その日はバイトは休み、和己は家で夏休みの課題のレポートを書いていた。
 明日か明後日にでも図書館に行って資料を集めないといけない。一段落した所で手を止めて時計を見ると、二十時を回っていた。
 集中してつい時間を忘れていたが、今日の夕食の当番は和己だった。早く作らなければと思いキッチンに立ちつつ、拓也がまだ帰ってこない事が気にかかった。
 携帯電話には着信もメールもない。電話をしようかと考えるが、友達と飲みに行ってるとかそんな所かもしれない、心配しすぎるのもおかしいと思い直し、何時に帰ってくるのか、夕食は家で食べるのかを尋ねるメールを送った。
 夕食が出来て二十一時も半を回っても、まだ拓也は帰って来なかった。メールの返事も返ってこない。
 仕方がないので一人で先に夕食を食べ、風呂なども済ませていたら時刻はいつの間にか二十三時を回っていたが、メールの返事は返ってきていない。
 さすがにおかしいと感じて電話をかけるが、何度かかけても四コールで留守番電話サービスに繋がるばかりだった。
 何かあったのだろうか、探しに出ようか。迷っていると、玄関のドアが開く音がした。
 慌てて玄関に出ると、拓也が靴も脱がないままで玄関先に突っ伏していた。
「拓也! ちょっと、どうしたんだよ!」
 和己は、声を上げて拓也の肩を抱えたが、拓也は俯いたまま首を横に振るばかりだった。
 拓也の息はやや荒い。改めて拓也の様子を眺めて和己はぎょっとした。拓也の手首には赤紫色の筋があった。縄か何かできつく縛られた痕のように見えた。
「ちょっと、大丈夫か、どうしたんだってば!」
 やや乱暴に揺り起こすと、ぶらんと拓也の首が動いて顔が上向いた。朦朧とした様子で、口の端と鼻の下に血を拭った痕、頬に殴られた痕。目を薄く開いて弱く息を吐き出す拓也の様子にどきりと、今まで覚えのない感覚が胸をついたが、今はそれよりもこの暴行を受けた傷跡について確認する事が先だった。
「何だ……どうしたんだって、誰に殴られたんだ?」
「何でも、ない、大丈夫……」
「大丈夫なツラかよこれが!」
「死にや、しない、から」
「そういう問題か馬鹿!」
 取り敢えず靴を脱がせて肩を抱え、ベッドまで運んで寝かせた。酒の臭いはしないが汗を大分かいた様子だった。拓也はぐったりとして逆らわず、力なくベッドに横たわった。
「病院行こう」
「大丈、夫……一晩寝れば、平気」
「そういう訳にいくか、腹とかも殴られたか? 今平気でも、内出血とかだと後で急に症状が出る事もあるんだぞ」
「……ひっ!」
 胴の様子を確認しようとシャツのボタンに手をかけると、拓也の身体がびくりと跳ねて、ひっくり返った高い声が漏れた。拓也は両手で頭を抱えて顔を隠し、身を竦ませた。
「ごめん……殴られてないか、見ようと、思って」
 たじろいでシャツから手を離し、和己が弱く告げると、拓也は両腕で覆ったまま頭を何度も横に振った。
「……もう、やめて……お願いだから」
「分かったよ……もうしないから。水とか飲むか?」
「いい……ごめんなさい」
 低く弱い声で呟いて、それきり拓也は黙りこくった。顔を覆ったままの腕は小刻みに震えている。何に、かは分からないがひどく怯えていた。
「動くのきついだろ、今日、そのままそこで寝ていいから。僕はそっちで寝るから、何かあったら呼んで」
 声をかけるが返事はない。ベッドの足元に避けてあった掛け布団を拓也にかけてやってから押入れを開けて毛布を出し、明かりを消して和己はリビングに戻った。
 ソファに腰掛けて、不審を拭いきれずに和己はやや俯いた。
 拓也は東京に知り合いらしきものは和己の他にない筈で、殴られるとすればまず考えられるのは行きずりの喧嘩だが、例えば喧嘩に巻き込まれたのだとしても、あそこまで怯えきるだろうか。大体にして喧嘩で手首に縄の痕は付かないだろう。今日の朝家を出るまでは変わった様子はなかった。講習で何か面倒に巻き込まれたのだろうか。
