Au Palais De Verre(リンラン前提フェンラン)
「明日の搬入物のリストはこれで大体揃ったな」
「うーん、これをどういう順番で倉庫に入れるかだよねぇ。やっぱりミツバ用の物を前にかな? でも女の子が在庫運ぶ時は誰か手伝うかな……」
「その前に倉庫の整理だな、ブーケガルニも呼んでこねば」
「午後はそれで終わっちゃうかな、女の子達にちょっと頑張ってもらわないとね」
昼の休憩がてら明日ゴーマンストアから届く物資をフェンネルがリンドウと確認していると、向こうからミツバが歩いてくるのが見えた。手には何やら大判の本らしきものを持っている。
「ミツバ、どうしたんだい?」
フェンネルが声をかけると、リンドウもミツバの存在に気付きそちらを見やる。二人の視線を受けたミツバは、若干恥ずかしそうに頬を染め口元を本で覆い隠した。
「あの……リンドウさん、今お時間大丈夫ですか?」
「ああ、今休憩中だし丁度話も一段落したところだ。どうした? 何か俺に用事か」
「あの、あの、本を読んでもらいたくて……古本屋さんで見つけて絵が素敵で買ったんですけど、ミツバには分からない文字で書かれているので……」
腰を落としリンドウがミツバの高さに目線を合わせ尋ねると、ミツバは手に持った大判の本をリンドウに差し出した。本を受け取り表紙のタイトルを見てリンドウがほうと感心したような声を上げる。
「随分と古い時代の魔法の国の文字だな……上手く読めるか自信はないが、読んでみるか?」
「はい、お願いします!」
リンドウの返事を受けてミツバがにっこりと微笑む。リンドウがベンチに腰掛けて本を開きミツバはその隣にそっと座る。
「タイトルは、『硝子の城』だ————昔、ある所に硝子の国がありました。硝子の国にはとても立派な硝子の城がありました。城に住む硝子の国の王様はとても疑り深く、いつ敵が攻めてくるかも分からないと不安に駆られて、城の扉という扉、窓という窓を開かないように全て固く閉ざしてしまいました」
フェンネルも側でリンドウの低く通る声が語り出した物語を聞いていた。この話をフェンネルは知っている。遠い昔、父が帰ってきた時にだけ普段は寝たきりの母はベッドから起き出し夜になれば幼いフェンネルを寝付かせようと物語なども読み聞かせてくれた。この話はその頃聞いた話の中の一つだ。
「扉も窓も開かない城の中で、いつ攻めてくるのかも分からない敵に備えて兵士たちは一生懸命戦争の支度をしていました。武器や防具を磨き、戦の訓練をしたのです。毎日飽きもせず繰り返されるその光景を眺めて、硝子の国の王子様は悲しそうな溜息をつきました。王子様は平和を愛し詩や音楽を愛し、何より恋に憧れていたのです。まだ見ぬ未来の妃はどんな女性かと考えれば胸が浮き立つのに、王様は戦の事しか頭になく王子の言葉に耳を貸してはくれませんでした」
この物語の結末がどうなるのかをフェンネルは知っている。結末の分かっている物語ほど面白くないものはない、自分の命もそうだ。これから何があるか分からないからこそこの先の人生に希望が持てるのに、フェンネルの生はもう長くはない事が決まりきっている。これからどれだけの間何を成せるだろう、終わりの見えてきたこの命で。
僕のしたい事は、ランチの為にこの王都のマルシェでケーキを作り続ける事だ。その結論は正しいがどこか違う。そうではないだろう、お前は本当は——どこからかそんな声がする。違う、やめてくれ、どれだけ否定してみても頭の中に響く誰かの声は消えはしない。そしてそれは誰かの声ではなく本当は己の声であるということをフェンネルは知っている。誰にも見せられないような仄暗い望みは、確かにフェンネルの胸の内に宿ってしまっている。
「王様に止められれば止められるほど王子はどうしても外へ行き妃を探して来たくてどうしようもなくなりました。皆が寝静まった夜、王子が閂を上げ城の正門を開き放つと、周囲の硝子の森に隠れ潜んでいた敵国の兵士たちが一気に雪崩込んできました。話し合おうと手を振った王子は真っ先に敵の槍にかかり、寝所で休んでいた王も妃と共に眠ったまま首を刎ねられ、一時間も経たぬ内に硝子の城は敵の手中に落ちてしまったのです。硝子の国は滅び、この地上から消えてしまいました……終わりだ」
そう告げてリンドウが本を閉じる。語られる物語に食い入るように聞き入っていたミツバは、幸せでない結末にしょんぼりと肩を落とした。
「あふぅ……悲しいお話ですね、王子様がかわいそうです……」
「そうかな? 好奇心は猫を殺すって言うだろう? 王子が外になんて出ようとしなければ国が滅ぶ事もなかったんだ。知らない方が幸せな事もある、この話ってそういう話だと思うんだけど」
訳もなく心がささくれ立ち寂しげなミツバに刺々しい言葉を投げてしまう。だがミツバは気分を害した風はなく、顔を上げてはっきりと横に首を振った。
「そうでしょうか……ミツバは、お屋敷から出て外の世界を知って本当に良かったって思います。何不自由なく暮らせていたんだから知らない方が幸せだったって人から見れば思うかもしれませんけど、マルシェで経験した事知った事全部ミツバの宝物です」
きっぱりとそう言い切ったミツバの顔は清々しく気高く、フェンネルのどんな言い訳も通じそうになかった。そうだ、何を言っても言い訳になってしまう。フェンネルは己の気持ちを誤魔化して見ない振りをしている。そんな男が何を言ったところでこの少女の今の言葉の美しさに勝てるはずがない。
返す言葉を失ってフェンネルは踵を返しその場を立ち去った。後ろからリンドウが呼び掛けてくるが振り向かずにどんどん歩いていく。ただ惨めだった、自分の後ろ暗さが、他のメンバーのように明るい場所へと素直に立てない己の脛に付いた傷が。ケーキを作る楽しさを知った今でもその傷は消えたわけではない。
