四
次の日、また夕方の十五時半頃から和己は張り込みを始めた。
今日は講習会場ではなく、問題の店の前で待つ。十六時を過ぎた頃、道の向こうから拓也が姿を見せた。
「待てよ」
声をかけると拓也は立ち止まって、驚いて和己を凝視し、ふいと踵を返して逃げ出そうとした。
「待てって!」
「嫌だ、来ないでよ!」
手首を掴んだ和己の手を振り解こうと藻掻いて、拓也は叩きつけるように悲鳴を上げた。
和己は手を離さなかった。痛むだろうとは思ったけれども、手首を握る手に強く力を込めて緩めなかった。
「……拓也、お前、僕の親父覚えてるか」
「何の話、覚えてるよ、それが何!」
「知ってるだろ、いっつも適当なのに一旦怒り出すと手が付けらんないんだよ。お前が戻ってきてくれないと、ちゃんと面倒見なかったんだろうって僕が怒られる」
言うと、拓也は藻掻くのをやめて、きょとんと不思議そうな顔をして和己を見た。
「お前が戻ってきてくれないと、僕が困っちまう」
「……そんな事、言われたって、無理だよ」
「お前がいなくなるの、嫌だ」
告げると拓也は弱った様子で眉を寄せ目を細めた。気が弱く優しい拓也なら、正論を捲し立てて責め立てたようになるよりも泣き落としに限る。狙い通りの反応だった。とはいっても泣き落としの材料が思いつかずになかなか情けない内容とはなったが、効果は覿面だった。少なくとも拓也は頑なな拒否を解き、話を聞く態勢になった。
「遠藤だっけ? そいつとは僕が話つけるから、待ってて」
「そうじゃなくて……」
「分かってる、お前の気持ちはそれで構わない、いやそうじゃない、その方がいい」
「えっ?」
和己の答えに、拓也はぽかんとして返事を忘れ、狐につままれたようなきょとんとした顔で和己を見つめた。和己は軽く笑ってみせると、CLOSEDの札を黙殺して店の入り口ドアを開けた。
「……何スか、まだ店開いてないんだけど」
中にいた遠藤は、来訪者が知らない顔なのを見て、首を動かしただけで無愛想な声を出し応対した。
「あんた遠藤?」
「そうだけど何」
「拓也に連絡してくるの、もうやめてくれる。迷惑してるんだ」
強い口調で和己が言い切ると、遠藤は怪訝そうに顔を歪めて和己を睨め付けた。
「あんた誰。あれか、グズ拓の兄ちゃんってあんた?」
「その呼び方やめろ、不愉快だ」
「グズ拓はグズ拓だろ、他の呼び方なんかねえよ」
「あんた頭悪そうだもんな、人の名前もまともに記憶できないんだな。あいつには佐野拓也って名前があるんだ、クズにグズ呼ばわりされる謂れはないよ。五文字で一文字増えるだけでも難しいかもしれないけど今度こそ覚えろ」
和己が軽く鼻で笑いながら告げると、遠藤は明らかに気分を害した様子で、顎を引いて上目遣いに和己を鋭く睨んだ。
「メンチ切れば相手が言う事聞くとでも思ってんの。だから頭悪そうだってんだ」
「手前何なんだ、喧嘩売りに来たなら買ってやんぞ」
「喧嘩なんてするかよ。僕の用件はさっき言った。拓也にもう二度と連絡してくるな。ついさっきなのにもう忘れたの? 馬鹿そうだとは思ってたけどここまでとは。あっ、メモしとかなくて大丈夫? また忘れるんじゃない?」
「うるせぇよ、いい加減にしろよ! 手前に関係ねえだろ! あいつが好きで来てんだ、嫌なら来なきゃいいだろうがよ」
「……良く言うよ、写真がどうとか脅しといて」
和己の言葉に、怒りを顕わにして今にも掴みかかりそうに肩を戦慄かせていた遠藤は再度怪訝そうな顔を向けた。和己はやや目を細めて、表情のないままで胸ポケットからICレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。
『――やめてやってもいいけどさ。昨日また新しい写真出来たからさあ、あれを親父さんに見せたら何て思うかね』