 気の弱い拓也ならば、他人を殴ったり脅したりするような事を屁とも思わないような連中にとってはさぞかしいいカモに映るだろう。本当ならばしっかりと話を聞いて、事と次第によっては警察に相談したいところだったが、何も話が聞けず状況が分からないのでは手の打ちようもない。
 明日の朝、話を聞こう。拓也は話したがらないかもしれないが、分からないまま講習に行かせてまた殴られでもしたら、大怪我だってしてしまうかもしれない。決めて和己も脚を曲げてソファに横になり、毛布に包まって眠りに就いた。
 朝起きると、既に拓也は家を出ていた。テーブルの上に、『昨日はごめんなさい、もう大丈夫です、今日も少し遅くなります』という書き置きがあった。
 遅くなる予定がある、誰と、何をして。
 昨日の拓也の分の夕食は手付かずだった。朝食を食べた形跡もない。
 拓也が夏季講習を受けている会場の場所は分かっている、一日の講義は大体十五時半で終了し、その後個人指導を受けたり、課題の進行度合いによって残ったりする事もあると前に拓也から聞いた。
 十五時半少し前から和己は講習会場の前で拓也が出てくるのを待った。悪いという気持ちは浮かんだが、それよりも心配だった。拓也が何に巻き込まれているのかが分からないままで放っておけなかった。
 あまり長い時間立っていると不審者に見えてしまう、という心配が湧いたが杞憂だった。
 十六時少し前には拓也は講習会場から出てきた。足早に駅の方角へと向かう。少し距離を置いて和己も後を追った。声をかけて話を聞いても、素直には教えてもらえない気がしたから、後をつけて何をしているのかを探りだすつもりだった。
 もし悪い事に巻き込まれているのであれば念の為、と考えてポケットにICレコーダーも用意してきた。普段は授業を記録して後からノートの足りない部分を纏めるのに使っているものだった。隠し録りは気が咎めるが、例えば警察に相談するにも、脅されたり殴られたりしている音声がある方が話が早い。裁判での証拠能力はなくても説得力は十二分にある。
 拓也は山手線に乗って渋谷で降りた。人ごみに揉まれて後ろ姿を見失いそうになりながら必死に追う。暫く坂を登って拓也は細い横道に入っていった。裏道は人通りが少なく、夜から営業の店が多いのか開いている店舗もまばらだった。
 拓也は、やがてある店舗の前で足を止めて入り口ドアを開け中に入っていった。「CLOSED」の札がかかっており中は電気も点いていない。裏に回ると裏口も開いている。そっと開けて中を伺うが人気はない。忍びこんで、後ろから誰か来るのを防ぐ為、内側から鍵を回してかけた。
 人一人が通るのがやっとの幅しかない狭い階段を足音を立てないよう慎重に降りると、厨房らしき場所に出た。高い位置にある窓から漏れてくる日差しに照らされているだけで、中は薄暗い。身を屈めて中の様子を伺うと、バーらしき店舗のフロア中央付近で、拓也が知らない男と向き合っていた。店内は狭く、二人と和己の間の距離は然程ない。シャツの胸ポケットからそっとICレコーダーを取り出し、録音ボタンを押してポケットに戻す。
「だから……嫌なんだもう、こういうの。もうやめて」
「馬鹿じゃね? お前自分に嫌とか何とかいう権利があると思ってんの」
 向かい合う男の顔は、薄暗いためはっきりと見定める事ができない。短い金髪を立てて、Tシャツに太く黒いジャージ、サンダル履き。拓也の友達、という雰囲気ではなかった。
「やめてやってもいいけどさ。昨日また新しい写真出来たからさあ、あれを親父さんに見せたら何て思うかね」
「……やめてよ」
「男のチンポ尻に咥えこんでヒィヒィ言って、写真撮られてイッちゃった息子の写真とか、恥ずかしすぎて泣いちゃうかも知んねえなあ、あはは」
「やめてってば!」
 ……あいつ、一体何を言ってる?
