目が覚めると、カレーと油の匂いがした。
 智志の部屋の汚れを片付けシーツを替えて、その後リビングに戻って、テーブルに突っ伏して長谷はうたた寝をしていたようだった。
 身体を起こすと肩にかかっていたタオルケットがずり落ちた。
 壁に掛けた時計を見ると七時十分を指している。部屋をぐるりと見回すと、キッチンに智志が立っていた。
「……何を、してるんだ?」
 まだはっきりしない頭で長谷が問いかけると、鍋を見ていた智志が顔を上げ振り向いた。
「世話になるんだから料理くらいしようと思って。あんたの好みなんて知らないけど、カレーとラーメン、スパゲッティ辺りなら誰でも好きだろ?」
「まあ、確かに……そうだ」
 長谷が頷くと、そうだろ、と答えて智志は食器棚を開けて皿を出した。
 食事の準備はもう済んだようだった。長谷はタオルケットを持って立ち上がった。
「これ、ありがとう」
 声をかけたが、智志はご飯を皿によそって顔を上げなかった。
「風邪でも引かれたら寝覚め悪いから」
 淡々とした智志の答えはどこかおかしかった。もっと他に気にかける事はあるのではないか、文句を言いたくなったが口答えはしない事にして、寝室のベッドにタオルケットを放ると長谷はリビングに戻った。
 戻ると、テーブルの上にはカツカレーと水の入ったコップが乗っていた。
 席についていただきますと告げ手を合わせると、智志も同様に手を合わせてスプーンを手にとった。律儀に待っていたようだった。
 カツを一切れスプーンで半分に割って、ルウとご飯と一緒に頬張る。豚ロースのカツにはカレー粉で下味が付けてある、カレールウは炒めた玉ねぎの甘い香りがする。懐かしい味だった。
「おいしい」
 長谷の頬に自然と笑みが浮かんだ。智志はちらと長谷の顔を窺うかがっただけで、何も答えずに黙々とカレーを食べ続けた。
 理恵のカツカレーもこんな味だった。よく覚えている。
 今更何を言っても信じて貰えないだろう、あの頃長谷がどうしても欲しかったものではなかったが、それでも長谷は理恵が好きだった。笑ってくれるのが本当に嬉しくて、まるで宝物みたいに思えた。身勝手だと自分でも思う。それでも、好きだった。
 どうして逃げ出して、ひどく傷付けるしか出来なかったのだろう。後から悔いるしかないのは愚かしかった。
 それにしても、智志の意図が長谷には分からなかった。人生を滅茶苦茶にしてやりたい相手への対応としては不自然だった。無愛想だが穏やかだし、優しい。
 何が本当なのか、何を思っているのか。まるで見当もつかない、知りたい。
 智志と分かり合いたいと、長谷は思った。
 長谷は、加賀谷の事も理恵の事も分かろうとはしていなかったのではないか。そんな風に思えた。自分の気持ちを抱えるだけで手一杯で、加賀谷の気持ちを理解しようとも、理恵の気持ちを受け止めようとも、しなかった。二人が何をどんな風に思って、長谷に何を思っていたのか。分かったつもりになっていたが、正確なところは分からなかった。何もかも自分勝手な推測しかない。
 智志の事もまだ何も分からない。今はまだ嫌われ憎まれていても、これから。少しずつでいいから、分かりたい。そう思った。


 二三日後には智志の荷物が五所川原から到着した。表面上は穏やかに、長谷と居候となった智志との生活は流れていった。
 智志はずっと無愛想だが、何も言わないで、まるで当たり前の事のように家事をこなしてくれて、家の中は彼が来る前より綺麗になって食事もおいしくなった。
 何か足りないものはないかと智志に長谷は聞いたが、加賀谷の家から生活費が送られてくるから要るものがあれば自分で買う旨を、淡々と智志は答えた。
 それでもやはり必要だろうと思って、衣装ケースを二つと自転車を長谷は買ってきた。衣装ケースのキャスターを取り付けて部屋に運び入れ、自転車の鍵を渡すと、智志は困惑して眉を寄せ、ありがと、と短く告げた。
 あまり気を使ってほしくなかった。犯罪と学業の邪魔以外なら、長谷は本当に何でもするつもりだったし、何をされても受け入れるつもりだった。腹が立たないと言い切れば嘘になるが、それも受け入れねばならないと思ってしまったから、気の済むまでしたいようにさせるつもりだった。ここまではいいがこの先は駄目、という基準を自分勝手に付けるのは中途半端だ、何も命まで取られるわけではない。開き直ると肚も据わった。
 これが償いと呼べるのかは分からない。こんな事をしてどうなるとも思った。ただ、放り出し逃げ出す気にだけはなれなかった。つまらない意地を張って無意味な事をしているだけか、思い当たると苦笑が漏れた。
 智志は少し口うるさいところがある。つい一人で暮らしている時のつもりで、長谷が脱いだスーツや靴下をそこらに放っておいた。すると、いつもの淡々とした口調ではなくやや怒ったような口調で、こんな所に脱ぎ捨てるなと、長谷を横目で睨みながら智志が脱ぎ捨てられた服を拾った。そんな叱事こごと・・・を言われる事などずっとなかったから、頬の辺りが妙にむず痒い。すいませんと素直に謝ると、智志はふんと鼻から強く息を吐いて、その様子が可笑おかしくて笑いが漏れた。
 長谷が帰る夜の七時から八時頃には大抵既に食事が出来上がっていて、長谷が帰宅してから智志はテーブルに皿を並べ始める。先に食べちゃっていいのに、と言うと、一人で食べるの好きじゃないんだ、とあまり抑揚のない平板な声で智志は答えた。
 加賀谷が亡くなった後、理恵はきっと働きながら智志を育てたのだろうから、智志は自分で何でもして、掃除も洗濯も料理もするようになったのだろう。もしかしたら、ずっと一人で食事をしていたのかもしれない。
 思い当たると、今まで見ない振りをしていた事が、より一層申し訳なく思われた。
 気詰まりはするがなるべく心がけて、食事の間に長谷は口を開くようにした。鯖の塩焼きが出てきた日は、鯖も美味しいけど鯵も好きだとか、加賀谷が好きだったカスペという魚は東京では見ないだとか、これから冬にかけて滑多鰈が美味しくなるだとか、以前から本格的なオーブンレンジを買おうと考えていたけどどのメーカーがいいかだとか、大抵はその日のメニューから話題を広げて、他愛もない話をした。好きな食べ物だとか質問も投げてみるけれども智志からは「別に」「特に」というような愛想のない返事が返ってくるばかりだった。ただ、完全に無視をする事はなく、無愛想ながら返事や目線は返してきた。
 一度、智志から口を開いた事があった。嫌いな物や食べられない物はないか、という質問だった。セロリやパクチーのような香りのきつい香草と、タイ料理や広東料理の一部のように香草がたっぷり入ったもの以外は何でも食べる旨を答えると、やはり無愛想に「ふうん」という返事が返ってきただけだったけれども、智志から質問が投げかけられた、ただそれだけで、何故だかとても長谷は嬉しくなってしまった。食事を作る必要性からにせよ、長谷自身の事に興味を持ち言及してもらえたのは初めての事だった。
