住宅街の細い路地は、闇に沈んでいた。等間隔に並ぶ白色灯が狭く足元を照らす他は明かりがない。月も星も、今日はその姿を雲に遮られ隠されていた。
 人の気配のない中で響く靴音は不規則だった。靴裏が地面に上から当たっているのではなく、地面に擦れる、摺り足のような耳障りな音を立てている。
 男は白色灯の下で足を止めたが、よろよろと気怠そうに再び歩き出した。だが程無くして、力が抜けてしまったのか、ふらりと斜めに体を揺らすと、緩くコンクリートの塀にぶつかり、そのまま肩を預けて凭れかかった。
 男がかけた眼鏡が弱い光を照り返した。左目側のレンズは割れてしまって、半分ほどが抜けている。肌の出ている場所だけでもそこかしこに痣が出来、口元には乾いてこびりついた血の痕があった。
 なぜ、ニノマエは生きている?
 公安零課の津田は、荒い呼吸を漏らしながら、分かりもしない事を考えていた。
 潜入捜査は問題なく進んでいた。何者かがスペックホルダーの組織を統合しようとしている、その事実関係を探る為、統合の動きに強硬に反発している組織に潜り込んだ。
 統合の誘いは穏やかだった。使者はサラリーマン風の男で、既に統合された組織の多い事と、待遇の良さを語った。既にこれで三度目の来訪らしい。取り付く島もなく断られても、使者は穏やかな笑顔を崩す事はなかった。
 だが、使者は表情を変えないまま言った。『あなたがたの力は人の犯した罪の証である。悔い改めるならば主はそれをお許しになるが、改悛が見られぬのであれば厳しく罰せられるだろう。その証を明日お目にかける、それからまた答えを聞く』と。
 勿論その言葉は、何を馬鹿な事をと一蹴され流された。
 だが今日、未確認生命体の惨殺死体が多数発見されたという情報が昼頃入り、組織の者たちは騒然となった。
 未確認生命体はスペックホルダーといえど、対抗する事の難しい、恐ろしい怪物だった。彼らは見境がなく、殺す事しか考えていないし心から楽しんでいる様子があった。躊躇のない相手は恐ろしいし、単純に力が強く人間離れした身体能力を持った彼らは、対抗が難しかった。
 もし証、というのがこの未確認生命体の大量殺害を指しているのであれば。組織内の意見は纏まらなかった。
 そして夜、彼らは訪れた。中年の男、若い女、そしてニノマエ。
 興奮した強硬派がそのスペックを使い襲いかかろうとすると、ニノマエは右手を軽く胸の前へと突き出した。すると、動いた強硬派が吹き飛ばされた。
 吹き飛ばされた彼の力は強力なテレキネシスだった。跳ね返した、ように見えた。
 ニノマエが生きているのか単なる他人の空似なのかは分からなかったが、彼にあんな能力はなかった。銃弾なら時間を操作して弾き返したように見せられるが、テレキネシスは手で触る事は出来ない。
 統合反対派はその光景を目の当たりにして、完全に恐慌状態に陥った。彼らの攻撃は三人に届く事はなく、津田は巻き添えを喰らって傷を追った。
 結局、生き残った者達は統合される道を選んだ。三人が去り、場が混乱して人が激しく出入りを繰り返しているのに乗じて、津田は抜けだしてきた。
 これを、報告しなくては。怪しまれぬように、連絡のための携帯電話などの機材は一切持っていない。公衆電話でもいい、早く見付け出して仲間と連絡を付けなければならなかった。
 消えそうになる意識を引き戻して、津田は頭を起こして、のろりと再び足を前に踏み出した。ふと、何かの気配を感じて上を見上げる。
 塀の上に、誰かが立っていた。だがその誰かの口には、どうした事か鋭い嘴があり、肩の向こうには畳まれた黒い羽が見えた。
 烏なのか人なのか分からない、それが軽く塀を蹴って飛び上がり翼を広げた。危ない、逃げなくてはいけない、本能とでも言えばいいのか、頭のどこかが激しく揺さぶられるような感覚があったが、それが、津田が知覚する事ができた最後の感覚だった。

