護衛の刑事は二人とも、幸い気絶していただけで、診断の結果多少の打撲は負っていたが、入院の必要はなかった。
 病院を出た瀬文は、一度警視庁へと戻った。もう二人とも帰ったろうと思いつつエレベーターを使い上がると、ミショウのフロアの電灯は灯っていて、当麻が椅子に腰掛けて本を読んでいた。
「……まだ帰らないのか」
「気になる事があったんで、調べものしてました。瀬文さんこそ、すぐ戻るって言ってたそうですけど、何処行ってたんですか」
「野暮用だ。少し長引いた」
 まあいいですけど、と上の空に呟いて、当麻は瀬文に向けた目線を再び本に落とした。
 通り過ぎがてら本の表紙を見ると、『神話と伝承――そのルーツ』というタイトルが読み取れた。青い布張りの表紙に金色で箔押ししてある。一見して、堅い雰囲気の本だった。
「何だその本は、趣味の読書なら家で読め」
「これが調べたかったものなんです、邪魔しないでください、もう少しで読み終わるんですから」
 ぴしゃりと言われて瀬文は黙り、荷物を机に置くと、二つのカップにコーヒーメーカーで煮詰まったコーヒーを注いだ。
「あ、あたし砂糖五つでお願いしまーす」
 紙面から目は離さないで当麻が告げる。不必要な所まで目敏い女だった。しかも砂糖五杯とは、聞いただけで胸が悪くなる。
 やや乱暴に机にカップを置くと、当麻がばたりと音を立てて本を閉じた。読み終わったようだった。
「この本、なかなか興味深い内容でしたよ。比較宗教学の入門書で、世界中の神話は実は、遠い遠い昔に起こったただ一つの事実をルーツに持っているんじゃないかっていう話なんですけどね、これが評判が酷い本なんです。トンデモ学説だ、なんて青筋立てて怒ってる人もいる位で」
 席に戻った瀬文に、当麻が話し始める。放っておいても続けるだろうと、瀬文は返事は返さずコーヒーを啜った。
「この本は一応初心者向けなんで、一番有名な大洪水の説話に相当紙幅を割いてるんですけど、知ってます? 世界中の神話に、似た様な大洪水の説話が残ってるのって」
「知らん」
「ノアの大洪水位は知ってるでしょ、いくら何でも。あれと似た様な話が世界中に残ってるんです。悪い人間が滅ぼされて、神様に助けられたごく少数の人間が新しい人類の祖になる。ノアの大洪水の説話って、旧約聖書の中では他の部分とちょっと毛色が違うんですよね。天使と人間が交わって産まれたネフィリムっていう怪物がどんどん増えて地上を荒らして、手に負えなくなったから神様が一度地上を綺麗にしようとしたっていうんです。で、ギリシャ神話にもデウカリオンの大洪水っていうほぼ似た様な説話があって、人類は一度滅びるんですけど、プロメテウスの子デウカリオンと妻が石から新しい人間を生み出して新しい時代が始まる」
「だから何なんだ」
「人間は、何も無い所から勝手に話を作り出したりはできないんですよ。必ず何かを基にする。神話に書かれている事は何かの比喩である、という読み方を突き詰めると、この本みたいにトンデモ学説とか牽強付会とか我田引水とか言われますけど、ある程度の真実もそこには恐らくあります」
「……何が言いたいのかさっぱり分からん」
「まあ、実はそこは大した問題じゃありません。一番の問題は、この本を書いた人間、そしてこの人が研究していた事です」
 言葉の後に深い息を一つ吐いて、当麻は本の表紙を瀬文に向けた。著者名は、『沢谷ヨシユキ』と記載されている。
 この大して珍しくもなさそうな名前の何処に問題があるのだろう。分からずに瀬文は当麻の顔を伺ったが、当麻は益々愉快そうに、にたにたと笑ってみせた。

***

 芦河の放つぴりぴりとした空気に、さすがの津上も肩身が狭い様子で縮こまり、助手席に座って体を小さく丸めていた。
 瀬文が去った後、芦河は引っ掛かりを覚えて念の為にGトレーラーを出動させ後を追い、途中で例の「予感」が胸に過ぎり、G3‐Xを装着しガードチェイサーで現場へと急行してきていた。
 津上は掌と膝をやや深く擦りむいただけで、他には傷らしい傷は負っていない。簡単な手当を受けて、芦河と津上はようやく帰路につく為車へ乗り込んだ。
「今から、お前は絶対に一人で行動するな、いいな」