 食事と後片付けを済ませると智志は部屋で勉強をする。その後、毎晩十時半か十一時頃には長谷を部屋へと呼び入れる。
 呼ばれれば、長谷は苦い顔になるけれども、何も言わず粛々として従った。
 普段の無愛想な穏やかさからは想像もつかぬほど手荒に、智志はまるで物のように長谷を扱った。支配しようと居丈高に振る舞う智志の要求を、長谷は何でも聞いた。股を開けと言われれば開いたし、這いつくばれと言われれば四つん這いになった。自分でしてみせろと言われれば冷たい目線に晒され罵られながら自分で慰めた。口に押し込まれていたものが抜かれたと思うと熱い迸ほとばしりが額から瞼の辺りにかかって、睫毛を伝って垂れた。まともに目を開けていられない、アダルトビデオでしか見ることはないと思っていた光景が己の身に起きるとは今まで考えた事もなかった。
 長谷にもつまらなくても多少の矜持やプライドはある、子供に好きなように嬲られてあられもない恰好をさせられ罵られて、傷付かないわけではない。だが長谷は己が口にした言葉通りに要求されれば何でもした。
 毎晩、飽きもせずに繰り返される。毎回共通しているのは、準備もなく後ろに無理矢理捩じ込まれる事だった。痛みのあまり呻き叫びを漏らすと、更に強く責め立てられる。這いつくばって首根っこを掴まれ押されて犬のように犯される、僅かに深く荒くなった息遣いが、圧し潰された喘ぎを無言で見下ろしていた。内側で暴れ回る質量だけが熱い。
 ある日は後ろ手に手首を縛られて、どこからどう仕入れたのか女性用のバイブを入れられた。何の準備もなく入れられるようなものではないし、そもそもそこに入れるものではない。入らないものを無理に割って入れるから激痛が走る。奥まで収まる頃には、長谷の息は絶え絶えになった。膝を掴まれて脚を開かれて、細かく振動して首を振る張型を咥え込んでいる様を冷たく見下ろされると、痛みしかない筈なのに熱い吐息が漏れた。不規則に中を抉られる感触に、背中が跳ねる。
「こんな恰好させられてイきそうになってるなんて、そんなにここに入れられんの好きなんだ」
「違……あ、ああっ……、うぅっ、は……」
「じゃあ見られんのが好きなの。股開いてヒィヒィ言って善がっちゃって、馬鹿みたい」
 下腹の辺りがどくどくと強く脈打ってあっという間に体中の血が集まるのを感じる。息が苦しくてたまらない、今すぐにでも解放されてしまいたかった。出そうとも思っていない声が次から次に漏れ出す。
 どうしてこんなに昂たかぶってしまうのか長谷は自分でも分からなかった。冷ややかな視線を感じて、あの目に見られていると思うだけで身体が熱くなる。いくら何を要求されても受け入れると決めたからといって度を越えている、こんな姿は晒したくないし今すぐやめてほしかった。それなのに何故。
「あんた、よく、恥ずかしくないな」
 尋ねる智志の声にはさしたる感情は篭っていなかった。呆れているのかもしれなかった。
「こんな、のは……いや、だ……」
「嫌なら、もっと嫌がれば? 怒れよ」
 智志の言葉に二三度首を緩く横に振って長谷は答えた。
 長谷が怒り出して何でもすると言った前言を覆すのを、恐らくは智志は待っている。思惑通りに怒り出してやるつもりはなかった。
 妙な意地を張っていると長谷は自分でも思ったが、今更後には引けない思いがあるし、何でもすると言った気持ちに偽りはない。
 智志は不愉快そうに眉根を寄せると、穿いていたジャージと下着を脱ぎ捨てて、仰向けになっている長谷の肩の上に伸し掛った。既に張り詰めて硬く反り返ったものが長谷の口の中に無理矢理捩じ込まれた。
「こういう扱いされんのが、いいんだろ、あんた後ろに無理矢理ぶち込まれるのが好きな変態だもんな」
「んむ……はっ、んんっ」
 否定の言葉を口に出す事も首を振る事も封じられている、長谷に返事のしようはない。
 捩じ込まれたものは熱く太く、むっと沸き立つ汗と男の匂いが浅い呼吸を繰り返す鼻に流れこんできて、口の中も頭の中も満たされる。息ができない。
 こんなやり方は苦しいだけで、苦痛しかない筈だった。それなのに何故口の中に直接感じる熱と形にこんなに胸が締め付けられて、無慈悲に責め立てる冷たい機械ではなくてこの熱いものを今すぐに、とすら思ってしまうのか。分からなかった。


 暫くして、同窓会の出欠確認の葉書が長谷宛に送られてきた。不参加に丸をつけ返送する。
 またばったり川島と顔を合わせようものなら不平を言われるかもしれないが、今はまだ参加する気にはなれなかった。
 それに、単なる言い訳や口実ではなく仕事も忙しくなり始めていた。紛争と異常気象の影響で輸入小麦が供給不足となって値段が上がり、出来る限り安い小麦の確保に奔走する日々が続いた。小さな会社の事、グラム一円の違いが死活問題になる。帰宅は深夜になり、外を駆け回るので手付かずになり追い付かず溜まった書類を持ち帰って片付けるだけで休日は終わってしまう。
 逃げた訳ではなく暫くの間は仕事で帰りが遅い旨を、朝に顔を合わせた智志に話すと、興味がなさそうに目線を外されたが、用件は伝わったようだった。寝ても疲れの抜けきらない長谷の顔にも説得力があったのか、嫌になり適当に口実をつけて逃げ出したのだろうと責められる事はなかった。
 日付が変わってから帰宅すると、さすがに既に智志は就寝している。あまり口もききたくないほど疲れているから、食事を温めて食べて、シャワーを浴びて汗を落として寝てしまえばあっという間に朝になる。
 休日もひたすら書類に向かっていると、智志はどこかに出かけるか部屋に篭るかして、長谷に何かを要求してくる事はなかった。人生を滅茶苦茶にしたいのならば、家で仕事をさせなければ長谷は仕事が追い付かなくなってまずい事になるのだから、そうすればいい。しかし智志の対応は正反対で、時折無言でコーヒーが出されたりもした。かといって、礼を言っても無愛想に目を逸らしそっぽを向くだけだった。
 星明に通い続けたいのならば、長谷が職を失ってここに住めなくなるのはまずいから、そういう意味合いで邪魔をしないのかもしれない。理由としては合理的に思われた。
 そんな生活が暫く続くと時折、前触れもなく身体が熱くなった。骨張った細い腰に突き上げられてどうしようもなく追い詰められる感覚が蘇り思い起こされた。まだ薄い肋骨の浮いた胸板、背中、すんなりと長い首、冷たい声。黒くはっきりとした眼、濃く長い睫毛。
 憎しみばかりが込められ叩きつけられた、手酷い扱いを受け、毎晩醜態を晒した。苦痛ばかりだったし、晒した己の姿は思い出したくもない。それなのに、中を抉る熱さ硬さ、次第に荒くなる息遣い、見た目よりずっと力強く肩を押さえる手の力、思い出すと胸がざわつき波立って、痛みさえ欲しくてたまらくなった。