ケーキだって、本当はランチの為に作るのが一番楽しい。例えば試食の時、彼女の為に焼いたケーキを彼女が口にしておいしいと満面の笑みを浮かべる。その瞬間が何より幸せで何物にも代えがたい。自分の傷を知って尚受け入れてくれているランチが結局の所は特別なだけなのだ、そう思った。
フェンネルは、ランチだけがいればそれでいい。ランチが喜んで笑ってくれれば、それだけでいい。
他のものなんて何もいらない。
本当は王都のマルシェの成功もフェンネルにとってはどうでもいい事で、ランチの為だから働いているだけだ。自分で作ったケーキを誰かが食べて喜んでくれるのは嬉しいけれども、ランチを喜ばせるのと比較できるような事柄ではない。それがどれだけ手前勝手で醜い感情かも分かっているから、普段はひたすらに押し隠して見ないようにしているだけだ。
フェンネルは、ランチが望むフェンネルになろうとしている。ランチが望んでいるから皆と協力してマルシェを盛り立てケーキを焼きお客さんの笑顔の為に働いている。それは悪いことではないけれども自分に嘘をついている部分があるのは確かだった。
ランチを手に入れるための方便に過ぎないくせに、自分が変わったような顔をして、偽善者。心のどこかでそんな声がする。どれだけ違うと言いたくても否定しきれない、フェンネルにとって善など他の根っから善良な者達とは違い真似事にしか過ぎず、本当は今だって自分の事しか考えていない。ランチを自分一人のものにしてしまいたい、あの笑顔を自分だけに向けてほしい、攫ってしまってどこか遠くへ二人で行けたなら、そんな事ばかり考えている。それをランチは喜ばないだろう、その思いがストッパーになっているだけでそうでなかったならフェンネルは世界樹のマルシェの頃にランチを攫って逃げてしまっていただろう。
ランチの笑顔はフェンネルだけでなく皆に向いている。フェンネルの気持ちはちっとも気付いてもらえず届いていない。あからさまなほどのアプローチを仕掛けても気付かない鈍感さも嫌いではないけれども、物には限度というものがある。フェンネルはランチが笑顔を向けてくれたならそれだけでいい、そしてフェンネルだけに特別な笑顔を向けてほしい、その事に気付いてほしい。
あの優しさ別け隔てなく皆に与えられるランチだからこそ好きなのに、それを自分だけに向けてほしい。ひどい矛盾だった。僕はなんて我儘なのだろう、そう思いながらも手前勝手な願いを捨てられない。皆と同じなんて嫌だ、特別になりたい。この世にたった一人だけランチの愛を注がれる存在でありたい。
口に出さない願いは、胸の内で他のものを押し潰しそうなほど膨れ上がっていく。フェンネルにはこんなにもランチが必要なのにランチは必ずしもフェンネルを必要とはしていない、そのギャップもたまらなく耐えられなかった。ランチが必要としているフェンネルはマルシェの仲間で洋菓子職人のフェンネル、それもまたフェンネルの一部ではあるけれども全てではない。特別な意味で愛されたかった、必要とされたかった。
どうしてなのだろう、なぜ、フェンネルが愛し必要とする人はフェンネルを必要とはしてくれないのだろう。フェンネルはただ愛する人の特別でありたいだけなのに、その願いはどうしても叶わない。
*
数日後、昼休憩に入り休憩スペースに行くとちょうどランチがいた。声をかけようとしたが先に横合いからマジョラムが駆け寄ってくる。
「んっふふ~、ランチ~? 見ちゃったよ~?」
「えっ、何を?」
「さっきリンドウさんに後ろから抱きしめられてたじゃん? 何してたの~?」
何気なく足を止めていたフェンネルは、マジョラムの発したその会話の内容を聞いて思わず物陰に身を潜めた。聞いてはいけない予感がするが、どうしても聞きたい内容だった。
「違う違う、誤解だってば! 私がペンキを塗るのが下手くそだからリンドウに後ろから手を取って教えてもらってただけ!」
「手取り足取りってヤツだね~、んふふ」
「リンドウの教え方が上手だからすっかり塗るの上手くなっちゃったよ」
「……ハァ、そうじゃなくて…………ランチ、ランチだって女の子でしょ? 年頃の男と密着したらドキドキするとか、そういうのちょっとはあるでしょ!」
半ば呆れ顔に呆れきった声でマジョラムが告げると、ランチは顎に人差し指を当てて目線を上に向け何やら考え込んだ。やがて俯いて一つ息をつき、口を開く。
「そりゃ、ちっともドキドキしないわけじゃないけど……皆はマルシェの仲間だからそういう風に考えた事なかったなぁ」
「そういう模範解答はいいから、マジョラムお姉さんにちょっと教えてみ? ちょっとは気になってる人とかほんとはいたりしないの?」
「別に模範解答とかそんなんじゃなくて本当に思ってるよ~! でも、気になる人かぁ……」
そう呟いてランチはしばらく考え込んだ。そんな期待はすぐに裏切られる、それは分かっているのにランチの口から自分の名前が出はしないかと胸がときめく。ランチが皆マルシェの仲間だからと言うのは恐らくは本当に心からの本心で、誰が特別とかそういう感情は彼女にありはしない。それは分かっているのにもしかしたらほんの少しだけでも自分を特別と思ってくれてはいないだろうかと、そんな期待をやめることができない。
「あのね……マジョラムの言うような意味じゃないかもしれないんだけど……」
「誰々? どんな感じで気になってんの?」
んー、と低く声を上げて再びランチが沈黙する。ランチが再び口を開くまでの時間は一瞬だった筈だが、フェンネルにとっては気の遠くなるような長さに感じられた。
「あのね……リンドウが……」
ぴきり。