 ハンドルを握り運転する芦河に有無を言わさぬ口調で告げられて、津上は反論もせずに素直に頷いた。
「すいません」
「別に謝る事はない、お前を一人にしておいた俺も軽率だった」
「でも、何か嬉しいなぁ」
 言葉の意味通りに、実に嬉しそうに津上が口元を緩めた。反応が不可解過ぎて、芦河は返す言葉がない。
「……何がだ?」
「だって、心配してくれたんですよね? 芦河さん俺の事嫌いなのかなーって思ってたから」
「……そういう問題じゃないだろう」
 芦河は津上が、自分に向けられる感情になど無頓着で、芦河の刺々しさなど気にもかけていないのかと思っていた。今まで彼は芦河が素っ気ない態度をとっても全く気にする様子がなく、いつも下らない事を喋ってばかりいた。
 実際に芦河は、津上の事をあまり快くは思っていない。
 津上翔一は陽気で家事の好きな、無邪気で気のいい青年だった。だが芦河は口数の多い相手は苦手だし、何より、やや適当でいい加減な印象のあるこの男を信用できない。
 あまり声高には言えないが、八代があっさりと彼を信用し心を許しているというのも、彼を警戒する一因だった。
 芦河はようやく、自分の生きる指針を僅かながらも見つけ、守りたいものの為に心を決めたのだ。一年も迷い悩み逃げまわった挙句にだ。
 それを、横からぽんと出てきて引っ掻き回すこの男は一体何なのだろう。面白くなかった。
 車が走り出す。ちらと覗くと、津上は不思議そうな顔をして芦河の様子を伺っていた。
「あっ、もしかして、『命を守るのに理由なんて要らない』……とかですか?」
 津上の低い呟きは車のエンジン音にすら掻き消されてしまいそうだったが、芦河の耳にはっきりと届いた。
 面白くなかった。
 何故この男は、芦河が殊更に口に出した事もない、胸に秘めた信条を言い当てる事が出来るのだろう?
 そんな事は警察官として当たり前だと思っている、だから言い募ったりしない、八代にだって言った事などない。
「何で分かったんだ? って顔してますね。凄いでしょ?」
「……正直に言えば、お前に見透かされるのは不愉快だ」
 言い捨てて、実に不愉快な様子で長く細く溜息を吐いてみせるが津上は、ははは、と笑い流しただけで、堪えている様子は全くなかった。
 暖簾に腕押し、糠に釘。そんな諺が浮かぶ。
「別に俺、見透かしてるとかそんなの全然ないですけどね。今だって芦河さんが何でそんな怒ってるのか、さっぱり分かりませんし」
「……別に怒ってない」
「嘘だ、ほら、何か機嫌悪そうですもん。眉間の皺凄いですよ、形ついちゃいますよ!」
「…………少し黙ってろ」
 腹に力を込めて低く呟くと、津上は不服そうな声で、はーいと答えて、それきり黙った。
 やはりこの男は苦手だ、と芦河は改めて感じた。つい乗せられて、言いたくない事まで口に出してしまいそうになる。
 アギトの癖に、何でそんなに能天気なんだ。そう聞けてしまえれば、楽だったのかもしれない。
 何故言い出せないのか、というのが、芦河自身にも判然としないところだった。津上自身アギトなのだし、津上が何か思惑を持っているにしても、知られても困る事はない。言ってしまって問題はないというのに。
 何を怖がっているんだ、俺は。本当はその疑問こそ、一番芦河を不愉快にさせているのかもしれなかった。

***

 新たな被害者の報告が相次いだ。二日の内に三件。死因は失血死またはショック死。いずれの被害者も頸動脈を鋭利なもので切断されているが目撃者はなく、一人は人ごみの中で突然首筋から血を噴き出し倒れた。
 鑑識の見解では、刃物ではなく所謂鎌鼬現象によって、刃のようになった真空状態の空気に被害者の喉笛は裂かれたようだ、という事だった。
 人間に出来る仕業ではなかった。とすれば犯人は決まっている。
「不可能犯罪……のようね」
 報告書の束を置いて、八代が呟いた。芦河がそれに頷き返す。
「ねえ津上くん、ちょっと聞こうと思ってたんだけど……君は、アンノウンが出た時に、その位置が予め分かってるような様子だったけど」
「アンノウンが出たら百パーセント分かる、っていう訳じゃないんで……知らない所で狙われてる人は沢山いると思います」
