警視庁公安部公安第五課・未詳事件特別対策係。通称『ミショウ』と呼ばれるその課は、庁外の人間には容易に存在を知られる事はない。
 決してその存在が隠匿されているという訳ではない。ミショウは所謂「島流し先」的な位置付けにあり、割り当てられた部屋も一般人は容易には辿り着けない所にあるというのが理由の一点目。様々な課をやり過ごして進み、廊下の奥に、貨物用の無骨なエレベーターがある。それに乗り上へと上がると、何かの倉庫にでも使っていたような換気の悪いがらんとした部屋に出る。そこがミショウだった。
 理由の二点目は、一般人は通常関与し得ない事件ばかりを扱っている、という事にあった。
「ありえないありえない、あーりーえーなーいーっ!」
 ミショウ所属・当麻とうま紗綾さや警部補は、現場検証で撮影されたと思しき写真をばたりと机に叩きつけて、右の手でがりがりと頭を掻いた。
 丹念に櫛梳かれたわけではなかった長い髪が、更にぐしゃりと乱れる。
「お前の大声が有り得ない、黙れ」
 当麻の斜め向かいの机に背筋を伸ばして座った、丸刈りのひょろ長い男――瀬文せぶみ焚流たける警部補が、首を四方八方に振る当麻にぎょろりと目線を向けた。
「はぁ? 全っ然大声じゃないし。つうかこっち見んな」
「誰もお前の顔なんか見たくない、ふざけるな」
「まあまあ二人とも、落ち着いて。当麻くんは糖分が足りないんじゃないですか? ほら羊羹食べて」
 奥で寛いた様子で足の爪を切っていた未詳事件特別対策係係長・野々村がのんびりした動作で靴下と靴を履き椅子から立って、どこからか取り出した羊羹を当麻に差し出した。それを当麻は当然のように受け取り、机の上から無造作に掴み出したカッターナイフで羊羹を包むビニールの口を切って貪り始めた。
「……まあ、有り得んというのは同感だ」
 背筋を伸ばしたままで目を伏せ、瀬文は手にしていた書類を机に置いた。そこにはやはり現状のものだろう、写真が添えられている。
 水に濡れ黒くなったアスファルトの上に、成人男子のものと思われる服が脱ぎ捨てられた写真。
 目撃者の話によれば、彼はいきなり倒れ苦しみだし、暫くして水になって流れてしまったというのだ。
 ミショウは、捜査一課が手に負い切れなかった怪奇事件を担当する。その事件には多くは、『スペックホルダー』なる人々が関わってくる。
 人間の脳の中で眠る未知の能力。それが何かの拍子に、目覚めてしまう事がある。念動力、サイコメトリー、治癒能力、瞬間移動、高速移動能力、等々。それらの能力は、『SPEC』と呼称されていた。
 だが、人間を水に変えてしまうだなんて、そんなSPECは、聞いた事がない。人間の体を構成する分子構造を根こそぎ全て変えてしまう、そんな力を人間が持ち得るのだろうか。外部から何かをするのか、内部に力を作用させるのか、どちらにしろ、今まで見たことも聞いたこともない。
 同じような事件がこれで三件目。三件の被害者は、父と娘と息子。血縁関係にあった。
 今母親には護衛が付いているが、特に何か起きる気配はない。
 SPECからも考えられない不可解な事件。そしてもう一つ、ミショウの三人には気掛かりがあった。
 時の流れを操り、自らを高速の時の中に置く事のできたスペックホルダー・にのまえ十一じゅういち
 幾度も当麻と瀬文の前に立ちはだかり、暴走の果てに当麻との対決に敗れた彼は、死亡した。その遺体が、死亡直後に何者かに盗み出された。
 ニノマエの所属していたスペックホルダーの組織は彼の暴走で潰されたようだったが、他にも似たような組織はいくらもあるようだった。スペックホルダーの組織の仕業かもしれない、まず考えついたのはそんな憶測だった。
 だが、ニノマエの死体など盗んで何になるだろう。何に使うのかなど見当もつかない。
 ニノマエは、幼い頃に失踪し、記憶を書き換えられ当麻と戦うよう仕向けられた、当麻の弟・陽太だった。幼い頃の失踪以来二度目、当麻はまた弟を見失った。
 遺体を当麻家の墓に入れる、何でそんな事すら阻まれるだろう。
 口汚く、人を喰ったような態度をとる当麻は平然としているように見えた。瀬文も野々村も、敢えて話題には出さず、手がかりを探し続けた。
 だが、犯人に繋がるような痕跡は何もなく、手がかりは一向に得られないまま、時間だけが無情に過ぎた。
 唐突に、エレベーターが作動し轟音が鳴り始めた。上がってきたエレベーターに乗り込んでいたのは、いつもの面々だった。
 捜査一課所属、馬場・鹿浜・猪俣。三人はエレベーターから降りて当麻へと歩み寄ると、馬場が脇に抱えていたファイルをばさりと当麻の机へと置いた。
「また新しい被害者だ。前の三人との血縁関係はない。家族は妻と息子、既に監視はつけてある」
「これは、いつ?」
「事件発生は今日十一時三十二分。二時間ほど前です。今実況検分から帰ってきました」
 くたびれた、とでも言いたげに馬場は首を回したが、当麻は見向きもせずに、机の上に置かれたファイルを開き、目を通し始めた。
「まあ、いい加減何か解決の糸口でも見つけてくれ。手がかりゼロで参ってるんだ」
 続いた鹿浜の言葉に、他の二人からも返事はない。野々村は奥で肩を竦めてみせた。
 驚くべき速度で当麻の手の中の資料は捲られ消費されていった。知能指数201、一度目を通しただけで一字一句違えず記憶する並外れた記憶力を持つ、彼女もまた異能の人だった。

