3
互いに身分を明らかにして名乗り合う。G3ユニットが保護した二人は警視庁の刑事だった。
未詳事件特別対策班。存在は知っていたが、芦河がいない間に新設された部署という事もあり、ミショウに関して芦河は名前以外の知識を持っていなかった。
何をしていたのか、の問いを一応は投げたものの、機密保持を楯に回答を拒否されるだろうと身構えた芦河は、意外な答えに肩透かしを食わされた。
「芦河ショウイチさん、あなたにお話を伺いに来ました」
「……は?」
思わず間の抜けた声を上げる。当麻と名乗った若い女は、悪怯れず言葉を継いだ。
「あなたは一年ほど前に失踪し、一ヵ月前に突然復職したと聞きました」
当麻の口にした事は事実だった。が、芦河としては既に全ての説明は上に済ませてあり、復職も公に認められたものだった。横合いからケチを付けられる筋合いはない、というのが正直な感想だった。
「それがどうかしたか」
「失踪の直前、あなたに超能力発現の兆候があったという噂があります」
当麻の不遜な表情は動かない。苦々し気に見下ろして、芦河は小さく舌打ちをしてみせた。
「……馬鹿馬鹿しい。お前等はそうやってありもしないものを捜査してればいいんだろうが、訳の分からんいちゃもんを付けられる方の身にもなれ。大体、もしそうなら何だっていうんだ」
「あなたが復職したのと同じ一ヶ月ほど前から、有り得ない不審死が相次いでるんです。あなたが直接関与してるとは考えづらいですが、偶然だけでも片付けられない」
涼しい顔の当麻に言われて、芦河は今度こそ不愉快そうに顔を歪めて当麻を鋭く睨み付けた。超能力の事を隠している疾しさはあるが、だからといって不審死に関与しているなど、あらぬ疑いにも程がある。実際心当たりも覚えもない。
「何を言ってるんだお前は。関与って、俺が何で不審死と関係あるんだ」
「殺されたのは、超能力発現の兆候を持つ人達とその家族。そして、悉く、有り得ない死に方をしている」
「有り得ない……?」
「水のない所で溺れる、全身が灰や水になる、そんな言葉にしたら頭おかしいんじゃないかと疑われそうな死に方です」
「……それ、犯人はアンノウンです」
突然ぼそりと、今まで隅で黙りこくっていた青年が口を開いた。先程当麻と瀬文に見せた人懐こい笑みは消え、寄せた眉間には思いの外真剣な色が浮かんでいた。
「何故そう言い切れる?」
「それがあいつらのやり方だからです。俺も死にかけた事ありますけど、その時はそいつの針で刺されたら心臓の横に金属らしい異物が出来て、それに体の熱を全部奪われて、二十四時間後に凍死する、ってやつでした。家族も同じように狙われる。未確認なら、人間を狙うのに色んなルールを作りますけど、あいつらは一つの目的の為だけに、ごく簡単なルールで動いてる」
芦河に答えた青年の口調は確信に満ちしっかりとしていた。だが、瀬文と当麻にとっては青年の口にした内容は理解の届かないものだった。
「アンノウンとは何だ、芦河ショウイチ、あんたは何を隠してる?」
やや苛立って瀬文は芦河を真っ直ぐに睨み付けたが、芦河はその視線を正面から睨み返してみせた。
「……あの、余計なお世話かもしれないんですけど」
「ああ、全く余計なお世話だ。アンノウンとは警察が戦うしG3‐Xがあればいい、お前みたいな一般人の力は必要ない」
おずおずと、遠慮がちに津上が口を開いたが、芦河にぴしゃりと出鼻を挫かれて黙りこくる。横で状況を見ていた八代が、口を挟んだ。
「ちょっと黙ってショウイチ。津上くん、いいから話して」
「なっ……八代お前何考えて」
「津上くんの話を聞くわ、班長命令よ」
「お前そういうのは職権濫用だろうが! こいつは一般人だぞ!」
芦河に反論されて、八代は面白くなさそうに眉を上げ口の端を下げると、次にはにいっと笑ってみせた。
「あ、そう。じゃ津上くん、君、G3‐Xとか着てみたいと思わない? 今丁度、補欠の装着員を探してるんだけど」
「何を口から出任せを……」
「あっ、俺一度着た事ありますよ、アンノウンも一体やっつけましたし。ホントに働いてたレストランがないんだったら、何か仕事探さないとなー、って思ってたんですよね」