すぐ停止ボタンを押し、音声が止む。昨日の己の発言を耳にして、遠藤の顔は分かりやすく強張り青ざめた。
「手前……隠し録りかよ。グズ拓がやらせたのか」
「あいつがそんな事すると思うか? もしそう思うなら救いようのない馬鹿だな」
「……そんな物が何だってんだ、あいつは自分で好きでここに来て合意の上でやってんだ、文句言われる筋合いはねえよ」
居直って舌打ちをした遠藤の顔を、和己は顔を歪めて忌々しげに眺めた。
和己はこういう手合いが嫌いだった。抗う力のない弱い他者を踏み付けにして泣かせる事で自分が強くなったような気分になって、それを楽しいと思える。自分を苛つかせるグズは殴られて当然という理解不能な理屈で自分を正当化できる。例えば家族や友人には気のいい男かもしれないが、逆らえない弱い者と見れば容赦なく傷付ける。いい所がない訳ではないのだろうが、悪い点が勝ちすぎている。
「あんた馬鹿なせいで自覚ないみたいだから教えてやるよ。傷害、暴行、脅迫。あんたのやってる事は立派な犯罪行為だよ」
「どういう意味だよ、まさかチクろうってのか……くそっ、それ、よこせ!」
遠藤は、テーブルの間を縫って駆け、和己の襟元を掴み上げた。後ろの柱に軽く背中を叩きつけられる。走った痛みに一瞬顔を歪めて、だが次の瞬間にはおかしそうに和己は笑いを浮かべた。
「ほんと頭悪いなあ、あんた」
「何だとこの……」
「これ壊せば終わりだと思ってる? バックアップ位取ってるに決まってるだろ。ああ、バックアップとか専門用語すぎて分からないとか? ごめんごめん」
呆れたように和己が大袈裟な溜息を吐いてみせると、至近距離で襟首を掴む遠藤の顔がかっと歪み、次の瞬間には和己の左の頬に、綺麗に拳が入っていた。
軽く吹き飛ばされテーブルの足に強かに背中をぶつけて、転がった和己の体が止まる。
「手前、あんま調子こいてると殺すぞ!」
「あーあ……馬鹿は墓穴掘るのも早いねえ。そんなに墓の穴に埋まりたいなら望み通りにしてやるけど」
上半身を起こし、切れた口の端から滲んだ血を手の甲で拭って、和己は楽しげな笑い声を漏らした。殴り飛ばしたのに余裕の笑みを浮かべられ、尚も遠藤はいきり立ち鼻息を荒げた。
「何言ってんだこの!」
「これ、僕に対する暴行傷害。これから渋谷署行って被害届出して、殴られた経緯と事情を、警察に洗いざらい話すよ。拓也が嫌がったって関係ない。何たって僕は巻き込まれた被害者だし、音声もあるから警察の人の理解も早いだろうね」
「……だから何だよ、あいつだって楽しんでたんだ、警察なんかに何が出来るってんだ」
「くっく……いい事言ったね、『あいつだって楽しんでた』って裁判で言ってみる? まあ裁判官はそんなレイプ犯の常套句は聞き飽きてるだろうけどね。警察での供述にしろ裁判での証言にしろ、発言ってずっと記録として残るけど、恥ずかしくないんだ。僕としては、それであんたの頭の悪さ加減を白日の元に曝してずっと記録に残してやるのも悪くないと思ってるんだけど」
楽しげに呟く和己を、遠藤は気味悪そうに眺めた。
遠藤には自分のしている事が犯罪という意識はない、滔々と捲し立てられる和己の主張に有効な反論が出てくる筈はなかった。大した事はない冗談や遊びのつもりで、拓也などそこら辺のおもちゃ程度にも思っていない。腸が煮えくり返るような思いがするし、土下座して詫びさせたい気持ちは和己にはあったが、気持ちのこもらない形式だけの謝罪に意味はないし、そんなものは拓也もいらないだろう。実利をとって、この男が再び理不尽な要求をしてこないようにする方が急務だった。
「僕は拓也みたいに優しくも大人しくもないから、あんたが僕の敵になるっていうなら、どんな手を使っても徹底的に叩きのめすよ。どれだけ泣いて謝ったって許してやらないね、あんたが法的に拓也に接触できなくなるまでやめない。裁判ってお金と時間ものすごくかかるよ、大変だね」