 何を馬鹿な、と長谷は思った。加賀谷の息子だ、長谷にとっても息子でもおかしくはない年だ。
 そんなつもりは少しもなかった。
 例えば父親のようなものになりたいと、長谷は考えていたのだ。父親の昔の親友として、代わりにはなれなくても似たようなものになって、初めの内は互いに気を使ってしまうかもしれないけれども、少しずつ分かり合っていけたらと、智志が到着するまではそんな事を夢想もしていた。今でもそうなりたいとは思っている筈だった。
 それなのに、どうしてこうなる。
 部屋を提供するだなんて、言い出さなければ良かった。逃げ出したい気持ちが湧いたが、ここで逃げてしまえば同じ事の繰り返しだった。叶わなくても実らなくても、きちんと決着を付けなくては、思いはどこへも行けずにただ胸を圧し潰す。そんな事を繰り返したくはなかった。
 智志の目はいつも伏せられていた。嫌われているのだから当たり前だが、嬉しそうに笑った顔を見た事がなかった。どんな風に笑うのだろう、見てみたい。心から願ったが、憎まれている長谷には智志を嬉しがらせる術などなくて、彼はいつも面白くなさそうな無愛想な顔をしたままだった。
 嬉しそうに笑ってほしかった。加賀谷にしろ理恵にしろ、嬉しそうに笑った顔が、本当に心から長谷は好きだったのだ。この部屋に来てから智志にずっと表情はなくて、浮かんだとしても長谷に対する侮蔑と嫌悪だった。そうなった原因は長谷にあった。それを思えば、傷付け続けた事も何も知らず知ろうともしなかった事も、ただ悲しく申し訳なかった。
 じきに小麦を安定して供給してもらえる先も見つかって話が纏まとまり、久々に夜の七時過ぎに家に辿り着いた。玄関のドアを開けると、だし汁と醤油の香りが漂った。
 長谷の帰宅が遅くなってからは、例えば魚の煮付けだとかシチューだとか、時間を置いても味が落ちないメニューが用意されるようになった。味噌汁はいつもレンジで温めやすいように椀によそってラップがかけてある。細やかな気遣いは単に母子家庭の暮らしで染み付いたものかもしれないが、優しくされているのかとおかしな勘違いをしてしまいそうで、それが長谷には辛かった。
「ただいま」
「おかえり」
 朝晩にしろ帰宅時にしろ、挨拶をすると一応返事は返ってくる。智志はちらと長谷を見たが、すぐに目線を下に落とした。野菜を刻む音がして、暫くして水道の蛇口が開いて水が流れていく。ネクタイを緩めながら寝室に入り、ハンガーを手にとってネクタイをかけた。先に風呂に入ってしまおうか迷いながら、ハンガーは一度戻してワイシャツのボタンを外していると、足音がした。
「今日は早かったじゃん」
 振り向くと智志が、紺色のエプロン姿で後ろに立っていた。
「ああ、仕事が何とか目処がついたから」
「ふうん」
 細めた黒い眼に見つめられている。気付いて長谷はどきりとした、動揺を隠せず唾を飲む。智志が寝室のドアを閉め、ゆっくりと前に進んだ。
「じゃあ久し振りに、あんたで遊べるんだ」
 温い息が首筋にかかった。背中から腕を回されて、くつげた襟元から指先が忍び込んでくる。
 まるで愛おしむように唇が舌が首筋を這った。胸元に入り込んだ指先は、感じる部分を探して彷徨う。
 智志からまともな愛撫を受けるのは初めてだった。ぬめった舌先が肩の付け根を撫ぜて、たまらず声が上がった。いとも簡単に息は乱れ熱に目が眩む。
 勘違いをしてしまいそうになる。母を傷つけ苦しめ続けた長谷が智志は憎いのだ。こんなに優しく触れられたら、おかしな勘違いをしてしまう、その方が長谷には辛かった。
「滅茶苦茶に、したいなら……気に、しないで、すれば、よかったろ」
 先日からの疑問を長谷が口に出すと、智志の指は止まった。息遣いだけが取り残されて耳に響く。
「何で君は、俺に、優しくするんだ?」
「してない」
「俺の都合なんか構わないで、滅茶苦茶にすればいいだろう、好きにしていい」
「うるさいよ、黙れよ!」
 背中を強く突き飛ばされて、長谷はベッドに倒れ込んだ。すぐ頭を上げると、智志は荒く息をついて長谷をきつく睨みつけていた。
「何なんだよあんた。こんな事されて嫌じゃないのかよ!」
「嫌だよ」
「じゃあ何で、嫌なら怒ってやり返せばいいだろ、逃げ出しちまえばいいだろ!」
「君から逃げ出すのは、もっと嫌だ」
 体を起こして、静かに長谷は告げた。智志は軽く眉を寄せて目を開いて、緩く横に首を振った。
「俺はどうしようもない、情けない奴だよ。怖がって逃げ出して逃げ続けて、君の父親も母親も、きっと君も傷付けた。無責任で酷い奴だ。でももう、そんなのは嫌なんだ、繰り返したくないんだ」
「今更、何なんだよ……」
「確かに今更だな。気付くのが遅すぎるし、しちまった事は取り返しがつかない。だから君は、好きなようにしていい、許してくれなくたっていい。憎んでるんでも何でも、俺は君の気持ちと向き合う事から、絶対に逃げない」
 言い切って、長谷は軽く笑ってみせたが、智志は泣き出しそうに顔を歪めると返事を返さないで踵を返して、乱暴にドアを閉め部屋を出ていった。
 その日はもう智志は部屋から出てこなかった。
 何か声をかけて話をしたかったが、何を言えばいいのかも長谷には分からない。下手に何か言っても悲しませたり苦しめたりするだけのようにも思われた。
 智志は何故、あんなに激しく動揺を見せたのだろう。長谷には分からなかったが、予感のようなものがあった。
 どうしても許せずに憎まざるを得ない事が、長谷ではなく彼自身を苦しめ傷付けているのではないか。
 推測に過ぎないし、考え続けてもいい案も浮かばない。寝ようとしてふと、寝室に置いた本棚に突っ込んだ手紙の束に目が止まった。
 長谷は、手紙の束を手にとって繰り始めた。目的のものはすぐに見つかった。
 何年も前に届いたのに、封も開けていなかった手紙。白封筒は角が黄ばみ始めていた。
 他の手紙は元の場所に戻して、取り出した手紙の封を開けた。
 親友だったのに、あんなに好きだったのに、加賀谷の気持ちを知る事から長谷は逃げ続けていた。知ろうともしないで勝手に分かっているつもりになっていた。きちんと知ろうとして、知らなければいけない、受け止めなければいけないのだと思った。それでなくてどうやって、他の気持ちともきちんと向き合えるだろう。
 長谷が望むようには加賀谷の心には長谷は存在しなかったと認めるのが、ただそれだけが何よりも恐ろしくて。認めないから、いつまでも終わらないで取り残される。
 届いた時は読みたくない目にしたくないと強く感じて、今まで手に取るのも厭っていた手紙だったのに、便箋を取り出して開いても心は不思議と穏やかなままだった。
