないだろう。子供もいた。きっと理恵は加賀谷と一緒になって幸せだっただろう。今まで長谷はそう考えていたが、そうではなかったのかもしれない。
「あんた、謝るって、どうやって謝るつもりだったんだよ」
「……それは、分からないけど。まさか理恵がもう死んでるなんて、思ってなかったから」
ふうん、と興味がなさそうに智志は呟いた。漸く車が流れ始める。
実際、もし理恵が生きていたとしても、どうやって謝れば償えばいいのかなど少しも見当がつかなかった。だからこそ恐れて何も行動しなかった、逃げ続けた。
「親父と母さんは、いつもつまらない事で喧嘩ばかりしてた。俺の前では言わなかったけど、親父はいつも、あいつの事が忘れられないんだろうって怒ってた。母さんは最後はいつも泣いて、違うしか言わなくなるんだ」
智志の言葉には、先程の激情に任せた熱量はもうなかった。そこにあるのは、静かに諦め冷えた、淡々とした言葉だった。
「理恵は、幸せじゃなかったのか」
「親父はいい父親だったと思うよ。俺には優しかったし、俺も親父の事は大好きだった。けど、母さんに対してはいつも苛々してた。母さんがあんたを忘れなかったからだ。あんたが母さんを放り出して、何もしなかったから」
その言葉通りなら、長谷は一体何をどう償えるというだろう、誰に何を。返すべき言葉の一つも浮かびはしなかった。それきり再び智志は黙りこくって言葉を発しなかった。
分からなかった。憎んでいるというのならば何故、加賀谷智志は長谷の家に世話になる事を決めたのだろう。毎日毎日不愉快な相手と顔を突き合わせる事になる、それなのに何故。
じきに自宅マンションに到着した。駐車場に車を停めると、着いた、と最短の言葉で手短に用件を伝えて、長谷は車を降りてリアシートに積んでいた荷物を持ち、歩き出した。足元が覚束ない、ふかふかと柔らかいものの上を歩いているような不安定な感覚がある。いったいこれは現実だろうか、紛れもない現実と分かっていながらふと考えてしまう。
言葉もなく部屋に入り、片付けたばかりの空き部屋のドアを開けて、ここが君の部屋だ、と告げた。智志は無表情のまま返事をせず、荷物と差し出した鍵を受け取ると部屋の中に入り、ドアを閉めた。
息が漏れた。肩が重い。不誠実と無責任の結果がこうして思わぬ形で返ってきた。
智志に何か言葉をかけて話をしたかった。だが長谷は一体何を言えばいいのだろう、何も浮かばなかった。かといって立ち去る事もできず、ドアの前にぼんやりと立ち尽くす。我ながらだらしがなかった。
暫くそのまま過ごしているとドアの向こうから、入って、と声がかかった。
言われるままにドアを開け部屋の中に入る。荷物は机の横に置かれて、智志は椅子に腰掛けてドアの方を向いていた。精肉業者が肉を見定めるような感情のない目線が長谷の頭の上から爪先までを舐めた。何のために品定めでもするように見られるのかが分からない。
「あんた、何でもするって言ったよな」
怪訝に思いつつ長谷が頷くと、智志は口の両端を上げて満足そうに笑った。
「じゃあ、服脱いで」
「……は?」
「服を脱げって言ってるんだよ」
智志の硬い声が繰り返し要求を伝える。意図が読めない。不審を隠せず眉を顰めながら、長谷は服を脱いで横に放った。自分ではどうすればいいのか方法が分からない、何かさせようというなら、要求は呑むつもりだった。
トランクスだけを身につけた状態で動きを止めると、全部脱げよ、と更に要求された。さすがに素直には従えず、長谷はきつく眉根を寄せた。
「ちょっと待ってくれ、何をしたいんだ一体」
「あんたの詫びってのには、口答えも入ってるわけ。それじゃ何でもするんじゃないじゃん」
