一
前期試験の日程が全て終了し、大学は夏期休暇に入る。そんな時期に父親から|川越|和己に入ってきた電話の用件は、突拍子もないものだった。
『お前なあ、俺の友達の佐野んとこの拓也くん覚えてるか』
「佐野さんとこのたくや……たくや。ちっちゃい頃、親父の実家帰った時に一緒によく遊んだ?」
『そうそう。ちょっと夏休みの間、お前んとこに置いてやってほしいんだが』
「はっ?」
話を聞くと、佐野拓也は現在父親と一緒に福井県に在住している。美大を目指し一浪して予備校に通っているが、夏休みの期間に東京の予備校で開催される夏期講習に参加するのだという。
別の用事があり、旧友と久し振りに電話で話してその事を知った父は、宿はウィークリーマンションを借りる予定だと聞き、それなら東京の大学に行っている息子の部屋に逗留すれば、と(和己に都合を確認する前に)申し出た。
「……親父はいっつもそうだよな、こっちの都合とかちょっと考えろ」
『都合悪かったか? 何だ、女でもいるんじゃないだろうな』
「そんなんじゃないよ。いや、都合は別にいいし来てもいいんだけどさ、先に確認しろって言ってんの」
『ははは、すまんすまん、次から気をつける』
からりと笑い飛ばされて、万事適当な父に呆れ脱力しつつ、和己は佐野拓也についての記憶を掘り起こし始めていた。
小学生の頃は、夏の時期に父親の実家がある長野県の山奥の村に帰省するのが恒例だった。和己の父と佐野のおじさんは幼馴染、佐野家は川越の実家の近所に住んでいた。佐野拓也は和己の一つ下で年も近く、長野にいる間は一緒に外を駆け回って遊んだものだった。
拓也は小動物然とした子供だった。細く色素の薄い明るい色の髪はふわふわとして、ひょろりと痩せて大きな眼ばかりが目立っていた。どことなくリスやメガネザルといった手のひらサイズの小動物のような雰囲気があり、草食動物のように呑気で穏やかな性質だった。
はっきり言ってしまえば、拓也は少しとろい子だった。運動が得意でなく走るのは遅い。のんびりした性格で時間の観念がやや薄く、待ち合わせでは十五分や三十分程度はよく待たされた。口調ものんびりゆったりしていた。頭が悪いわけではないが、勉強でも理解するまでに人より時間がかかるところがある。
そんな所が同級生からは馬鹿にされていたようで、「佐野だ、とろいのが伝染るぞー!」なんて囃し立てられる現場を何度も見たが、和己は拓也が怒ったり泣いたりした所を見た事がなかった。
拓也には、笑っていた印象しかない。いつもの事だし気にせんさぁ、と呑気に笑っていた。
拓也は和己の事を「兄ちゃん」と呼んだ。拓也は絵を描くのが好きだったが、和己に懐いて後ろを付いてきたから、和己の好むような虫取りだとか川泳ぎなどでよく遊んだ。一人っ子だった和己は、夏の間だけ弟が出来たような気分になって、むず痒いような誇らしいような不思議な気持ちを抱いていた。
人より少しペースの遅い拓也は温和で優しい子だったから、和己は拓也の事が好きだったし、馬鹿にされれば代わりに怒ったものだった。
正直な話、和己も拓也のペースの遅さに苛々した事がないわけではない。だが、一緒にいる間は僕がこいつの面倒を見て守ってやらなければ、という妙な感情が子供ながらに湧き上がって和己を我慢強くさせた。鈍臭くても素直な拓也は、さながら可愛い弟だった。年中一緒にいるならば慣れや飽きも出るかもしれないが、夏の一時期限定なので和己の幼い感情も持続しきる事ができた。
和己が中学校に上がる頃に佐野家は長野から引っ越してしまい、それ以来拓也と会う事もなかった。
『久し振りだろ、拓也くんと会うの。父さんも随分会ってないが、どんな子になってんのかなあ。佐野の話だとあんま変わってないって言ってたが』