どこからか、硝子がひび割れた音が聞こえた。否、その音はフェンネルにしかきっと聞こえていないだろう。目は見えなくなどなっていない筈なのに世界は最早真っ暗で、耳の中で様々な音が渦巻いてやたらと立ち眩みがする。自分が物音を立てぬままでへたり込まずにいられるのが不思議だった。そこは身に染み付いたスパイの習慣が身体を抑制しているのかもしれない。
そうだ、所詮は身に過ぎた望みだったのだ。フェンネルは金の為なら何でもやるスパイだったし、事実殺し以外は大体の事はやってきた。人の物を盗み、人の持つ情報を盗み、それを金に替えてきた。そんな男が今更あんな何の汚れも知らないような少女との人並みの幸せなど望んだところで釣り合いはしないし神様が叶えてくれる筈もない。
小さな包丁傷の治りがいやに遅くなっている。命のリミットは刻々と近付いてきていて、そして彼女はフェンネルに振り向きはしない。
嫌だ、どうしても必要なんだ、僕にはどうしてもランチが必要で、いてくれないと嫌だ、僕だけに笑いかけてくれないと嫌だ、嫌だ、嫌だ、世界中できっと、いや絶対に一番僕がランチのことを必要としているのにどうして、どうして僕の事を見てくれないんだ、気付いてくれないんだ、愛してくれないんだ。激情は言葉にも声にもならずに胸の内で暴れ回りただただ胸を痛ませる。
「えっリンドウさん? 意外……フェンネルじゃないの?」
「フェンネルはそういうんじゃないよ。大体私なんかいっつもからかわれてばっかりで相手にもしてもらえてないよ」
何の悪意もなさそうな参ったなぁといった調子でランチがそう答える。フェンネルにとって死の宣告にも等しい意味を持つ軽い言葉を残酷なまでの明るさで。
「……ねぇ、それ本当にそう思ってる?」
「えっ? うん……」
「はぁ……ちょっと気の毒になってきたわ…………鈍感も極めるとここまできちゃうのね」
マジョラムの言葉の内容もランチにはピンとこなかったようで、しきりに首を傾げ不思議そうにしている。
「えっ? えっ? 何の話?」
「気にしないで。ところでリンドウさんの何が気になってるの?」
マジョラムがその質問を放つと、ランチは目を丸くした後にはにかんで目を伏せ、唇を噛んだ。ややあって口を開く。
「あのね……なんか放っておけないっていうか……。リンドウってしっかりしてるけど一人で悩み事とか抱えがちだから、話を聞いてて助けてあげたいなって……思ってたら、なんか気になるようになって……」
訥々と語る声の調子、はにかんだままの表情、何もかもが恋する少女のそれだった。
リンドウは良い奴だ。正直で誠実で何より善良で、曲がった事が嫌いできっと間違わずに正しい道を正しいまま進んでいって、フェンネルのように過ちを犯し暗い過去を負う事もないだろう。向日葵のように眩しい彼女に相応しい、正しい男だ。彼女を泣かせたり悲しませたりすることもきっとない。日々身体を鍛え頑健で心身共に健やかで、命の先が見えているフェンネルとは違う。
どちらが彼女に相応しいかなど比べるまでもない。比べる前から結果が見えている。
リンドウはあんなにも正しくて、フェンネルはこんなにも間違っている。
リンドウもランチに好意を寄せているのは見ていればすぐに分かる。お互いを幸せにできるであろうお似合いの者同士が好意を寄せ合っている。ただのお邪魔虫なのだ、フェンネル如きは。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。心が上げる悲鳴が鋭く胸を切り裂く。
ランチの言葉に答えてマジョラムが何か話していたがもう耳には入らなかった。身を隠した横道を通りそっとその場を離れる。嫌だ、ただひたすらその言葉が心の中を木霊し覆い尽くし、どこへ向かってどこをどう歩いているのかも最早よく分からない。
まるで迷子になったみたいだ。いや、違うね。僕は最初から迷子で、君を見つけてようやく迷子じゃなくなったと思ったけど、それは全部僕の勘違いだったんだ。
僕はずっと迷い続けていてどこに行けばいいのかも分からない。
時間の感覚もなくなっていた。気付いた時には夕暮れ時で、街外れの丘の上から一望できる暮れなずむ王都には少しずつ夜の明かりが灯り始めていた。いつの間にこんな所まで歩いてきてしまっていたのだろう、不思議に思ったがそんな事は大した問題ではなかった。このままどこかへ消えてしまいたい、そうも思ったけれどもそれはランチを悲しませ困らせるだろうと思うと実行に移す気力は起きなかった。
帰ろう、彼女のマルシェへ。そこがどれだけフェンネルを苦しめる場所だとしても今のフェンネルに帰る場所は他になく、またフェンネルの彼女の為になりたいという望みもそこでしか果たすことができない。僅かに眉を顰め目を細めて胸の痛みに耐えながらフェンネルは足を踏み出した。
*
公園を抜ける道をフェンネルは足早に進んでいた。とっぷりと日は暮れ辺りはもう真っ暗で、街灯の明かりがなければ足元も見えない。用事で外出したリンドウとランチが夕食時になってもまだ戻っていないので様子を見に来たのだった。あの堅物のリンドウと鈍感なランチなのだ、焚き付けても何も起こりそうにはないのだから放っておいても何もやましい事など起きないだろう事は分かっている、だけれどもやはり二人きりだと思えば気が気でない。探してくるよと何気ない風を装って出てきたのだった。
「オーロラが出てる時は、もっと光って明るいんだが……」
「えっ! オーロラが見えるの?」
二人の声がして、思わずフェンネルは側の木立に身を隠した。迎えに来たのだ、何もやましい事はない。それなのに二人の間に割って入ることができずに意気地もなくこうして息を潜めてしまう。
「あぁ、今の時期なら夜遅くの天気が良ければ見えるはずだ」
「ほんとに? オーロラ見てみたいな!」