淡々と智志に言い返されてむっとしたものの、言われた通りに最後に残っていたトランクスも脱ぎ捨てて長谷は裸になった。せめて前を隠したいがそういう訳にもいかず、立ち尽くしたままで次の言葉を待った。
ふざけるなと智志の頬を張り飛ばしてしまっても良かったのかもしれない。理恵と別れたのはもう二十年近くも前の話で、息子とはいえ本人以外から今更どうこう言われる筋合いもないのかもしれない。
だが、拒否しようと強く思えなかった。ここで拒絶し放り投げて逃げ出せば、この少年が自分に心を開く機会は永久に失われるのではないか。大した根拠もないそんな思いが胸を強く締め付けた。彼に拒絶されるのだけはどうしても嫌だ、長谷はそう強く思ってしまった。そして、要求を呑む以外に彼の怒りや恨みを解きほぐす方策も持っていなかった。
椅子の前に膝を突かされて、まだ柔らかく熱を持たない性器をしゃぶるよう要求され素直に従う。ジーンズと下着を膝まで下ろして、智志の白くほっそりと骨張った腰が晒されていた。そっと持ち上げて先を口に含む、生温く微かに塩辛い、篭った汗と雄の匂いがむっと口の中に鼻に満ちた。
まだ縮んでずんぐりとした竿から袋にかけてをやわりと揉みながら、口の中で舌先を使い円を描くように鈴口を舐め回す。息が苦しい、うまく吐き出せない。鼻から漏れる息遣いは自然荒くなった。
若く、まだ饐えた脂の匂いはしないそこは与えた刺激に素直に応え、硬度を増して形を変えていった。
がらんとした部屋には、長谷が男のものを舐め回す水音だけが響いている。次から溢れてくる唾液がだらしなく口の端を伝い垂れた。声や反応は返ってこない。恐らくは冷たく見下されているのだろう、あの理恵によく似た眼で。情けなく屈服する姿を軽蔑の眼差しで見下ろされている、その認識だけで長谷の身体はかっと熱くなった。
こんな事をするのも初めての経験ではない。あの頃は誰でも良かった、誰も代わりになどならない事を、そんなものは世界中のどこを探しても見つからない事をどこかで悟っていながら、それでも代わりになるものを探していた。女も男も沢山いた、行きずりのあの人達の名前すら、もう思い出せない。だがそれも随分と昔の話だ。
若くしなやかで、まだしっかりと肉の付いていない、幼いと言ってもいい身体の発する体温が頬に鼻に肩にかかる。欲しいものだけがどうしても手に入らないと諦めて逃げ出してから、誰かの体温をこうして間近に感じる事は煩わしさすら伴うようになっていた筈なのに、今は辺りを包む熱と匂いに鼓動が高鳴った。
口の中のものは時折びくりと跳ね、大きさと太さを増す。吸い上げて離すと裏側の太い血管が脈打った。息子ほど年が離れた子供のものを咥えさせられて興奮してしまう己の浅ましさに後ろめたさと情けなさを覚えたが、口の中でどんどん強く大きくなる滾りの感触が胸を逆撫で波立てた。
突然後頭部を鷲掴みにされて引き寄せられ、長谷はえづいてむせた。喉の奥に先が当たって嘔吐反射が起こり、目尻に涙が滲む。そのまま髪を掴まれ、激しく出し入れが繰り返される。
「サボんなって、ちゃんと、舌、使えよ」
僅かに息を弾ませた智志の声がしたが、返事など返す余裕はなかった。めちゃくちゃに口の中を蹂躙されて、せめて歯を立てないようにするのが精一杯だった。硬い肉が口蓋を叩いて引き、また突き入れられて奥歯の付け根を突いた。
まともに目を開けていられない、頭の芯はぼうっと白く霞んでいく。どれほど続いたのかも分からない、やがて口の中のものは引き抜かれて漸く長谷は解放された。嘔吐感がこみ上げて、跪いて床に臥せると激しく咳き込んだ。
ひとしきり咳き込むと、漸くまともに吸えた息をさかんに吐いた。息が整わない、鳩尾から腰にかけて堪えきれない疼きが居座っている。股間のものは緩く頭を持ち上げていた。