***

 病院に搬送された青年はじきに目を覚ました。八代と芦河は、彼が運び込まれた病室へと向かった。
 青年の体には、命に関わるようなものはないものの、新しい打ち身や内出血、擦り傷がいくつもあったという。
 この季節に冬の服装で海に浮かんでいる事自体異常なのに、細かいとはいえ外傷を負っているのであれば、何らかの事件に関わったか巻き込まれた可能性も考えなくてはならない。
 いくら暇とはいえ、大方酔っ払って海に落ちでもしたのであろう若者に事情を聞くなど。沸き上がる忸怩たる思いを押さえられず、芦河はそっと鼻から長く息を吐いた。
 未確認生命体はその姿を見せるものの、そう頻繁でもない。G3ユニットは連日待機任務か訓練をこなすだけの繰り返しで、お世辞にも忙しいとは言えない状態だった。
 門矢士と小野寺ユウスケが去ってからかれこれ一ヵ月が経とうとしていた。彼らに助けられ励まされ、己の中の得体の知れない力とも折り合いが付くようになって、ようやく警視庁に戻ったものの、芦河が戻った途端に未確認生命体はあまり表に出てはこなくなり、アンノウンもぱたりと消息を絶った。芦河の決意は空回りする事となった。
 勿論、暇だからというだけではここまでは来なかった。津波のように胸を頭の中を瞬く間に覆い尽くしたあの危機感。その先にいたのがあの青年だった。何も意味がないとは考えづらい。理屈ではなかったが、直感は確信のように強く胸にあった。
 彼は何者なのか、何故芦河は、彼をどうしても助けなければならないと確信したのか。分かるか分からないかは別として、アギトとして持っている何かに駆り立てられた結果ならば、あの青年に話を聞く必要があると思われた。
 やがて病室に辿り着く。六人部屋の、入り口から見て向かって右、真ん中のベッドが青年に割り当てられている筈だったが、そこには誰もいない。代わりに、病室にはあまり似合わない明るい声が向かいのベッドから発せられていた。
「ほー、上手いもんだねぇ。俺はばあさんに任せっきりだったから、こういうのはどうもなあ」
「そりゃ俺、こう見えても一応プロですから。あっ、まだ見習いですけど」
「じゃああんた、見習いの板さんかい?」
「ははは、板さんはちょーっと違うかも。でも、大体合ってます」
 患者衣の青年は向かいの老夫人のベッド脇に置かれた椅子に腰掛けて、手際よく林檎の皮を剥いていた。それを老夫婦が感心した様子で見守っている。剥かれた皮は一繋がりでどんどん長さを伸ばして、あっという間に林檎が白い肌を晒した。
 剥かれた林檎を膝に置いた皿の上で器用に六つに割って皿に並べ、青年は実に人の良さそうな笑顔を満面に浮かべて、皿を老人へと差し出した。
「はい、どうぞ。蜜の入ったいい林檎ですよこれ。身も詰まってるし。美味しそうだなぁ」
「有り難うなあ、あんたも食うかい、林檎」
「えっ、いいんですか? じゃあお言葉に甘えて頂きます。お腹ペコペコだったんですよね、嬉しいなあ」
 差し出された皿からひょいと林檎を摘み上げて、一口に口の中に放り込んでしゃくしゃくと咀嚼音を立てながら、青年は実に幸せそうな笑顔を浮かべた。
 和気藹々とした雰囲気に何となく声を掛けるのを憚られ、八代も芦河も出入口からその様子をただ眺めていた。ナイフを台に置こうと立ち上がった青年が、ようやく入口に立った二人からの視線に気付いた。
「……津上、翔一くん?」
「はあ……そうですけど」
「警視庁の八代と、こっちは芦河よ。ちょっと事情を聞きたいんだけど、いいかしら?」
「はい、構いませんけど……」
 いかつい制服姿の八代に声をかけられたからか、津上はやや緊張した様子で、軽く首を傾げた。

