I got a crush on her(リンラン)

 明日は王都のマルシェの休業日だ。もしランチに何か予定がなければ以前行こうと約束したぬいぐるみのももとくりの服選びなり食べ歩きなり、どこかへ出掛けないかと誘いたい。そう考えリンドウは休憩中のランチの姿を探して広場を歩いていた。休憩スペースには既におらず、ユーカリの話では昼食はもう済ませて行ってしまったということだった。広場を離れて近くの公園でも散歩しているのだろうか、そう思い立ち公園へと向かい歩き出すと、細い路地の入り口にランチの姿をようやく見つけた。あんな所で何をしているのだろうか、少し不思議に思いつつも近付いて行ってみると、ランチと向かい合わせに壁に背を凭れさせたフェンネルの姿もその内目に入ってきた。
「また美術館かい? まあ好きだからいいけどさ」
「今度は前の所とは別の美術館だよ! 私も初めて行く所だから楽しみだな~!」
「フフ、君にそう言われたら明日の予定は全部キャンセルだね。仕方ないから付き合ってあげる」
「えっ、何か予定あったの!? それなら別にチケットの期限はないから今度でも……」
「ぷっ、冗談に決まってるでしょ。予定なんか何もないから安心して」
「んも~フェンネル~! またそうやってからかって~!」
 少し離れた壁に背を付けて聞こえてくる会話の内容からすると、どうやらランチには明日先約が出来てしまったらしい。これ以上盗み聞きのような真似をしているのも良くないだろうと思いその場からそっと離れる。午後は足りなくなった備品の買い出しに出る予定だった。少し時間は早いがさっさと済ませてしまおうと思い広場から伸びる大通りへの道へと向かっていると、向こうからマジョラムが歩いてきた。
「あれっ、リンドウさんどうしたの?」
「……いや、どうもしないが」
「ん~? なーんか落ち込んでるっぽいカンジするんだけどなぁ……あっ、そっか、分かった!」
 何か閃いたといった様子でマジョラムが明るい声を上げる。一瞬どきりとするもののさすがにリンドウがどうしてしょげているかなど何のヒントもなく当てられる筈はないだろうと思い直し平静を装う。が。
「明日ランチ誘ってどっか行こうとしてたけどダメだった、とかじゃない?」
「……どうして分かるんだ」
「ニヒヒ、アタシにはお見通しなのっ♪ あっ、それじゃリンドウさん明日暇? アタシと一緒に買い物行かない?」
 笑いながらマジョラムが答えた内容には若干納得がいかないものの、その後の誘いの方は特に断る理由がない。流行の最先端を行く発信地である王都はマジョラムが次々目移りしてしまうようなファッション店がいくつもある。買い歩いていれば荷物も大変な事になってしまうだろうから荷物持ちを引き受けるのはやぶさかではない。
「ああ、構わない。服を買いに行くんだろう?」
「そそ、リンドウさん的にはかなり退屈かもしんないけど……」
「いや、そんな事はないぞ。女性の服の色使いの美しさなどは和菓子のアイディアの参考にもなるし生かせるからな」
「そーお? んじゃお礼にすっごく美味しいパフェ奢っちゃうから、明日よろしく!」
 リンドウが頷くと、仕事が待っているのだろうマジョラムはキッチンカーの方へと足早に駆けて行った。備品の買い出しに出る途中だった事を思い出しリンドウも広場を背にして大通りを歩き出した。

 次の日の朝、朝食が終わった後マジョラムと街に出た。今頃ランチはフェンネルと美術館を楽しんでいるのかと思うと多少胸がざわつかないこともないが、その事はなるべく考えない事にして心を無にしマジョラムの後に着いて色とりどりの女性服を見て回る。自分に似合うもの、自分の着たいものがはっきりと定まっているマジョラムは、二つの服を手にどっちがいいかとリンドウを困らせる質問をするような事もなく、鼻歌交じりに上機嫌で次々服を選んでいく。ワインレッドの服を見ては紅芋を使った菓子を作るならどんなものがいいだろうかなどと取り留めもなく考えていると時間はあっという間に過ぎていく。時刻はそろそろ昼近くなっていた。どういう訳かファッション街からは離れた方へとマジョラムは歩き出していき、そろそろかな~などと呟きながら周囲をキョロキョロと見渡している。
「マジョラム、一体何を待っているんだ?」
「んー、ちょーっちね……あっ、いたいた!」
 人の波の中から誰かを見つけ出したのだろうマジョラムは小走りに駆け出して、リンドウも慌てて後を追う。少し進んだ先には王都にいくつかある美術館のうちの一つの出入り口があり、マジョラムが駆ける先にはそこからまさに今出てきたフェンネルとランチがいた。
「おーい、ランチーっ!」
「あっマジョラム、どうしたの? 買い物?」
「うんそう、丁度今一段落ついたとこでさ、通りかかったらランチが見えたから」
「そうなんだ、奇遇だね!」
 普段から仲のいい二人は街中での偶然の遭遇に盛り上がるが、どうやらこれは偶然ではなくマジョラムが狙って引き起こした遭遇であるということはリンドウにも分かる。しかし何のためにだろう、昨日の会話の内容からすればもしかしてリンドウに気を使ってランチと引き合わせてくれたのだろうか。マジョラムを見やると、一瞬こちらに振り向きぱちりと目配せを送ってきたのでそういう事でまず間違いないのだろう。しかしこうして折角機会を作ってもらっても、それを活かせるような器用さも話術もリンドウにはない。心遣いは嬉しいが活かせそうにないのは心苦しい。
「そろそろお昼だしさ、四人でどっか食べにいかない?」
「いいね! ねっフェンネル、それでいい?」
「うん、もちろんそれで構わないよ」
「リンドウさんもいいよね?」
「……ああ」
 マジョラムに問われ頷くが、成り行きとはいえフェンネルとランチの二人の時間を邪魔するのはどうにも心苦しい。どうやらマジョラムは最初からリンドウをランチに引き合わせようとこの時間にこの美術館の前に来るように計算して動いていたようだったが、心遣いは嬉しいとは思えどもかえって困ってしまう。
「あれっ、どうしたのそのキーホルダー、カワイイじゃん!」
「へへ、フェンネルに貰ったんだ」
「へー、何か意外なチョイス……」
「僕が選んだんじゃなくて、売店でランチがじーっと見てたんだよ」