「まあそう都合良くもいかないわよね。基本は今まで通り、被害者の親族を護衛監視、しかないのかしら」
「誰がアギトになる人なのかなんて、それこそアンノウンでないと見分けられないですから、それしかないと思います」
 津上の言葉に八代は頷いた。アンノウンに対して常に後手に回る事にはなるが、津上(と芦河)の感知能力は不安定で、それを頼りに行動方針を決められるような性質のものではなかった。
 気付いていればという自責の念があるのか、津上は浮かぬ顔で目を伏せた。
 今回の被害者の親族には、既に護衛の人員は配置してあるから、何かあれば速やかにG3ユニットへと指令が下る手筈となっている。
「……それより、津上くんを狙ったっていう二人組と、アンノウンを従えた女性の事も気になるわ」
 八代の言葉は芦河に向いていたが、芦河はちらと八代を横目で見ると、すぐに視線を逸らし口を開かなかった。
 津上は困惑して、八代と芦河を交互に何度か見つめると、おずおずと芦河に話し掛ける。
「あの……芦河さん、真魚ちゃんの事、知ってるんですか?」
「……何の話だ」
「だってあの時真魚ちゃんの事見て言ってましたよね、そんな筈ない、って。知ってるからじゃないんですか」
「知らないな。確かに俺は、あの女と同じ顔のマナという女を知ってる。だが、昨日のあの女が、俺の知ってるマナな筈がないんだよ」
 芦河の答えの内容が飲み込めず、津上も八代も訝しげに芦河の不機嫌そうな横顔を眺めた。芦河は鼻から深く長く息を吐くと、面白くなさそうな潰れた低い声で言葉を続けた。
「俺の知ってるあの顔のマナは、俺の姉だ。そして二十年以上前にあれ位の年で死んでる。万が一生きてたとしても、見た目があんな十五、六の筈がない。それとも何か、あれは幽霊だとでも言うのか? 訳が分からんのはアギトだけで十分だ」
 八代も津上も芦河の語った内容を聞いて、驚きを隠し切れずに芦河を見たが、芦河はもう何も答えようとせず、目を背けて押し黙った。
「……あの、お姉さん亡くなってたなんて知らなくて、すいません」
「昔の話だし謝る必要はない、そしてあの女の事は知らん。他に言う事はない」
 津上が申し訳なさそうに、弱い声音で謝意を伝えるが、芦河の返事は実にぶっきら棒で、取りつく島もなかった。
 気まずい沈黙が三人を包むが、芦河は不機嫌に明後日の方向を睨み続けて、津上はかける言葉が浮かばないのか困窮し、八代はやや眼を伏せ何かを考え込んでいた。

 夕刻に、緊急の捜査会議が開かれた。あまり実のある内容になるとも思われなかった為、八代が一人で出席した。
 芦河と津上は、遺族の様子を見回る事を希望した。既に護衛は付いているし、何かあればすぐに連絡は入るが、二人ともじっとしているのは落ち着かない様子だったので許可した。連絡があってからGトレーラーが現場に到着するまでにはどちらにしろタイムラグがあるのだし、ここの所は待機続きで、後手に回らざるを得ない二人に何もするなというのも酷に思われた。
 予想通り、会議の内容は終始、現状の把握と確認を繰り返したのみだった。(これは報告していないが)一年近くアンノウンと戦っていた、という津上すらアンノウンが何なのか、何処から来ているのかなど、詳細な情報は一切持っていない。まさに正体不明、探る方策など思いもつかなかった。
 廊下を歩きながら、つい眉が寄り溜息が漏れる。いけない、と思い直して八代は顔を上げた。
「八代さん」
 後ろから追いかけてきた声は、出来れば返事を返したくない不愉快な相手のものだった。無視することに決めて歩き続けると、やや慌てた様子で早足の足音が後ろから追いかけ、追いついてきた。
「無視とは酷いんじゃないですか」
「私はあなたに用事はないもの」
「お伺いしたい事があるんですが」
「こんな所で油を売ってる暇があるなんて羨ましいわね」
 ようやく八代は足を止め振り向いた。男も追いついて足を止める。南条トオル。所謂キャリアで、この四月から警視庁刑事部捜査第一課に配属されたばかりの若手だった。
 悪い人間ではないが、とにかく鼻っ柱が強い。超常現象には懐疑的な態度をとっており、映像には残すことができないアンノウンなどは存在自体を疑ってかかっている節があった。