「あら、本当? それなら文句なしね。はいこれで津上くんも警視庁所属、補欠装着員を探してたのは本当よ。何か文句ある?」
八代に睨まれ、芦河は言葉を詰まらせて黙った。八代は曲がった事を何より嫌う。滅多な事では事実と相違する事は口にしない。彼女が本当と言うからには、補欠を探していたのは本当なのだろう。
辞令が交付されていないのだから津上はまだ警視庁所属ではない、別の世界から来たのではないかとも推測されている彼の身分の証明はどうするのだろう。疑問は渦巻くが、八代はやると言ったからにはやるだろう、そういう女だった。芦河はよく知っている。
「分かった……話を聞こうじゃないか」
力の限りに苦り切って顔を歪め、芦河は場を譲るように一歩下がり八代のやや後ろに控えた。四人分の視線を受けて津上は再びやや戸惑った様子を見せたが、やがて口を開いた。
「あの……お二人のどっちかがアンノウンに狙われてるのは間違いないんだから、アンノウンについて知らないのは危険じゃないかって思って……ちゃんと話すべきじゃないですか。家族の人だってあいつらに狙われます。俺の知ってる事なら何でも話しますから、秘密にしてるんならやめにしませんか」
「機密事項を俺の判断だけで軽々に口にできるか」
「じゃああたしが許可するわ」
横から口を出すなと言わんばかりの芦河の鋭い抗議の視線にも悪怯れず、八代は津上を見て、軽く二三度頷いた。
「あいつらは、アギトを狙ってます。アギトだけを標的にして、アギトでない人には邪魔しない限り危害を加えない」
「アギトとは何だ」
「よく分かんないですけど……人が、進化していく可能性、って言ってた人はいました。アギトの力に目覚めると、超能力みたいなものが使えるようになって、やがて、姿が変わります。あいつらは人が人を超えて、神に近付くのを恐れてる」
津上の言葉を聞いていた瀬文は、馴染みのない単語を耳にして、胡散臭そうに眉根を寄せた。
「神だ……?」
「ほんとに神様なのかとかは知りません。だけど、アギトになる人が、あいつらに狙われるのは本当です。お二人のうちどっちか、最近体調がおかしかったり、物が勝手に動いたりしませんか」
津上の質問に、瀬文も当麻も、きょとんとした様子で首を横に振った。
「そうですか……まあ、俺もそうだったし、超能力とかすっ飛ばしてアギトになっちゃうっていうのもあるかもしれません」
「アギトって、さっきの金色のやつですか。あれはあなた?」
「はい、そうですよ」
当麻の質問に、特に何の拘りもない様子で、ごく簡単に津上が頷いた。あまりに気軽に頷くので、横にいた芦河の方が驚いて目を剥いて津上をまじまじと見つめる。
「狙われてるのはきっと瀬文さんですね。ほら、その石頭が進化したらあんな感じになるかもしれないし」
「馬鹿を言うな、妙ちきりんな事が起こるならお前の方だ。俺はごく平凡だ」
「生命力ゴキブリ並じゃないですか。それで平凡を自称するのは平凡に失礼ですよ」
「何だと、お前に言われたくないぞ、ゴキブリ並にしぶとく生き残りやがって」
瀬文と当麻は相手を見ないままで、淡々と互いを罵り合う。どちらが、という事は分かりそうになかった。
そこに、盛大に、腹の鳴る音が響き渡った。
四人は一斉に津上を見た。津上が照れ臭そうに頭を掻く。
「……いやー、目が覚めてからまだ何も食べてないからお腹空いちゃって、すいません」
にへら、と津上に頬を崩して笑われ、四人は一様に脱力感を覚えた。緊張感というものが、まるでない。何とも無防備な笑い方だった。
「じゃあ、助けてもらったお礼もしたいですし、奢りますよ。餃子の美味しい店、行きませんか?」
何気なく当麻が口にして津上は一も二もなく頷いたが、瀬文が大袈裟に首を動かして、鳩が豆鉄砲でも食らったように茫然として、当麻を見つめた。
「……何ですかジロジロと。瀬文さんには奢りませんよ」
「お前の頭の中に人に奢るって概念があったとは知らなかった。というか俺は何度もお前の命を助けてるのに、何だこの扱いの差は」
「あっ、嫉妬ですか? 醜いですね」
「断じて違う、それだけは有り得ない」
また淡々とした罵り合いが始まり、話を続けるのは無理だろうと判断して芦河は実に分かりやすく嘆息してみせたが、反応といえば八代が横で苦笑を漏らしただけだった。