 少し前を歩く三人は、ランチの持っていたキーホルダーについて話している。売店でランチがじっと見つめていたものをこっそり買って渡すようなそんな気の利いた周到さはリンドウとは縁遠い。そんな風にできたなら、驚いた後花がほころぶように喜ぶランチの顔を見られるのかもしれない。だがリンドウが真似しようとしたところできっと上手くいきはしない、何かしら失敗してしまうだろう。ランチはそんな失敗すら笑って受け止めてくれるかもしれないが、もっとフェンネルのようにスマートに接することができたならというのは幾度思ったか分からない。今この王都のマルシェでランチと一番距離が近いのは恐らくフェンネルで、親密そうな二人が楽しげに笑い合う姿を見る度にどう言い表していいのか分からないもやもやとした感情が胸に渦巻く。これは嫉妬なのだろうかと思ったりもしたが、それともまた何か違うような気がした。二人が笑い合っているのをいい事だと思う気持ちは本当で、そこにフェンネルではなく自分がいられたらと思う気持ちは(全くないとは言い切れないけれども)そう強くはない、フェンネルを押しのけてまで自分が居座りたいと思っているわけではない。ただそれだけでは言い表しきれないはっきりとしない黒い靄のような正体のわからない感情が胸に蟠り晴れない。
 引っ掛かり吐き出せない重りのようなその正体の分からない感情を意識すると、どういう訳だか謎の後ろめたさが溢れてきて押し止められない。何一つ後ろ暗い事などしてもいないのに、どうしてこんなに後ろめたく感じてしまうのだろう。ランチもフェンネルもまっすぐ見ることができずに目線を横に逸らしてしまう。フェンネルのように女性の扱いに慣れているわけではないという気後れもあるのだろうが、それだけでもなさそうだった。このもやもやと胸に重く蟠る後ろめたいものの正体が分からない。
 近隣でランチが勧める店に入って昼食を摂る間もリンドウは言葉少なだった。元々口数は少ない方だが、マジョラムが中心になって三人が和気藹々と会話を進める中でただ一人自分でも不自然なほど黙り込んでただ食事を口に運んでしまっていた。ちらちらとこちらを時折伺うランチやフェンネルの視線を感じるが、どう応えたらいいものかは分からなかった。
「さすがランチが勧める店なだけあって美味いな」
「そうでしょ? 良かったー、リンドウにも気に入ってもらえて」
「オシャレだし料理も美味しいしいい店だよね~、でも実は他にももっと隠し玉あったりするんでしょ?」
「あはは、実はね、マジョラムと一緒に行きたいとびきりとっておきのお店があるの。今度一緒に行こうね!」
 とりあえず当たり障りのない言葉を口にすると、そこを起点に女の子二人の会話が弾む。その横でフェンネルは光を見るようにやや眩しげに目を細めて二人の会話を見守っていた。ランチとの二人の時間を邪魔されたとはフェンネルは思っていないのだろうか、やや疑問に感じたがフェンネルは食後の紅茶を飲みながら取り繕う風もなく機嫌よくランチとマジョラムを眺めている。やがてリンドウの視線に気付き、不思議そうな顔をして小首を傾げる。
「どうかした? 僕の顔に何か付いてる?」
「あ、いや……何でもないんだ、済まん」
「……なんだか、今日の君はいつもの落ち着きがないね。そわそわしてるように見えるけどどうしたの?」
「そ、そうだろうか……いつも通りだが……」
 リンドウが感情が顔に出やすい性質なのもあるだろうがフェンネルはやけに目敏い所がある。淡々と訊ねられた質問に咄嗟に答えられずに言葉に詰まる。
「ねっフェンネル、夕方までマジョラムと買い物してもいいかな? フェンネルはどうする? 帰る?」
「まさか、僕が帰っちゃったら寂しがり屋の子豚ちゃんが寂しくてブーブー鳴いちゃうでしょう」
「……そういう事言う人は帰ってください」
「あはは、冗談だよ冗談、荷物持ちでも何でもお付き合いしますよお姫様。お礼はそうだなぁ、君の知ってるとっておきの紅茶のおいしいカフェを紹介して」
「うん、分かった! そういう事ならいい店があるんだ~!」
 丁度いいタイミングでランチが話を遮ってくれて秘かにほっと息をつく。次に行く店を相談するマジョラムとランチをフェンネルは微笑んで見守っている。そこにはやはり邪魔された苛立ちや腹立たしさは見当たらないし、ランチが楽しんでいるのを心から喜んでいる風に見えた。フェンネルがランチに想いを寄せているのはランチ以外の全員が知っている事で、そんなフェンネルがランチと二人きりの時間を邪魔されたならば機嫌を損ねるのではないかと思っていたが、そうではないようだった。
 店を出る時に、会計をするマジョラムとランチより先に店を出てフェンネルにそっと近づく。
「フェンネル、お前は、いいのか……?」
「何が?」
「今日はランチとデートだったんだろう? 邪魔だったのではないかと思って」
 大真面目にリンドウは聞いたのだが、その質問を聞くなりフェンネルはぷっと噴き出し可笑しそうな顔でリンドウを見た。
「デートだなんて大袈裟だな、ランチが王宮で美術館のチケットを貰う事が多くて、僕が絵が好きだから誘われてるだけだよ。ランチが楽しい時間を過ごせるなら別に僕と二人きりにこだわるつもりはないよ。それより君こそいいの?」
「……何がだ?」
「僕とランチがデートなんてしててさ」
「それは……どうするかはランチの自由だ」
 ふぅん、とフェンネルが相槌を打ったところでランチとマジョラムが店から出てきたので話はそこでトンボ切れとなる。ランチの自由だと思っている、それは本当だ。だが心穏やかなわけではない。フェンネルに比べてリンドウは容姿が優れているわけでも気が利くわけでも楽しい話題を提供できるわけでもない。交際相手の男性として女性の目線から見ればフェンネルに比べれば劣っているところしかないだろう。そんな相手が想い人とデートに出かけて心穏やかでいられるほどリンドウは人格者ではないし、好きな人の見えない心を知りたいと願いながら知るのが怖い未熟な普通の青年だ。
 そうだ、ランチのことになるとどうにもリンドウは調子が狂ってしまう。規則正しさ、節度、規範、そういった普段重要視しているものごとがことランチに向ける感情には働かず、リンドウはただの一人の臆病で平凡な青年になってしまう。規則正しかった鼓動は乱れ、少しでも触れられたらと不埒な思いが浮かび、あの視線が心がこちらを向いてくれたならと詮無い願いが胸を占める。いくら鈍くて疎くてもそれくらいはリンドウにも分かる、ランチの心は恐らくフェンネルに向いているのだろう。ただ問題はフェンネルの心が自分に向けられていることをランチが気付いていないという点だけだ。それさえ解決してしまえばこの二人はきっと結ばれ幸せになるだろう、そんな想像をするとそれがいいのだと思いながらも胸の痛みを抑え切れない。