「未確認生命体対策班班長である、八代さんの考えをお伺いしたいんです。先程の報告ですが、アンノウンとかいう奴らはアギトだけを狙っているという話がありましたが」
「それが何なの」
 南条が何を聞きたいのか、意図が全く把握できず、八代は眉を寄せ南条を薮睨みに見据えた。
「アンノウンとは、アギトとは何か。アンノウンがアギトだけを狙うというのならば、普通の人間には関わりのない事ではないんですか」
「関係ないってあなた……アンノウンが殺してるのは人間よ!」
「だが、報告を信じるならば、アギトは人間ではないものになろうとしている、違いますか」
「違うわ、アギトは人間よ」
「何故、そう断言できます?」
 きっと南条を睨み付けた視線を逸らさないで、八代はぎゅっと強く口を引き結んだ。陽光は鼠色した雲で翳り、警視庁の廊下にも茫漠とした光が射し込むだけで、やや薄暗い。
 八代にとって、アギトは人でしか有り得ない。ショウイチが一体、それ以外の何だというだろう。
 だが、それをどう伝えればいいのかなど分からなかった。ショウイチは恐れている、アギトである事を、忌み嫌われ追われるのではないかと恐れている。
 だがショウイチは、ただ荒れ狂うだけだったアギトの力を、門矢士の助けを借りて、自らのものとしたではないか。律することが出来ている。
 包丁はただの包丁、ナイフはただのナイフ。誰がどう使うかによって、結果が変わるだけだ。
「……こんな所で繰っちゃべっている暇があるなら、現場に行けばいいわ。アンノウンに狙われている人達が人間でないものになろうとしているだなんて、とんでもない誤解だって分かるから」
 言い捨てると、八代はふいと前に向き直って、足音高く歩き始めた。後ろ姿を見送って、行ってますけどねえ、と呟いて、南条は肩を竦めてみせた。

***

 芦河と津上は、今回の鎌鼬現象で命を落とした被害者の遺族を回り、警護の警官から状況を聞いていた。
 遺族とは直接顔を合わせない。ただでさえ家族を失った上に命を狙われている人を刺激するのは得策ではないと思われたし、狙われている側が何も有用な情報を持っていない事はこれまでの例から明らかだった。
 昼過ぎから回り始めて四組の元を訪れたが、いずれも今のところ異状はないようだった。
 そろそろ日が暮れる。四組目の女性の家付近では道路工事を行っていて、車が入っていけない。芦河と津上は工事現場近くの時間貸しの駐車場に車を入れて、歩いて様子を見に行っていた。アパート付近で張り込んでいる刑事からは、特に変わった事は起こっていない、と他の場所と似た様な答えが返ってきた。
 じっとしているのも落ち着かないが、当てもなく動いたところで大した収穫はない。二人は言葉少なに、車へと戻るため道を戻り始めた。
 角を曲がると、街灯の下に誰かが立っていた。誰なのか、を考える暇はなかった。黒いスーツに黒いソフト帽、サングラス、そこまで認識できたろうか。
 津上の身体がふわりと浮いた、浮いたと思った次の刹那には追い付けない速度で、後ろへと吹き飛ばされていた。
 ブロック塀に叩き付けられた津上の身体は、そのまま貼りつけられたように動かない。苦しげな呻き声が津上の喉から漏れる。
「津上!」
 芦河が振り向いた時にはもう、横の道路工事現場の、膝ほどの高さのバリケードの内側から、ワイヤーがひとりでに飛んできて津上の首筋に絡みついた。
「くそっ!」
 腹立たしげな強く短い声が飛んだ。芦河は腹を立てている。何に対してなのか。
 急に、津上の身体を戒める力が消えた。叩き付けられたブロック塀からようやく背中が剥がれ、全身を締め付けていたワイヤーも力を失って垂れ下がった。
 何かに弾き飛ばされたのか、黒スーツの男は少し先の地面に倒れこんでいる。立ち上がろうとすると何か見えないものが、彼をまた弾き飛ばした。
 津上は芦河を見た。芦河は瞬きもせず、感情のない目でまっすぐに前を見据えていた。すっと右腕を前に差し出すと、また黒スーツの男が弾き飛ばされる。
