長谷雄一郎が加賀谷樹と初めて出会ったのは、今からもう二十数年前、高校の入学式での事だった。
 五所川原の桜は五月に入ってから、入学式の頃はまだ木々も冬の粧よそおいで固い芽は芽吹く様子も見せず、薄白く霞んだ雲と強い風ばかりが春らしい。解け残った雪が陽気を受けて解け出し、粘土質の校庭をぐちゃぐちゃのぬかるみにしていた。
 長谷はその日、遅刻しかけてかなり後ろの席に腰掛けた。長谷の隣に座った大柄な少年は、校長の長い挨拶の間に寝入ってしまったようだった。漏れ聞こえる寝息に気付いて、後ろの席とはいえ居眠りがバレれば居心地の悪い思いをするだろう、気の毒に思われた。長谷が肩を軽く揺すって起こしてやると、少年ははっとして顔を上げ、横の長谷に気付いて照れ臭そうに笑った。
 面長で、濃い眉もやわらかな眼も穏やかに垂れ下がっている様子が、がっちりした体格に似合わず優しげだった。大きな口を目一杯に横に広げて、眩しそうな素直な笑い方をする。人懐っこい奴だなあ、というのが長谷の加賀谷樹に対する第一印象だった。
 それがきっかけで、同じクラスになった長谷と加賀谷はよく話をし、つるむようになった。高校入学のこの春から父親の仕事の都合で引っ越してきた長谷は五所川原には全く知り合いがいなかったから、気さくな加賀谷と知り合えたのは幸運だと感謝すらしたものだった。加賀谷は、きつい訛りの津軽弁でのんびりした喋り方をする。それまで東京暮らしだった長谷は、津軽弁に早口で捲まくし立てられると何を言っているのか理解するのも一苦労だったから、加賀谷のゆっくりと呑気な口調は聞き取りやすく理解しやすかった。
 加賀谷は自由|気侭きまま、或いはマイペースな男だった。腹が減ったと思えば授業中だろうが隠し持った菓子を食べ始めるし、眠いと思えば寝る。面倒だと思えばふらっと姿を消してしまう。エスケープの常習犯だが、柔道部の練習を欠席した事はない。真面目に打ち込んでいるのは柔道だけだが、それも好きでたまらないからだ。怒る方の教師も、加賀谷のいかにも人の良さそうな笑顔を見ると毒気を抜かれてしまう。実際に加賀谷は人が良くて、自分の面倒事は別として人から頼まれた事は嫌と言えない所があった。体格がいいから力仕事は進んで引き受けたし、それで誰かに喜んで貰えるのが何よりも嬉しいようだった。
 二人の好みは全く噛み合わなかった。長谷は背伸びして洋楽を聴き始めていたが、加賀谷は某アイドルグループが好きだった。長谷には柔道の事は分からないし、加賀谷はギターを弾くのにはまるで興味がなかった。長谷は加賀谷が好きな柔道漫画の「花マル伝」や「コータローまかり通る!」をあまり面白いとは思わなかったし、加賀谷には長谷が読んでいる歴史小説の事は分からない。長谷は戦略シミュレーションゲームが好きだが、加賀谷は対戦格闘ゲームしか出来なかった。
 それでも二人はいつも一緒だった。どれだけ仲がいいのかと呆れられるほどだった。加賀谷は柔道部の練習で遅くまで居残っている、長谷は大抵は図書室で宿題を片付けてから本を読んで、図書室が閉められる頃には加賀谷の練習も終わっていたから、二人で連れ立って帰宅した。長谷は加賀谷の呑気で人のいいところが好きだった。伸びやかで打算がない。本当にいいやつで、きっと一生の友達でいられるだろう、そんな風に思った。
 自身が加賀谷に本当に望んでいるのは友人関係ではないのだと、長谷が自覚したのはいつの事だったのかは、もう定かでない。
 肩を組んで、ふざけて組み付いてくるあの手が腕が脚が、がっちりした胸板が腰元が。あの穏やかで優しげな顔をどう歪めて、どんな声を漏らすのか。気付いた時にはそんな妄想を浮かべ巡らせながら自身を慰めるようになっていた。終わるといつも、罪悪感ばかりが虚しく胸を覆った。
 知られたくなかった。長谷は加賀谷と友達のままでいたかった、そうすればきっと、たとえ離れても長谷は加賀谷の親友でいられる。だけれども知られてしまえば、嫌悪され蔑まれてしまうだろう。