 フェンネルと想いが通じた方がきっとランチは幸せだ、そう理屈では思うのに心のどこかがそれを認めてしまうのを拒否している。こんな宙ぶらりんで中途半端な想いなど届く訳もない。(鈍いランチの事だから恐らく気付いてはいないだろうが)みっともないから知られたくないとさえ思っている。こんな想いなどいっそ消してしまえれば、そう何度も思ってはみたが願ったところで消える性質のものではなかった。意識の内から消そうと意識すればするだけその想いはかえって色濃く鮮明になっていく。
 忘れられぬ想いならば、いっそ何もかもを捨てて攫っていけたならば。そんな夢想が過ぎることもあるけれども、そんな事をランチもリンドウも望みはしないしただの下らない夢物語に過ぎない。
 中途半端で優柔不断な現状をどうにかしなければと思ってはいるものの、具体的にどうすればいいのかは分からないという状況だった。いっそフェンネルとランチが結ばれてしまえば潔く諦められるのかもしれないがそうなる気配もない。マジョラムはリンドウを応援してくれるつもりのようだけれども、応援してもらったからといってリンドウが自分から具体的なアクションを何か起こせるのかといえば己の事ながら甚だ疑問だった。
 先程も回った辺りのファッション街をそぞろ歩き、ランチに似合いそうな服をマジョラムが見立ててフェンネルが時折口を挟む。こういう時リンドウは何を言うべきかが分からないので口にできる言葉がない。明るい色も落ち着いた色も、どちらもランチの異なる側面を引き出すからどれがいいと選ぶ事は容易ではない。練り菓子の色を決めるようには選べない。だから、マジョラムに次々と服を宛てがわれてどれがいいかと悩みに悩むランチの姿をただ眺めるだけになってしまう。マジョラムの選ぶ服は全体的に少し派手すぎるがどれもランチによく似合っているように思われた。
 二時間ほど服を見て回っただろうか、服を何着かと靴を一足買い、休憩にしようと先程フェンネルが頼んでいたランチとっておきの紅茶の美味しい店を目指して歩く。リンドウに気を使っているのだろうかマジョラムはフェンネルに何事か話しかけて隣に並んで歩き、ランチとリンドウも自然と並ぶことになる。
「今日はリンドウも買い物?」
「いや、俺は特にこれといって買い物はない。マジョラムの荷物持ちのつもりで来た」
「へぇ~、でも退屈じゃない? よく言うじゃない、女の買い物が長すぎて男の人は待ってる間に退屈しちゃうって」
「女性の服の色使いやモチーフは美しいだろう? 見ていると和菓子のアイディアの参考にもなるし一緒に回るのは嫌いではないな」
「なるほど……なんかリンドウらしいね、真面目な理由……!」
 感心したようにうんうん頷くランチの顔を見ていると何故だか妙に可笑しくなってくすりと微かな笑いがリンドウの喉から漏れた。それを見てランチの顔がぱっと輝く。
「あっリンドウ、今笑った!」
「少しだけな」
「でも今の笑顔はすっごく自然でいい感じだったよ! この調子で頑張ろ!」
 きらきらと目を輝かせて熱弁するランチに、自然に笑わせてくれるのはお前なのだと、お前の前だから素直に笑えるのだと今すぐにさらりと言えたなら何か変わるだろうか。或いはその手を取って一世一代の告白のように熱を込めて告げれば何かが変わるだろうか。己はまだ未熟な修行中の身の上だからというのを言い訳にして、リンドウは本当の事を言うのを先延ばしに先延ばしにしている。そうして手を拱いている間に手遅れになってランチが手の届かない所へ行ってしまうかもしれないのに。こうして笑いかけられる度に、手を取り抱き寄せ想いの丈を囁きたい衝動に駆られるのにそれを実行に移す意気地のないまま時をやり過ごしてしまう。職人として未熟な己では他人の人生を引き受ける事などまだ出来ないのだと言い訳をして、胸を痛ませる代わりに勇気を揮わず。そんな卑怯者のリンドウにも、何の別け隔てもなくランチは優しく笑いかけてくれる。最近はその暖かな笑顔を向けられるだけでもう己の意気地の無さに胸がじくりと痛む。
「それにしてもマジョラム随分一杯買い物したんだね、重くない?」
「この程度どうということはないが、問題は嵩張る事だな……横にいてぶつかったりはしていないか?」
「うん、大丈夫だよ。もうすぐお店着くから、あっでもリンドウはコーヒーの方が好きなんだっけ……紅茶専門店なんだけど」
「紅茶も嫌いではない、故郷ではよくジャムやブランデーを入れて飲んだものだ」
「へぇ~、紅茶にジャムとか入れちゃうんだね、工業の国ってチューブ食のイメージしかなかったからなんか新鮮!」
「ジャムは保存が利くから暖かい地方で作られた物が入ってくるんだ。入れると香りもよくなるし体が温まるぞ。いつか俺の故郷に行く事があったら飲んでみるといい」
「うん、そうだね!」
 話している内に目的の紅茶専門店に辿り着き、リンドウはフェンネルと、ランチはマジョラムと向かい合わせに四人掛けの丸テーブルを囲んで座る。アールグレイを頼み紅茶が来るまでの間ランチとマジョラムのお喋りを聞くともなく耳にしながらぼんやりと物思いに耽る。
 いつまでも今のままではいられないだろう。この中途半端な関係もいつかは状況に応じた適切なものへ変化していくのだろうし、そもそも王都のマルシェ自体が期限付きの仕事だ。ランチとの別れはそう遠くない未来に確実にやってくる。その時フェンネルはどうするのだろう。
 リンドウは恐らく何もできはしない。どこか誰の手も届かぬ所へ今すぐ連れ去りたいとさえ願いながら、未熟な我が身ではと二の足を踏んで行動など何も起こせない。そんな事ではフェンネルを含めた誰か他の男にみすみすランチを渡す事になるだろうと分かっていながら、それでも無責任な事などできはしないから身動きが取れない。ランチに相応しいと己で認められるような一人前の職人になるにはきっとまだまだ長い年月がかかる、だがそれまで待っていてくれなどと勝手な事を言えはしない。
 しばらくの後紅茶とデザートが運ばれてきて、ランチとマジョラムのお喋りに時折フェンネルが相槌を入れたり疑問を挟んだりするティータイムが流れていく。三人の会話を聞くとはなしに耳に入れつつ一人だけどこか隔絶されたように感じながらリンドウは香りのいい紅茶を啜った。