「……何がしたいんだよ」
「だから最初から言ってるだろ、二度と拓也に近付くな、連絡してくるな。写真もネガやデータ含めて全部処分しろ。約束すれば手打ちにしてやるって言ってるんだ。親切な提案だと思わないか」
頬から笑みを消して、和己はまっすぐに遠藤の目を見上げた。特に感情は込めない、熱くなって同じ土俵に立ってやる必要はない。
遠藤は暫く忌々しげに口を歪めて黙っていたが、ややあって大きな音を立てて舌打ちをした。
「……何マジになってんの、馬鹿みてえ。分かったよ、グズ拓なんざもう顔も見たくねえよ。これでいいんだろ」
「僕には、冗談や酔狂で平気で他人を踏み付けにできるあんたの方が信じられないけどね。まあいいや、これ読んで同意できるなら署名と、拇印でいいから捺印して」
言いながら和己はポケットから畳んだ紙を取り出して側のテーブルに広げ、ペンと携帯用の小さな朱肉も横に用意してやった。
「……は? 何これ」
「さっさとしろよ。口約束なんか信用すると思ってんのか。それとも漢字読めない? 『せいやくしょ』って書いてるんだよ、何なら全文読み上げてやろうか?」
「うるせえな、読めるに決まってんだろ」
再び舌打ちをして、遠藤は碌に文章を読まずに署名を始めた。契約書の小さな文字を読みもしないで後から詐欺だと騒ぎ立てる手合いだな、と和己は思ったが口には出さずにおく。
この紙切れに法的拘束力などないが、遠藤が、自分が拓也に近付かないと誓約したと自覚する、という意味合いにおいて重要だった。この茶番は言うなれば一種の儀式だった。
写真が処分された事を確認する方法がないのは気がかりだったが、写真を使って事実を他人に晒せば却って自分の立場を危うくするだけだ、というのは遠藤にも理解できた筈だった。
署名捺印をさせた誓約書をしまって店を出ると、拓也は言われた通りに側で待っていた。ドアを出た和己に気付き顔を上げ、気遣わしげに歩み寄ってくる。
「兄ちゃん」
「終わったよ、帰ろう」
「殴られたの、痛かったよね、大丈夫? 俺のせいだ……ごめん」
「どうって事ないよ、こんなの。気にすんな」
苦しげに眉を寄せた拓也に笑いかけて和己が歩き出すと、拓也もすぐ後を追った。駅までの道を歩き出して、気が抜けて和己は大きく息を吐いた。
「でもやっぱり兄ちゃん凄いや、かっこいい」
「馬鹿言うな、内心大分ビビってた。殴らせようとは思ってたけど、あいつほんとに殴ってきやがった」
「全然そんな風に見えなかったよ」
「交渉事はポーカーフェイスが基本だろ。でも、これでもうあいつがお前に何か言ってくる事はないだろうからさ、安心しろ」
「うん……ありがとう」
薄く笑んだ拓也の目線は、何かしらの迷いがあるように横に振れた。
「代わりに怒ってやるの、俺の役目だからさ。だから、何かあったら、絶対教えてくれよ。そしたら、どこにいたってすぐ行って、代わりに怒ってやるから」
「駄目だよそんなの、兄ちゃん迷惑でしょ、あんまり迷惑かけないように頑張るからさ、もう大丈夫だから」
「迷惑なんかじゃない。恥ずかしいから一度しか言わないから、ちゃんと聞けよ」
「……何?」
不思議そうな顔の拓也に顔を覗き込まれるが、それにすら照れて和己は目線を逸らし、黙りこくる。拓也は大人しく次の言葉を待っていた。
「一晩考えたんだけど……お前の事、僕も多分、好きだから。だからお前の事、気持ち悪いとか、嫌だとか思わないから……だから、戻ってきてほしい」
「……え」
「聞き返しても、もう二度と言わないからな」
本当に恥ずかしくなって身の置き所がない心地を覚えて、和己はふいと横を向いた。
