三
家に辿り着いたが、どこをどう通って帰ってきたのかを和己は全く思い出せなかった。拓也を追ってあの建物に入ってからの事は、靄がかかったようにぼんやりふわりとして現実味がなかった。
パソコンを起動して、ICレコーダーを接続して録音内容をコピーする。
これを、どうしようというんだろう、僕は。
分からなかった。
再生するまでもない、録音内容は耳にこびりついて、ぐるぐると頭の中を回っていた。振り払う事が出来ない。
今日はバイトに出なければならない。時計を見ると五時半少し前、六時には家を出ないと間に合わない。汗を流すために浴室に入った。
熱めにしたシャワーを頭から被るが、光景は頭から離れずに廻り続ける。
あの場を離れて自然に落ち着いた筈の昂りが蘇る。どうしようもなく抗えずに腰の間に手が伸びた。
「……んっ、は…………あ、ふっ……」
扱く手の動きも、あの光景を掻き消しはしない。
しどけなく晒された喉元、緩く開いた唇、濡れた眼、細い腰、揺すられる度長い前髪が揺れて目元を隠し、堪えきれない様子で頭を振る。
今すぐ捩じ伏せて犯して、訳も分からぬほど感じさせて、もっと声を上げさせたい。自覚された欲望が強く胸を締め付けた。
「うあ……あ、たくっ……たく、やっ……んうっ」
吐き出してはいけないように思っていたものは、意に反していとも簡単に吐き出された。
幾度か背を震わせて、零れ落ちた白く粘ついた液体はあっという間にシャワーに流され排水口に消えていった。
何してるんだ、何で。吐き出した後の気怠さの中を疑問ばかりが渦巻くが、答えなどどこにも見付からなかった。
かわいいと思った、弟みたいだと。傷付けたいだとか捩じ伏せたいなんて、思い浮かんだ事もなかった。
まるで子供の頃に戻ったように感じていて、あんな、まさかあんな。
大体にして拓也は男だった。背は和己よりやや高いし、かわいい系統といえる顔立ちだが、それは「女の子のようにかわいい」という事ではない。あんな事をされているからといって、自ら望んで進んでされているわけでもないだろう。どれだけ気が弱くて穏やかでも、拓也はやっぱり男だった。
それを何故、あんなに艶めかしく感じてしまったのだろう。
にいちゃん、といない和己を呼ぶ甘い声が耳を離れない。
どうして動けないままで、拓也が傷付けられるに任せてしまっただろう。どうして。後悔の念は胸に強く刺さった。
栓を捻ってシャワーを止める。浴室から出て、悪いとは思ったがバイト先に病欠の電話を入れた。こんなぐちゃぐちゃした気持ちで拓也も帰ってこないままで、まともに仕事など出来そうもなかった。
もしかしたらまだいるかもしれない、とにかく一度あの店に戻ってみよう。あの男に、拓也にもう近付かないようきっちり話をしよう。決めて家を出た。小走りに駅まで駆ける途中で、道の向こうから拓也が歩いて来るのが見えた。拓也はしっかりとした足取りで歩いて来て、和己を見付けると何事もなかったように微笑んだ。
「……おかえり」
「ただいま。兄ちゃんこれからバイト?」
「休んだ」
「えっ、何で、具合悪い?」
「お前と、どうしても話したかったから」
告げると、拓也は困惑して眼を伏せた。行こう、と短く告げて和己は歩き出した。
話したくはないだろう、あんなに怯えた理由もよく分かった。だがだからこそ、きっちりと聞かなければならないと思えた。
しばらく歩くと小さな公園がある。夕暮れ時の公園は人が少ない。夕涼みに来たのか、奥のベンチに老夫婦が腰掛けているきりだった。
ようやく沈み始めた夏の日はまだ明るいが、鋭さはもうない。ブランコの周りに渡された低い鉄柵に腰を乗せると、拓也も倣い横に腰を下ろした。
「悪いと思ったけど、今日、お前の後をつけた。何も話してくれないから、恐喝とかされてんじゃないかって心配で」
「……え?」
「あいつ誰なんだ、何で黙ってあんな事されてるんだ」
和己は出来る限り淡々とした口調を心がけて質問を紡いだけれども、受けた拓也の顔はみるみる青ざめた。
「見た、の……」
「見た。動揺しちゃって、助けられなくて、ごめん」
ふるふると、何度も大きく拓也は首を横に振った。その否定が和己の謝罪に向けたものではない事は、呆然と悲しそうな顔から分かった。
「いやだ……」
「僕はお前を助けたい」
「兄ちゃんには……知られたく、なかったのに、絶対、やだって……」
「落ち着けよ」
「嫌だ!」
鋭く叫ぶと拓也は立ち上がって走り出したが、すぐに和己に追い付かれて肩を掴まれた。やはり怯えたようにびくりと肩を竦ませて、拓也は足を止めて振り向かないまま俯いた。