「でもさ、さっきのドレスは絶対オレンジがランチに似合ってたよ」
「僕は水色が似合ってたと思うけど、ランチはどれが良かったの?」
「どうせドレスなんて買っても着ないから……でもそうだなぁ、私はあの中なら紫がいいかなって思ったんだけど」
「はぁ? あのおばあちゃんが着るみたいな紫? あれだけはありえないわ……」
「……僕もそう思うよ、紫だけはないね」
「ちょっと、聞いてた? どう思うリンドウさん」
 マジョラムに突然話を振られはっとなる。先程の店でかわいいからとどの色がいいかマジョラムが悩みに悩んでいたものの結局買っても着る機会がないというランチの言葉で買わなかったドレスの話だろう。
「……あの紫は確かにあまり似合わないと思うが、俺はあの中なら緑が一番似合っていたと思う」
 深いビリジアングリーンのエンパイアラインのドレスをあの場でリンドウは見つめていた。それを着たランチがどんなに美しいだろうかと想像しながら、ダンスなど少しも踊れはしないのに夜会でダンスを踊る様子まで夢想して。
「緑かぁ、上級者向けの色来たね、でもあの緑は確かに悪くないかも……?」
「確かに悪くないね。まあ水色の方が映えてたと思うけど」
 マジョラムとフェンネルが思い思いの感想を述べるが、リンドウにまで紫はないと言われたランチはやっぱりなという顔をしていた。王宮の美観を損ねるという理由で私服を全部サフランに処分されてしまったという曰く付きの過去を持っているだけあって、自分のセンスの悪さは自覚はしているのだろう。
「ランチは絶対に一人で服買っちゃダメよ、いい、絶対だからね! できればアタシと一緒に買って!」
「マジョラムが空いてない時はユーカリでも僕でもいいから、とにかく一人で買っちゃ駄目だよ」
「あはは……」
 一人では服を買わないようにきつく言われるまでがこのパターンのセットだ。困ったようにランチが笑うのを、何とかしてやれたらいいのにと思いつつリンドウは眺めた。マジョラムやフェンネルのように似合う服を選んでやれるわけではない、リンドウにはしてやれる事がない。例えば万一ランチと交際を始めたなら一緒に服を選ぶような場面もやってくるだろうか、それともランチは女友達に服を選んでもらうだろうか。考えても意味のない仮定ばかりが浮かんでは消えていく。
 自分はランチとどうなりたいのだろう。まずそこからしてリンドウは己の気持ちを測りかねていた。結婚を前提とした交際、と一口に言ってみたところで具体的なイメージはまるで湧かない。ただ、この人と将来を誓いたい、それだけしか確かに思える気持ちはない。
 一時もじっとしていなくていつも忙しく働き回っていて、感情表現も豊かで表情もコロコロと切り替わり、いつでも元気で明るくてまるで元気を分け与えてくれているようで、とんでもない奇抜さだけれども味は確かな料理のアイディアがいくらでも湧き出してくる。静かな世界で育ってきたリンドウから見たらランチは、驚くほど生命力や躍動感に満ち溢れた今まで会った事のないタイプの女性だった。そしてそのランチは無愛想でとっつきにくく思われがちなリンドウにも何ら臆することなく接してきて、他のシェフ達と打ち解け合うきっかけをくれたり、笑顔が苦手なリンドウに人と接するに当たっての自然な笑顔を少しずつ教えてくれたりしている。ランチには人に元気を与えて人を変える不思議な力がある、そんな風にリンドウには思えた。少なくともリンドウはランチとの出会いがきっかけで自分が変化していっているという自覚があった。
 できる事ならばランチが自分にいい影響を及ぼしてくれているように自分も何らかの影響をランチに与え、高め合っていけるような関係でありたい。そうして二人で歩んでいけたならどんなにいいだろう。そんな風に思うようになるのにそう時間はかからなかった。だがそれは交際という形を取らなければ為せないことだろうか。仲間のままでも充分なのではないだろうか。そんな風に疑問を抱いているのも事実だった。しかしそうして心に問うてみれば、仲間としてではなく想い人としてランチと相対していきたいのだと心のどこかで願っているのを確かに感じてしまう。
 己の抱いているこの気持が恋愛感情というものなのだと気付くのにまず随分と長い時間を要した。世界樹のマルシェで働いている間は己の感情の正体が分からず、他の女性に対するのとは違うランチにだけ抱く感情に戸惑っていた。借金の返済が終わり世界樹のマルシェが解散となりランチと離れて己の感情を冷静に見つめられるようになって初めて、自分の抱くこの感情が恋愛感情というものではないのかと思い至った。だから王都へと呼ばれた時には随分と緊張して気合いも入りすぎ、結果として駆け付けるのが遅くなったりもした。
 王都のマルシェで働いていて困るのは、ランチとの近すぎる距離だった。ランチにはパーソナルスペースという概念がないのだろうかと思えるほどひょいっと距離を詰めてくるので、ランチに対して恋愛感情を抱いていると自覚してしまったリンドウは世界樹のマルシェで働いていた頃以上にランチの近すぎる距離にドギマギし戸惑い困り果てる。甘い石鹸の香りが鼻をくすぐると、いけないといくら己に言い聞かせても不埒な感情を抱いてしまいそうになる。
 ランチといると平静でいられない、いつもの自分を保ちきれない。この感情を持て余してしまっているのは事実で、己の未熟さを強く思い知らされる。リンドウはまだ、ランチに相応しい男にはなれていない。
「リンドウ? そろそろ行くよ?」
 ランチの声にはっと顔を上げる。他の三人は既に席を立っていた。ああと短く答えてリンドウも席を立ち荷物を持つ。夕方まではまだまだ時間がある、もう少しランチの服見てもいい? というマジョラムの希望にリンドウは快く首を縦に振った。フェンネルも乗り気の様子で、服を選ぶ当の本人である筈のランチだけが困り果てている。
「いいよもう、私の服は一杯見たよ~……」
「何言ってんの、まだまだこれからなんだからね! 今日は絶~っ対に! ランチに似合うヤバカワな服探し出すんだから!」
「フフ、マジョラムもこう言ってることだし諦めて観念しなよ。僕も君がお洒落するのには賛成だな」
 二対一ではランチの分が悪い。料理ばかりではなく服装にも少しは興味を持った方がいいだろうとは思うのでリンドウもランチの味方に付く気はない。情けない顔をして助けを求めるようにランチがこちらを見てくるのでつい苦笑が漏れる。