 開くと、懐かしい字が踊っていた。加賀谷は字が上手くない。便箋の罫線をはみ出しそうに、大きな字が並んでいた。


『拝啓           長谷雄一郎様

 お久しぶりです。お元気ですか。
 意地を張って今まで連絡もせずにすいません。でも君の事は、いつも気にかかっていました。
 俺は今入院しています。末期ガンで余命三ヵ月と診断されました。
 若いので病気の進行が早く、広範囲に転移してるから手術しても助からないと医者に言われました。
 少し前から体調がおかしかったけど、君も知っての通りカゼも引いた事がないくらい丈夫だったから、少し休めば治ると無理をしてこのありさまです。君もどうか体にだけはくれぐれも気をつけてください。
 気がかりなのは、俺が死んだ後の家族の事です。
 君は知らないかもしれないですが、俺は理恵と結婚して子どもが生まれました。でも幸せにはしてやれませんでした。
 君にえらそうに説教しておいて情けない話だけど、俺はいい夫にはなれませんでした。
 違うとわかってるのに、いつも理恵は君に未練があるんじゃないかと疑ってばかりで、信じてやれませんでした。
 自分の情けなさを認めたくなくて、うまくいかない事を全部君と理恵のせいにしてたんだと思う。
 だからというわけじゃないけど、俺はやっぱり、あの時の君の行動は何か理由があったんじゃないかと思うようになりました。
 君は理由もなくいいかげんな事をするやつじゃなかった。何か俺に言えない悩みがあったんでしょうか。
 君は理恵は違うと言ってたけど、俺は今でもその意味が分かりません。
 もっとちゃんと理由を聞いて、しっかり話し合うべきだったと後悔しています。
 どんなに後悔しても遅いですが、もうすぐ死ぬとわかってから、君の事ばかり思い出してしまいます。
 君は変なやつでした。ひょうひょうとして、何を考えてるのか分からない所があった。だけどとても優しいやつでした。
 高校の入学式の時、校門の所で新品の靴が汚れるって困ってる女の子がいて、君は何も言わないでどこからか板を何枚も持ってきて、遅刻しかけてましたね。俺も遅刻しかけてたからちょうどそれを見て、後で自慢もしないし、えらいやつだなって思ったのを最近よく思い出します。
 君は何も言わなかったけど、もっと話してほしかった。もっとちゃんと聞けば良かったと今更思います。俺はバカだから、きっと気づいてやれない事がたくさんあったんだと思います。本当に君にすまないと思う。
 一つお願いがあります。君に、俺が死んだ後の妻と子どもの事をお願いしたいと思っています。
 いろいろ考えましたが、君にしか頼めないと思いました。別れぎわにあんな事を言ってしまったけど、俺は今でも君を一番の親友だと思って、一番信頼しています。
 最後のお願いです。昔の事は水に流して、妻と息子の行くすえを見守って助けてやってください。
 君も知ってるとおり理恵は気が弱いところがあって、他人にはなかなか頼れないと思うんです。でもきっと君になら頼りやすいと思います。支えてやってくれないでしょうか。
 君の手元にこの手紙が届くよう祈っています。なにとぞよろしくお願いします。

            敬具 加賀谷樹』


 高校の入学式の時の事なんて、今まで長谷は忘れていた。そういえばそんな事もあった。
 雪解け水でぬかるんだ校庭は柔らかい泥でぐちゃぐちゃになっていて、新品の革靴が汚れてしまうのは気の毒だった。
 来る時に通った道の塀に古い板が立てかけてあったのを思い出して、その女の子に少し待つよう告げて板を貰いに行って、事情を話すとその家のおじさんも手伝ってくれて、板を何枚も校庭まで運んだ。だけど結局、校庭は広いから何枚かの板切れは大して役にも立たなかったのだ。長靴でも借りて校庭を渡りきってから履き替えてもらった方が効果的だったと後で反省した。長谷にとってはつまらない、どうでもいい出来事だった。
 ばかは俺だ。
 無性に悲しくなって、長谷は便箋を畳んで封筒にしまった。
 後から後から涙が溢れてきて、零れて止まらなかった。
 もし届いてすぐにこの手紙を読んでいたなら、もっと違っていたのだろうか。長谷は理恵に謝って、彼女を助けてやる事ができたのだろうか。智志はもっと違う形で憎しみだとか不満や面白くない気持ちを長谷にぶつけて、解決できていただろうか。
 加賀谷は一体、どんな気持ちでこの手紙を綴ったのだろう。大切なものを踏みにじって信頼を裏切り逃げ出した長谷を、どんな気持ちで許しただろう。死を前にして、どれほどの想いを込めてこの穏やかな手紙を書いた。
 悔やむしかないのは愚かだった。
 長谷が手に入らないものを欲しがりさえしなければ、きっとこんな事にはならなかった。逃げ出してしまわなければ、きっともっと違っていた。だが、選ばれなかった選択肢の先にあった筈の未来は、所詮もう存在し得ない。
 どれだけ謝りたくても、感謝を伝えたくても、加賀谷はもういない。
 誰よりも好きだったのに、どうして欲しがるしかできなかったのだろう。長谷は臆病で卑怯で弱くて自分勝手で、自分の気持ちにしか目がいかなかった。弱い自分を信じられないから、加賀谷の事も信じきれず、嫌われるのを恐れるばかりで。
 こんなに素直に涙が溢れるのはいつ振りの事なのだろう、思い出せなかった。今まで長谷は息をしているだけで死んでいるようなものだったけれども、加賀谷が見えもしないものを裏切られても信じてくれたから、こうして生きている人間のように、涙が溢れて零れてくるのだと思った。
 もう二度と会えない人を思って、二度と会えない事を漸く心から悟って、長谷は泣いた。


 次の日の朝、長谷が起きると智志は既に家を出ていた。
 部屋を覗くが特に変わった様子はなかった。朝の七時半、登校するにもやや早過ぎる時間だが、長谷とは顔を合わせづらいのでさっさと出たのだろうと思われた。気にはかかるが長谷も時間がない、身支度を済ませて出社する。昼少し前に長谷宛に電話が入った。
「長谷さーん、内線三番です」
「はいはい」
 手元の電話機を操作して、女子社員が取り付いだ電話に出る。電話口の女の声は星明高校のアリカワと名乗った。
『すいません、こちらが日中の連絡先になっていましたので。今日智志くんがまだ登校していないのですが、病気か何かでしょうか?』
「えっ? ……あ、そうなんです、風邪でちょっと熱が出てて。すいません、うっかりご連絡を忘れておりまして」
『はぁ……そうですか。もし明日も登校できないようであれば、早めにご連絡をいただければと思います』
「はい、どうもすいませんでした」
『いえ、どうぞお大事に。お仕事中に失礼いたしました』
 受話器を置いて、長谷は首を捻った。つまり智志は家は出たが学校には行っていない、という事だった。