一晩考え続けた。お陰であまり眠れなかった。
考え続けたけれども、はっきりとは分からなかった。拓也をまるで弟のように思う気持ち、つらい状況を何とかしてやりたい気持ち、犯されているのを見て欲情してしまった気持ち。それぞれがばらばらに思えて、繋がっているのかどうかも分からなかった。
だが気持ちはどれも、たった一つの事柄を指し示していた。拓也がいなくなるのは嫌で、側にいてほしかった。それだけしか、分からなかった。
和己はもう口を開かず、拓也もかける言葉が見つからない様子で、二人して無言で電車に乗り帰り道を辿った。
最寄り駅の改札から出た所で、何かに気付いた様子でふと和己は顔を上げた。
「あっ、そういや牛乳もうないんだったな。晩飯の材料も買ってこないとだ」
「……俺買ってくるから、兄ちゃん先帰ってて」
「だって、お前」
「今日の晩飯当番俺だよ。ちゃんと帰るから安心して。帰ったら、さっきの話の続き、聞かしてくれる?」
答えた拓也は、穏やかに笑みを浮かべていた。
耳にした言葉の意味を取れずに暫しぽかんとして、その後に漸く和己は二度強く頷いた。
「……じゃあさ、一緒に、買物行こう」
「あ、そっか、そうすればいいんだね。兄ちゃん今日何食べたい?」
「うーん、そうだなあ……魚」
「もう、魚って大雑把すぎるよ。何か安いお魚あるかなあ」
楽しそうに笑って、拓也の足取りが弾んだ。スキップするように軽く駆けて、少し先から振り返って、和己を見る。
拓也が自分を顧みて笑いかけてくれた事が、何故だかとても嬉しくて、和己も緩く笑みを返した。
蛇口のレバーが引かれて、流れていた水道の音がやむと部屋の中は急にしんとした。
後片付けを終えた拓也はテーブルの側に戻ってきて、和己から一人分程の距離を置いてソファに腰掛けた。
沈黙はやや重く気苦しい。テレビを点けるような気分ではなかったけれども、肝心の事も口には出せなかった。
「あのさ、兄ちゃん……気とか、全然使わなくっていいから」
拓也が口を開いて、和己は言葉を出せないまま、僅かに目を細めて怪訝そうに拓也を見た。言葉の意図がよく分からなかった。
「ごめんね、俺もう出てったりしないからさ。耐えられないとか我儘言わないよ。だから全然、気は使わなくっていいから」
「何だそれ、どういう意味だよ」
「だってさ、普通男に好きとか言われたって気持ち悪いでしょ。無理しないでほんとの事言っていいから。俺ちゃんと諦めるし、普通にするから」
「そうじゃない、ただ……」
「ただ?」
「自分が嫌んなってたんだ」
「……何で?」
不思議そうに眺める拓也の目を見れば、向けられた信頼のひたむきさ強さに申し訳なさがまた湧いて、和己は上げた目線を落として俯いた。
「……昨日のあれ見て、助けもしないでさ」
「だって、びっくりするでしょ、あんなの……」
「お前から目が離せなくって、欲情してた。最低だ」
続いた和己の言葉をすぐには呑み込めなかったようで、拓也はぽかんと口を開けて和己を見ていた。
「だって、やだろあんなの。そんな事したいなんて、僕もあいつと大して変わりないのかなって思って……」
「ばかだなぁ、兄ちゃん」
堪えきれないようにくすりと忍び笑いを漏らした拓也を、今度は和己が不思議そうに見返した。
「俺、兄ちゃんになら何されてもいいよ。俺なんか好きじゃなくって、したいだけでもいいよ」
「ばか、そんなひどい事、しない」
「ひどくしてもいいから……だから」
言葉はぶつりと途切れてしまった。掴まれるまま預けた和己の右手は握り締められて、壊れやすい大切なものを扱うようにそっと、拓也の左の頬に掌が乗せられた。
拓也の掌は暖かくて、水仕事をしたばかりのせいかしっとりとした感触がした。緩い眼差しが絡んできて、それだけで和己の胸は一杯になってしまって、口に出したくても出し切れない思いが溢れ零れて喉の奥に詰まった。