「……僕は、話してほしかった。分からないと、お前の事、助けられない」
「嫌だよ、だってあんな……」
「見られたくなかっただろうと思うし、勝手に覗き見して悪かったと思う。でも、もう見ちゃったものを今更見なかった事にも出来ないだろ。あいつ、どういう知り合いだ?」
和己は拓也の肩から静かに手を離したが、拓也はもう逃げ出そうとはしなかった。ただ背中は向けたままで、和己を振り返ろうとはしなかった。
「……あの人は、遠藤くん、一緒の高校だった」
「何がどうしてああなったんだ」
「……俺、グズだから、福井行ってもよくいじめられてて。高校入ってもそうだった。最初は殴られたりとかちょっとした嫌がらせとかそんなので、平気だったんだ。でも、ほんの冗談のつもりだったと思うんだけど、何人かに押さえられてやられて、それから遠藤くんは気に入っちゃったみたいで、ずっと、あんな感じで……遠藤くんが東京の大学行ったから高校出てからは何もなかったんだけど、俺が、東京に来てるの地元の友達に聞いたみたいで」
「写真、撮られてるのか」
和己の質問に拓也は小さく頷いた。
「一番最初に面白がって撮られたんだけど、遠藤くんその後もやりたがって、俺が嫌だって断ったら、写真送って家族にバラすぞって言われた。それからも何回か撮られた、と思う」
ゆっくりとした口調で答える拓也の声は震えてか細かった。肩を落として俯いて背を向けたまま、黙ってしまう。
「……ずっと、誰にも言わなかったのか?」
「だって、俺がグズなのが悪いから。俺ほんとに何も役に立たないし」
「お前全然悪くないよ、何で自分が全部悪いって思うんだ。あんなの嫌だろ、おかしいよ」
「……嫌だったよ、ずっと嫌だった。最初はただ痛くて怖いだけだったのに、色々されてるうちにあんな風になるようになって、本当は心のどっかで自分が喜んでるのかなって思うのが、ほんとに嫌だった。俺がグズじゃなかったら、こんな事なかったのかなって……」
「違うよ、ばかだよお前、全然悪くない」
静かに和己が告げると、拓也はゆっくりと振り向いた。不思議そうな顔をして、和己の顔を眺めていた。
「苛々したら殴っていい、グズは殴っても許される、なんて法があるか。社会が成り立たなくなるぞ。そんなのが罷り通るのは北斗の拳かバイオレンスジャックの世界だけだ」
「でも……」
「お前に悪い所があるとしたら、黙って一人で我慢してたとこだよ、ばかだな」
「俺馬鹿だから、兄ちゃんみたいに頭良くないし、そんなの分かんないよ……」
「でも今、教えたから分かったろ、お前は悪くないんだよ」
和己は軽く笑ってみせたけれども、ゆっくりとした動作で、さかんに拓也はかぶりを振った。目にたまった涙を零すまいと懸命になっていて、瞬きをしない。
夕暮れの日差しは赤みを帯び始めていた。緩く温い風が吹き抜けてブランコ脇に植えられた櫟の梢を揺らした。さらさらと葉擦れの音が流れていく。くっきりと青かった空は白じんで、西の方は薔薇色に染まり始めていた。柔らかい光が拓也の顔に濃い影を落として、細かい表情は読み取れなくなった。
「……駄目だよ。兄ちゃんそうやって優しくしてくれるから、俺、変な勘違いするんだ」
「何が勘違いなんだよ」
「だって、見てたんでしょ……」
掠れた声で呟いた拓也の目から、一筋涙が零れた。
和己は、拓也が泣くところを初めて見た。潤んだ目を細めて悲しげに歪めて、堪えきれないものを押し留めようと口をぎゅっと引き結んで、何かに耐えていた。
「……俺の事馬鹿にしないで、俺が馬鹿みたくへらへらしてても代わりに怒ってくれるの、昔から兄ちゃんだけだった。兄ちゃん、すごく久し振りに会ったのにやっぱり兄ちゃんで、俺それが嬉しくって、どんどん好きになってて……。されてる時も、これが兄ちゃんだったらって、そんな事ばっかり考えて、違うのに、兄ちゃんそんなんじゃないのに……俺グズだしあんなんで、大体男だし、好きになんてなってもらえるわけ、ないのに……」
立ち上がって、二歩、三歩、よろけるように拓也は後退って、徐ろに踵を返し、軽く駆け出した。
「待てって! 拓也!」
「来ないでよ!」
強い声で拒絶されて、和己は踏み出そうとした足を止めた。拓也は背中を向けたままで振り返らなかった。
「……俺、兄ちゃんといるの、つらい。好きになっちゃうの、つらいんだ。俺あんなだし、兄ちゃん俺の事弟みたいに思ってくれてるのに、変な事まで考えてさ……自分で自分が嫌になるし、恥ずかしくて、兄ちゃんに合わせる顔ないよ。せめてバレなきゃって思ってたのに、バレちゃったし……ほんとグズだなあ俺。こんなの、気持ち悪いよね……ごめん」