 一体どこにいるのだろう。探そうにも智志の行きそうな場所の心当たりが長谷にはない。
 例えば五所川原に帰ったという事はあるだろうか。新幹線を使っても五~六時間はかかる、朝早くに家を出てもまだ到着はしていないだろう。他には友達の家、盛り場、思い出の場所、行く当てもなくどこかをほっつき歩くのも考えられる。どちらにしろ長谷には、ここだろうという見当は全くつかない。
 だがとにかく、じっとしていられなかった。課長にごく簡単に掻い摘んで事情を説明して急遽半日休をとり、会社を出て一旦家に荷物を置き、智志を探しに出た。
 今のところ探す場所の当てが一つしかない。加賀谷から来た手紙の差出人の住所、恐らくは以前住んでいた家の住所だった。
 幸いそんなには離れていない。電車を乗り継いで手紙の住所に向かったが、アパートの郵便受けの部屋番号の下には別の苗字が書かれていた。当然智志も見当たらない。当たり前の結果だった。
 再び当てを失って、とりあえず辺りを歩き回る。近くに広めの公園があり、芝生が残暑の白く強い日差しを受けてきらめいていた。平日の公園は人気ひとけがなくひっそりとしている。奥のベンチに白く細い学生服姿が腰掛けて、誰もいない砂場を眺めていた。
 ゆっくり歩いて近付くと、やがて智志は長谷に気付いて立ち上がり駆け出そうとした。慌てて走って追いかける。
「ちょっと、待てよ!」
「……何で、来たんだよ」
「俺は君の東京での保護者だ、君が無断欠席すれば連絡が来る」
 追い付くと、智志は俯き項垂れた。まるで悪戯を咎められた子供のようにしょんぼりとして頼りなさげで、普段の無愛想に澄ました態度からは想像もつかない。
「サボりの常習犯の子の割には、サボり慣れてないんだな」
「帰れよ」
「そういう訳にはいかない、俺にだって君を預かった責任ってやつがある」
「あんたの世話になんかなりたくない、もう沢山だ」
「それならそれでいいからけじめは通せ。加賀谷のお祖父さんとお祖母さんに、俺の所にいられない理由をちゃんと説明して了承を貰って出て行くなら、俺は何も文句は言えないよ」
 長谷の答えに、俯いたまま智志は言葉を詰まらせた。智志の理由は説明できるようなものではないだろうし、とにかく嫌になった、では誰も納得させられない事は明らかだった。
「大体、何が不満なんだ。俺の事が嫌いなのは最初からだろうし、好きなようにしていいって言ってるんだ」
「そういうのが嫌なんだよ。無責任な奴ならそれらしく、何でもするって言っておいて投げ出せばいいだろ。そしたら、あんたなんかただの偽善者で嘘つきで、やっぱり酷い奴なんだって思えるのに、何なんだよ」
「酷い言われようだけど、確かに俺はどうしようもない無責任な奴だったよ。だけど人は変われるだろ。俺はもう取り返しがつかないのは嫌だから、逃げないんだよ」
 取り返しのつかないものは失っても代わりがない、戻らない。だが、別の新しいものをまた見つける事はできる。失ったものの穴が埋まらないままでも、新しいものの為に生きる事ができる。
 やり直すのではなく全く別の何かを新しく始められるという事もまた、「希望」と名付けられるものではないか。
 失った事を認めて初めて、心から長谷はそう思えた。今失いたくないものは目の前にあった。
「やめろよ、そういうの。母さんがあんないつも親父と喧嘩して、悲しそうで、全部あんたのせいだろ、泣いてたのはあんたのせいだろ、それなのに何なんだよ、そうじゃないのかよ……そんなのって、おかしいだろ」
「俺のせいだよ。俺が酷い奴だったのは事実だから、嫌っていい」
「できないよ、そんなの」
 俯いたままで智志は緩く横に首を振った。
 智志の本質はきっと、料理を作って家の中を綺麗に掃除して細やかに気を使う方の、穏やかで優しいものなのだろう。相手を激しく憎みながらつい慮るだなんて、ちぐはぐで不器用だった。きっと誰かを憎むなんて智志には似合わないのだ。加賀谷も理恵も、憎しみなんて不似合いだったのだから。
 憎まずにはいられなかったのだろうと思った。どんな気持ちでずっと智志は父と母を見ていただろう、幸せでない夫婦の子供は、悲しみ胸を痛め続けるしかないだろう。不幸せの理由を見つけて激しく憎んでしまった事を、どうして責められるだろう。長谷の理由は誰にも話せないし身勝手で正当性もない。もう昔の事だけれども、きちんと終わらせなかったのは長谷だ。
「だって、これじゃ俺の方が酷い奴じゃないか。あんな事して、あんな」
「別に大した事じゃない、お陰様でまだ俺の人生滅茶苦茶にはされてない」
「そういう問題じゃないだろ」
 冗談めかして長谷が告げると、智志は漸く顔を上げて不満げに口を尖らせた。
 智志は予想以上に真面目で思いつめる質たちのようだった。やっぱり理恵の方によく似ている、ふとそう思った。
「君は、どうしたい?」
 尋ねると、智志はかぶりを振ってまた目線を落としてしまった。
「そんなの分かんないよ」
「じゃあ一つ提案があるんだけど。俺は、君の事が好きになっちまったから、ここで君が俺の事をゴミ屑みたいに捨てれば、君の復讐は終われる。始めた事はちゃんと終わらせないとずっと引きずっちまうから」
 長谷の提案を耳にして、智志は訝いぶかしげに眉を顰めた。
「何、言ってんだ、あんた」
「君に捨てられたら、俺はきっと大層傷付くだろうけど、図太いから大丈夫だ、と思う。だから気は使わなくていい。簡単だよ。お前じゃない違う、お前なんかいらない、って言えばいいだけだ」
 つまらない冗談を言うように告げながら、苦笑いが長谷の頬に浮かんだ。どれだけ残酷な言葉だろう、受け取る相手を傷付ける為の言葉だった。そんな言葉を嘗て苛立ち紛れに吐き出した長谷は、同じだけの残酷さを浴びせられても仕方がなかった。
 何でもすると長谷は言った。ならば、拒絶も受け入れなくてはならない。それが既に耐え難いものになっていたとしてもだ。
 智志は戸惑って目線を左右に彷徨わせた。ただひたすらに長谷は答えを待った。
「嫌だ」
 やがて智志の口が開いた。俯いたままでまた、智志は何度もかぶりを振った。
「もうそんなの、嫌だ、したくない。もう、十分だ」
「じゃあもう、終わりにしよう。君は自由だ、今度こそ本当に、したいようにしていいんだ」
 自身でも驚くほど穏やかな声が長谷の喉から流れ出た。
 長谷の事ごと全部綺麗に忘れ去ったっていい。自身でも抑えきれない憎しみになど、囚われてほしくはなかった。
 長谷のしでかした事は長谷を縛り続けるだろう。忘れたりはしない、取り戻せず謝る事もできない事実を、きっとずっと胸に抱くだろう。だが、縛られるのは長谷だけでいい。