***

 津上翔一は、検査の結果、見たとおり細かい怪我はしているものの、体には別段異常がない事が分かっていた。
 ただ、服がまだ乾かないため、それを待っているらしい。
「ほんとは知り合いに服とか持ってきて貰おうとしたんですけど、電話が繋がらなくって……」
 実に不思議そうな顔をして、津上は首を捻り考え込んだ。彼は今自分のベッドの上で胡座をかき座って、隣のベッドとの間の隙間に八代と芦河が椅子を置いて腰掛けていた。
「……それ以前に、何でこの季節にあの冬の服装なんだ。何で君は、海に落ちたんだ?」
「寧ろ俺にしてみると、何で冬じゃないんだろう……って感じなんですけど。今五月って聞いたけど、本当ですか?」
「正真正銘五月だ。それ以外の何月だっていうんだ」
「一月の末くらいだと……思ってたんですけど……おっかしいなぁ」
 津上は実に不思議そうに首を捻って考え込むが、訳が分からないと言いたいのは芦河の方だった。この男は一体、何を言っているのだろう。
「記憶が欠落してる、部分的な記憶喪失って事は考えられない? 津上くん、君は何故どうして、海に投げ出されていたの。最後の記憶は何?」
「うーん……話すのは構わないんですけど、お二人とも多分、信じてくれない気がするんですよね」
「そんな事はない。俺達は警察官だ、大抵の事には驚いたりしない。そんなに勿体ぶるような大層な話か」
 渋る津上にやや苛ついたのか、やや早口に芦河が告げた。その言葉を聞いて、津上は何か思い出しでもしたのか、目を丸くして芦河を見つめた。
「……そうだ、氷川さん、氷川さんと小沢さんに聞いてもらえたら、俺の事分かります。未確認生命体対策班の」
 名案が浮かんだと思ったのだろう、津上の声は弾んでいたが、津上の言葉を受けても芦河と八代は、きょとんとして津上を見つめるだけだった。
「……どうしたんですか?」
「未確認生命体対策班というのは、どこのだ」
「えっ、やだなあ、警視庁ですよ。G3ユニット、あるでしょう?」
「……あの……警視庁未確認生命体対策班には、ヒカワもオザワも、所属してないけど」
「……へっ?」
 津上の顎が落ちて口がぽかんと空いた。何を言っているのか分からない、何も言葉にせずともそう顔に書いてあった。だが、芦河と八代の側にしても、津上が何を言いたいのかがさっぱりなのだから、お互い様だった。
 互いの認識のズレを修正できないまま沈黙が続く。そこに看護師が、乾かしたらしい津上の服を抱えて入ってきた。
「はい津上さん、乾きましたよ。退院許可も出てますから、着替えたらもう帰っていいですよ。出る時にナースステーションに声をかけて下さい」
「あっはい、ありがとうございます」
 看護師が津上のベッドに畳まれた服を置いて告げると、津上はぺこりと頭を下げて応じた。
 津上が着替えをするのであれば、席を外さざるをえない。八代と芦河は席を立って、すいません、と小さく頭を下げて津上がベッドを仕切るカーテンを引いた。
 廊下へ出て、八代はそのまま、何か連絡が来ていないか確認する、と電話コーナーへと向かっていった。
 津上翔一の話す内容は不可解すぎた。こちらも理解出来ないが、津上翔一自身も戸惑っている様子だった。
 知り合いへの電話が繋がらない。津上の知る未確認生命体対策班には、芦河と八代ではなく、ヒカワとオザワという人間が所属している。
 まるでタイムスリップでもしてきたようだったが、今年の一月から来たにしても、その頃でもヒカワとオザワはいない。
 名前が同じなのに中身が違うものについてそれぞれが話をしていて、認識の違いに気付いていないから擦れ違う。そんな違和感があった。
「あの……俺、下でベッド代とか払ってきますけど、どうすればいいですか?」
 気付くと津上翔一が着替えを済ませて病室を出、すぐ側の壁にもたれていた芦河の顔を覗き込んでいた。
 さすがに暑いのだろう、下に着ていた無地の白Tシャツ姿で、上着は手に持っている。
「そうだな……支払いが終わったら入り口のロビーで待ち合わせるか。まだ聞きたい事があるしな」
「分かりました。じゃあ後で」
 返事を返すと、津上は軽く頷いた後に歩き出して、ナースステーションに声をかけて書類を受け取ってから、エレベーターへと早足に歩いていった。
 津上の背中を見送って息を一つ吐き、ふと八代が戻ってこない事に気付いた。首を動かして廊下の奥にある電話コーナーを眺めると、八代が飛び出してきて、病院内にも関わらず走り始めた。
「ショウイチ!」
「おい、走るな」
「未確認が現れたわ。ここから近い、あたしたちが帰るよりGトレーラーに来てもらった方が早いから、手配したわ。行くわよ」
「津上翔一はどうする。お前が話してる間に下に行ったぞ」
「待っててくれるでしょ。悪いけどそれどころじゃないわ」
 やや納得がいかないが、非常事態には違いなかった。芦河は苦い顔で頷き、また走りだした八代の後を追った。