「さてね。ま、大した世話も出来ないけど、佐野のおじさんにはお世話になったし、いるだけだったら来てもらっていいよ」
『悪いな。来月の仕送りちょっと増やしてやるから、寝る場所と飯はよろしく頼むわ。あ、米も送るから米も』
答えながら、和己も拓也がどんな青年になったのかを想像しようとしたが、想像の手がかりが全くなく、思い浮かべる事ができなかった。
和己の一つ下で、記憶では拓也の誕生日は確か秋だから、今は十八歳、今年十九になる筈だった。あまり変わらないのならば、やはりのんびり笑っているのだろうか。
柄にもなく和己は少し浮かれていた。拓也と和己は子供の頃は本当に仲が良くて、夏の間は毎日ずっと一緒にいた。どうしているのかと、いつも考えていた訳ではないが、折りに触れ気にかかる事はあった。
夏の間は勉強しながらのんびり過ごすつもりで、予定らしい予定は入れていない。昔みたいに出ずっぱりで外を駆け回るという訳にはいかないが、多少は相手をしてやろう。そんな風に考えると、子供の頃のただただ楽しかった夏休みに戻ったようで胸が弾んだ。
詳しい日程はまた明日という事になり、父との通話は終了した。
そこは山の中の奥深くにある、人口千人程の小さな村だった。
切り立った高い山が村を囲んでいて、傾斜の途中の狭い土地に段々畑が拵えられて、キャベツなど葉物の野菜や蕎麦が栽培されている。擂鉢の底のようになった谷の底に村があり、流れの速い川が流れていた。川はそれほど深くなく、どこから運ばれてきたのか大きな岩が川の中にいくつも転がっていて頭を覗かせている。
蝉の声が幾重にも重なって響いている。カワセミの鳴き声も混ざっている。木漏れ日は白く眩しく翠色に滲んで、蝉の声に揺れていた。時折、冷たいそよ風が渡って頬を撫でる。
子供達は水を蹴立てて浅瀬を渡り、潜り泳いだ。やや上流にはヤマメやイワナのポイントがあり渓流釣りの観光客が多く訪れる。
駆ければ汗が滲むが、さらりとした汗は却って心地良かった。舗装されていない道は土が白く乾いて、サンダル履きの素足の裏を焼いた。家に帰れば井戸で西瓜が冷えている。それを食べる前に、和己は見かけた大きな蜻蛉を捕まえたかったから、ふいと思わぬ方向に飛んでいってしまう蜻蛉を追って、必死に駆けた。
恐らくギンヤンマというやつで、和己の掌ほども大きいように見えた。和己の住む松本市でも見つからない事はないだろうけれども、あんな大きな奴はいないように思えて、捕まえて標本にでもして、夏休みが終わったら自慢したかったのだ。
だがとうとう追いつけず諦め、気付くと後を走っていた筈の拓也が見当たらなかった。
あいつ走るの遅いからなぁ。誰に言うともなく独りごちて和己は木陰に入って拓也が追い付いてくるのを待ったけれども、待てども拓也は姿を見せなかった。雲ひとつない真っ青な夏の空の下でぼんやりしているのは、小学生の男の子には耐え難い程退屈だ。和己は徐ろに立ち上がって小走りに来た道を引き返し始めた。
拓也はいた。拓也はいつも背負っているリュックサックにスケッチブックと鉛筆を入れている。草の上に座り込んでスケッチブックを取り出して、道脇に咲いた小さな白い花を描いていた。
拓也は虫を捕まえるのがあまり好きではないようだった。
「だって、標本にしたり飼ったりしたら死んじゃうから悲しいじゃない、絵に描くんだったら死んだりしないし、楽しいだけだから、こっちのがいいや」
そんな風に言うけれども、和己にはよく分からなかった。殺したいわけではないし言われてみれば可哀想な気持ちも湧かないでもないが、実際に動いているものを捕まえるのが楽しいのだし誇らしいのだ。絵に描いたところでそれは絵だ。絵の上手さは比べられないが、捕まえた虫の大きさなら比べられるし勝ち負けが決まる、他の子より大きい蜻蛉やクワガタを捕まえられて勝てたら、それは楽しいではないかと思った。絵ではクワガタ相撲も出来はしない。