 隠し通せると思った。夜毎に頭の中で犯しているなんておくびにも出さないで長谷はうまくやっていたし、加賀谷はそんな事には全く気づかない様子で、二人はつるんでふざけ合って、むらっ気の多い加賀谷にそつなく成績の良い長谷が勉強を教えて、お好み焼きにかけるのはソースか醤油かなんてつまらない事でどちらも譲らず言い合ったり、どうでもいいような事を積み重ねてうまいこと日々は流れていった。
 高校三年の文化祭が終わった後の事だった。後片付けを終えると、初冬の頃だから日はもうすっかり暮れて、辺りは夜の暗さに覆われていた。そろそろ初雪も降るかもしれない、凍りついてぴんと張った夜気が頬を刺した。長谷と加賀谷は肩を並べて人気ひとけのない校庭を横切っていた。
「あんなあ長谷、吾ぁよ、おメとずっとこったら友達で、いでぇなあって」
「……何だ、いきなり」
 やや遠い街灯の光が仄青く加賀谷の姿を照らし出している。ぴんと張った冬の夜の微かな光の中で、やっぱり加賀谷の笑顔は曇りなく大きく優しくて、好きだ、と長谷は思った。
「おメがちゃあんと勉強して一緒の大学さ受かれば、またおんなじ学校だべ」
 軽い口調で長谷が答えると、はは違ちげぇねえ、と加賀谷も笑いながら応じた。
 好きだった。翳りのない綺麗な笑顔だとか、注意されてむくれて拗ねる顔、柔道の試合で相手を投げ飛ばす流れるような所作、夏の暑い日には部屋でだらしなく大股を広げて胸をはだけて汗をかいてそれでも暑いと力弱くぼやいた。ある時小学生達が一人を囲んで虐いじめて追っているのを見咎めて、とんでもねぇわらはんど(子供達)だ、と本気で怒り出した。菓子を半分こにしようとして、自分の方が少なくなって不満げに頬を膨らませるが、意地を張って替えてくれとは言い出さなかった。肩に掛けた通学鞄をふざけて川辺でぐるぐる回して、手から肩紐がすっぽ抜けて鞄が川に落ちた時の驚いた顔。つまらない事さえ一つ一つが、たまらなく好きだった。
 側で見ていられれば満足だ、友達のままが一番いい。そう思っていた筈だった。
 明けて翌年四月、長谷と加賀谷は同じ大学に見事に合格し揃って入学した。二人は東京で、それぞれ一人暮らしを始めた。
 都会といえば弘前か青森程度しかまともに見た事がない加賀谷は、東京の人の多さと大きさに呑まれ戸惑っていたが、一月も経つと大分慣れたのか元の調子を取り戻していった。
 その日の講義では二限で加賀谷と会える筈だった。少し早めに教室に入り適当な席に長谷が座ると、隣に座ってきた女性があった。
「こんにちは」
「よっ理恵ちゃん、この講義取ってたんだ」
 長谷が挨拶を返すと、理恵ははにかんで微笑んだ。大きな黒い瞳が滲む。
 この大学には柔道部があり、専任コーチも付いて本格的なトレーニングを行い、オリンピック選手も出している。なればこそ加賀谷はこの大学を選んだ。平方理恵ひらかたりえは柔道部の新入生歓迎会で加賀谷と知り合って、理恵が加賀谷や長谷と同じ青森県内の青森市から出てきたという事もあり、よく話すようになっていた。
 理恵は柔道はしないが、歓迎会には同じ大学の兄に連れられて来ていた。加賀谷が言うには、その先輩があまりに妹が可愛いと自慢するのでどれだけ可愛いのかという話になったという事だったが、成程自慢したくなるのもよく分かる。黒く大きな瞳はくっきりと澄んで、睫毛が驚くほど濃く長い。小ぶりの鼻筋はすっと通り、頬と唇はふっくらとしている。背は小さめで、ほっそりとして華奢だった。今日はホットパンツに流行の厚底の靴を履いているが、もっとぺたんとした靴の方が可愛いのにな、とふと思った。
 理恵から見て長谷は知り合いの友達、という間柄になるが、津軽弁訛りが安心するのか理恵はよく長谷に話しかけてきた。
「あっ、あの長谷さん、お昼っていっつもどこで食べてんですか?」
「大体学食だよ。二限がなかったら混む前に済ませられるんだけどなあ」
「あの……良かったら、なんですけど、今日私も一緒にいいですか?」