***

 Gトレーラーとは病院を出てすぐに合流に成功した。急ぎG3‐Xを装着し、G3ユニットは現場へと急行した。
 だが、状況が変わっていた。
『警視庁よりG3ユニットへ。未確認生命体が謎の生命体に襲撃されているとの報告、警戒されたし』
「……了解」
 急行中に入った無線の内容は意外なものだった。門矢士が去って以来、姿を潜めていた『アンノウン』と呼ばれていた存在、と思われる。
 八代は低く応答を返して、顎の下に手を当て何かを考え込んだ。
「ショウイチ、今の報告は、前の牛の奴の仲間……だと思う?」
『多分そうだろう』
「あなた、あれはアギトを狙ってるんだって言ったわよね。牛の奴の話の内容がそうだったし、門矢士もそう言ってたって」
『ああ、言った』
 既にG3‐Xを装着し終え、ガードチェイサーに乗り込んで発進態勢に入った芦河と無線越しに話しながら、八代は浮かぬ顔で眉根を寄せた。
「……じゃあ、これから向かう先にはアギトがいるっていう事?」
『それは分からん。未確認も奴らにとっては敵のようだしな』
「まあいいわ、どっちにしても気を付けて」
『分かっている。じゃあ、行く』
 通信を切り、後部ハッチからガードチェイサーが発進した。
 門矢士は、「この世界にはライダーがいる、もうG3‐Xは必要ない」と言ったが、復帰した芦河はG3‐Xの装着員を続ける事を望んだ。
 今のところG3‐Xをまともに扱える人間が他にいないのも確かだったし、警察官として戦うのであれば、アギトの姿は要らざる不安を煽るだけだという芦河の主張は理があった。
 現場は近かった、じきG3‐Xのカメラから送られてくる映像が、現場を映し出し始めた。ように思ったのだが。
 閉鎖した工場前の駐車場は、アスファルトが割れ焦げ跡が残っている。そこには、未確認もアンノウンもいなかった。遠巻きに周囲を包囲して銃を構える警察官達、その中心に、いる筈のない姿があった。
「……アギト?」

「アギト……だと?」
 現場に到着した芦河は、ガードチェイサーから降車するのも忘れ、輪の中心にいるその存在を呆然と眺めた。
 アギトは構えもせず、きょろきょろと辺りを見回していたが、G3‐Xの姿を捉えるや、足を踏み出した。
 思わず警戒し、右脚のスコーピオンに手をかける。
「氷川さん……ではない、んですよね。もしかして、さっきの、芦河さん? ですか?」
 声には、聞き覚えがあった。
「お前……!?」
 その声は、間違いなく、津上翔一という青年のものだった。

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