「津上くん、食べに行く前に、君の住んでた所とかどうなってるか調べておくから、連絡先の住所と電話番号を教えていって。住む所がないなら何かしら考えなきゃいけないし」
「あっはい、すいませんお手数おかけして」
「いいのよ、その分働いてもらうんだから」
八代が津上にメモ紙とペンを渡しながら告げて、受け取ると津上はぺこりと頭を下げた。八代はどうやら本気だった。あまり冗談を言う女ではなかったが、どこの誰なのかも分からない男をいきなり(補欠とはいえ)G3‐X装着員とは豪放磊落にも程度がある。
面白くない、実に面白くない。八代は賢い女だ、道理も弁えている。それなのに、芦河の諫言など丸無視で、どこの馬の骨とも分からないこのアギトをまるまる信用してしまっている。面白い訳がなかった。
***
目の前に(比喩表現ではなく)山を成して積まれている餃子を目にして、マイペースが身上の津上もさすがに驚いたのか、大量の餃子が瞬く間に消えていく様子を口を開けぽかんと眺めていた。
津上が頼んだのはラーメンライス。瀬文は津上の隣で八宝菜とチャーハンを黙々と口に運んでいる。
餃子があらかた消えて、スープを啜った当麻を見て津上がふっと笑った。
「……何かおかしいですか?」
「あ、いえ、すいません。前に知り合いの刑事さんと一緒にやっぱり中華料理屋さんに入ったんですけど、その人もやたら一杯食べる人だったから、それを思い出して。それに……」
言葉を切って、嬉しそうに笑う。何も楽しい事などないのに、何故津上がそんな笑い方をするのかは、当麻にも横目で眺めている瀬文にも分からなかった。
「それに?」
「好きなんです、美味しそうにご飯食べてる人を見るのって。何か、いいと思いません?」
拘りなさそうに笑って、ラーメンを啜る。当麻は瀬文を見たが、瀬文は肩を竦めて白いご飯を口に掻き込んだ。
「あなたは、警察官……じゃないですよね。どうして未確認生命体対策班に?」
「説明が難しいっていうか、俺もよく分かってないんですけど……。まあ、成り行きでなんとなく、みたいな感じです」
「G3の装着員も成り行きですか? 成り行きで出来るような仕事じゃないと思いますけど」
「そうですか? 結構簡単ですよあれ」
津上は気軽に答えてご飯を頬張る。彼自身もラーメンライスを、実に美味しそうに食べていた。
何を考えているのか全く掴めない。名前は津上翔一、彼自身が語ったところによるとコック修行中。そして自らを『アギト』と呼び、異形に変じて『アンノウン』と呼ばれる異形を倒した。彼について瀬文に分かっているのはその程度だった。目的、なぜ未確認生命体対策班と行動を共にしていたのか、知りたい肝心の部分は何一つはっきりしない。
どう見ても警察関係者ではなさそうだが、緊張している様子もなく、昔馴染みとでも食事するようにごく自然に笑顔を浮かべている。
普通ならば萎縮し気後れする。ましてや瀬文のような無愛想な男が隣に座り、向かいの当麻は異様な量の餃子を平然と平らげているのに。おかしな男だった。
「結局何なんだ、アギトとアンノウンってのは。どうしてお前は詳しいんだ」
同じ質問をもう一度口にする。瀬文の言葉に、津上は手を止めて、やや目線を落としてラーメン丼の中を見つめた。
「俺、ずっとアンノウンと戦ってきました。あいつらが何なのか、俺にもはっきりとは分かりません。でも、アギトを狙っている」
「もう一度聞くが、アギトとは何だ、何故狙われる」
「さっき話した以上の事は分かりません。今はその力は人の中で眠っていて、次々に目覚め始めている。アンノウンはそれが怖いんです」
「奴らは何が怖い」
「人が、人でなくなる事が。人を超えていく事が」
津上の答えに、瀬文は思わず当麻を見た。当麻は目線を下に落としていた。
目線の先には彼女の左手。
よくよく目を凝らして観察しなければ分からないような些細な違いだったが、当麻の左手は右手よりやや骨張って大きい。まるで別の人間の手のように。
出会った頃、当麻の左腕は失われていた。彼女はそれを隠すため、いつでも左腕に包帯を巻き吊っていた。
彼女にある時左腕が付き、それと共にそれまでなかった筈の物も、彼女のものとなった。