「あぁ、俺も久しぶりに見たいな……」
そっと覗き窺うと、二人は北の方の空を見上げていた。嬉しげな楽しげな明るい笑顔が二人の頬に浮かんでいる。その内ランチがリンドウの方に目を向けて、ぱっと明るく顔を輝かせた。
「……あっ!」
「……?」
「リンドウ今、自然に笑ったよ!」
「……そ、そうだったか? ランチがオーロラを見たいと笑ったから、つられたようだ……やはり、笑顔はうつるんだな……」
笑顔を指摘されて戸惑いがちなリンドウの声とは対照的にランチの笑顔はますます嬉しそうになる。
君は、リンドウの笑顔が見られることがそんなにも、嬉しいのか。
リンドウの悩みとは恐らく接客態度の事だろう、そんな予測は簡単に立つけれどもそうは思ってもリンドウに向けられる眩しいばかりのランチの笑顔が妬ましくてならなくて、フェンネルの胸はきりきりと針でもどんどん埋め込んでいかれるように痛む。
「じゃあ、リンドウがたくさん笑顔を作れるように、リンドウの隣でたくさん笑うね!」
「……っ!」
ランチの言葉にリンドウが一歩後退る。
それは僕が欲しかった言葉だ、どうして君は言ってもらえるのに僕は言ってはもらえないのだろう。君にだって必要かもしれないけど、僕の方がもっと必要だ。ランチの笑顔が世界で一番必要なのは、僕だ。
ぴきり、ぴきり。ひび割れる音がする。割れているのは硝子なのだろうか、何なのだろう。割れ落ち剥がれ落ちているのは、何なのだろう。剥がれ落ちた生傷に血が滲みじくじくと痛む。
「……どうしたの? リンドウがちゃんと見てないと、笑顔の練習にならないよ?」
「……そ、その……あまり笑ってくれるな……」
「えっ……!? ……ひどい!」
「……ち、違う! ……その、練習とは違う効果も出てしまうから……」
「……違う効果……?」
「い、いや……何でもない! これは練習だ! たるんだ気持ちでやってはいかん!」
まるで怒ってでもいるような戸惑ったリンドウの声を背中で聞きながら、そっとその場を後にする。このままでは硝子は全てひび割れ剥がれ落ち血塗れの生肌が露出してしまう。
これでいいのだ、必死にそう思おうとした。後ろ暗い過去を持ち未来のないフェンネルとまっすぐ続く一本の道をこれからもずっと歩いていくリンドウ、どちらを選ぶのがランチの為になるかなど分かりきっている。これでいい、僕が諦めればそれで済む話だ、必死にそう思おうとした。
それなのにどうしても、諦め切れない。
怖かった。ちょっとした傷がいつまでも治らない壊れかけた身体、ランチの愛が他の男に向く事。耐えられないと思った。愛してほしい、甘えたい、支えてほしい、それなのにフェンネルが愛してやまないその女性はフェンネルなどとても敵わない男に気持ちを向けてしまっているのが、怖い。
愛しても尽くしても欲しいものが返ってくることはない。いつもそうだ。見返りを求めるからこうなるのか、ランチのように見返りなど考えず愛すればいいのか。そんな事フェンネルにはできはしない。それができるならばこんな風に生きはしなかったし、こんなに痛み苦しむこともなかったろう。
どうしても自分の力で母をベッドから立たせ心からの笑顔を向けてもらいたかった。そうすることで家族を見捨てた父などより自分は母の愛を受けるに相応しい存在なのだと証明したかった。でもリンドウは父とは違う、フェンネルなどよりよほどランチに愛されるに足る人間だ。
もしかしたら特別な愛を向けてもらえるかもしれないなどと、勘違いしなければよかった。相応しい愛は相応しい人のもとへ、薄汚れたフェンネルは愛される資格などない。
いもしない敵を恐れて心を閉ざしたままの硝子の国の王であればよかった。もっと知りたいと願った王子は好奇心から扉を開けて国を滅ぼしてしまったのだから。心を閉ざし誰にも心を許さず今までフェンネルは生きてきたのに、愛されたいと願い心を開いたばかりに、叶わぬ願いを抱いたばかりにこうして打ちのめされている。
それは美しい夢で、ありもしない幻想だ。ランチに想いが通じ二人寄り添い微笑み合えるかもしれないという未来。閉ざした扉を開いた硝子の国があっという間に滅びてしまったように、その幻想は儚くも消え去ってしまった。美しい硝子の国の城など存在しないように、フェンネルに都合のいい美しい夢もまた存在しない。
硝子の城など、どこにもありはしない。出口は閉ざされていて、出ることは叶わない。
*
平静を装いそのまま数日を過ごしたがフェンネルの心は波立つばかりで、どうしようもない心のざわつきから衝動的に叫びだしたくなるのをようやく抑えているような有様だった。ファンの女性の中でも目敏い者はフェンネルの異変に気付き気遣わしげな目線を送ってくる。その視線も鬱陶しかったが、僕が欲しいのは君の優しさじゃない、そんな酷く残酷で身勝手な事を言ってしまいそうになる自分が一番鬱陶しかった。自然と客の前に立つのが苦痛となり、まるでランチと出逢ったばかりの頃のようにフェンネルは頻繁に休憩を繰り返すようになった。あの頃は楽をする為に休憩していたが、今はランチの為に働きたいのにそれもままならない己の不甲斐なさに苛立ちが募るばかりだった。
昼時になりその日何度めかの休憩にフェンネルが入ると、休憩スペースにはリンドウがカップを手に座っていた。
「……フェンネル」
「やあ、君も休憩?」
フェンネルの姿を認めるとリンドウは微かに目を細め眉根を寄せ、心配そうな面持ちになる。ファンでさえ気付くのだから一緒に働いている者がフェンネルの様子のおかしさに気付かない筈はない。
「お前、どこか具合でも悪いのか」
「別に。ただね、真面目に働くのがちょっと馬鹿らしくなっただけさ」
「俺にまで分かるような下手な嘘をつくな……」
「嘘じゃない」