 俯けた顔をちらと上げ、智志は困惑した様子で長谷を見ていた。目的がなくなって急に放り出されても、何をしていいのかきっと分からないだろう。思い当たって苦笑が漏れた。
「って、いきなり言われても困るか。とりあえず一旦帰ろう」
 長谷が笑いかけると智志は素直に頷いて、俯き加減のままだけれども歩き出した。
 長谷はこの辺りの地理は不案内だから、駅までの道は智志の方が詳しいだろう。智志の後に付いてのんびりと長谷も歩き出した。
 脚が軽かった。穏やかに静かに、長谷の口許に笑みが浮かんだ。智志が何を選んだとしても、その選択が智志自身を苦しめ傷付けるものでなければ、長谷はきっと笑えるだろう。それが、嬉しかった。
 帰り道は、どちらも言葉少なだった。午後も三時を過ぎて、電車の中には学生服姿が大分増えた。
 昼は食べたのかと聞くと智志は頷いた。昼休み前に慌てて会社を出てきたから、長谷は食べるのを忘れていた。安心したせいか急に空腹感に襲われる。乗り継ぎを待つ間にキオスクで鮭のおにぎりを買ってかぶりつくと、行儀が悪いと智志に窘められた。母親のように口うるさいのも、理恵にどこか似ている。
 家に辿り着くと、部屋の中に篭った熱気がむっと顔にかかった。エアコンを入れ、背広を脱いでソファに座って、ネクタイを緩めて襟元をくつげる。当惑した様子の智志にソファに座るよう指し示すと、智志は素直に従って、長谷からやや距離を置いて腰掛けた。
 すっかり毒気を抜かれてしまったようで、智志はややおどおどしていた。借りてきた猫、という言葉が長谷の脳裏を過ぎる。今までとは違いすぎて、何だか調子が狂う。まるで初めて家を訪れた知らない人のようだった。
「これからの事だけど、どうする」
「どうって」
「五所川原に帰るなら加賀谷のお祖父さんお祖母さんには俺から話すし、こっちに残るんでも、他に落ち着く先が見つかるまでなら、いてくれていい」
 長谷が話を切り出すと、智志は意外そうに眉を顰めて顔を上げた。
「それって、出てけって事かよ。あんな事したし……仕方ないけど」
「そうじゃなくて。もう終わったんだから、君がここにいる理由はないだろ、それに俺は君が好きだよ」
「何だよそれ」
「そのままの意味だよ。だから、君が一緒に暮らしてたら、正直辛い」
「何で」
 納得できない様子で智志に尋ねられ、長谷は言葉を詰まらせた。ややあって、答え辛そうに口を開く。
「……何でって、その、あれだよ……変な気が、起きる、だろ」
「いい年して何恥ずかしがってんだよ」
「うるさいな、何歳になったって恥ずかしいものは恥ずかしいんだよ。何とも思ってない相手にそんな目で見られたって、君も困るだろ」
 年はともかく、散々晒した痴態を思えば今更恥ずかしがるのも妙だったが、やたらと気恥ずかしくなって長谷は早口に答えた。
 すぐに智志から肯定の返事が返ってくる事を予想していたが、返事はいつまで経っても返ってこなかった。
 智志の伏せた黒い瞳の光には迷いがあって、分からない、と訴えている。何を迷うのかが長谷には分からなかった。
「だって嫌だろ、父親と同い年のおっさんなんてさ」
「嫌じゃないけど……でも、親父の代わりなんて、ご免だ」
 答えを聞いて一拍置いてから、長谷は思わず吹き出して笑いを漏らしてしまい、明らかにむっとした智志に睨みつけられた。
 かわいい事を言うなあ、と長谷の胸に感想が浮かんだが、口に出すと更に睨まれてしまいそうなのでそっと胸の中にしまい込んだ。
「誰の代わりでもなくて、君だよ。大体、君は加賀谷に全然似てない、理恵にばっかり似てる。君じゃ加賀谷の代わりなんて無理だ」
 長谷が告げると、智志は怪訝そうに表情を緩めた。
 智志は、加賀谷に本当に全く似ていなかった。面影を探そうにもまるで共通点がない。
 華奢な体つきも綺麗な顔立ちも、恐らく物静かで真面目な性格も、どれも理恵を思い起こさせるものばかりだった。
 代わりなど長谷は欲しくはなかった。何も代わりにはならない事は、嫌というほど思い知ったのだから。
「加賀谷の代わりなんてそんなのどこにもいないし、君の代わりだって、いないよ。俺は君がいい」
「じゃあ、俺ここにいてもいい」
「いいよ、俺が変な気を起こして構わないんなら、好きなだけいていい」
「あんなに一杯、酷い事したのに」
「だから大した事ないって、気にしてない」
「だって」
「俺はマゾっ気があるから、酷くされる方が燃えるんだよ。そういう事にしとく」
 冗談めかして言うと、智志は漸く軽く笑った。
「もう、あんな事しない。本当に、ごめんなさい」
「そうしてもらえると助かる。そんな若くないんだ、正直ちょっときつかった」
 冗談に智志はまた軽く笑いを零した。笑い事ではないという気持ちもあるが、笑い事にして済ませてしまった方がきっといい。智志は自分で気付いて後悔して、もうしないと言った、それ以上責め立てたくなかったし、悔いているものは許してやりたかった。
「あんたは、どうしたいんだよ」
「俺が希望を言っていいのか?」
「いいよ。俺が自由なら、あんただって自由だろ」
「だって」
「もういいんだ、一杯、謝ってもらったから、もう十分だ。許してもいいんだって思ったら許さないと、怒り続けてるのが苦しくっても許せなくなっちゃうんだって、分かったから。そんなの辛いし、誰も幸せになれない。母さんだってきっと喜ばないって思ったし」
 俯いて照れくさそうに、どこか寂しそうに微笑んで、智志はぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
 さとい子だと長谷は思った。長谷がずっと分からなくて苦しんでいた事を、素直に悟ってしまう。
 ありがとう、と告げると、智志は軽く横に首を振った。
「そうだなあ、なら俺は、君が嬉しそうに笑った顔が見たい。もっと一杯色んな話をして、君の事をもっと知って、もっと好きになりたい。それにまだ一度もキスしてないし、それから、ああいうんじゃなくて、普通にしたい。ちゃんと、君が欲しい」
「普通って、どうやって」
「側にいてくれて、もし君が俺の事好きになってくれたなら、ちゃんと教える」
 やはり冗談のように口にすると、智志は腰を浮かせた。長谷が反応する間もなく智志の手が首にかかって、気付けば唇が軽く触れて離れていた。あっという間の出来事だった。
 鼻先で動きを止めて、智志は目を細めて長谷を見つめていた。
「……どういう、事?」
「俺もあんたと、普通にしたい」
 告げられて、きっと長谷は水を浴びせられて目が覚めたような間の抜けた顔をしていただろう。
 目を見開いて間抜けな顔をしているところに、また軽くキスが触れて離れた。
「分かんないけど、俺多分、あんたの事が好きだよ。欲しくてたまんないよ。それって好きって事なのか、ちゃんと分かんないけど、普通に抱かせて」