「えっ、うんいいよ、勿論」
 やや勢いこんで発せられた理恵の問いかけに、長谷は軽く答えた。緊張した面持ちをほっと緩ませて理恵は微笑んだ。
 どうも様子がおかしいが、長谷の側には(自身の感情以外に)自分に対する理恵の態度に見て見ぬ振りをする理由があった。
「今日だったら加賀谷も一緒だけど問題ないよね。あいつは理恵ちゃんいたら大歓迎だろうし」
「え、あっ、はい」
 少し慌てて理恵が頷いて、そこに加賀谷が姿を見せた。
「ちっす……って、理恵ちゃこんちは! 長谷おメ、何喋くってたんだ」
「俺も今来たばっかだよ」
「理恵ちゃさ妙だ事吹き込んでねべな」
「人聞きの悪い……お昼理恵ちゃんも一緒に食べたいって話をしてたんだよ」
「えっマジだかうおっ! うおっし、はえぐ(早く)講義さ終わんねがな!」
 加賀谷の生粋の津軽弁には東京弁が微妙に混ざり込んで奇妙な言葉になっている。踊り出しそうな上機嫌で調子外れの鼻歌など歌いながら、加賀谷は長谷から見て理恵を挟んで一つ向こうの席に腰掛けた。通路側の席は空けていたが、理恵の隣がいいのだろう。
 長谷が抱え込んだ新たな問題。加賀谷は、理恵に一目惚れをしていた。
 本人ははっきりそうとは言わなかったが、どう見ても明らかだった。素直で開けっ広げだった。加賀谷には、隠さなければならない疚やましい感情など、ありはしないのだ。
 学食でも加賀谷は理恵の隣に座って、かなり緊張しながら他愛もない天気の話やテレビの話をしていた。理恵は相槌を打って、長谷は二人と向かい合わせに座ってその様子を眺めていた。
 勿論複雑な思いはしたが覚悟もしていた事だし、加賀谷は本当に理恵が好きなのだろうから、うまくいくように応援してやりたかった。友達として。
 理恵は可愛いしよく笑う、内気過ぎるところはあるが穏やかで人の悪口を言わない、本当にいい子だったが、長谷にはもう好きな人がいた。
 長谷は理恵の視線に気付かない振りをし続けて、加賀谷は嬉しそうに空回って饒舌になる。繰り返すうちに、加賀谷と長谷の間に理恵がいるのは、徐々に当たり前の事のようになっていった。
 唐突に長谷が限界を感じたのは、夏に入った頃だった。
 その日は男友達何人かで飲みに行っていた。加賀谷はいつも限界を弁えず飲み過ぎる、潰れてしまい一番近い長谷の家に連れていった。冷蔵庫で冷やしていた水を飲ませてやるとやや落ち着いたようで、加賀谷はベッドに横たわる。暫くすると寝息が漏れ聞こえてきた。
 こんな事が度々あった。
 忙しなく寝返りをうつ加賀谷の寝顔をそのまま長谷は見つめていた。こんな日はいつも、寝顔を眺めているうちにいつの間にか朝方になってしまう。緩く開いた口許、首筋、額、頬、腕。触れてみたくてたまらなかったが知られてはいけなかった。見つめていればもっと触れたくなるのに目が離せなくて、長谷はいつも動けなくなる。
 エアコンはドライで入れてやったけれども、暑くはないだろうか。もっと水を飲まないと二日酔いになるんじゃないだろうか。とりとめもなく考えても、加賀谷の身体から目は離れなかった。
 何か夢を見ているのだろうか、加賀谷が目を閉じたまま軽く微笑んだ。
「りえちゃぁ……」
 低い声が唐突に流れて消えた。加賀谷の寝言だった。
 その声を耳にした途端に何故だか急に何もかもが耐え難く思えて、長谷は立ち上がって早足に部屋を出た。
 鍵をかけ忘れるが気付くゆとりもない。当てもなく走り出す。歩けば五分ほどの公園まで休みなく駆け抜け、漸く足を止めた。
 いやだ、そんなのはいやだ。
 何が、と自問する間も与えないで言葉はぐるぐる頭の中を駆け巡った。
 今の加賀谷にとって、一番幸せなのは理恵に想いが通じる事だろう。そう思っていたし、その為に何とか手助けもしてやろうと思っていた筈だった。だが長谷は急に気付いてしまった。そんな事は耐えられない。
 夜の公園は、近くにある街灯一個に照らされているだけで光が足りず暗い。ふらふらとベンチに腰掛けて長谷は項垂れた。