向かいに腰掛けたフェンネルにリンドウが答えたくない質問を投げかけてくる。簡単に機嫌を損ねフェンネルが荒い声を上げると、リンドウはただ悲しそうな顔をしてフェンネルをまっすぐに見た。
「僕は元々こういう人間だったろう? 自動マシーンを使って楽をする事ばかり考えてた、あの頃に戻っただけさ」
「それは違う、お前は変わった。ランチと出会ってからのお前は働く楽しさも菓子作りの楽しさも知って、職人として自分を高めようと日々懸命だった。それなのに一体何があった? 俺では大した力にはなれんかもしれないが、それでも少しでもお前の力になりたいんだ」
純粋な善意と友情からリンドウは言葉をそう投げかけてくる。だがフェンネルはそれにどう答えればいいというのだろう? 答える言葉など持ち合わせていなかった。お前のせいだと襟首でも掴んでやればよかっただろうか、だがリンドウには何の責任もないことなど分かりきっている。ただの八つ当たりをしてますます自分をみじめに追い込みたくなかった。どうしてこんな何の責任も問えないような純粋な善意を向けてくるのだろう、どうしてこんな良い奴としか形容のしようがないけちの付け所がない男なのだろう。責任も問えずけちの付けようもなくフェンネルはランチを譲り渡すしかないのだ、あまりにも残酷ではないか。
それとも正々堂々と争えばいいだろうか。先の長くないフェンネルが輝かしい未来の待っているリンドウと? それこそ馬鹿馬鹿しいにも程がある。ランチの気持ちはもう分かっているのに、未来のない自分に振り向かせる事に何の意味がある。
ランチの幸せを考えるならばフェンネルはこのまま身を引くべきなのに、それがどうしても嫌だ。そんな答えがもう出切っているのに答えの正当さを認めたくない我儘な問答を延々と繰り返しているだけだ。
けちの付けようのないリンドウの正しさが、完璧なまでの善良さが今はただ憎らしかった。もしも争えるだけの余地があったならフェンネルも少しは救われていたかもしれないしもしかしたら争った末に納得してランチを譲り渡すことができたかもしれないのに、リンドウの残酷なまでの正しさはそれすらも許してはくれない。己の正しさが残酷であるということを目の前の善良な男はきっと一生理解することがないだろう。そしてその必要もない。
「理由を言ってどうなるのさ、君にはどうしようもない事なんだ、放っておいてくれ」
「やはり何か理由があるんだな、俺では解決できないのだとしても放ってなどおけない」
「よりにもよって君に憐れまれるだけ僕がどんどん惨めになるんだって、どうして分からないのさ!」
思わずフェンネルは立ち上がり、声を荒げ叫んでいた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてきょとんとリンドウはフェンネルの顔を見上げていた。そんな事を言われるとは思っていなかった、そんな内心が丸分かりの顔で。
何の責任もないリンドウを傷付けてしまった事に対する自責の念と仄暗い喜悦が入り混じって心の色が綾をなす。なんて醜い色だろう。リンドウの正しさの前で浮き彫りになってしまう己の心の色の醜さがただただ惨めだった。
「……すまない、俺が何かしたんだな。だが、俺は察しが悪いから、何をしてしまったのか教えてもらえないと分からないんだ……フェンネル、俺はお前に何をしてしまったんだ?」
「何も……してない」
「しかし、俺が原因なんだろう?」
「君は何も悪くないからどうしようもないんじゃないか! 僕の事はもう放っておいてくれ!」
もう一度フェンネルは声を荒げて叫び、リンドウが何か声をかける間もなくその場を走り去っていた。ただただ惨めだった。優しくされたい、憐れまれたくない。どちらも本当でどちらも間違っている。間違いだらけで壊れかけの欠陥品が何を甘い夢を見ていたのだろう。人並みになど生きられるわけがない、最初から分かっていた事だ。それを皆の仲間になれたような錯覚を抱いてランチの愛を得られたらと甘い夢を見て。なんて惨めなのだろう。
たった少しの距離を走っただけなのに息が切れる。自分のキッチンカーに駆け込んで、腰を曲げ膝に手を付き息を整える。どうしてリンドウにあんな事を言ってしまっただろう。生真面目なリンドウのことだ、自分が何かしてしまったのだといたく気に病んでしまうだろう。それはフェンネルの望む結果ではないのに、自分を抑える事ができなかった。
脚がふらつく。寝室に入りうつ伏せにベッドに倒れ込む。街の雑踏も広場の喧騒もここからは遠い、静けさに少しだけ心が安らぐ。眠くはないしとても眠れないほど胸の内はぐちゃぐちゃで混乱しきっているけれども、立ち上がる気力ももうなかった。
どうして分からないんだと言ったところで、そもそも何が理由でフェンネルが荒れているのかすら知りえないリンドウが分かる道理はない。自分の言った事は筋の通らないおかしな発言だったのだとフェンネルにも分かっていた。支離滅裂で滅茶苦茶な道理の通らない駄々をこねているだけだ。
ランチを誰にも渡したくない、たったそれだけの為に。
コンコン、とドアがノックされた。入ってこないで、とだけ答えると、ノックはやんでしばらくの間沈黙が落ちた。
「フェンネル……大丈夫?」
やがておずおずと呼び掛けてきたのはランチの声だった。とても大丈夫とは言い難いけれども、どう答えるのが正解なのだろう。こんな時の切り抜け方などいくらでも浮かぶはずなのに、今は頭もうまく働かない。
「今日はちょっと、調子が悪いみたいなんだ……リンドウに、謝っておいてくれるかな、機嫌が悪くて八つ当たりしちゃったんだ」
「フェンネル具合が悪いの? お医者さん呼んだ方がいいんじゃ……」
「今日一日寝てれば、大丈夫だから……心配しないで」