「俺、兄ちゃんに、抱いてほしいから」
何かを恐れるように目を伏せて、甘く息を吐いて、拓也は呟いた。
どうして弟みたいだなんて思えるだろう。これが。
緩く掴まれたままの右手を動かして頬を撫でると、拓也は顔を上げた。
「拓也の事、好きだよ」
「もう、言ってくれないんじゃなかったの」
「二人でいる時は、何度だって言うよ、もう嫌になる位言ってやる、好きだ」
「うれしい」
綺麗なものを見るみたいに、うっとりと目を細めて低い声で拓也は呟いた。
たまらなく愛おしくなった。こんなに溶けてしまいそうな甘やかな眼差しを、拓也が自分に注ぐのだと、和己は知らなかった。どれほど一人で希っていたのだろう。痛みも願いも、平気そうな笑いに紛らして語りたがらないものを、気付いてやりたかった。
「キスしていい」
「なにしても、いいよ、キスしてほしい」
ひそやかな囁きが低く優しく耳に響いた。気持ちばかりが逸り焦る。何も壊したくはなくて、ゆっくりとそっと唇を重ねた。
やや肉厚の拓也の唇は乾いていて、喉の奥から低く掠れて甘い声が漏れた。
喉の奥がぎりりと疼いた。一度離れて、二度、三度。熱い息が漏れて鼻先にかかる。触れた唇と指先の感覚に意識は全て向けられて、他のことは見えなくなった。
「んっ……ああ、にいちゃ…………あっ」
「好きだ、拓也が好きだ」
薄く開いた目線が交わった。雛が餌を欲しがるみたいに、拓也は和己の唇のあちこちを軽く食んで、荒い息の間から赤い舌先が覗いた。左腕を拓也の背中に回して力を込めると、拓也の肩がびくりと跳ねた。強く引き寄せて一度舌先が絡んだら、後はお互いに飽きる様子もなく舐めつくして味わう。シャツのボタンに手をかけても拓也は拒む様子を見せなかった。
「どうすればいいのか、よく、分かんない」
「んっ……なに……」
「その、男って、初めて、だし」
戸惑って告げると、とろんとした目を上げて、拓也はおかしそうに微笑んだ。
「やり方なんて、おれも……知らないけどさ、いっぱい、さわってほしい……」
「どこ、触ってほしい?」
頬に当てた手を上に滑らせそっと前髪を撫ぜ掻き上げると、ぴくりと拓也の肩が揺れた。
落ち着きかけた息遣いがまた早く吐き出され始める。
「……どこでも……んっ、いい……あ」
「すごい、感じやすいのな」
「ん……あ、あっ……」
頬から鼻筋をくすぐって瞼に、額に軽く口付けを繰り返すと、拓也の喉からは面白いように甘い声が漏れた。髪を撫でて耳をなぞると、顎が仰け反り、堪えきれないように首が緩く揺れた。
「だって……」
「だって何?」
「もっと……んっ、いっぱい……して、ほし……」
ぐたりと、力の入らない様子で拓也はソファに突いた左腕に身体を傾けていた。伸し掛り体重をかけて脚を割る、腿に腰に、布越しにも感じられる互いの昂ぶりは熱く硬かった。
「……にいちゃ……の、すご……あぁ……っ、かた……」
「拓也が、かわいい、から……」
「あ、いい……あ、ああっ……あ、あっ」
我慢がきかなくなって組み敷いた腿に昂ぶりを擦り付けると、鼻にかかった声が何度も上がって背がしなった。肩と脇の下に回った拓也の腕に強く力がかかる。
「ベッド、行こ……」
「ん……」
のろのろと動く間に後ろからシャツを脱がせてしまう。浮き出た背骨をなぞって吸いつく。力の入らない拓也の膝は折れて、ベッドに崩折れて肘をついた。
後ろから背中に覆いかぶさって、ズボンを脱がせる手は逸って焦る。すらりと伸びた拓也の細めの腕は、軽く藻掻いてシーツを掻いた。
「にいちゃ……ああっ、や……んあ、あつ、いっ……」
「拓也の、だってもう、こんな……」
「うあ、あっ、ああっ……そこ、あっ……だめ……っ」