 頭を強く打ったのか、黒スーツの男はもう立ち上がらなかった。死んでしまったのではないか、不安になって津上は男に駆け寄ろうとしたが、芦河は左腕を伸ばして津上の動きを制止すると、歩き出して倒れた男の顔を覗き込んだ。伏した男の肩を足で押してひっくり返し、屈みこんで口元に手を当てる。
「安心しろ、死んでない、気を失ってるだけだ」
「芦河さんが、やったんですか」
「そうだ」
 淡々と告げた芦河を、津上は悲しそうな目をして見つめた。立ち上がった芦河はその視線が余程不愉快だったのか、むっと顔を顰めて背けた。
「驚かないのか」
「何となく、そうなんじゃないかって、思ってましたから」
「お前に何が分かる、知ったような口をきくのはやめろ」
 不機嫌そうな声で答えながら、芦河は倒れた男を再びひっくり返して、後ろ手に手錠をかけた。携帯電話を取り出して電話をかける。津上はそれ以上答えようとせず、座り込んで背中を塀に凭れさせた。打ち付けられた時に後頭部が切れたのか、塀の高いところには黒い染みが出来ていた。
 通話を終えて携帯電話を内ポケットにしまい込み、津上に向かい歩き出してすぐ、芦河は唐突に足を止めた。
 弾かれたように後ろを振り向く。そこには、犬の首を持ち、黒光りする人のような肢体を持った異形が物言わず佇んでいた。エジプトのアヌビス神という奴だったか、壁画に描かれている、ジャッカルの頭を持ち天秤で人の真実まことを量る神に良く似ていた。
 声はないが、犬首の喉から漏れる低い唸りが辺りを震わせている。剥き出しの鋭い歯は唾液でぬめり、獣の臭いが鼻についた。
 犬首が右手を胸の辺りに当て、左手の人差し指と中指を立てて右手の甲を横に二度、なぞった。
 分かっていた事だった。力を使えば奴らを呼び寄せる事になる。だが、アギトだというのに力は持っていない様子の津上を咄嗟に助けるためには、こうする他なかった。
 Gトレーラーはここに向かっているが、待っているいとまはない。躊躇いはあったが、こんな所でアンノウンになど殺されるつもりもなかった。
 犬は、頭上に輝いた光輪から長い柄の付いた鎌を引き摺り出し構えた。芦河も構えると、眩い光が下腹部に宿る。
「変身!」
 鋭い声が飛んだ。頭を打ったためか、意識がはっきりしない様子の津上は、芦河の声に薄く目を開いた。
 目に痛い程の白い光の中に彼はいた。津上はその姿をよく知っている。
 その光を、ある者は人には御しきれぬ力として恐れ、ある者は人の持つ無限の可能性の体現と信じた。
 自身にとってはどうだったのだろうと津上は、霞む視界を覆う鋭い光を見つめつつ、ふと思った。知らぬ内に持たされていた力。船で出会い消えたあの青年を恨んでも良かったのかもしれないが、誰かを恨む気持ちは湧かなかった。原因が何かよりもこれからどうするのかの方が、ずっと大切に思われた。
 目の前でアギトへと変貌を遂げた芦河も、恐らくは恐れ、絶望したのだろう。誰もそうだったように、過去をしか見つめられなくなったのかもしれない。
 津上は、嬉しいと思っていた。アンノウンの気配を察知し、アギトに対しやや憎しみに似た恐怖を露わにする。芦河は恐らくアギトなのだろうと推測されたけれども、彼は過去しか見ていないわけではなさそうだった。誰もがアギトに目覚めれば、アギトではなかった過去に逃げこんでしまうしかなかったのに、芦河はそうではなかった。彼はアギトの力を恐れているだろう、だけれども、戦おうとしていた。臆する事なく、理不尽に命を奪う者と。
 それが、とても嬉しかった。
 一メートル程の柄の鎌が振るわれるとその重みが空気を震わせ、肌まで裂くのではないかと思わされる。しかも操るのは人ならぬアンノウンの怪力。振るわれたと思えば間合いに踏み込む前に返す刃が襲いかかる。アギトへと変じた芦河は、鎌の一撃を確実に避けてはいるものの、距離を詰めかねている様子だった。
「芦河さん!」
 体は起こせぬまま、津上はぐたりとした体に力を込めて精一杯に叫んだ。芦河はその声に気付くと、やや遠めに後ろに飛び、アンノウンと距離をとった。
「あなたが……アギトに、負けないなら……、見える、筈です、あなたの出来る事」
「今忙しい、訳の分からん事を言うな!」