「諦めろ、それに身なりに気を使うのは悪いことではないだろう。マジョラムの見立てなら美観を損ねるとサフラン女史に捨てられる心配もないだろう?」
「それは、そうだけど……うぅ~…………」
 尚も何か言いたげなランチを尻目に三人は歩き出してしまうのでランチも仕方なさげに着いてくる。追い付いてきたランチはまだ情けない顔をしているのでくすりと再び笑いが漏れた。食の事にならばとてつもなく一途に真剣になるというのにその他の事には驚くほどランチは無頓着だ。だがそれは、一つの事に夢中になると周囲が見えなくなってしまう己の悪癖ともどこか通じるような気がして親近感さえ湧くし、より美味しい食の追求という点においてリンドウとランチの向いている方向は同じだ。ランチとなら同じ道を並んで、互いに高め合いながら歩んでいける、この人しかいないという思いは日々強くなる。
 いつかはリンドウも思い描いた己の望む姿になれるだろうか。職人として一人前であると誇りを持ち、ランチと隣を並び歩いても恥ずかしくない、些細な事では平常心を崩さない、そんな男に。いや、なれるだろうかではなくならなくてはならないと、そう思う。そんな男になれるような遠い未来、その時までランチが待っていてくれている筈などないのだとしても。
 目指したい道を突き進もうとすれば、王宮で王家の毎日の食事や国賓のもてなしなど重要な仕事を担うランチとは離れなくてはならない。あの日ルエラニの広場で師匠の和菓子に出会った時これこそが何を擲っても取り組みたい一生の仕事なのだと強く思った事は昨日の事のように思い出せる。だが、そのリンドウの中で何よりも重く何物にも代えがたい思いと天秤に掛かるほどにランチの存在はリンドウの中で大きくなっていた。
 世間一般で男性が嫌がると言われる程にはリンドウにとってはそんなに苦にならないが、マジョラムのようなお洒落に人一倍気を使う女性の買い物はとかく長い。あれこれ取っ替え引っ替え服をランチに当ててはああでもないこうでもないと考え込むのを、いくつもの店で繰り返す。フェンネルはこういう機会も多いのだろう、さすがに慣れた様子でリンドウ同様あまり気にした様子もなく真剣に服を選ぶマジョラムと困惑気味のランチを穏やかに微笑んで見守っていた。
「お前は、選んでやらないのか」
 口に出してしまってからどうしてこんな質問をしてしまったのだろうと自分でも戸惑うような問いがリンドウの口から零れ落ちた。気まずい気持ちでちらと目線を横のフェンネルに送ると、フェンネルは穏やかな微笑みを崩さぬままリンドウを見た。
「そういうの趣味じゃないから、かな。女の子が僕の為にあれこれ考えて自分なりのお洒落をしてくれる方が好きなんだ。それに、せっかく楽しんでるマジョラムの邪魔をしたら悪いだろ?」
「お前に選んでもらった方が、ランチも嬉しいと思うが……」
「そんな事ないよ、多分ね」
 答えてフェンネルはリンドウからすっと目線を外したので、フェンネルの言葉の意味をリンドウもそれ以上深くは追及できなかった。リンドウにはランチがフェンネルに好意を抱いているように思えるが、フェンネルはそうは感じていないのだろうか。リンドウの問い掛けの意味が分からないフェンネルではないだろう。わざとはぐらかしているのか、そうでなければ本当に自分が選んでもランチは喜ばないと思っているのか。
 フェンネルならばきっとランチによく似合う服を選んでやれるだろう。ランチがお洒落に無頓着なのは事実だが、自分に似合う服を選んでもらって嬉しくないはずはないだろう。ランチが喜ぶのならばその方がいい、自分でも己の思いをどうすればいいのかよく分からないままリンドウはそれ以上何も口に出せずにマジョラムとランチがようやく選んだ服を会計しているのを店の入り口の辺りに移動して待った。
 ランチが誰に対し何をどう感じ考えているのかを知ることができればこんなに思い悩む事はないのかもしれないが、直接問い質すのも知るのも怖かった。もしただの仕事仲間と思われていたならば今度こそ本当にどうすればいいのかリンドウは分からなくなってしまうだろう。修行中の身で色恋にうつつを抜かしている場合ではないのだといくら己を戒めようとしても、湧き出して膨れ上がり胸の中で大きく重い存在を占めるに至った想いを消し去ることなどできなかった。夢と恋、両立しない二つの思いが胸の内の秤を揺らして釣り合わない。こんな情けない男よりはフェンネルの方が、と情けなくいじけた感情をつい抱いてしまう。
 そろそろ陽が暮れかけていた。広場へと帰り道を辿る道すがらもマジョラムはフェンネルに話しかけて少し先を歩き、その少し後ろをリンドウはランチと並んで歩いた。
「ねえリンドウ、次の休みは何か予定ある?」
 唐突にそうランチに問い掛けられ、咄嗟に返す言葉に詰まりリンドウは固まった。予定は何もない、そう答えればいいだけなのに栓でもされたように喉から声が出てこなかった。
「……リンドウ? どうかした?」
「あっ……ああ、いや、大丈夫だ。次の休みの予定は何もないが、どうしたんだ」
「そっか! じゃあ一緒に買い物付き合ってくれるかな?」
「……買い物? 今日しただろう」
「違う違う、私の買い物じゃなくて、ももとくりのお洋服! 今度選ぶの付き合ってほしいって言われてたのにまだ行ってなかったから」
 ランチの言葉を呑み込み意味を理解するのに数秒を要し、間抜けにもぽかんと口を半開きにしてランチを見つめてしまったリンドウは、己の醜態にはっと気付くやいなや咄嗟に口を閉じ、高鳴る鼓動を悟られまいと必死に平静を保とうとしながら口を開いた。
「あ、ああ……そうか。済まないな、忘れていたわけではないのだが、ランチにも色々都合があるだろうしと思ってな……」
「大丈夫だよ! お休みの日って仕事がないから何か落ち着かないっていうか、何していいかよく分かんないから出掛けたりする約束があった方がいいの。ぬいぐるみの服ってきっとすごく可愛いんだろうなぁ」
「ああ、そうだな……」
 これは約束を違えてはいけないという義務感からの言葉なのだろうか、そんな邪推が約束を忘れずにいてくれたのだという嬉しさを素直に表すことを阻む。曖昧に笑みを浮かべてリンドウは前に向き直った。