 低い微かな声で、でも必死に強く智志は訴えた。間近にある黒い瞳はいつもより濡れて揺れていた。
 欲される以上に一体何を望むというだろう。それこそが欲しいもので、それがあればいい。他は手に余る。
 欲しい言葉だけは決して手に入らなかった頃の事をふと思い出して僅かな痛みが胸を刺したが、逸はやる鼓動が掻き消してしまう。今は目の前の事だけがあればよかった。
 長谷を過去に縛るのは、自分を許せない長谷自身だった。許せる日など永久に来ないのかもしれない。だがもう会えない人が、目の前の人が、代わりに許してくれた。ならば長谷は、許された分だけでも、きっと足を踏み出せる。そう思った。
「じゃあそれっぽく、もっとちゃんと、いっぱい、キスをして」
「どれくらい?」
「したいだけだよ」
 出来るだけ穏やかに言って、だけれども弾む息を抑えきれずに、今度は長谷が智志の頬に手をかけて、深く口づけた。赤みの強い唇を忙しなく啄むと、鼻にかかった声を智志が漏らす。もっと、いくらでもしたくなる。合わせた唇の隙間を舌先で割って歯列をなぞればまた高い音が漏れて、互いの息遣いが急に荒くなって耳の中に響いた。そっと絡んだ舌先が逃げるから追いかけて捕えて絡めとる。唾液が混じり合って、吐息と喘ぎに混じっていやらしい水音が響いた。
 智志の頭は小振りで首も肉が薄く細い。まだ出来上がっていない身体は筋張って骨が太い。服の上から掌を滑らせて探ると、びくりと智志の肩が揺れた。
 離したくないが息が詰まって続かない。一度口を離して息を継いで、再び舌を絡め合う。その間にワイシャツのボタンは外されてアンダーがたくし上げられた。肌の上を智志の細い指先が当てもなく滑る。
 息苦しさに胸が詰まって、指先の感触を受けて身体の端々や中心が痺れて疼いた。互いの頬に瞼に口づけは幾度も落ちた。
 この舌先や指先よりも手馴れて巧みな愛撫を嘗ていくつも長谷は受けたけれど、こんなにも身体の奥底を熱く甘く疼かせるものは今までなかった。欲しいと望んだものは、飢え渇くしか知らなかった胸を満たしていく。
 満たしてくれる事が嬉しくて、無性に何かを返してやりたくなった。
 愛すればそこにはただ感謝が生まれるのだと、そんな言葉はずっと長谷にはぴんと来なかったが、本当なのだと思った。許してくれた事が、受け入れてくれた事が、いてくれる事が嬉しくて、骨が浮いてすっと通る綺麗な項に口づけた。どこかぼんやりとした、鼻にかかった声を互いが途切れ途切れに漏らす。
 夢でも見ているようだった。夢ならば覚めないで、夢の方が本当になってしまえばいい。
「初めて聞いた」
「何を?」
「君が、感じてる声、今まで出さないから、別に気持ちよくもないのかって思ってた」
「何か、出したら負けみたいな気がして、我慢してたんだよ」
 出したら負け、というのは良く分からなかったが、あれだけ涼しい顔をしていたのが我慢の結果だったという事に、長谷は口には出さず驚いてやや呆れた。長谷も偉そうに人の事は言えないが、意地を張る箇所が少しずれている。
「別に声くらい出しても良かったと思うけどな……まあいいや」
「だって、よくなってるって思われるの嫌だったから」
「俺で、よくなってくれてたの」
「あんたの身体が、あんまり気持ちいいから、そんなつもりなかったのに、気付いたらあんたの事ばっかり、考えてるんだ」
 服の上からでも分かるほど形を変えたものを撫でてやると、智志は苦しげに呻いた。お返しとばかりに触られるので長谷の喉からも甘く呻きが漏れる。白く細い指先が、長谷のそれに触れた事はまだない。今すぐに、欲望はねとついて強かったけれども、それよりも目の前のしなる身体にもっと、与えてやりたかった。
「口で、するから、少し腰上げて」
 告げると智志の腰が素直にソファから少し浮いた。ズボンと下着を下ろしてやり、肉の薄い細い腰の真ん中で力強くそそり立ったものをゆっくりと口に含む。
「はっ……あ、いい、あっ、ん、んんっ……あ、そこ、もっと」
 深く荒い湿った息の奥から、抑えきれない甘い喘ぎを智志が漏らしている。智志の掌は乱暴に長谷を鷲掴む事はなく、うなされるように彷徨って長谷の肩を撫でた。
 口の中のものは敏感に跳ね回ってどんどん大きくなる。ややあって、智志は長谷の肩に手をかけると、少し強く力をかけて引き剥がそうとした。
「口、も……いい」
「何で」
「だって、口じゃなく、中で、いきたい」
 荒い息で舌足らずに、甘えるような口調で智志は言った。
 かわいい事を言うなあとまた長谷は思ったが、口には出さずにおく。力の及ぶ事なら、何でも叶えてやりたくなった。智志は黒い綺麗な瞳を細めて滲ませて、緩く開いた口は熱に浮かされて浅い呼吸を繰り返している。こんなに素直に感じてもらえるのが長谷はただ嬉しかった。
「ね、も、挿れたい」
「いいけど、前みたく、いきなりは、だめだ」
「じゃ、どうするの」
 問われて長谷は少し考えこんで、少し待つよう告げると立ち上がり、すぐに戻ってきた。手には青い大きめのポリ容器を持っていた。
「先に、指で、慣らして、少しずつ」
「これは、どうすんの」
 長谷が横に置いたシェービングジェルの青い容器を見て智志は首を傾げた。
「代用品だけど無いよりましだ。これ塗って、そしたら多分ちょっと入りやすくなるから」
「やっぱこういうのないと、痛い……よね」
 言われて指先にジェルを乗せながら呟いて、しょんぼりと智志は項垂れてしまう。
「もう気にしてないって」
「だって、でもさ……」
「だから今日は、優しくして、ここ、気持ち良くして」
 躊躇う智志の手を引いて導き入れる、入り口に指が当たって、塗り広げられるジェルの冷たくぬるりとした感触に長谷の喉から緩く低く声が漏れた。
 人差し指の指先はさしたる抵抗もなくつるりと飲み込まれてしまう。指先が入り口を押し広げ掻き回す動きに合わせて小刻みに声が絞り出される。初めは遠慮がちにおずおずと撫でるだけだった指先は、いい反応が返ってくるのに気を良くして動きを大きくして、様子を窺いつつ二本三本と本数も増えて、ぬちゃぬちゃと粘った音を立てながら複数の指先のそれぞれがうねって中で蠢いた。勝手に腰が揺れて、更に深く指先を飲み込もうと動いてしまう。
「指だけで、そんなに、いいの」
「さとしの、ゆび……なかで、いっぱ、うごく、から……っ」
「そんなに締めたら、動かせない」
「……ん、ふ、は……っ、は」
 息子でもおかしくはない年齢の相手に恥ずかしい場所をほじられ掻き回されて、どうしようもなく感じてしまっている。上ずって情けなく甘えた喘ぎ声が止め処なく漏れ続ける。もっと熱いものを待ち侘びる浅ましさまで自覚され、捨てきれない羞恥は身体を更に熱くする。
 欲しくてたまらなかった。
「ここいじられて、いっぱい感じてるの、すごくやらしい」
「そんな、ふうに、言うな……」