拓也は変わった奴だと和己は思うけれども、嫌いではなかった。
戻ってきた和己に気付いて拓也は一度顔を上げたけれども、またすぐに向き直って絵の続きを描き始めた。横に腰掛けて和己は、白く強く眩しい夏の光と緩い風に揺られる花の細い茎を見つめた。じっと座って花を見ているだけだなんて退屈だけれども、決して嫌いではなかった。
午後三時、約束の時間の五分前にチャイムが鳴った。和己が玄関に出て鍵を開けると、外からドアが引かれて開いた。
「こんにちは、あの……お久し振りです。佐野拓也です」
告げて、見覚えのない青年はぺこりと頭を下げた。大きなショルダーバッグを右肩に提げて、重みに釣られて身体がやや右に傾いている。
拓也は変わっていた。昔は和己より頭一つ小さかったのに、肩を縮こめた身体はかなり大きく育っていた。身長は恐らく百八十センチを超えているのではないか、和己よりやや高い。やや長めの明るい色の髪はやはりふわりとしている。痩せ気味だがガリガリという程でもない。頬骨がやや出ているが、額から鼻にかけてのラインはなだらかで顎は小振りで、青年らしい精悍な印象は薄く、柔らかい。顔を上げると長い前髪が揺れて、大きな黒い眼が覗いた。
「久し振りだなあ、とにかく中入って、暑かったろ」
兎にも角にも笑みを作って和己が言うと、拓也はまた頭を下げて玄関へと入ってきた。
拓也は緊張しているのか無言で、靴を脱ぐ動きもやや硬い。こっち、と声をかけて先に戻り、冷やしていたペットボトルの緑茶を冷蔵庫から取り出してコップに注いだ。短い廊下から部屋に入った拓也はどうしていいものかきょろきょろとしているので、荷物を下ろして座るように言うと拓也は素直に言葉に従って、荷物を脇に置いて、縮こまってテーブルの前に正座した。
まるで、お見合い中に急に見合い相手と二人きりにされてどうしていいのか分からない男のようだった。コップを持つ手も軽く震えている。
「……あの、そんな緊張しなくていいよ。もっと楽にして」
「えっ……あっ、あ、すいません!」
「いや謝らなくていいからさ。久し振りだけど、確かに全然変わってないんだなぁ」
おかしくなって和己は笑った。笑われてやっと、拓也も照れ臭そうに笑いを漏らした。
「昔っから人見知りだったもんな。うちのお袋なんて、初めて会った時はよっぽど嫌われたのかってちょっと落ち込んだって言ってたしなぁ」
「初めての人って何話していいのか分かんなくて……苦手で。川越さんももう何年も会ってないから、どうしようかって思っちゃって」
「……何か、変な感じだな、川越さんとか呼ばれるの。もっと気楽に呼んでよ。僕は、前みたく拓也って呼んでいいかな」
「いいです、勿論いいです! 好きに呼んでください!」
勢い込んで答えられて、和己はきょとんとして拓也を見た。不自然な必死さに自分で気付いて気恥ずかしくなったのか、拓也は口をぱくんと開けると慌てて俯いた。
「……あの、じゃあ、俺も前みたく呼んでいいですか」
「前って」
「兄ちゃん、で。それが一番慣れてるから」
おずおずと顔を上げて和己の反応を伺う様は、体の大きさにも関わらず、やはり目はしこく辺りを窺う小動物を思わせた。とんでもない提案を口にされたが、「川越さん」という他人行儀な呼び方よりは好感が持てる。あくまで比較での話だが。
「いいよ、それがいいんならそれで。丁度夏休みだし、昔に戻った気分になれるかも」
「良かったぁ。あの、これから一ヶ月くらいだけどお世話になります、宜しくお願いします」