 どうすれば自然に笑えるのか、可愛らしさとはどういうものなのか、リンドウに足りないものをランチは教え与えてくれる。だが逆にリンドウがランチに返せているものなど何もない気がした。己に出来うる限り精一杯に仕事に励んではいるが、それは当然の事だ。リンドウがランチに与えられる物やしてやれる事など何も思い浮かばない。与えられるばかりの己の未熟さと情けなさが身に沁みて思わず目線を伏せる。
「えへへ、リンドウとお出かけするの楽しみだな~!」
「……期待してくれるのは嬉しいが、俺にはお前を楽しませてやれるような立ち居振る舞いはできんし、退屈なだけかもしれんぞ…………」
「それは、違うよ、リンドウ」
 鬱屈とした気持ちのまま目線を上げられずに呟いたリンドウの言葉に答えたランチの声は、静かだけれども不思議な力強さがあった。思わず顔を上げてランチの方を見やると、ランチは優しく微笑んでリンドウを見つめていた。
「私はね、ただリンドウと何かするのが楽しいだけなんだよ。リンドウが私を楽しませてくれるからとかじゃなくて、リンドウと一緒に何かできればそれだけでもう楽しいの。リンドウは違う?」
「……俺も、そうだ」
 真剣な眼差しに幾分気圧されながら躊躇いがちに答えると、ランチはぱっと相好を崩しにっこりと明るく笑んだ。
「えへへ、よかった~、違うって言われたらどうしようかと思っちゃった! 私は楽しいけどリンドウは楽しくなかったらどうしようかなって、ずっと思ってたんだ」
「済まん……そういう感情を表現するのが、どうも不得手で……お前と仕事をしたりどこかに出掛けたりするのは…………楽しいし、好きだ……」
「本当? じゃあ今度、王都のお菓子屋さん巡りとかしよう! リンドウに食べてもらいたいお店一杯あるんだ!」
「お、おい……一度にそんなに沢山は食べられんぞ」
「大丈夫、結構歩くし、それに一度で食べ切れなくても何度でも行けばいいんだもん。もちろんリンドウが嫌じゃなければだけど」
「嫌なはずなど……ないだろう…………」
 一度きりではなく何度でも、その言葉の甘い響きに痛みに似た疼きを胸に覚えて顔を背けランチから目線を逸らす。
 これは決してリンドウにだけ向けられる言葉ではなく、ランチはきっとマルシェの誰にでも同じ事を言うだろう。そんな思いから生じる痛みも甘い疼きと混ざり合う。素直にランチの言葉を受け取れず悶々としてしまう自分に腹立たしさすら覚えるのに、感情を少しもコントロールできない。
「じゃあ約束だよ、王都スイーツ食べ歩き!」
 そんなリンドウの胸の内など知る由もないランチは、一点の曇りもない笑顔でリンドウに笑いかけてくる。ランチの笑顔が紅い夕陽に照らされて、そうしてまた一つ約束が増えていく。ランチと共に見たいものは沢山あって、ランチと一緒にしたい事も沢山ある、その一つ一つを余さず約束にしてしまえば近い内に離れてしまってもリンドウの事をランチは覚えていてくれるだろうか。ふと浮かんだ問いを馬鹿馬鹿しいと頭の隅に追いやる。
 そんな事をしなくてもランチはリンドウを忘れはしない。六人の仲間の内の一人としてかもしれないが、リンドウのことを大切に思ってくれるだろう。それでは満足できないと欲をかいてしまう己の強欲さこそ戒められるべきだ。それに、約束などでランチを縛ってしまってはいけない。ランチにはどこまでも自由にのびのびと在ってほしい、それも胸の内にある正直な願いだ。
 きっと可愛い和菓子の参考にもなるから、と行きたい店や菓子の事を楽しそうにランチが話し、リンドウはそれに耳を傾け時折相槌を打ちながら歩く。フェンネルがランチのことをよく料理バカと評するけれども、そんな真っ直ぐさこそ愛おしい。奪い去りたいという激情と愛おしむ穏やかな感情が混ざり合わずに胸の内に同居している。同様にフェンネルと結ばれた方がランチにとってはいいのだと考える自分と譲りたくない自分がどちらも同時に存在して、様々な感情の奔流が胸の内で荒れ狂ってリンドウを悩ませる。
 師匠は人と出会えと言ったけれども、こんな感情までリンドウに教えようとしていたのだろうか。胸が張り裂けてしまいそうなほど悩ましく苦しい、それでも捨てられずに縋ってしまうこんな感情を。故郷にいて外交官となり見合いでもしていれば知る事などなかったであろうこんな感情を。己の心を深く知らなければ何を表現したいのかも見えはしない、そんな事では人の心に響く和菓子を作れはしないだろう。その為にも多くの人と出会う事は確かにきっと必要だった。だがランチとの出会いが己にとって良かったのか悪かったのかをリンドウは未だはかりかねていた。
「回る店はやっぱり和菓子中心がいいかなぁ? サムライの国の店の支店が結構出てるから、きっとクォリティは高いだろうし……でもリンドウ独自の方向性を探るなら洋菓子を見て回るのもいい刺激になりそうだよね……うーん迷う……」
「俺も王都の地理については一通り学んだが、昔から住んでいるランチには土地勘ではやはり敵わないだろう。店選びは任せる」
「えっ! そう言われちゃうとなんだか責任重大な気がしてきた……うーんどうしよう……」
「回りきれなくてもまた行けばいいのだろう? 好きな店を選べばいい、ランチのお眼鏡にかなった店なら信頼できる」
「そっかな、えへへ、なんか照れちゃうなー。よーし、リンドウをあっと驚かせるようなお店選んでおくから!」
「ああ、楽しみにしている」
 話している間に広場へと帰り着き、ランチは荷物を持っているフェンネルと王宮の自室へと別れていった。マジョラムと共にリンドウもマジョラムのキッチンカーへ荷物を置きに向かう。
「どうリンドウさん、うまくいった?」
「……そういう気遣いは、今後は無用だ。だが気持ちはありがたかった」
「ほんっとカタイねー、でもまあそういうとこが信頼できるんだけどさ。アタシはフェンネルよりも断然リンドウさんにランチの事任せたいって思ってるから、これからも勝手に応援しちゃうからね!」
 ニヒヒ、と笑って悪戯っぽくウインクをしてみせるマジョラムに苦い顔をしてみせるが効果は全くなさそうだった。応援してくれる気持ちは本当にありがたいけれども、リンドウは修行中の身で、踏ん切りも付かず懊悩してばかりの不甲斐ない、応援されるに値しない男だ。この想いをランチにもし伝えられる日が来るとしても職人として己が生涯やっていけると手応えを掴んだ時の話になるだろうし、それがどれほど先になるのかも今はまだ分からない。
 伝えられると思えるその日が来るまでランチがもし待っていてくれたなら、その時は目の前にどこまでも続く果てない道を並んで共に歩んでいくのはお前しかいないのだと伝えたい。