 どうすればいいのか分からなかった。
 加賀谷に対する気持ちは、伝えられないと諦めていたが捨てる事もできなかった。見ているだけで満足だなどとおためごかしをして、中途半端に捨てきれずにいた。
 彼が自分以外の誰かを強く望むのがこんなにも辛いなどと、思いもしなかった。
 長谷は加賀谷の一番だろう。でもそれは「一番の親友」だ。代わりはいないかもしれない、でもそれではない、違う。
 頭を振ってもベンチを拳で叩き付けても、長谷には何一つ分からなかった。こんな気持ちのままで、何をどうすればいいというのだろう。分からなかった。


 それからすぐ夏休みに入ると、柔道の強化合宿で加賀谷は長野へ向かった。夏休みの間中ずっと練習の日々だという。
 会えないのは寂しかったが、例えば加賀谷と理恵が並んだ時にどうすればいいのかも分からないから、ほっと胸を撫で下ろす気持ちも長谷にはあった。
 暫く経ったある日、留守電に理恵からメッセージが入っていた。
『こんばんは、理恵です……あの長谷くん、暇な日、ありますか? もし、あの、良かったら……なんですけど、どっか遊びに、行きませんか? また電話、します』
 録音の声は震えて緊張していた。辿々しく、思いを込めて告げられた言葉だった。
 悪くないかもしれない、ふと長谷は思った。あまり無碍にするのも気の毒だった。もし彼女が想いを告げてきても長谷は断る、寧ろその方がはっきりしていいのかもしれない。
 すぐに電話を架け直すと理恵と渋谷で映画を観る約束をした。単館上映の映画で、そのうち観ようと思っていたものだった。
 隠すのも妙なので、加賀谷に電話をして理恵と二人で映画を観に行く事になった旨を報告した。電話の向こうの加賀谷はさぞつまらなさそうな顔をしているのだろう、応じる声も不機嫌だった。
「そうむくれんなって。お前の青春は柔道って事でいいじゃん」
『理恵ちゃと柔道一緒にすんな! 理恵ちゃは何つうかこう、癒しっつか、天使?』
「はいはい、お前が理恵ちゃん好きなのは分かったから」
『ななななっ、何、言って……そったらことひとっことも言ってね!』
 態度はあからさまなのに、言葉にするのは照れてしまうようだった。理恵が好きなのかと聞くと、加賀谷はいつも照れてはぐらかそうとした。
 お前がとろとろしてるからこうなるんだ。そんな気持ちも長谷にはあった。
 約束の日が来て、渋谷駅の前で長谷は理恵と落ち合った。映画を観てから、感想を話しつつ昼食を食べる。
 映画はウクライナのもので、死を決意した老人の最期の旅を描いたロードムービー。老人は立ち寄った街で、葬儀の列、死病に冒おかされた男、戦争で足を失った男、神を信じ続ける女と出会う。ラストで再び旅立った老人の行く末は描かれない。あまり一般受けする映画ではない、長谷は元々は一人で観に来るつもりだったし女の子を誘うには適さないが、意外にも理恵は熱心に観たようだった。
 信じる、とはどういう事なのか。問われて信仰の深い女は「無限の存在を認識できないのは肉体が有限のものであるからだ、いると信じる限りその存在はどこにでも感じることができる」と答えた。
 そんな風に信じられるものは長谷にはない。気持ちや心は見えない、どう変わるのかも分からない。
 その後は、折角渋谷まで出たのだからと二人で服を見て回った。店を回っている途中で長谷はヒールの低いベビーピンクのミュールをこっそり買って、すぐ履けるようタグを切ってもらい、落ち合った理恵に渡した。
 丁度バイト代が入ったばかりだったし、あまりヒールの高くない靴の方がきっと理恵には似合うと思っていたから、履いてほしかった。もしかしたら誤解されるかもしれないが、下心のないプレゼントがあったって罰は当たらないだろう、そう思った。
 袋を覗いて箱を取り出して開けて、理恵は本当に嬉しそうに笑うと、ありがとう、と呟いて靴を履き替えた。嬉しいと、はしゃぎながら意味もなく辺りを歩き回る。嬉しそうな笑顔は、心から可愛らしかった。加賀谷が癒しだとか天使と言いたくなる気持ちも分かる。