「ねぇフェンネル、皆とっても心配してるよ……わたしだってフェンネルの事が心配だよ。お願いだから一人で抱え込まないで」
じゃあ君に話せば解決する? 問いかけたくなったその質問を必死に押し止める。そんな質問をして何になるだろう、ランチを困らせてしまうだけだというのに。
どうすれば正解なのだろう。正解は分かりきっているけれども、その選択をして押し殺されるフェンネルの心はどうすればいいのだろう。今は何もかも分からなかったし考える気力もなかった。
「一日寝て休めば……大丈夫だから、休ませて……ごめんね、ありがとうランチ」
ドアの向こうのランチが戸惑う空気が手に取るように分かった。大丈夫だなどと言っても誰にも信用されないであろうほどここ数日のフェンネルの様子はおかしいのだから当然だった。だが今の自分の状態こそが本当の自分の心なのだという気持ちもフェンネルの胸の内のどこかにはあって、それを押し隠して取り繕えないほどにランチを誰にも渡したくないという気持ちが膨れ上がってしまっているだけなのだ。
「……分かった、晩ご飯、呼びに来るから」
「今日は、いらない……」
「じゃあ、明日の朝起こしに来るから、具合が悪かったら言ってね。ゆっくり休んでね、おやすみフェンネル」
「おやすみ、ランチ……——」
布団にうつ伏せに横たわり枕を見つめながら返事をすると、やがてランチが歩き去る足音がドアから次第に遠ざかっていった。
嫌だ、たとえリンドウでもランチを譲り渡すなんてできない、嫌だ。
先程の激情が嘘のような驚くほど凪いだ静かな気持ちでその言葉を胸に浮かべる。ランチの愛を得られないのならば、フェンネルが生きている意味も菓子を作る意味も何もかもがないに等しい。全てに意味を与えてくれたのはランチなのだから。
愛した分だけフェンネルは愛されたい、ランチに他の誰でもない自分を見て愛してほしい。その望みを偽ったり押し殺したりすることなどできそうになかった。その事が分かるにつれて、ぐちゃぐちゃだった頭はどんどん整理されて上澄みから答えが汲み取られ、そして静かに凪いでいく。
結局僕は自分の為にしか生きられなくて、それがたとえ愛する人の為であっても誰かの為になんて生きられないんだ。
愛してほしい、ただそれだけなんだ。
胸はじくじくと痛むけれどももう波は立たない。冷え冷えと冴えていて、己の呼吸の音が耳の中で鮮明に響いている。
*
次の日から表面上はフェンネルは普段通りに戻った。取り乱した事をリンドウに謝罪し、お詫びの印にとファンの子達に焼き菓子を配ったりもした。気が乗らないと過度な休憩を取る事もなく忙しく立ち働き、相変わらず下拵えは下手くそで、何一つ変わらぬ王都のマルシェの日常が戻ってきたように見えていた、表面上は。
数日が過ぎて再びリンドウとランチが用事で出かけた。今回は帰りが遅くなり夕食も出先でとってくる旨が予め言ってあったが、皆が寝る頃になっても戻ってこないのが気にかかりフェンネルはそっとキッチンカーを離れ公園を抜ける道を進んでいった。途中から脇の木立に入り歩を進めていく。きっとこの先に二人はいるだろうし、真正面から二人の間に割って入るのは得策ではない。やはり心は凪いだままでそんな計算をしていた。本当ならば二人の会話を立ち聞きすることなど全くの無意味だけれども、どうしても気になってしまい聞かずにはおられなかった。もうそれに心が掻き乱されることはないだろうけれども、フェンネルの凪いだ心の内の底に深く沈められた強く重い想いはさらに重量を増すだろう。
しばらく歩くと、街灯の下リンドウとランチは並んで空を見上げていた。近くの木陰から後ろ姿を窺う。
「そ、その、ただ待っているのも気まずいな……」
「そ、そうだね……!」
「……ランチ、あの一番光っている星は分かるか?」
「……ん? どこどこ?」
「ボーダー山脈の上の……」
「……あっ! あった!」
「あの方角に俺の故郷がある……あの星は季節が変わっても動かず、ずっと北に位置している……」
「へぇ~!」
「もし、道に迷った時はあれを目印にするといい……」
「うん!」
二人は何かを待っているようだった。その間に探し始めたのは北極星、船乗りたちが道標にする天の高みにあって北から動かない星だ。不動の星の標を頼りにどこまでもまっすぐと進んでいくだなんて、いかにもリンドウらしいではないか。星の明かりが見える者ばかりではない、そんな弱々しい瞬きさえ見えない暗闇の中にいる者もいるだなんて、きっとリンドウは考えもしないだろう。そして恐らくはそれでいい。
冬に差し掛かった王都の夜はきんと冷えた空気がしんしんと積もり、道に散り始めた枯れ葉が時折風に巻き上げられる。どこまでも静かだった。こんなに静かな気持ちで見ているだなんて、まるで祝福でもしているようじゃないか、盗み聞きせずにはいられない己の滑稽さに苦笑が漏れる。
「しかし、王都では星空の見え方も違うな……明かりが少ないせいか、星がより多く見える」
「じゃあ、スプーン座も初めて見る?」
「……スプーン座なんてあったか?」
「あっ! スプーン座は私が考えた星座だった!」
フェンネルも初めて聞く星座の名前がランチの口から飛び出す。秘密の花園で星空を見上げた時、君はその星座のことを僕には教えてくれなかったね。きっと深い意味はないのだろうその事実が胸の底に沈んだものをどんどん重くしていく。ランチにとってはきっと深い意味はないのだし、思い出せばフェンネルにも話すだろう。だけど、フェンネルは独占したかった。ランチしか知らぬ星座の話を先にリンドウに話されてしまうのは耐え難い苦痛だった。
「……ほぅ、どの星を繋げるんだ?」
「……えっとね……あそこの……星から始まって……」