こんな扱いを受けているというのに、すっかり興奮してしまっている。悟られたくはないが無理な相談だった。
「いつまで休んでんだよ」
冷たく冴えた声が響いた。額に手がかかり顔が引き上げられる。道端の小石でも見つけたような、興味の薄い目線が長谷を捉えていた。掌が軽く右に額を押して離れた。ふらついて長谷はベッドに肩を凭れさせた。こっち向いて乗れよ、と命令され従う。
ベッドの縁に腰掛けると、自然と張り詰めたものも智志の目に晒される恰好になった。強い羞恥を感じ長谷は俯いた。今すぐ消えてしまえればどんなにいいだろう、無理な事を願った。
「勃ってんじゃん。やっぱ男にされるのがいいんだ」
「違う……」
「親父にこうされたかったわけ」
声はひやりとしていて、楽しんでいる、という感じは受けなかった。
肩を押され転がされると、足首を掴まれて腰が持ち上がる。通常ならば人目に晒される事など有り得ない場所をまだ昼の明るい部屋でまじまじと観察されるのに、さすがに強い抵抗を覚えて身を捩ろうとするが、躊躇ってのろのろと動く間に、すっかり硬く大きくなったものが充てがわれたと思う間もなく捩じ入ってきた。入らないものを無理に押し入れられて、悲鳴じみた声が上がった。
こうして受け入れるのも初めてではない。だが何の準備もしないで無理矢理押し入られるのは初めてだったし、緊張と恐怖で固く閉ざされたそこは、捩じ広げられて激しく痛んだ。痛みを和らげようと深く息を吐いて吸うが、焼けつくような痛みが間断なく脳裏を覆った。
痛い、こんなのは嫌だ。そう抗議の声を上げたかったのに、身体の奥に感じる熱と硬さにただの痛みとは別の疼きが背骨から頭へと走り抜ける。悲鳴にはありえない熱を帯びた声が喉から漏れた。
「もっと、嫌がるかと思ってたのに、何か拍子抜けだな」
「ちが、う……」
「尻の穴に突っ込まれておっ勃てながら言っても、説得力ねえし。こんな無理矢理されて善がってるなんて、変態だろ」
「ちが……ぐ、あっ、ああ……っ」
こちらの都合などお構いなしに激しく腰が打ち付けられる。中を掻き回して抉る硬さと熱に、追い詰められていく。
こんなやり方がいい筈がない。頭のどこかでそう思っても、ない筈だと思い込みたいある筈のない快感が否応なしに長谷を責め立てた。睫毛の長い真黒い瞳が冷たく長谷を見下ろしている。理恵に犯されているようだ、倒錯は甘い疼きに置き換わって、更に自身を追い詰めるだけだった。
若々しく強いものの形を体の内側でつぶさに感じて、押し広げられた入り口は長谷の意に反して、吐く息に合わせて離したくないようにひくついた。突かれる度に押し留められない感覚が頭の中を白く塗り潰す。何もかも分からなくなって耐え切れなくなった。限界を迎えて呆気無く吐き出されたものは、だらしなく長谷自身の腹を汚した。
一際強い締め付けに、腹の中に捩じ込まれたものも達した感触がする。内側で跳ね脈打つ感覚が、熱の抜けた筈の身体を震わせた。
「あんた、何したいって聞いたよね。俺は、あんたの人生滅茶苦茶にして、ゴミみたいに捨てたいんだよ。あんたが母さんにそうしたみたいに」
智志の頬に張り付いた薄い笑みは、然程の感情は込められていないように見えた。鼻で笑う音が、まだ自身の鼓動が強く響いたままの長谷の耳に遠く残った。
こんな酷い扱いを理恵にした事はない、そんな抗議も言い訳にしかならないように思われたし、口を開くのも気怠かった。目を閉じると、智志の面白くもなさそうな薄ら笑いが長谷の瞼の裏に貼り付いた。
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