緊張が緩んだのか、拓也は顔を上げると口許を緩めてぱっと顔を綻ばせた。何がそんなに嬉しいのかは和己には分からないが、こんなに喜ばれるとやや面映ゆくなる。
「大した事は出来ないけど、こっちこそ宜しく。講習っていつからなの?」
「明後日からです。そんなに忙しくはない筈なんで、ご飯とか掃除とか家の事は出来るだけやります。その方が気を使わなくっていいし」
「……料理、出来んの?」
和己には小学生の頃の人より少しペースが遅い拓也の記憶しかない、意外さを覚えて尋ねると、拓也はにこりと笑った。
「じゃあ、今日の晩ご飯早速作ります。近くのお店の場所とかも覚えたいから、後で買い物連れてってもらっていいですか?」
「うん……いいよ。でもさ、来たばっかりなのに何か悪いな。お客さんなのにさ」
「全然疲れてないし平気です。あっ、後で当番とかも決めちゃいましょうか」
「しかも何か嬉しそう……」
「だって、楽しくないですこういうの。兄ちゃんもだけど俺も一人っ子だから、兄弟出来たみたいで、何か俺、楽しくなってきちゃった」
相変わらず変な奴だ、というのが和己の胸に浮かんだ感想だった。
その後荷物を片付けてから、買い物に出がてら辺りの店などを案内した。拓也は終始上機嫌で物珍しげに商店街を歩き回って、ポケットからメモ帳を取り出して店の場所などを書き込んでいた。メモ帳は書き込みが多くよく使い込まれている様子で、その厚みを横から眺めて、人は成長するものなのだとしみじみと和己は感じた。
『男子三日会わざれば刮目して見よ』というが本当だ。そういえばこの格言の元になった三国志の呂蒙も確か、若い頃は貧しい家の出で学がないと侮られていたけれども、必死に学問に励んで立身したのだ。勇猛な武将だった呂蒙と拓也では比較対象として成立しなさそうだったが、幼い頃のイメージだけであまり馬鹿にしてもいけないのだなと、心秘かに和己は反省した。
拓也が作った夕食は、豆腐サラダとハンバーグに野菜炒め、わかめの味噌汁。作っている様子は手際がいいという程のものではなかったが、恐らく和己が自分で作るのと同じ位の時間か、道具の場所や勝手が分からない分やや時間がかかった程度で出来上がった。驚いて叫ぶ程ではないが、普通に美味しい。おいしい、と感想を告げると、拓也はまたぱっと顔を輝かせて、実に嬉しそうに笑った。
拓也が笑った顔は、昔からあまり変わってはいなかった。大きな眼が細められて滲んで、頬を一杯に上げて、一生懸命に笑う。やはり、人の警戒心を解かせてしまう小動物の愛らしさを思わせた。そういえばこいつの笑った顔が好きだった、と今更のように思い出して、今まで思い出しもしなかったのが何故だか妙におかしく感じられて和己も笑った。
後片付けが済んだ後は昼間の拓也の言葉通りに役割分担決めが行われて、食事、掃除、洗濯、ゴミ出しなどの一週間の分担を書き込んだ表が作られた。
「この表、何だか小学生のお手伝いみたいな……そういや夏休みになると家にいるからってこんな表を作ってお手伝いさせられたような……」
「駄目ですよ、こういうのはきっちり決めておかないと、後々トラブルの元なんですから。やらせてくれた方が俺も気を使わなくっていいし、兄ちゃんとつまんない事で喧嘩したくないし」
窘めるような口調で拓也に言われて、はいはい、と軽い調子で和己は返事を返した。
正直な話をすれば、和己には面倒くさい、かったるいという気持ちもあった。だが、嬉しそうな拓也の様子を見ていると、まあいいかという気持ちの方が勝ってしまい、小学校の学級会のような役割分担決めに最後まで付き合ってしまったのだった。
分担表は冷蔵庫にマグネットで貼り付けられた。一応来客用の布団の用意はあったから押入れから出し、寝室の床に敷いて使ってもらう事にする。