 別れ際に山手線のホームで、理恵は別れ難そうに長谷を見つめた。
「あの、また、電話していいですか?」
「いいんだけど……二人で会うのは、あんまりさ」
「どうして?」
「加賀谷が、君の事好きだから。俺、あいつを傷付けたくない」
 長谷が答えると、理恵は押し黙って俯いた。大塚方面の電車がホームに到着する。理恵の家の方向だが、理恵は動こうとしなかった。
「……じゃあ、どうして今日は、会ってくれたんですか?」
「友達だって、映画くらい一緒に観に行くだろ?」
「そうだけど、どうして」
「君の気持ち、はっきり分からなかったし。もし俺に、っていうんだったら、電話じゃなくてちゃんと顔を合わせて断ろうと思って」
 理恵は顔を上げなかった。今にも泣き出してしまいそうな切なげな顔を見てしまうと、はっきり言い過ぎるのも酷に思われた。細い肩が震えている。長谷の気持ちというのは、こうして誰かを傷付ける事しかできないのだろうか。夕暮れのホームは人が波のように行き交って、細く鋭い橙色の残光がホームの屋根の端から覗いて光った。
「……あたし、今日本当に、一日中楽しくて。嬉しくて、有頂天になってたら、そんなのってないです。あたし、長谷くんがいいです。加賀谷くんもすごくいい人で、あたしの事好きでいてくれてるのかなって、思ってたけど、でも、やっぱり長谷くんが、好きです」
「俺なんかより、絶対あいつの方がいいよ、君の事ほんとに大好きで、ほんといい奴なんだ」
「そうかもしれないけど、あたしは長谷くんが好き」
 理恵は俯いたままで、搾り出すように必死に、ぽつりぽつりと想いを告げた。
 同じだ、と長谷は思った。理恵の欲しいものにも、代わりなどないのだ。それでなくてはならないのだ。
 加賀谷が傷付くのは嫌だし、長谷にはもう好きな人がいるけれども、理恵が泣いてしまうのも同じ位に嫌だった。笑うと本当に綺麗な花が咲いたみたいで、加賀谷が一目惚れをしてしまっても仕方がない位に笑顔が可愛いのだから、泣いてしまうのは嫌だった。
「長谷くんの気持ちは、どうなんですか。加賀谷くんじゃなくて、長谷くんの気持ち」
「気持ちは嬉しいけど、君の事はいい友達だって、思ってる」
 顔を上げて理恵は、分かりました、と呟いた。黒くて大きな瞳から、二粒三粒涙が零れて頬に筋を作る。そのまま長谷に背を向けて理恵は歩き出した。
 気を付けて、と長谷は背中に声をかけたが、返事は返ってこなかった。日は落ちて、闇に青く沈もうとするビルの際を残光がぼんやりと白く霞ませていた。


 後期の授業が始まったが、理恵は前期のようには長谷と加賀谷と行動を共にしなかった。
 加賀谷は何も知らない。食堂でパックの牛乳をストローから啜って、理恵ちゃ最近元気ねえなぁ、と呑気にぼやいている。そんな呑気な所が好きだったけれども、二人でどっか行こうって誘ってみれば、と長谷は水を向けてみた。
「二人でって、おメは」
「お前の保護者か俺は。デートは保護者同伴はしないんだよ。好きだったらちゃんとそれを伝えないと伝わらないんだ、いつまでもぼさっとしてっと、誰かに取られちまうぞ」
「そんでねくて、吾ぁは」
「言い訳はいいんだよ、元気づけてやればいいだろ、そうと決まれば行動あるのみ。男だろ、気合入れろよ」
 言われて加賀谷はたじろいだ。ストローから吸い上げられる牛乳も止まる。
 男とか気合とか、そういう言葉に加賀谷は弱い。単純だった。果たして、残った牛乳を吸い上げ飲み尽くすと立ち上がり、一度強く頷いてから理恵を探して歩き出した。
 しか・・して十分後、悄然しょうぜんとした足取りで、見事に玉砕した加賀谷が戻ってきた。
「……もう、好きだ人いるはんで、そん人さ誤解されでくねって……」
 まるでこの世の終わりみたいに落ち込んで、ぼんやりとした目で加賀谷は白いテーブルを見ていた。