「ふむふむ……」
「あっちの上に線を繋げて……六個の星座を繋げてっと……」
「おぉ……! 確かにスプーンに見えるな!」
「でしょ~! お城の部屋から見つけたんだ~」
一際冷たく強い風が吹き渡り、上空の雲の動きも早くなっていき濃灰の雲に月が隠される。
「……あっ、雲が濃くなってきちゃったね……」
「……ああ、残念だが今日はもう無理だろう」
「……残念……」
「また、見られるチャンスはあるさ」
「……そうだね!」
いつか果たせる約束のできる者たちは、幸いだ。この前二人はオーロラが見たいと言っていた、きっと雲が流れてボーダー山脈の彼方に微かに見えるオーロラが見られるのを待っていたのだろう。
二人でオーロラを見るだなんてなんと美しい約束なのだろう、まるで夢のようではないか。
僕にはそんな約束はできはしない。そんな僕が永遠を誓えるとしたら、方法は一つしかない。
心の底に沈んだ重りが、どんどん重量を増していく。
「今日は暖かくして寝るんだぞ」
「うん!」
「じゃあ、マルシェに戻るか……」
二人が軽い足取りで歩き出しその場を去ってもフェンネルは動かぬまま上空の強い風に流される雲に隠れては姿を現す月をじっと見つめていた。
ランチの愛はフェンネルでは捕まえることができない。他の男に愛を向けるランチを見守りマルシェを続けるなどとてもできはしない。どこまでも続く迷宮を、微かに見える後ろ姿と足音を頼りに愛を求め彷徨う迷子だ。きっとその迷宮も硝子でできている。永遠に続くように思えた階段を登りきっても通路が長く伸び、その先の階段を登っていく後ろ髪がどうにか見える。だからそれを追いかけるしかない。永遠に得られない愛を求めて入り口も出口もない迷路を彷徨い続けている、こんな事はもう終わりにしたい、愛している人に愛されたいと願いながら。
ランチは母ではない、それは何度も確認した。母はあんなにおっちょこちょいではないし素っ頓狂な料理を考えもしない。この世で一番美しいし、あんな丸顔ではない。だが今はその丸顔が例えようもなく愛おしく感じられて、素っ頓狂だけどとびきり美味しい料理や菓子にワクワクした気持ちをまるで宝物のように抱えている。フェンネルの想像なんて軽々と飛び越えてしまうのに書類仕事がいつまで経っても苦手な、とても偉大で誰よりもかわいい女の子。ランチが好きだ、誰よりも愛している、側にいたい、永遠に。
*
それからまた数日が過ぎて夕方辺りに休憩に入っていたフェンネルは、テーブルに肘を突き頭を凭れさせ、季節に似合わぬ陽気にうとうとしていた。そこに通りかかったランチが、フェンネルに呼びかける。
「……フェンネル!」
「……」
「……あれ? フェンネル! ……フェンネル!」
「……ん…………呼んだかい?」
浅い眠りから醒め見やるとランチが心配げな顔をしてこちらを覗き込んでいた。何がそんなに心配なのだろう、フェンネルはこんなに元気で、体調だってすこぶるいい。
「フェンネル、もしかして体調が悪かったりする?」
「どうしてそう思うのさ?」
「ちょっと、ボーっとしてたから……今日は、この辺にしたら? 後片付けは私がしておくよ」
気遣わしげな色を濃くしておずおずとランチがそう提案してくる。だがその提案はフェンネルにとっては己の存在価値を揺るがすものだった。
「……僕って、片付けも任せられないほど役に立たないかな?」
ランチの為に働けない僕なんていらない。本当は、身体がとても怠いんだ。起きているのも難しくて、小さな包丁傷もまだ治らない。でもそんなの、ランチの為に働く為だったら気になんかならない。
そうは思ってみたものの身体にはうまく力が入らない。まともに動けるようになるまでにはまだ少し時間がかかりそうだった。ランチは慌てて首を横に振って否定してみせる。
「そんなことないよ! でも、最近疲れてるみたいだったし、今日ぐらいゆっくり……」
「いいよ、片付けは僕がやる。君は、他にやることあるでしょ? ……報告書とか」
「……うぐっ!」
図星を指してやるとぐぅの音も出ないようだった。ランチの為に働ける自分の仕事をたとえランチにでも譲る気はなかった。そんな事をしては、フェンネルがこのマルシェにいる意味はいよいよなくなってしまう。
だがランチは報告書の山があるだろうに立ち去ることはなく、何か思い付いた様子でにこりと笑顔を見せた。
「じゃあ、一緒にサボってくれない? ちょっと見たいものがあるんだ!」
「……報告書……」
「い~から! い~から!」
とにかく報告書の事は誤魔化したいらしきランチに手を引かれ立ち上がり歩き出す。こんな時間にどこへ行くというのだろう。暮れなずむ街は西日が強く射し橙色を帯びた空気の中影が長く濃く伸びて、昼間の街とは違うどこか異界の街のようだった。さすがに地元出身のランチは地理に明るく、どんどんと迷わずに入り組んだ王都の道を進んでいく。やがて流れる水の匂いがしてきて汽笛も聞こえてきたので、フェンネルにもランチの目指す場所がようやく分かってくる。参ったな、それが偽らざる感想だった。気のない相手を誘うにしてはあまりにもデートスポットじみてはいないか。広場から運河まではそれなりに距離があったので陽はすっかり暮れかけて空は透明な紫紺に染まっていた。細い路地を抜けると急に視界が開け、大きな堤防の向こうの対岸にいくつもの豪華な巨大客船が係留されている様子が見えた。客船にはもう明かりが灯り、薄闇を照らして暗い川面に反射していた。これがもし恋人とのデートだったならこれ以上なくロマンティックな雰囲気を作り出していただろう。
「見てみて! 大きな客船だね~! 運河を下るのかな? どこまで行くんだろう……」
「あの船で僕の故郷まで行けるらしいよ……」
「へぇ~!」