きつく勃ち上がったものに掌を添えて軽く擦ると、それだけで拓也はそれまでより熱っぽい声を高く上げて、緩く腰をうねらせた。
感じ易く、耐えかねて腰を動かす拓也の姿はいかにも淫らで、これまでこの身体が受けてきた扱いについて下世話な想像がいくつも浮かんだけれども、口に出す事はすべきでないししたくなかった。胸の底に燠火のようにくすぶるその感情は水をかけても消えはしないけれども、拓也に対し湧き上がる感情が胸を満たす熱さに掻き消されてしまった。
この感情が何なのか、未だに和己には区別が付かない。今もやはり弟のようだとはどこかでは思っていて、笑っていてほしい、触れて欲しいというならいくらでも与えてやりたくて、そのくせ今すぐ勢いに任せて犯してしまいたい衝動もある。
全部を混ぜて、それを好きと呼べるのだろうか。分からなかったけれども、他に名前が付けられなかった。
助け起こされ身体をベッドに横たえて、切なげに息を揺らし涙ぐんだ目を細める。まっすぐに自分を見つめる様子がまるでつらいのを堪えているようで、和己の胸が訳もなく詰まった。
「好きだよ、すきだ、拓也がすきだ」
馬鹿の一つ覚えみたいに何度もその言葉を口にして、肩に肘に、胸元に腹に、膝に脛に、吸いつき甘く食んだ。もうだめいきたい、と拓也の哀願の声が何度も弱く掠れて響いたから、一番触れられたがっている場所に軽く手を添えて、先を舐めてやる。
「ふぁ……あっ、ああだめっ、でちゃっ……ああっ」
拓也の身体がびくりと跳ねて、ようやく与えられた刺激に堪え切れなくなったのか、和己が口の中に入れた先端も軽く跳ねて口蓋や舌を叩き、溜め込んでいた白いものを吐き出した。
塩辛さと生臭さが喉の奥で絡みつく。垂れた雫を舌先で舐め取ると、拓也の身体は軽く震えた。
「きもち、よかった?」
「い……すっごい、いい……」
余韻に浸っているのか、茫洋とした声で拓也が答えた。伸びきって晒された項も、緩く蠢く肩口も誘っているようで、やや強く押さえて貪ると理性が飛びそうになる。
「あ、あっ……にいちゃ……っ」
甘えた声が上がる。もっと聞きたくなって胸が詰まった。脚の付け根に手を滑らせ奥を探ると、拓也の身体はまたびくりと跳ねて、漏れる声は先程までとは違う熱を帯びた。
「ここ、すごい、ひくついてる」
「や……だって、あぁ……っ」
「気持いいの、ここ」
「いい……そこ、ん……は、あっ」
和己は手を止めてしまって、拓也は緩く息を吐きながら、不思議そうに和己を見た。
「どうか、した……?」
「いや……だってさ」
「何……?」
「痛い、よな……嫌じゃない?」
浮かぬ顔で今更和己が尋ねると、拓也は微笑んで、首を軽く横に振った。
「ほしい……にいちゃんの、ほしい」
「だって」
「大丈夫……だから、ちょうだい」
告げて、拓也は身を起こすと和己の昂った部分をそっと手にとって、裏側に舌を這わせた。
「うあ……んっ、たく……いっ…………」
引き剥がそうと肩を押さえて力を込めるが、拓也は動かなかった。舌が這い回って、先程と逆に和己のものは拓也の口に飲み込まれてしまう。包みこむような生暖かさと舌の感触に、思わず声が上がる。
「だめ、だ……って」
「なん……で」
「イッちゃいそ……」
情けない声が漏れたが、拓也は返事をせずに無心に舐め続けていた。唾液が肌を伝って、ぴちゃぴちゃと淫猥な音が互いの息遣いの間から漏れた。
すぐに気をやってしまいそうなのを何度もやり過ごし、和己はまた幾度か肩にかけた手に力を込めた。引き剥がしたい筈なのが、縋るように力を入れてしまう。
「して……くれ、るんなら……やめる」
「わかった……から……っ」
半ば悲鳴のように上擦った力のかかった声が漏れた。拓也は返事を聞くと、ようやく頭を離して、己の肩を掴む腕に縋った。