時の流れを操り、自分の周囲の時間だけを超加速するSPEC。
二人には既に密かに護衛が付いているようだったが、津上の話が真実として、狙われるならば間違いなく当麻だ。瀬文にも、恐らく当麻にも確信があった。
ただ、この事実については、本人と、能力の発動を目撃した瀬文ともう一人、そしてミショウの係長・野々村の計四人しか知らない筈だった。
だから先刻はシラを切った。死したニノマエの左腕が(理由は不明だが)当麻の左腕となり、それと共に彼のSPECさえそのまま彼女のものとなった事は、明かしていないのだから。
ニノマエは暴走し、自らの所属する『組織』を壊滅させ、政府要人を次々と殺害して日本を我が物としようとした。彼の圧倒的な能力の前には他のスペックホルダーすら次々敗れていき、対抗する術はほぼなかった。それを当麻が持っていると分かれば、彼女はただでは済まない。もうバレてはいるのかもしれないが、それでも事実を知る四人は、口を噤まざるをえなかった。明らかにするわけにはいかないのだ。
人が人を超えていく。当麻は以前語っていなかったか。脳にはまだ使われていない部分が多く残されており、それを目覚めさせる事によりSPECは人に宿る、SPECとは人の可能性だと。ならば『アギト』と呼ばれるあの姿も、SPECの一種であると言えるのか。
「何か見てたらあんまり美味しそうだから、やっぱり俺も餃子食べたくなってきちゃいました。頼んでいいですか?」
「いいですよ。私も足りないからもう少し頼みます」
軽い調子で津上が申し出ると、当麻はあっさりと首を縦に振った。こんな素直に応じる当麻を瀬文は見たことがなかった。なまじ弁が立って理屈臭く、ぱっと見他者の事など意にも介していないのが、当麻という女だった。普段の彼女からは、津上に対する優しい物腰は想像もつかない。
「はいはい。ギョーザをギョーザん食いなはれ、なんちゃって……」
「…………」
「……あれ、やっぱり、ウケません、でした? はははは」
瀬文は最早言葉もない。当麻は一度目をぱちくりとしばたいて、照れ笑いする津上から目線を外すと、奥のカウンターに大声で注文を告げた。
「人が人でなくなる、と言ったな。じゃあお前は、人じゃないのか。何故そんなにあっさり口にできる」
津上の方を見ずに、半ば独り言のように瀬文は疑問を口にした。それを聞いた津上は、首をゆっくりと大きく横に振った。横目で見ると、津上はやはり拘りなく笑っていた。
「俺は俺ですよ、何も変わってやしません。人のままで変われるんです。悪い事や、悲しい事じゃない筈なんです。だから別に隠す必要なんてないし、隠したくない。それだけです」
***
津上翔一がメモに書き残した二つの連絡先を調べたが、戸籍上でも津上の言う、倉本なる人物のレストランや美杉義彦なる人物の家ではなかった。
住所と電話番号も一致しない。携帯電話番号も別人の物だった。
住所まで行ってみたが、どちらも戸籍登録通りの人達が住んでいる。
「ここで普通なら、津上くんが嘘を吐いてるんじゃないかって疑うところなんだろうけど……」
「その可能性もあるだろう」
「でたらめな連絡先を教えて、彼に何のメリットがあるの?」
八代に問われて芦河は答えに詰まり、押し黙った。確かに、津上翔一が八代に誤った連絡先をわざと教える事によるメリットは皆無だった。
彼は別の世界から来た故に、彼の知る連絡先が存在していない。彼の言動からはそう考える方が自然だった。
嘘は吐いていないだろう。掴み所はない男だったが、津上の言葉には、そう信じさせてしまう朴訥さがあった。
無言のまま所在なく腕を組んでいると、芦河を見やって八代がくすりと笑った。
「……何がおかしい?」
「ショウイチ、妬いてるの?」
「なっ……な、そ、そんな訳があるか!」
「私が津上くんに肩入れしてるのが面白くないって顔してるわよ」
慌てた様子でやや腰まで浮かせて、芦河は必死に否定したが、八代は意にも介さず笑みを崩さなかった。
確かに、面白くはなかった。津上翔一については分からない事の方が多い。常ならば八代はあんなに簡単に信じたりはしないだろう、それなのに何故。