寝る前にシャワーに入った和己が浴室から出てリビングに戻ると、抑えた話し声が寝室から漏れ聞こえてきた。
「……忘れて、ないよ。違うよ……そうじゃないです。……すいません、また連絡します」
声は低く重く暗かった。和己が寝室に入ると、布団の上に座った拓也は携帯電話を畳んで充電ケーブルを差し込んでいた。
「……どうか、した?」
和己が尋ねるが、拓也は俯いてかぶりを振った。顔色は青ざめて血の気が引いている。
「大丈夫? 今の電話で何か言われた?」
「あ、今の、ちょっと古い知り合いで。何でもないです、大丈夫です。朝からずっと電車だったし、やっぱりちょっと疲れちゃったのかも。もう寝ます」
上ずった声で早口に拓也が答えた。様子がおかしいがそれ以上踏み込むのも憚られて、和己は軽く首を傾げつつ、口に出しかけた次の質問を飲み込んだ。
「そう……? ならいいんだけど。ゆっくり休んで、おやすみ」
「ありがとうございます、おやすみなさい」
軽く笑って挨拶を返し、拓也は布団に潜り込んだ。電灯の紐を二回引いて常夜灯にすると、和己は寝室を出て襖をゆっくり引き、閉めた。
拓也は平日は夏季講習に参加する。朝八時過ぎには家を出て、早ければ夕方十六時頃、大体は十九時頃迄に帰宅する。
帰宅してから拓也は担当表で割り当てられた家事を済ませる。和己は週三日ほど夕方から夜にバイトを入れていたが、バイトのない日は二人で一緒に夕食を食べた。
「そのモデルさんがおかしな人でさあ。ポーズとってくださいって言われて、こう両手を上げて、羆のポーズ! とか言い出すんだ。すんごい怖い顔して、熊注意! とか言ってさあ。裸婦デッサンのモデルさんだよ? 素っ裸なんだよ? すっごい美人なのに。おっかしくて、もう皆デッサンどころじゃなくなって、先生に怒られてさあ」
「熊注意、か。今度使えるかもな」
「何に使うの、あはは」
ほうれん草のおひたしを口に運びながら真面目くさった顔で和己が答えると、拓也はまたおかしそうに笑い声をあげた。
「例えば……そうだな、優先席に座った不届きな若者に、熊注意! と注意を促してだな、お年寄りや妊婦さんの席を確保するとか。駅のホームで喫煙する不届きな輩にも使えそうだ。意外と応用範囲広い技だと思うぞ?」
「それただの変な人だよ、あっはははは」
「何を言う、そういう意外性こそが今この時代に求められているものなんだ」
尚も真面目な顔を崩さずに和己が言うと、とうとう拓也は茶碗と箸を置いて笑い出した。
明るく屈託なく、拓也は講習であった出来事をよく話した。
何せ七八年も会っていなかったのだから、多少馴染むのに時間がかかるのではないかと思っていたけれども、意外なほど早く拓也は昔のように和己に懐いて、初日はあからさまな敬語だったのが数日で口調もくだけてきた。それがやけに嬉しく感じられて和己も饒舌になり、あまり言わない冗談などもよく口にした。
拓也は人見知りだから和己はそれなりに心配していたのだが、話の中には中田くんだとか渡辺くんだとか、講習で知り合った友人の名前もよく出てきたから、それなりにうまくやっているのだなと思える安心の材料にもなった。
東京の地下鉄とJRと私鉄の接続がよく分からず、私鉄乗り換えの新宿駅がまるで迷路で軽く迷子になった、という話もしていた。新宿駅や池袋駅は構造が複雑すぎて普通の人でもかなり迷う、確かに拓也も迷子になってしまうかもしれない。
「あそこはダンジョンだからな。周りの酒場でパーティ組んで乗り込んでくんだよ。地下七階には悪の魔術師が住んでて財宝を隠してるんだ」
と和己が言うと、拓也は、確かにそんな感じかも、と頷いて笑っていた。元ネタが『ウィザードリィ』だという事は多分分かっていない。