「そんなの、全然……」
「駄目だよ。どうしようもないのに好きなの、つらいんだ。だから、今は無理だよ……ごめん」
背中を向けたままの拓也の顔が、見えない。声は涙に咽んでいた。くぐもって詰まって、時折途切れた。
「俺、大丈夫だから。こんなの……死ぬわけじゃないしさ。今までずっと、こうだったんだからさ。今まで通りだよ、平気だよ……今日は、漫画喫茶にでも泊まる。荷物、今度、取りに行くから」
かける言葉を今すぐに探し出す事が和己には出来なかった。迷ううちにさっさと拓也は歩き出して、公園を出て駅の方へと俯いたまま早足に去っていった。
追い掛けたかったけれども、何と言って呼び止めていいものか分からなかった。
そもそも自分の気持ちすらはっきりと分からないのに、何をきっちりさせようとしていたのだろう。和己には分からなかった。
日は翳り始めて、夏の日の明るさは急に失われつつあった。水で薄めた透明水彩の青を画用紙の上に伸ばしたように、辺りを青色した薄闇が包み始めていた。
和己はただ、悲しかった。どうして拓也は、つらい思いを一人で抱えて諦めてしまうのだろう。簡単に、ではないのかもしれないけれども、どうしてどうにもならないと諦めてしまうのだろう。
自分の気持ちだけで手一杯になってしまって、混乱して何が何だかも分からなくなって、和己は、拓也に何も言ってやる事が出来なかった。
自分は駄目だ、出来ないと思い込んでしまっている、人を好きだと思う事すら迷惑になるのではないかと怯んでしまう、臆病な彼に、何も。
周りが暗さを増すに従って街灯の明かりの下に蛾や小さな羽虫が集まりちらちらと舞い始めた。一体何が出来るだろう、ブランコを囲む鉄柵に再び腰を下ろして、和己は俯いた。
山間やまあいの小さな村には、街にあるような娯楽が殆どない。
豊穣を願う春祭り、祖先を送る夏祭り、実りを感謝する秋祭り。季節毎の祭りは、大人も子供も等しく楽しみにする催し物だった。その日ばかりは、大人も子供も浮かれて仕事を休み、美味しいものを食べて踊り歌い、一日中を楽しんで過ごす。
祭りの日には街からいくつも出店のトラックがやって来て、狭い村の中は一気に賑やかになる。夜になれば出店が軒を連ねて、村中総出で盆踊りが始まる。
祖父のお古を直した浴衣を着て盆踊りに参加した和己は、早めに踊りの輪から抜けた拓也に紙コップの麦茶を持っていった。
「綺麗だねえ」
踊りの輪の外側に設えられた白いテーブルについて、拓也は幾つも灯る提灯の灯りをうっとりとした眼で見つめていた。
櫓を組んで高い位置に掲げられた紅白の提灯は、近くのものはくっきりと文字を浮かべ、遠くのものは闇に滲んでぼやりと浮かんでいた。
「そうだなあ、こうやって見ると結構綺麗だな」
言われて和己も提灯を眺めた。街の祭りのように派手な花火は上がらないけれども、幾重にも重なって村の特別な夜を照らす提灯の灯りは、十二分に幻想的で美しかった。
盆の頃、宵にはもう秋めいた涼やかな風もどこからか吹き始め、鈴虫の鳴き声も響き始める。ざわめきも虫の声も、どこか遠かった。
「僕ね、踊ってる時に、お願いしたんだ」
「何を?」
「来年も、また兄ちゃんと遊べたらいいなぁって」
「夏休みになったらまた来るから、遊んでやるよ」
「中学生になったら勉強とか大変になるじゃない」
「普段真面目にやってりゃ何て事ないよ、それに夏休みは遊ぶ為にあるもんだろ」
答えると、拓也はえへへ、と嬉しそうに顔を綻ばせた。遠い提灯の灯りが、鼻の頭や頬を赤く照らした。
次の年の春に拓也の家は引っ越して、次の夏からは和己は、拓也と会う事はなかった。
そんな事ももう随分と長いこと、忘れていた。
思い出す事などなければよかったのだろうか。思い出せて良かった、と和己は思う。
ひたむきな視線、夜に滲む灯り。それはどんなにか得難いものだったろう。変に大人びた所のあった和己は、次の夏に既に拓也が村にいなかった時に、願いの果たされなかった事を、仕方のない事だと納得して片付けてしまった。大切さを今まで知らなかったから粗末にできた。失われそうになって胸を締め付けなければ、思い知る事ができなかった。
思い出す度に、願いの果たされなかった事に胸が痛む記憶には、したくなかった。
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