 長谷の喉から溜息が漏れた。こうなるとは思っていなかった。一体どうすればいいのだろう。
「あのさ、例えばなんだけど」
「何だ?」
「例えばだよ。理恵ちゃんが好きな人と付き合い始めたら、お前どうする?」
「……どうすって、どうもさね(しない)」
 唐突な長谷の質問に、加賀谷は不思議そうな顔を向けた。顔を上げてやや上を向いて、考え込む。
「んだなぁ……ぁだって、他の人で我慢しぇって言われだっでそったらのやだべ。せば、理恵ちゃも好きだ人と付き合うんが一番いんだはんで、しょうがね」
「お前と付き合ったら段々お前の方が好きになるとか、そういうのもあるかもしんないじゃん」
「あるがもしんねけど、決めんのは理恵ちゃだはんでなぁ」
 加賀谷は、薄く笑った。拘こだわりのない明るい笑顔だった。自分の想いを通したい気持ちもあるだろうに、拘りも迷いもなく、相手の事を先に思ってものを言える加賀谷の人の良さが長谷は好きだった。
 このままでは、誰の気持ちも通らず、長谷は中途半端に理恵を傷付けただけで終わってしまう。
 あの夏の日からずっと考えていた。長谷は理恵が嫌いではない、可愛いと思うし笑ってくれれば嬉しい、泣いてしまえば悲しい。抱いているのは好意だ。勿論好意にも色々ある、理恵に対するものは現時点では友達に対する好意以上のものではなかった。
 だが。人の気持ちが変わっていくものなら、理恵の事を、長谷は加賀谷ではなく理恵を愛するようになる事だって、ひょっとしたらあるのではないか。ずっとそんな事を考えていた。
 その日の夜、理恵に電話をした。話したい事があるからと告げ、会う約束をした。
 次の日、喫茶店で理恵と顔を合わせて、正直な気持ちを告げた。今も友達だと思っている事、だけれども、これから好きになっていけないだろうか、そんな風に思っている事を。
 決めるのは理恵だ。無責任かもしれないが、これが今出来る精一杯だとも思った。
「それでも、いいです、あたし、それでいい。長谷くんに好きだって思って貰えるように、頑張るから。だから、付き合ってください」
 理恵は目を細めて微笑んで、そう答えた。
 どれだけ思い上がって愚かだったろう。理恵も長谷も、愚かしかった。激しく焦がれ求める気持ちは、誰かの努力によって生み出されたものだったろうか。好きになろうと努力するというその行為自体が、どこかおかしい。
 だがこの時は、長谷にとっても理恵にとっても、これがきっと精一杯だった。
 理恵と付き合い始める事を告げると、寝耳に水の加賀谷は驚きぽかんとして長谷を見た。
 気まずい沈黙が続く。やや怒ったように眉を上げ口許を引き絞ると、加賀谷は長谷をまっすぐ見た。
「……しょうがね。そん代わり、理恵ちゃ泣がすたら、承知しねど」
 語調は低く太く硬い。加賀谷は恐らく、長谷が何も相談してくれなかった事に怒っている。
 分かった、と長谷は呟いて頷いた。
 隠し事などせず、親友らしく何でも話したかった。加賀谷と今度こそ、きちんと親友になろう、きっぱりと諦めよう。そう思った。


 ある一点を除けばまるで普通の恋人同士のように、理恵と長谷は過ごした。
 講義が終わると待ち合わせて、ぶらぶら歩いてその日の気分で夕食の店を決めたり、理恵が長谷の家に来て料理を作ったりした。
 週末には買い物に行ったり、あちこち出掛けたりした。面白そうな催し物を探すのがが長谷は好きだったから、美術展だとかサーカス、映画、講演会にコンサート、色んなものを二人で観に行った。
 理恵は抱いていた印象よりずっと気分屋で、よく長谷は困惑させられた。ある日合コンに付き合いで行く事になり、それは笑顔で行ってきてと言ってくれたが、別の日に男友達と飲みに行くのはむくれたりした。基準がよく分からないから戸惑ったが、理恵がむくれては宥なだめを重ねるうちに、小さな約束を忘れて破るとむくれるのだという事が分かったりした。