 想いを伝えられる日が、いつか来るだろうか。その願いを叶える力がリンドウにはあるだろうか。今はまだ分からないけれども、ランチに相応しいと思える男になる前にランチは誰かのものになってしまうかもしれないけれども、もし間に合わなかったとしてもそれでもリンドウはランチに相応しい男になりたい。これならばランチの隣に並んで恥ずかしくないと思える男になりたい。
 目の前の目標は王都のマルシェの成功だけれども、遥か彼方遠い極北の星まで登りつめたいという生涯を賭けた願いの途中に、ランチの隣に並べる男になりたいという目標が新たに加わった。一歩一歩確実に歩みを進めていくしかないけれども、歩く道の先には今とは違う自分が待っている。そう思えるようになったのは、自分を変えるきっかけをくれたランチがいたからだ。
 物事を四角四面に捉えすぎてマニュアル通りにしかできなかったリンドウにとって、ランチとの出会いは本当に衝撃的なものだった。固定観念を悉く覆され、料理とは、和菓子とはもっと自由であっていいのだということを痛いほど認識させられた。師匠の和菓子との出会いはリンドウの世界を一瞬にして鮮やかに彩ったけれども、ランチとの出会いもまた師匠との出会いに負けぬほどの重みでリンドウの視界を一気に広げた。人との出会いが世界に対する己の認識を変えていく、故郷を出て各地を回り多くの人と出会ってそういう事は本当にあるのだと実感しているが、その中でも師匠とランチとの出会いは特別なものだった。
 出会えただけでも感謝し切れないほどなのに、それ以上を望んでしまうのは高望みだろうか。それでもリンドウは、この想いを捨て去ることができない。吐き出せぬままに日々想いは募りどんどん重く深くなっていく。ランチの笑顔を見る度に暖かさと穏やかさと胸の詰まるような痛みと切なさを感じて、どうしていいのか途方に暮れる。どこまで好きになっていってしまうのだろう、果てのない事に空恐ろしささえ覚える。恋というものはこんなにも辛く苦しくそして余りにも魅惑的で甘やかであるということを、ランチと出会うまでは知る由もなかった。
 ランチといると、世界が日々新しく書き換えられていく。リンドウが気付いていなかった変化をランチが見せてくれる。できれば自分もランチにとってそういう存在になりたかった。今のままでは足りないのにいつ辿り着けるのだろう。気ばかりが焦る。それでも忸怩たる思いを抱えながらも、リンドウは一歩一歩足を踏み出し前に進むしかない。
 もうすぐ一日が終わる。そして昨日までと同じようでいて少しずつだが確実に違う明日が来る。時が流れていくのに取り残されないように前へ前へと進むしかない。その道の彼方こそリンドウの目指している場所なのだから。
 マジョラムのキッチンカーに荷物を運び入れるとブーケガルニが手を振りながら小走りに駆け寄ってきた。おーい飯だぞー! とよく通る声で呼びかけられ、その声の大きさにマジョラムが呆れ切った溜息をつくので苦笑が漏れる。
「そんな大声で言わなくても聞こえてるわよバカ。こんな奴放っといてご飯行こリンドウさん」
「ちぇ~、バカはねえだろバカは、せっかく俺様が呼びに来てやったのによ~!」
「ブーケガルニも戻るんだろう? 一緒に行けばいい。二人とも少しは仲良くしろ」
「いくらリンドウさんの言葉でもそれはムリ」
「即答かよ~! なんでだよ~!  俺様は仲良くする気マンマンだぜ~?」
「ゼッタイヤダ! 寄ってこないでよ!」
 仲がいいのか悪いのか分からない二人のやりとりの賑やかさにぐるぐると頭を巡っていた鬱屈さも晴れていた。行くぞと声をかけリンドウは歩き出し、少し遅れて後ろを喧々囂々たるやり取りが追いかけてくる。
 王都のマルシェももう目標売上まで後一歩のところまで来ている。終わりと別れは確実に近付いてきている。他のシェフ達とはそこここで顔を合わせる機会があるかもしれないが、王宮に勤めるランチとはそれも叶わない。結論を出せぬまま別れることになるのだとしても、この想いを抱き続けたままランチのいない日常へと戻っていくのだとしても、それでも別れは確実にやってくる。
 いつもと同じようでいてこの日今この時しか見られない美しく澄み渡った橙に染まった夕暮れの空の下、仲間達の待つ食卓が見えてくる。たとえ待っているのが別れでも、どれも同じようでいてその実一つ一つ違う一日一日を心に刻みながら果たすべき仕事を果たすだけだ。今のリンドウにできるのはそれだけだった。
 この気持ちにいつかはもケリをつけなければならないだろうけれども、今はまだこのままで。かけがえのない仲間達との忙しくも賑やかな日々を、精一杯に楽しんでいきたい。それからの事はその後考えよう。
 今はまだ、このままで。

 十年一昔というがそれでも昨日の事のように鮮明に蘇ってくる記憶の鮮やかな彩りに、過ぎし日のかけがえのなさを思う。
 ぼんやりと物思いに耽っていると、カフェのテーブルの向かいに腰掛け熱いコーヒーの入ったカップを口元に当てたランチが不思議そうにリンドウを見ていた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない……少し昔の事を思い出していただけだ」
「えー、気になる。ねぇ、何思い出してたの?」
「そんなに面白い話じゃない。昔の俺は己の未熟さに引け目ばかり感じて臆病だったというそれだけだ」
 答えるとそうかなぁとランチは僅かに首を捻った。本当に気付いていなかったならそれはそれで大したものだと妙な苦笑いが漏れる。
「俺は昔、お前はフェンネルのことが好きなんだろうとずっと思っていた」
「えっ、ええっ? うーん……そんな風に見えてた? 確かにフェンネルは大事な仲間だしフェンネルの気持ちもいくら私が鈍感でも気付いてたけど……でも」
 そこまで言ってランチは言葉を切りやや俯く。続きの言葉をリンドウは何も言わず静かに待った。
「こういうのって、何でとかどうしてとか、そんな理由なんてなくって気付いたら好きになってるものじゃないかなって……私の場合はそれがリンドウだったの」
「そうとは分からなかったぞ。最後の夜に待っていてくれと言い出すのには随分と勇気を振り絞ったものだが……」
「そうかな、私結構分かりやすく顔に出ちゃうタイプだと思うんだけど……」