夕食と後片付けが済むと拓也は口数を減らす。和己がテレビを見たり、テレビの横に置いたパソコンで夏休みの課題を片付けたりしている傍らで、講習で出されたらしき課題に無言で向かったり、スケッチブックを開いて眺めながらぼんやりと物思いに耽ったりしていた。
ある時興味を惹かれて、和己は開かれたままのスケッチブックを後ろから覗き込んでみた。開かれたページには石膏像の木炭デッサンが描かれていた。何も考えないで遠目に見れば、写真のようにも見える。
「さすが上手いなぁ。そういや拓也は昔から絵は上手かったもんな」
感想を浮かんだまま素直に口にすると、拓也は振り返って後ろの和己を見上げて、困ったように薄く笑いを浮かべた。
「まだまだだよ。俺より上手い人なんて掃いて捨てる位いるから」
「そうなんだ。よく分かんないけど、十分上手いと思うけどなぁ」
「本当に上手いデッサンって、もっと違うんだ。色とか形とか重さとか、一目見ただけで全部伝わってきちゃうみたいな、もっと凄いやつなんだ」
「へえ、何か分かんないけど……奥が深いんだなぁ」
「あはは、簡単そうに見えても、何だってきっと奥は深いよ」
おかしそうに笑い声を零して、それから拓也はふっと目を細めると、口許を緩めて寂しそうに笑った。
「兄ちゃん法学部だっけ? 凄いよね、やっぱ頭いいんだなーって思った」
「三流大学だし、そんな大したもんじゃないよ。今から司法試験の事考えただけで気が重くなる」
「確かすごく難しいんだよね。でも大丈夫だって、兄ちゃんならさあ」
にへらと無邪気に笑った拓也を見て、和己も釣られて笑った。根拠のない「大丈夫」という言葉は無責任な気がして好きではなかったけれども、今言われたものは、何だか本当に元気をくれるような気がした。
「それよりさ、他に何か描いた絵ないの? 見たいな」
何気なく和己が口にすると、拓也は脇に置いたもう一冊のスケッチブックを広げて和己に差し出した。拓也の隣に胡坐をかいて、和己は受け取ったスケッチブックを眺めた。ふわりとした淡い色合いで、可愛らしい兎が人参を追いかけている絵が描いてあった。
「可愛いなあこれ、何か絵本みたいだ」
「絵本だよ。本当は話もちゃんと付けて、そういう絵本をやりたいなって思ってて」
「いいと思うよ。これ可愛いし、お母さん受けもいいんじゃない?」
「あはは、売る話なんだ」
「そりゃ絵本なら売れなきゃ駄目じゃないか。でもさ、もし売れなくても、優しくって好きだよこの絵」
絵を眺めながらぼそりと和己が呟くと、拓也は不思議そうな顔をして和己の顔を覗き込んだ。
いいなあ、と口に出さずに和己は思った。画面はパステルで彩色してあり、桃色と若草色の優しい色合いだった。色鉛筆の線も柔らかくて、見ていると穏やかで優しい気持ちがふわりと胸に浮かんだ。
「……ありがと」
「えっ、何で?」
「好きなんて言ってくれたの、兄ちゃんが初めてだからさ」
「はは、じゃあ僕が拓也のファン一号だな」
軽く返すと、少し照れているのか眩しそうに目を細めて目線を逸らして、嬉しそうに拓也は微笑んだ。
「本当は、美大とか受けるつもりじゃなかったんだ。今の専門学校って絵本作家養成コースみたいなのもあるからさ、そっち行くつもりだったんだけど、父さんがどうせやるなら徹底的にやれって許してくれなくて」
「あー……佐野のおじさんならそう言いそうだな」
拓也の父の四角い顔を思い出しながら和己は頷いた。拓也の父は万事適当でいい加減な和己の父とは正反対で、上昇志向が強く、きっちりと筋を通す事を何よりも大切にしていた。二言目には「男なら」と言い出すような人で、拓也は負けん気が足らん、というのも口癖だった。