 つまらない事でもよく笑って、よく分からない事でふくれる。理恵は可愛かった。自分でも抑えきれない衝動の対象ではなくても、長谷は理恵が好きだった。料理が上手くて、少し母親のように口うるさい。小さな事を一つ一つ積み重ねていくのが愛おしく感じられて、優しく胸に滲んだ。
 そんな風に過ごして二月ふたつきほど経った頃、別れ際の道で、理恵が肩を寄せてきた。
「長谷くん、やっぱりまだ、あたしの事友達としか、思えない?」
 言われてふと気付いた。思い返すとこの二ふた・・つき、まだ理恵の手すら握った事がなかった。
 何故か、理由を探してみたが、そうしたいと強く思わなかった、以上のものは見つからなかった。
 寂しい思いをさせてしまった、気遣いが足りなかった、後悔が過ぎった。
「そんな事、ないよ」
 理恵の肩を多少強引に抱き寄せて、耳元で長谷は呟いた。そう思おうとしている、願望に過ぎないのかもしれないけれども、思い続ければそれは本当になるかもしれない。
 道に人通りはなかったから、頬にそっと手を当てた。そのまま手を滑らせ顎を上向かせても理恵は嫌がらなかった。街路樹の葉は枯れて黄色く色付いて、木枯らしに吹かれている。寒かったから寄り添って、初めてキスをした。真黒い瞳が少し細められて、じっと長谷の目を見つめていた。まるで嘘まで見透かそうとするみたいだ、そんな風に思えた。
 柔らかくてふわりとして、暖かい。シャンプーの匂いが風で流れてきた。軽く触れて唇を離すと、理恵は嬉しそうに微笑んで、長谷の肩の付け根に額を凭れさせた。
 胸をじくりと刺す違和感から必死に目を背けた。今目の前にあるものが現実で本当であるべきだった、ないものねだりをしてどうなるというだろう。長谷が欲しがっているものは、決して手に入らないものだ。
 理恵の事が好きだよ。そう呟いた、思い続けていればそれは本当になる、そう信じていた。
 数日してまた理恵が夕飯を作りに長谷の家を訪れて、その時に初めて抱いた。初めて同士だったからぎこちなくて、これでいいのかも長谷には確しかとは分からなかったが、理恵の身体は柔らかく優しく長谷を受け入れて、合わせた腹の温度はじわりと染みて、不思議と長谷を安心させた。
 それなのにまた、違和感は微かに胸を締め付けた。これじゃない、違う。何故そんな風に思ってしまうだろう。今の長谷にはこれしかない、これでいい、それなのに。形の良い乳房に口付けて、忘れようとした。
 理恵が笑ってくれるのが、長谷は本当に嬉しかった。もし理恵が笑ってくれるなら何でもしたい。そんな気分だった。甘えて胸に抱きついて眠る理恵の髪を撫でたら優しい気持ちになれた。
 それなのに、身体を重ねる度毎に、違和感は消えず降り積もっていった。
 理恵じゃないなら誰だというだろう。答えは一つしかなかったけれども、認めるわけにはいかなかった。
 次第に、理恵と会うのが怖くなった。理恵には一切責任がないのに、理恵は違う、と突き付けられるのが、怖かった。
 年が明けて春休み、三月に入ってから知り合いに連れられ行ったクラブには、後腐れない身体の関係だけが欲しい男女がいくらでもいた。その中の一人の女と長谷は寝た。誰でも良かった、今分かっているのは理恵は違うという事だけだったから、理恵でなければ誰でも。その女もやはり違った。
 それからは碌に家にも帰らないであちこちを転々として、誰彼構わず(概ね一度限りの)身体の関係を持った。
 何度、何人と寝ても、どれも違った。結果は分かりきっていたが、そうせずにいられなかった。
 五月に入った頃、加賀谷が長谷の居所を探し当てて現れた。はっきりとした怒りと嫌悪が表情に出ていた。
 加賀谷には隠せない。気持ちをまっすぐにぶつけてくる、そこも好きだった。
「おメ……何してんだ。次から次に取っ換え引っ換えだって、噂になっちゅうべ」
「その通りだよ」
 しれっと長谷が答えてみせると、加賀谷はむっとして眉根を寄せた。
「なしてそったら事すんだ。どんだけ理恵ちゃ泣いてっか、分がってんだか」
「……じゃあ、どうしろっていうんだよ」