 口を尖らせ考え込むランチを見てリンドウは軽く苦笑を漏らした。確かにランチは考えていることがすぐに顔に出るし分かりやすい、それは事実だ。だがあの頃のフェンネルとブーケガルニとリンドウそれぞれに対する接し方には大きな差はなく、距離が近くてリンドウが照れて慌てふためく事はあってもランチは涼しい顔をしていたのだから分かれという方が無理というものだ。
「……例えば、ルエラニでお前が氷の上で滑って抱き止めた事があったろう。その時もそんな素振りは一切なかったと思うのだが」
「ええっ? あれ、私すっごくドキドキしてたよ! その……リンドウ、鍛えてるし……触ったら、それが分かっちゃうから……」
「……そんな風には、見えなかった……がな……」
 その時の事を思い返し二人とも照れて頬を赤らめ言葉を失う。えへへ、ごめんねなどと言いつつ涼しい顔をして笑いながらランチは普段通りの態度だったのだ、そんなに胸を高鳴らせていたなど初耳だし想像もしていなかった。それどころか自分は異性として意識されていないのではないかとすらリンドウは思っていたのだ。世界樹のマルシェの頃ミツバに色気が足りなくて異性として見られないとズバリと言われた事を実はずっと気にしていたのもあり、ランチにも同様に思われているのではないかと考えていたのだがどうやら違ったようだった。それはそれで違うと分かって良かったのだが、それにしても顔に出やすい筈のランチの様子の変化のなさはやはり腑に落ちない。
「その……妙な質問だが…………お前は、いつ頃から、俺のことを、その……」
 はっきりと口に出せずに言葉を濁し気味にリンドウは質問を投げかけた。まんぷくマルシェ解散前日の夜、なけなしの勇気を振り絞って己の気持ちをランチに伝えた時にあっさりと受け入れてもらえたことにリンドウはいたく驚いていたが、それから八年もの間一切の連絡を敢えて断っていたこともあり、いつ頃からだとかなぜだとかランチの気持ちの詳細については知らず仕舞いだった。本当にランチが待っていてくれたならば、その時に聞けばいい。待っていてほしいとは言ったもののその約束でランチを縛りたくはなかったから、もしランチが待ちきれなかったとしてもそれでいいと思っていた。だがランチは待っていてくれた。沢山の仲間たちと共に過ごした忙しくも楽しかった日々の頃の心持ちのまま大人の女性へと成長して。
 ランチの気持ちが分からず言動に一喜一憂していたあの頃の煩悶も懊悩も無駄ではない。そんな気持ちを知ることも人としてのリンドウの成長の為には必要だった。そしてこれからは、ランチのことをもっともっと深く理解していきたい。人生を誰かと共に歩んでいくということは楽しいばかりではないだろう。理解し合えないことに苦しむこともあるかもしれない。それでもリンドウは理解し知りたい、誰よりも深く深く愛するこの女性のことを。
「いつ頃からかぁ……そうだなぁ……さっきも言ったけど気が付いたら好きになってたんだけど。王都のマルシェで一緒にオーロラを見ようとしたり、私が風邪の時に雪だるまを作ってくれたりとか、ルエラニでは夜遅くまでお菓子の試作をして休憩にお月さまを一緒に見上げたりとか、色々あったじゃない。そんな事の積み重ねかなぁ。私ね、リンドウにずっと憧れてたんだ」
「お前が、俺に……?」
「誰よりも和菓子作りが大好きで、真っ直ぐで、脇目も振らないところ、すっごく憧れてたんだよ。私もそういう風に料理の事好きでいたいなぁって」
 ランチのその言葉に思わず苦笑が漏れる。それはリンドウの台詞だからそのままそっくりお返ししたいところだった。フェンネルの言葉を借りるならば料理バカのランチは、料理のことになると何もかも忘れて夢中になってまるで子供のようにきらきらと目を輝かせ楽しそうにするというのに。
「それなら、あの頃からお前は誰よりも料理の事が好きだったろう」
「うん、そうなんだけど……でも、それでもやっぱりリンドウは、私の憧れだったんだよ」
 まるで美しい夢でも見るみたいにうっとりと、ランチは優しく微笑んだ。
「待ってて本当に良かったなぁ。こうやって一緒にいられるのがなんだか夢みたい」
「俺もだ。待っていて貰えなくても仕方ないと、そう思っていたからな」
「私だって約束はちゃんと守るよ? 一番大切な人との、とっても大事な約束だもん」
 ズバリと直球でものを言われ、返す言葉に詰まってリンドウは再び顔を赤らめ黙りこくった。どうしてそうお前は、そう言ってやりたいが喉に何か詰まってしまったかのように言葉が紡ぎ出せない。
「ねえ、これからどうしよっか。リンドウが来るって信じてたから、王宮は近い内に辞める予定になってたの」
「……うむ、そうだな。ランチが王宮を辞めるまで俺は広場で商売でもしていよう。近日中に、お前のご両親にもきちんとご挨拶に行きたい」
「うん、勿論! お父さんとお母さんにはもう話してあるから都合の合う日を二人で後で決めよ。うちのお父さんすっごく心配性なんだけど……リンドウならきっと大丈夫だって思ってくれると思う」
「そうか、だがくれぐれも失礼のないようにせねばな。ご挨拶用に服も新調しよう。選ぶのを付き合ってくれるか?」
「うん! えへへ、久しぶりのデートだね」
「デー…………と、とにかく! そういう事だ! ところで、休憩時間は大丈夫か? そろそろ戻らないといけないのではないか?」
 言われてランチはカフェの壁にかかった時計を見てはっとした顔をする。
「ほんとだ、そろそろ戻らなきゃ。ごめんね?」
「気にするな。俺は広場にいるからいつでも会いに来てくれ」
「うん、今日仕事終わったら行くね! じゃあまた後で!」
 言いながら慌ただしく席を立ち、ランチは店の外へと駆け出していった。こういう慌ただしいところは変わらないのだなと微笑ましく思い笑みが零れる。いつだってじっとしていなくて忙しなくだけれども心から楽しそうに立ち働いて、向日葵のようなとびっきりの満開の笑顔を見せてくれる恋しい人。その人とこうして再会しこれからの人生を共に歩んでいくのだという事にまだ実感が持てないが、紛れもない事実なのだ。実感はこれから少しずつ噛み締めていけばいい、今はただ、胸を満たす愛おしさを感じていたい。
 客もまばらな午後のカフェの陽光の射し込む席で、これが幸せと呼ばれるものなのだろうかと湧き上がる暖かな感情にじっくりと浸りながら、リンドウはカップのコーヒーをゆっくりと飲み干した。

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