「……私が、津上くんを信じる気になったのは、彼が嘘を吐いてなさそうだって思ったのもあるけど。それよりも、あなたを助けてくれたから」
八代は、独り言のように呟いた。芦河は腰を落として椅子に腰かけ直し、怪訝そうに八代を見上げた。
「それこそ、メリットなんか無いじゃない。アギトだって明かす必要なんてないし、アンノウンと戦う事だってない。でもやってくれた、見返りとかそんなものも要求したりしないで、やってくれた。これで、あなたが一人で戦わなくても、いいんだって思った」
「俺が一人で……」
「補欠装着員を探してたのも、あなたが一人で戦ってるのが、良くないって思ってたから。あなたには余計なお世話だって言われちゃうかもしれないけど……あなたの事助けてくれるんだったら、私は津上くんに助けてもらいたいって思った」
八代の言葉を聞いて、芦河は複雑な気持ちを隠せずに、八代の目を見つめていた。必死そうな、まっすぐな眼差し、それは出会った頃からずっと変わらない。
男勝りで荒っぽい所があるから誤解される事も多いけれども、八代はいつだって誰よりもひたむきで、必死だった。
必死で、未確認から人を守りたいと、芦河を守りたいと、G3をG3‐Xへと強化し、世間の非難にも負けず戦い続けて。
芦河は己の運命が恐ろしくて逃げ出してしまった事を、一生後悔し続けるだろう。だがそれでも、償うという負い目を抱えてでも、ここに戻ろうと決めた。
きっときちんと前を向く事はできないだろう。それでも、少しでも出来る限り前を向いて足を踏み出せるのならば。いや、そうしなければいけないと思った。
彼を信じ探し待ち続けた八代と共に。
だから芦河は一人で戦っているのではない。誰もいないと思い逃げ惑っていた一年間と比べればすぐに分かる。ここには八代がいる。
だがそれでも、八代は芦河に背負わせたくないのだろう。その気持も十二分に理解できた。
「……それより、ちょっとお願いしたい事があるんだけど」
「何だ?」
八代がやや遠慮がちに顔を覗き込んでくる。常の彼女ならば余程の事でなければもっと堂々としている、そんなに言いづらい頼み事なのだろうか。
疑問に思い芦河は首を捻ったが、肝心の頼み事の内容を聞くや、驚愕のあまりに絶叫を発した。
「なな……な、何でそうなる! 何で俺がそんな事を!」
「ね、お願い、いいでしょ? どうせ余ってるんでしょ?」
顔の前で手を合わせてやや首を捻って、八代に上目遣いで覗き込まれる。こんな仕草をする女だとは知らなかった。
面白くない。やはり面白くない。だが他ならぬ八代の頼みを無碍にも出来ずに芦河は、もやもやとした気持ちの持って行き場を失って、ただ苦り切って顔を顰めた。
***
「……失敗、か」
「ええ、警察と、新しいアギトに邪魔されて」
僅かな隙間から差し込んだ光は、部屋の中に舞う埃を照らし細く床に反射している。
薄明かりの中で、中年の男と少女が椅子の両脇に控えていた。
室内は雑然と家具が散らばりひっくり返っていたが、椅子の周囲だけは片付いて空間が出来ている。
「御身を取り戻せず、面目次第もございません」
「いい……時が満ちれば、体など如何様にもなります」
男は、年の頃は三十後半程、乱れた頭髪からは脂が抜け、たるみかけた頬はやや削げている。中肉中背、これといった特徴のない容姿だった。
語りかけられ、部屋の中心に据えられた椅子に腰掛けた青年が、静かな声で答えた。
「まだ、時は満ちていない、という事なのですか。あなた様の下される最後の審判までは、まだ間があると」
「力が戻れば、私はアギトを許してはおかないでしょう。人は人のままであればいい」
低く揺れない声で答えて青年は立ち上がる。割れて光の漏れる天井を、憂いの勝った眼差しで見上げる。
「だが、悔いる心があれば遅くはない。あなた達は、それを人々に、アギトに伝えてほしいのです」
中年の男は、意を得たりといった様子で頷いた。少女はただ、感情のない瞳で、青年を見つめていた。
黒のタートルネックに黒のパンツ。生前と変わらぬ衣服に身を包んだニノマエが、静かに天を見上げていた。
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