「だってここ、いっぱい締め付けて、すごくやらしくて気持ちいいのに、感じると熱くて溶けちゃいそうになって、欲しがってもっとやらしくなるんだ」
 上気した息の中から浮ついた声で智志に言われて、内腿から脚の付け根にかけてが甘く痺れて、疼きが伝わった入り口が抑えられずにひくついた。
「だって、ああ、あっ……いい、さとしに、されるの……すごくい……」
「もっと、感じて、気持ちよくなって」
 低く優しい声が夢見るように滲んで融けた。追い詰める指先には憎しみや悪意はない。
 指先を抜き取る仕草も、割り入ってくる智志自身も、もう長谷を傷付け屈服させようとする乱暴さはない。
 待ち望んだ熱さを受け入れる、抉られるのは傷付ける為ではなくて高める為だったから、だらしなくも呆気なく長谷は高みに登りつめてしまう。揺すられる動きに合わせて小刻みに、善がって喉から勝手に悲鳴に似て陶酔しきった声が漏れる。後ろに受け入れても萎みもせず悦ぶものに智志の指が掌が触れて擦り上げられた。まだ与える事に慣れていない指先の辿々しくやや粗い動きを感じるだけで、背中を駆け上がるものが頭の中を埋め尽くして塗り潰していく。
 好きだと、智志は何度も口にした。それがたとえ嘘でもいいと長谷は思った。全て智志で埋め尽くされてしまったから、長谷は智志の名前を繰り返し何度も呼んだけれども、上手く息が継げなくて舌足らずの発音になってしまう。あんた、と呼ばれるのは嫌いではなかったが、名前を呼んでほしかった。はせさ、とやはり舌足らずの発音で何度か呼ばれた気がした。
「普通にするのって、すごくきもちいい。今までで、いちばん、よかった」
 すっかり吐き出してしまったものをまだ抜かないで緩く抱き合ったままで、何だか眠そうに智志は口にした。
 気怠げに長谷の汗ばんだ胸元や首筋に口づけて、ずっとこうしてたい、だなんてぼんやりと言う。智志がこんなに甘えたがりなのを、長谷は知らなかった。濡れて潤んだ黒い眼をぼんやりと夢でも見るように細めて、照れくさそうに嬉しそうに、智志は微笑んだ。誰にも似ていない、それにとても綺麗だ。長谷の胸に感想が浮かんだ。
 二人は多分お互いの事をまだ何も知らなくて、それなのに身体を先に知ってしまったから、本当は順番がおかしいのだろう。
 順番なんかどっちでもいい、と長谷は思った。こころとからだのどちらを先に知ったとしても、きっと恋をしていた。こころはからだを通してしか見えなくて、からだはこころがなければ動かないのだから。だから、どっちでもいい。
 智志の事をもっと知りたかった。何も話して貰っていない、好きな食べ物、仲の良い友達の名前、得意な料理は何なのか、好きな音楽やテレビ番組、映画はスポーツはどんなものが好きなのか、それに将来の夢や目標、したい事。何だっていい、どんな小さな事でもつまらない事でも知りたかった。休日に二人で何をしようか、知らないと計画が立てられない。
 これからきっともっと好きになれる。それは、嬉しい事だった。誰かを好きになるとこんなに胸が弾むのだと、今まではそんな事すら長谷は知らなかった。
 ソファで裸で眠ったら風邪を引いてしまう。けれど胸に腕に感じるぬくもりを今は離したくなくて、どちらも暫くそのまま動かないで抱き合っていた。


 年の暮れに、長谷は智志を連れて五所川原へと帰った。長谷の勤め先の仕事納めは十二月二十八日。二十九日の下りはかなり早い時期から予約が一杯で、自由席しか取れなかった。青森まで開通して多少便が良くなったとはいえ、満員の新幹線で立ちっ放しはさすがに長谷も智志も二人揃ってすっかり疲れきった。
 智志は加賀谷の家に帰って、長谷は自分の実家に戻った。年が明けてから長谷は加賀谷の家を訪れて年始の挨拶をして、智志を初詣に誘った。
 元旦の街は、いつにも増して人気ひとけがなく、ひっそりと静まり返っている。今日は晴れているから、道路に降り積もった雪が陽気で緩んで柔らかくなっていて、足をとられる。時折、お年玉を貰ったのかはしゃいだ様子の子供達が連れ立って駆けていった。お年玉はいるかと冗談半分に智志に聞いたら、もう子供じゃないからいらないと、予想通りの返事が返ってきた。子供扱いされたくないのは子供の証だと思ったが、口に出すと怒られそうなので黙っている事にした。
 神社でお詣りをして、長谷はすぐには帰らないでそのまま歩き続けた。東京の絢爛と喧騒に慣れた目には、五所川原は狭くて古びた寂しい街だった。大通りを外れると細い路地が入り組んで、路地脇に建った黒ずんだ板張りの家の青いトタン屋根は色褪せて赤錆びている。元旦の事、コンビニ以外には開いている店もない。
「どこ行くんだよ」
「特に決めてないけど、散歩かな。そういうのもたまにはいいだろ」
「変なの」
 文句は言ったが、智志は不平もなさそうな様子で淡々と着いてくる。
 傍から見たら、長谷と智志はあまり似ていない父と子に見えるだろうか。正月だから、親戚の叔父さんと甥っ子、かもしれない。並んで歩くのがまだ少し長谷は気恥ずかしかった。不埒な事を考えてしまうのは父親らしくないが、父親に似たような見守りたい気持ちはやっぱり、どこかにある。
 高校の頃、腹を空かせた加賀谷が授業を抜けだしては定食を食べに来ていた食堂の看板はまだ出ていた。営業を続けているのかは分からない。
 この街に嘗て加賀谷がいていつも長谷と二人でいたことを、長谷は智志に伝えたかったのに、どんな風に伝えればいいのか言葉は一つも追いついてこなかった。そんな事柄を何とはなく話したくなって歩き出したのに、伝えたい気持ちは手に余りすぎて、どんな言葉も似合わなかった。
 吹き下ろしが刺すように冷たくても、あの頃はそんな事は気にもならなかった。長谷は加賀谷のやさしい笑顔が大好きで、そんな自分の気持ちが後ろめたかった。沢山のものを受け取っていたのに欲しがるばかりで、手に入れる事しか見えなくて、与える穏やかさなど目にも入らなかった。
 過ぎ去ったものは戻ってこない。同じように見えても変わり続けていて、全く同一ではない。
 長谷は、もう戻りたいとは思わなかった。胸を刺す痛みは残るけれども、激しくはない、穏やかだった。
 許してくれる人がいてくれるからだ、素直に思えた。
 智志がコートの襟を立てた。寒さに慣れていないのだろう、鼻が赤い。智志は色が白いから、余計に目立ってしまうのかもしれない。いつの間にか日は翳って、すっかり曇って風も出てきていた。
「降ってくるかもしれないなあ、そろそろ帰ろうか」
 足を止めて振り返ると、首に巻いたマフラーに鼻まで顔を埋めた智志が頷いた。その様子が可笑おかしくて笑みを漏らすと、前に向き直って歩調を緩めて再び長谷は歩き出した。

コメントを送る

コメントはサイト上には表示されず、管理者のみ確認できます。