上目遣いに大きな瞳が和己を見上げていた。まるで眠いか、夢でも見ているようにとろんと光を孕んだ眼差しは、熱っぽく和己の眼を捉えた。縋られるに任せて引かれ、軽く幾度か口付ける。
「好きだから……拓也のこと、好きだから」
「俺も、にいちゃんが、すき」
口付けを繰り返しながら、受け入れようと開かれた脚の間に割って入る。そこは硬い感触があったけれども、やや進むと、待ちわびていたように熱い滾りを受け入れた。
突き入れ引く動きに合わせて、より深く飲み込もうとするように拓也の腰は動いて吸い付いた。先程まで頭を廻っていた雑念など全て飲み込まれて吹き飛んでしまう。互いを感じ合う上擦った声と不必要に荒い息遣い、熱に浮かされて止め処なくわく汗、そんなものしかなくなってしまう。
大きく息を吐いて吸う口許から覗く赤い舌先、潤んで滲む眼、力の篭る肩。脚を大きく開いて和己を受け入れる拓也の姿態はどこをとっても淫らに映った。
細かい事はどうでもよくなった。動く度に上がる高い声、しなる背、反応の一つ一つが愛おしくてたまらなかった。この甘い喘ぎが、交わった和己に向けられているという事が一番大事だった。
「拓也の、中……すげ、きもち、い……っ」
「ふ……っん、に、ちゃぁ……いい、あっ……にいちゃの……おれの、中で、いっぱい動いて……」
「きもち、よすぎて、止まんな……」
「もっと……して、にいちゃ、あっ……うあ、あっ、もっと、欲し……っ」
押して引く動きは速度を増して、止められない。引きずり込まれて溺れてしまう感覚があった。藻掻いても抜け出せない。呑まれてしまう。
「そこ、いいの、いい……っ、にいちゃ……、あっ、すき、にいちゃ……ああっ」
拓也の声は高く、やはり何かを堪えているようにも響いた。
拓也を抱きたいと思った気持ちだって、和己には自分でも訳が分からなかった。ただ、ひたすら強く、願った。与えてさらに求められれば、いくらでも湧いてくる。衝動も欲望も、思いも。
ひたすらに身を任せるのが心地良くて、繋いだ掌は熱く汗ばんで、他の事は何もかも白く、霞んでいった。
「お前さあ、大学、絶対受かれよ」
そう和己が呟くと、拓也は不思議そうな顔をして、和己の顔を覗き込んだ。
「そりゃ頑張るけどさ……何で?」
「そしたらまた、うちで置いてやるからさ。折角当番とか決めたんだから」
和己は実に真面目くさった顔をしてみせた。だが拓也はその顔を見て笑わないで、やや首を傾げて考え込んでしまった。
「だって俺、もし受かったら京都とか大阪の大学に行っちゃうかもしれないよ?」
「……何で東京じゃないんだよ、せめて神奈川とか埼玉とか」
「あはは、冗談だよ兄ちゃん拗ねちゃって、かわいいなあ」
拓也は大笑いを始めて、遊ばれたと知った和己は軽く眉根を寄せて面白くなさそうな顔をした。その顔を見て拓也はまた笑う。
「俺、絶対合格するからさ。まだまだ先の話だけど、それまで待っててくれる?」
「半年やそこらあっという間だよ。それに僕は気が長いのが長所なんだ」
「そんなの初めて聞いたよ」
「本当だよ。菖蒲とか菊が節句に一日二日遅れて咲いたからって、そんな事気にしやしない」
やや冗談めかして、おどけた調子で和己が言うと、拓也は暫しきょとんとした顔をして、くすりと笑いを漏らした。
「それさ、気が長いんじゃなくて大雑把なんじゃないの?」
「む……そんな事はないぞ」
「あははは。でも、嬉しい」
拓也はおかしそうに笑い声を上げると、両手で頬杖をついた。
「六日の菖蒲でも、兄ちゃんが咲いてるのに気付いてくれたからさ、それでもう、十分だよ」
穏やかに、嬉しそうに笑って拓也が言うので、和己も何だか無性に嬉しくなってしまって、そっと微笑み返した。
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