「何なん?」
「だって理恵は違うんだよ、それなのに俺はまだ自分を誤魔化ごまかして、理恵の事好きになろうって、そんなの続けなきゃなんないのかよ、そんなのおかしいだろ!」
 叩きつけるように長谷は叫んだが、加賀谷は怪訝けげんそうな顔をして長谷を見つめた。何を言っているのか分からない、そういう顔をしている。
 加賀谷にはきっとずっと分かるまい。それでいい、そう思っていたし、今も思っている。
 知られる事をこそ、長谷は恐れていた。
「ちゃんと分かるように説明しぇ」
「理恵は違う、理恵じゃない。それだけの事だよ」
「そったらの分がんね! 訳があんだべ、ちゃんと言ってけぇじゃ……」
「チャンスじゃんか、理恵の事、慰めてやればいいだろ」
「……おメ!」
 質問に答えないではぐらかそうとする長谷の胸ぐらを、加賀谷は乱暴に掴み上げた。
 加賀谷は本気で怒っていた。どこか悔しそうに目を細めて、長谷を睨みつけていた。
 加賀谷は理恵の為に本気で怒っている、その事実に対して僅かな寂しさがあった。そして加賀谷の強い感情が長谷に向いている事に、僅かな喜びがあった。
「何言ってんだおメ、いい加減にしぇ」
「俺は、本気だよ、さっきから本当の事しか言ってない」
「めちゃくちゃだべさ、さっぱり意味分がんね」
「お前に分かって貰いたいなんて、思ってない」
 長谷の言葉に、加賀谷は驚いて目を見開くと、泣き出しそうに顔を歪めた。
 可笑おかしくなり長谷は笑いを漏らした。滑稽だった。誰も傷付けたくなどないのに、怖くなって逃げ出して、挙句に誰も彼もを傷付けている。自分自身が滑稽でたまらなかった。
 自分が笑われたと感じたのか、加賀谷はかっとなった様子で、力任せに長谷の頬を殴りつけた。
 拳を避けもしないで長谷は地面に転がった。殴られるのは随分久し振りだった。そんなつまらない事を嬉しいと感じる自分が厭わしくて、また長谷は苦い笑いを漏らした。
「……おメ、最低だ。おメとの仲もここまでだ、もう顔も見でぐね」
 低く怒りに震えた声で吐き捨てて、蹲うずくま・・・・ったままの長谷を一瞥して、加賀谷は踵きびすを返し、去っていった。
 追いかけられたならどんなに良かっただろう。加賀谷に追い縋すがって、何もかも話せたなら。
 叶わない事だった。


 それから、長谷は学校を辞めて、誰にも行き先を告げずに引っ越した。
 引越し先で小さな食品会社の営業部にどうにか就職し、働き始めた。単調な日々の繰り返しで、漫然と時間は過ぎ去っていった。
 加賀谷に転居先が知られるのを恐れて、実家ともずっと連絡を取らなかった。二、三年ほどして興信所経由で探し当てられ、就職してからは真面目に働いている事を知った父は、それから更に数年を置いて怒りを解いた。
 それからまた暫く時が流れて実家の兄が、実家の住所に長谷宛で届いた加賀谷からの手紙を長谷に転送してきた。
 責めているのか、いや加賀谷はそんな事はしない、読まなければ分からない中身をあれこれ想像してしまうだけで厭わしかった。怖かった、今更何も知りたくはなかった。封を開けないまま他の雑多な郵便と一緒にして忘れた振りをして、長谷はその手紙から目を背けた。
 一度逃げ出してしまえば、逃げ続ける他なかった。立ち向かう勇気などどこからも湧いてはこなかった。
 もう何事にも、大して心は動かなくなっていた。静かに凪いで、波立つ事がない。
 欲しいものなどもう何もなかった。
 自分は死人みたいなものだ、自嘲気味によく長谷は思った。息をして動いているだけだ、生きていない。
 例えば夢や目標なんてものがあればまた違ったのかもしれないが、特に何も見つからなかった。探そうとして見つかるようなものでもなかった。
 失った痛みが胸を刺す。その感覚だけが、長谷にとって生きている実感と呼べるものなのかもしれなかった。

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