「変わってくのは……怖い、ですけど、芦河さんだったら……強いから大丈夫、だから。芦河さんの、まんま、で……」
 次第に弱まっていく津上の声に返事を返さないで、アギトはアンノウンへと向き直った。
 不愉快だった。何を知っているというのだろう、何が分かるというのだろう。何もかも見透かされているような気がして気分が悪かった。
 戦う意志を得たところで、怖いものは怖い。逃げるのを辞めたからといって、怖くなくなるわけではない。
 変わらずに変わる、まるで禅問答だ。だが、津上の言葉をもし信じるなら、芦河は変われる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 犬首の鎌の鋭い一撃を振り切り間合いを詰められる程、速くだ。この場所を踏み越えて、芦河は芦河のまま、変われる、のならば。
 一気に間合いを詰めてきた犬首が袈裟斬りに鎌を振るう。避けて踏み込もうとするが、石突の一撃がすぐ腹の横に迫り、大きく右に飛ぶ。
 その刹那、津上の言うように、それは唐突に『見えた』。
 そうだ、芦河はそれを用いる事が出来る。
 ややバランスを崩し片膝を突いて着地し、アギトは立ち上がる前に腰の左脇に掌を当て押し込んだ。光が再びアギトを包んで、金色に輝いていたその姿は、闇に溶け込み沈むような、深い蒼へと変わった。
 特に左腕に力は満ちている。動ける、確信がどこからか根拠もなく湧いた。次に何をすべきかも、もう分かっていた。
 腰の前に右手を添えると、下腹のベルトの中心から、柄が飛び出てくる。どうなっているのかなど分からないが出来る事だけ分かっている。柄を掴み一気に引き摺り出すと、身の丈ほどもある薙刀がアギトの手に握られた。両端に片刃の刃が互い違いに取り付けられている。
 横薙ぎに振り払われた鎌の一撃を薙刀の柄が受け止め、弾き返す。犬首は鎌の重さに引き摺られて体勢を崩し、戻す前に薙刀の一撃が犬首の肩から胸にかけてを薙ぎ払っていた。
 アギトは薙刀を構え、右に左に回し振った。その動きは風を巻き起こし、体勢を崩した犬首は立て直す間もなく強風に煽られて後退る。
 よろけた犬首に、薙刀の斬撃が続けざまに二撃、三撃。鋭い刃先に首の下を突かれて、犬首は大きく後ろに吹き飛ばされ仰向けに倒れこんだ。
 アギトが薙刀を右脇に構え直す。立ち上がった犬首は、受けたダメージを感じさせぬほど軽やかに鎌を振り上げ、駆けつつアギトへと振り下ろすが、紙一重で躱され逆に、すれ違いざまに腹に横薙ぎを食らう。
 食らったまま犬首は前に二歩三歩進んだが、立ち止まりアギトへと向き直る。がらん、と乾いた音がして鎌が犬首の手を離れ、アスファルトに転がった。
 犬首は身を捩って腹の辺りを掻き毟り、暫く悶えていたかと思うと背を反らせた。頭上に光輪が現れ広がり、じきに犬首の身体が内側から爆発を起こし、弾け飛んだ。
 炎はすぐに消えてしまう。鎌もすっと消えてしまった。夜の闇に沈んだアスファルトには僅かに焦げ跡が残っているだけで、アンノウンの形跡など最早跡形もなかった。
 サイレンの音が遠くから徐々に近づいてくる。アギトは変身を解き芦河の姿に戻ると、津上を見た。
 津上は少し悲しそうに目を細めて、だけれども満足そうに笑ってみせると、目を閉じた。
 やはり、何もかもを見透かされているようで気分が良くなかった。アンノウンは「人は人であればいい」と語ったし、芦河は変わるのが怖かった。それなのにこの男は、そのままで変われるという。
 望んでなどいない変化だ、変わらずにいられるならば、こんな変化などなくても良かった筈だ。
 津上を助け起こす気にはなれなかった。ふと気付いて辺りを見回すと、手錠をかけた黒スーツの男の姿がなかった。
 逃げられた。だが、そんな事も今はどうでもいい気分だった。
 変わっていくのだとして、芦河は、変わらずにいられる程、己をしっかりと認識しているのだろうか、保てるのだろうか。
 近づいてくるパトカーのけたたましいサイレンが耳障りで、芦河は、一つ舌打ちをした。

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