 和己は己の耳を疑った。耳に入る言葉がいちいち理解できない。下卑た笑い声が耳の中に貼り付いてべとつく。拓也は強い羞恥からか俯いて、歯を食いしばっていた。
「お前みたいなトロくさい奴、ケツの穴が気持ちいい位しか取柄ねぇんだからよ、ちっとは人様の役に立てる事を喜べば?」
「もう、やだってば……」
「自分もあんだけ何回もイッといて、どこが嫌がってんだか分かんねえっつうの」
「嫌だ、やめ……っ」
 男は拓也の両腕を掴んで、丁度拓也の後ろにあった柱に拓也の背中を乱暴に叩きつけた。拓也は軽く呻いて動きを止めた。
 止めなければ、確かにそう思ったけれども、和己の体は動かなかった。止めなければ助けなければという思いは頭の片隅に追いやられて、混乱がひたすらに渦巻いた。訳が分からない、一体何が起こっているというのだろう。目の前の事態がうまく理解できなかった。
「うぁ……ああっ…………は、あ」
 拓也はぐたりとして、首筋をねぶられるままに任せている。喉から緩く喘ぎ声が漏れていた。
 大きな目は潤んで霞み細められて、口許は緩く開いたまま閉じられない。荒く浅い息の間から掠れた喘ぎ声を途切れ途切れに漏らして、時折肩口がびくりと揺れる。拓也の様子は、恍惚としているようにも見えた。
 そんな顔は今まで一度も見た事がなかった。胸をはだけられ身体をまさぐられて反応し喘ぎ声を上げる拓也だなんて、想像もした事がなかった。和己は、拓也が気の弱さにつけ込まれて恐喝でもされているのではないかと思っていたのだ、こんな展開を予想している筈がない。
「グズ拓の分際で嫌とか言ってんじゃねえよ。ちょっと触られりゃこんなに硬くしてんだから、悦んでんだろ。気持よくしてもらってんのに感謝の気持ちが足りねえんじゃねえの」
「ああっ……いや、あっ、ああぁっ……」
 脚の間を割った男の太腿に擦り上げられて、拓也は身を捩って高い声を上げた。
 嫌だ、と繰り返し切れ切れに口にしながら、焦点の合わない視線を上に向けて小刻みに腿に腰を擦り付け揺らしている。
 どうして止めに出られないのか、目が離せないのか。自分の事が和己には分からなかった。生唾が止め処なく湧いて、音を立てないように飲み込む。拓也の白く長い腕は力なく男の肩を押して、はだけられた肉の薄い胸元は苦しい息に上下している。晒された胸の突起を噛まれて、痛みになのか別の感覚になのか悶えて身を捩り、苦しげに眉を寄せて鼻から高い声が抜けて、喉元は仰け反っていた。
 息が詰まった。やたらに早く脈打つ自分の鼓動が耳の中に響く。
 いつの間にか自分も勃起していた事に気付き、耳の辺りがかっと熱くなるのを和己は感じた。嫌だと弱くかぶりを振りながら抗いきれないで甘く喘ぐ拓也から目が離せないで、この劣情はどこから湧き上がるのかも分からないで、こんなのは嫌だと強く感じた。
「もっと腰、上げろって……入んねえだろ」
「いっ……あ、ああ……っ、おねが、やめ……あああっ」
 和己が身動きがとれないでいるうちに、忙しなく腰がぶつかり合う音が響き始めた。人のセックスを横から見ていると、この腰を強く打ち付ける音はどうにも間抜けなものだと今まで和己は思っていて、今も心のどこかの部分ではこの音を滑稽だと感じている筈だったが、それがどこにあるのかも今は分からなかった。
 分からなかった。苦しげに眉根を寄せ目を細めて声を上げる様子は、痛み苦しみに呻いているようにも、堪えきれない快感に身を任せているようにも、どちらにもとれた。
 突き入れる動きに合わせて、飲み込むように腰が動いているのを見れば、拓也は犯されているのに感じてしまっているのだと思わざるをえなかった。そんな事は思いたくなかった。
「今日は呼ばないの、あれ、兄ちゃん」
「あっ……、いや、ああっ……ぁ、いやっ、やだぁっ……」
「昨日イキながら何度も呼んでたじゃん。ほら、兄ちゃんの話した途端すげえ締まる……」
「うあ、あっ……やっ、ああっ、あっ、いや……にいちゃ……やっ……」
「そいつにこんなふうにヤられたいわけ、バッカじゃね」
「ちが……んっ、そんなの……、ちが……あ、あっ……にいちゃ、にいちゃあっ、ああっ」
 何を、言っているんだろう。
 目の前の光景何もかもが信じられなくなった。これが現実に起こっている光景なのだと、分かっているのに心が受け入れようとしなかった。
 それ以上見ていられなくなり、和己は身を屈めたまま、音を立てぬよう細心の注意を払って、尚も上がり続ける嬌声から逃げ出し、狭い階段を登ってその場を去った。

コメントを送る

コメントはサイト上には表示されず、管理者のみ確認できます。