何気なく答えたフェンネルの言葉に、ランチはどこか嬉しそうに応じた。フェンネルの故郷・テシカはゴーマン商事のリゾート開発に伴って王都と村を結ぶリゾート船も就航しており、山の上の高原で一年中気温の高くならない硝子の村であるテシカは王侯貴族や金持ちの商人の避暑地の定番となっていた。
「ねぇ、ランチ?」
「……なに?」
「僕が、今乗ろうって言ったら……君は着いてきてくれる?」
「……えっ?」
不思議そうに聞き返してから少しの間を置いて、ランチは明らかに戸惑った表情を見せた。決してランチを困らせたいわけではないけれども、どうしても聞かなければならない質問だった。それなのに、ランチはどう答えようかと迷っているのかフェンネルの望む答えを返してくれることはなかった。
たまらなくなり縋り付くように強く強く抱き締めると、ランチが息を呑む音が聞こえた。
「フェンネル……?」
「一緒に……来てくれるって、言って。僕を一人にしないで……君じゃないと、僕は、僕は……」
「どうしたのフェンネル、ちょっと、苦しい、そんなにきつく抱き着いたら痛いよ、ねぇ……」
「君の事を愛しているんだ、誰よりも、世界中の誰よりもだよ。だから、僕を一人にしないでよ」
逃れようと軽く藻掻くランチを逃すまいと腕に力を込める。離さない、もう二度とは離さない。たとえそれをランチが望まなくても。その先にランチの幸せがないのだとしても。それでもフェンネルにはランチが必要で、こんな呆れるほど手前勝手で我儘な想いを愛などと呼べるわけがないのだとしても、それでも捨て去ることはできなかったから。
「離さない、誰にも渡さない……本当は知ってるんだ、君が僕の事なんかどうとも思ってないって……君が好きなのはリンドウなんだって……でもそんなの嫌だ、僕を愛してよ、僕を見てよ、君がどうしても必要なんだ……!」
絞り出したような掠れた声でそう告げると、ランチはフェンネルの腕の中で身じろぐのをやめた。そっとフェンネルの背中に腕を回しふわりと包み込むように優しく腰を抱く。
「いいよ……ずっとフェンネルと一緒にいる、どこにだって一緒に行くよ」
「本当……?」
「うん、本当だよ。もう絶対一人にしないから。私がずっと一緒にいるから」
穏やかなランチの答えに、フェンネルは言葉を継げずにただランチを抱き締めていた。ややあって、嗚咽が喉から漏れ熱い涙の粒が瞼から溢れ出し頬を伝う。運河の畔で肌寒いくらいの夜風に吹かれながら、フェンネルが泣き止むまでランチはただ優しくフェンネルの背中を擦り続けた。
やがて落ち着いたフェンネルは涙を拭うと、ランチの手を引いて広場の方へと向かっていった。マルシェに戻ってくれる気になったろうか、そんな仄かな期待がランチにまるでないといえば嘘になったけれども、フェンネルはもう帰る気はないだろうということも確信として心得ていた。皆が寝静まった頃ランチを連れ広場に戻ったフェンネルは予想に違わず自分のキッチンカーにランチを乗せると誰にも何も言わず置き手紙すら残さずに王都を後にした。王都の城門は夜は閉ざされているがキッチンカーは国境すら検問なしという協定がある、ろくな質問もされずに容易に通ることができた。
「ねぇ、どこに行くの?」
助手席に乗せられたランチはそう質問を口にしてみるが、穏やかな表情でまっすぐ前を向いたフェンネルはその質問には答えなかった。どことなく沈黙が気まずくて、ランチは必死に話題を探した。
「きっと明日の朝はマルシェは大騒ぎだね……みんなには悪い事しちゃったな」
「……帰る?」
「ううん、帰らないよ、フェンネルと一緒に行く。でも、ブーケガルニなんか、どうせあいつらすぐ帰ってくるさ、とか言いそうじゃない? ちょっとは心配してくれても……」
「他の男の話はしないでくれないか!」
思わず感情が昂ぶりフェンネルは鋭く高い声で叫んでいた。ランチは助手席で身を縮こまらせ強い困惑を面に浮かべている。
「…………ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「僕こそ、ごめん……君は、僕と来てくれるのにね……」
ちらとランチの方を見やりフェンネルが申し訳なさそうに詫びる。その表情があまりにも今すぐにでも消えてしまいそうな儚げなもので、どうしたらフェンネルは消えないでいてくれるだろうかとランチは悲しくなった。
でもきっともう止めようはないのだ。止めようとすることは簡単だけれども、まるで迷子の子供のように愛してほしいと縋り付いてきたフェンネルに一体これ以上何を言えるだろう。今までランチは呑気にもフェンネルがそこまで思い詰めている事を知らずにいたのだ。側にいる、愛を与える、他にできることなどない。フェンネルの行く所ならどこへでも共に行く。
「これから、硝子の国に行こう」
「硝子の国……? 初めて聞いた、そんな所あるの?」
「もうない、もともとないのかな……いやでも、きっとあるんだ。だから行こう」
お伽噺の中にしかない遠い昔に滅んだ国。扉も窓も閉ざした硝子の城は、フェンネルの胸の内に確かにある。そこにランチと二人で住もう、二人きりの王国を作ろう。永遠に時の止まった、今度こそ滅ぶ事はない王国を。
山頂の湖は生の匂いも音もまるでせず静寂に凪いでいる。その水底に、一台のキッチンカーが沈んでいることを誰も知らない。運転席には世にも稀な美貌の男が、助手席には愛らしい丸い顔に焦茶の長い髪の少女が座り、水底の王国から光揺蕩う水面を日がな一日眺めている。微生物すら住まぬその湖では身体が朽ちることはなく、湖の続く限り彼と彼女の王国は永遠の時を刻み続けていく。
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