「絵本の絵でも、いや違うな、デフォルメしてる絵って却って難しくってさ。本当に凄い絵本ってやっぱり色とか重さとか匂いとか一目で伝わってきちゃうから。だから、美大目指すのもいい事なんだって思うんだ。でも、出来る気がしなくって」
「……何で?」
拓也のやや沈んだ様子が理解できず和己が問いかけると、拓也は目線を外して俯いて、うっすら笑みを浮かべた。
「俺ってさ、昔からトロいじゃない。何でも人の二倍とか三倍とか時間かかって、結局上手く出来なくてさ。絵だってそりゃ好きだけど、やっぱり新しい事覚えようと思ったら人の二倍も三倍も時間かかってさ。皆何となく出来ちゃう事でも、俺だけちゃんと出来なくってさ。俺って六日の菖蒲で、十日の菊なんだなって」
「六日の菖蒲って……何だそれ?」
「菖蒲は五月五日の花で、菊は九月九日の花だから、遅れて咲いたとろくさくって役に立たない花、って意味だよ。俺、ちゃんと間に合えたらいいのに、いっつも間に合わなくって」
拘りなく薄く微笑んで、拓也は呟いた。その顔には見覚えがあった。
小さい頃からそうだ、囃されて嘲笑われてもいつもの事だと笑って流していた、その顔だった。
どうしてそんな風に笑ってしまうだろう。和己には昔から分からなかったし、今も分からない。和己なら馬鹿にされたら我慢しない。例えへまをしたって、迷惑をかけた相手から責められるならともかく、他人から馬鹿にされる謂れはない。
どうしてそんなに簡単に、全部を自分のせいにしてしまうだろう。分からなかった。
「……いいだろ別に、ちゃんと咲くんならさ。一日二日遅れた位でガタガタ抜かすなって言ってやればいいんだよ」
「えっ……」
「だって拓也はさ、出来なくていいって思ってるわけじゃないし、一度出来るようになればちゃんと出来るじゃないか。こんな事言っちゃうと何だけど、僕は昔の拓也のイメージしかなかったから、何も出来ないだろうからうちに来たら色々やってやんなきゃなって思ってた。でも絵だってすげえ上手くなってるし、家の事だって僕よりきっちりやってる。意外で驚いたっていうかさ、すごく頑張ったんだろうなって思った。だからいいだろ、多少遅れたって、出来るんだからさ」
やや強い口調で一息に和己は告げた。それを拓也は、困ったように少し眉を寄せて、黙って聞いていた。
言い返したいなら言い返せばいいと和己は思った。和己が今言った事にだって、異論があるなら言い返せばいい。だけれども拓也は何も言い返さないで、ふっと眉を緩めると、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがと。そんな風に言ってくれんの、兄ちゃんだけだ。何か元気になってきた」
ばかだなあ、と思ったけれども、和己はその言葉を口には出せなかった。
弾んだ声で、頑張る、なんて嬉しそうに言う拓也に曖昧に笑い返すのが精一杯だった。
日曜日には、二人で浅草に行った。
今週の土日は暇だから東京見物したいなら案内する、という話をしたら、即座に元気よく「浅草に行ってみたい!」という答えが拓也から返ってきた。
東京といえば浅草なんておのぼりの外人さんか、とは思ったが、それは言わないでおく。見たことがなければ日本人でも意外と見てみたいと思う場所なのかもしれない。
「うわっ、兄ちゃん人多いよ、外人さんいっぱいいるよ、でっかいなあ!」
何せ拓也といえば子供のような大変なはしゃぎようだった。和己にとってはもう珍しくもない雷門の様子だけでこんなに興奮できる十八歳を和己は初めて見た。拓也は門を見上げて造りや装飾を物珍しげに観察して、時折携帯のカメラで撮影している。おのぼりさんレベルは他の観光客よりも高いかもしれない。
よく晴れていた。天気予報によると今日は真夏日になるという。朝の十時を回ったばかりなのに日差しは刺すように照りつけて、狭く真っ青な空には雲が見つけられない。
「浅草の仲見世はいつもこんなもんだ、さすがに日曜は特に人多いけど」
「えっ平日も? 皆仕事は?」
「……あのな、大体観光客なんだから、休みとって旅行に来てるとかもう仕事はしてないとかだよ」
「あ、そっか」
言われて初めて気付いたように、照れ臭そうに拓也が笑った。
「東京ならもっと他に、美術館だって一杯あるし、神保町なら美術関係の珍しい本も多いから欲しい本いくらでも見付かるだろうし、他にも……」
「だってそんなの兄ちゃん退屈でしょ、でも楽しそうな場所もよく分かんないから」
どうやら和己は気を使われていた、らしい。和己にしてみれば美術館と浅草の退屈度合いは大した差はないが、それも言わないでおく。
「ばかだなあ、どこでも拓也の行きたい場所でいいのにさ」
「浅草来てみたかったんだ、ありがと」
拓也は、大きな目を細めて顔中一杯に大きな笑みを浮かべた。あんまり腹の底から嬉しそうで楽しそうな笑顔なので、そこまで喜んでもらえた事が和己は純粋に嬉しくなった。
花やしきのジェットコースターが走り抜けていって、何であんな所にジェットコースターがあるの、と今更のように拓也が驚く。レールは見えていたが、本当にジェットコースターが通るとは思っていなかったらしい。
出店の一つ一つを拓也は物珍しげに眺めて、土産物の変なキーホルダーやTシャツまでじっくりと眺めている。「粋」だとか「夢」ならまだいいが、「変」「藻」「渚」など、何故その字を選んだのかチョイスのセンスが理解出来ないバックプリント漢字Tシャツをスキンヘッドの外国人と並んで真剣な表情で眺めている。終いには雷門の刺繍されたタペストリーを手に取るから、そんなもの飾るのかと聞くと、父さんのお土産を考えてた、と返された。佐野のおじさんもそんなタペストリーを貰っても扱いに困るだろう、と呆れると、そうかなあと首を捻ってまだタペストリーを眺めて吟味している。刺繍だから高いうえに実用性皆無、貰って困るお土産ナンバーワンの座は不動だろう。帰るときにお菓子でも買えばいいじゃないか、と口添えしても、拓也はまだ悩んでいる。
土産物屋には何故か全国の土産物が置いてあって、恐らく北海道の土産物だろう、螺子を巻いて走る首だけの羆の木彫りがあった。試しに走らせたら、鋭い牙の生えた赤い口を剥いてじじじと音を立てて走る羆の生首の様子は恐ろしいのにどこか滑稽で、二人して笑い転げた。
バラで売られている焼きたての人形焼を一つづつ買って頬張っている途中で、飴煎餅にもう目が移っている。子供用の忍者装束とおもちゃの刀を手にとって真剣に眺めている。
大分汗をかいたから、一休みに甘味処に入ってかき氷を頼んだ。かなり混雑していて和己は落ち着かなさを感じたけれども、拓也は店のざわめきを、遠くを見るようなぼんやりとした目で眺めていた。
「何かさ、皆楽しそうでいいよね。平和って感じがするっていうかさ。俺、こういう場所好きだなあ」
やはりぼんやりとした口調で拓也は呟いた。変な奴だな、とまた和己は思った。
何だか、子供の頃に戻ってしまったような気分になっていた。丁度夏休みで、拓也は昔から随分と成長していたけれども、それでもやっぱり穏やかで素直で、仲の良い弟のように思われた。かわいい奴だなあ、なんて恥ずかしい言葉も、胸に浮かべただけで口には出さない。
本当は拓也は弟などではないし、ここは長野の山奥でもない、二人はもう子供と言い張れる年でもない。そんな少し考えれば分かる当たり前の事柄を、今の和己は考えてみる事もしなかった。
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