***

 未確認生命体対策班を含む未確認生命体対策本部の会議に(無関係の部署に所属しているにも関わらず)潜り込んだが、会議で分かった新しい事実は一つもなかった。小さく舌打ちをした当麻を、瀬文は冷ややかに見つめた。
 未確認生命体の大量殺人などという事態で、昨日今日で明らかになる事象があるとは思えない。だが当麻は明らかに焦っていた。
 瀬文とてあの顔を見れば焦る。ニノマエ、まさか彼が当麻の左手を奪い返しに来るなどと、予測できよう筈もない。
「あら、あなた達……」
 会議室を出ようとしていた八代が、二人に気付き足を止めた。
「ミショウは対策班にも応援要員にも組み込まれてなかったと思うけど……」
「まあいいじゃないですか、細かい事は」
 しれっと答えた当麻を、八代はやや呆れた様子で見つめて、軽く息を吐いた。瀬文にはその気持ちはよく分かる。
「昨日の未確認生命体の事案が、あなた達の追ってる件に何か関係があるの? この前聞かれた件はアンノウン関連の可能性が高いからうちの管轄になった筈だけど」
「また別の件ですが、そんな所です。ああそうそう、八代さんに一つ伺いたい事があったんでした」
「何かしら?」
「芦河さんのご家族について、何か聞いていませんか?」
「家族……? 父親と姉を二十年以上前に亡くして、お母さんも何年か前に亡くなったと聞いているけど、それが何なの?」
 八代はさも怪訝そうに首を傾げたが、当麻はにっと笑って見せると言葉を続けた。
「アギトに目覚める人が何で今目覚めてるのかって考えたんですけど、どうもまだ繋がりません。パズルのピースが足りない、という感じがします」
「何の関係があるのか分からないけど……あなたは、人々がアギトに目覚めたのには理由があると思っているの?」
「理由もなくいきなり目覚める方が変じゃありません? まあそういう事もあるかもしれないですけど、理由付けをしたくなるのが人間の性ってもんです」
 それはそうだと納得したのか、八代は軽く頷いてみせた。当麻は尚も言葉を継ぐ。
「アギトの登場は、随分昔に予言されていました。その予言と出会い警告を発した人がいましたが、彼の声は取るに足りないトンデモ学説として黙殺された」
「……学説?」
「そうです。彼の名は沢谷ヨシユキ、比較宗教学の研究者でした。そして、二十数年前に火事で亡くなったとされている、芦河ショウイチの父親です」
 当麻の答えを聞くと、八代は眉を寄せ口を軽く開いて、困惑した表情を見せた。
「芦河さんが関与していると言いたいんではありません。ただ、彼の超能力の噂というのは、本当に事実無根なのかが気になりまして」
「……どういう事?」
「私は、彼のお姉さん……沢谷マナさんが、アギトの力に目覚めたのではないかと考えています。現時点では単なる推測ですが、もし芦河さんもアギトの力に目覚めているとすれば、可能性が高くなります。そして私は、彼のお父さんに聞きたいんですよ。アギトについて、そして、今のこの事態について」
 当麻はしれっとしたまま淀みなく答えたし、八代も困惑した表情を変えなかった。暫く無言が続く。
「……知らないわ」
 やがて、低い声でそう答えて、八代は出口へと歩き出していった。
 背中を見送って当麻は、肩を軽く竦めると、配布された書類を纏め始めた。

***

 トレーニングルーム側に設えられたシャワールーム前で、芦河は相変わらずの仏頂面を見せつつ腰掛けていた。
 現在津上はいつ何処にいても安全ではない為、芦河が四六時中張り付いている。寝る部屋まで一緒だった。
 芦河とて男と一緒の寝室で嬉しい事など一つもないが、そうする必要がある。それは津上も理解していた。
 初日など、学校の友達が泊まりに来たみたいでわくわくする、と相変わらず緊張感のない発言が飛び出して、芦河の意欲を殺いだ。ここは俺の家だからお前が遊びに来た方だろう、と返すと、それもそうですね、と何がおかしいのか笑った。
 しかし、シャワールームだけはどうにもならない。自宅の風呂ならば入り口に張り付いていればいいが、警視庁のシャワールームは共用で広い。津上を視界に届く場所に入れておきたいのならば芦河も一緒に入る他ない。
 シャワールームに入るには裸にならねばならないので、武器が携行できないし、さすがに津上も実に嫌そうに目を細めて難色を示したため、外で待つ事になっている。
 先日、ミショウの当麻が話した内容を思い出す。父と姉がもし生きていたら。有り得ない、と思えた。だが有り得ないと思う事にもさしたる根拠はない。
 芦河の抱いた感情はどちらかといえば、『だから何だ』とでも言い表すべきものだった。
 父など、顔は知っているが興味はない、としか言いようがない。幼かった芦河には父の記憶は殆ど無い。離婚する少し前と、離婚して暫くは、母は泣いてばかりいた。お父さんは急に変な事を言うようになった、そんな話をずっとしていた。
 人が変わったようになったのは確かに、長い海外出張に行った後だったように思う。気難しい所もあるが家族に対しては温和だった父は、何かに取り憑かれたようになり、母やショウイチなど目に入らなくなったようだった。対話も成立せず、付いて行けなくなった母は子供を連れて家を出ようとしたが、父は姉だけは手放そうとしなかった。今まで努めて忘れるようにし、実際思い出す事も今ではほぼなかったが、父にとってはまるで存在していないかのようにショウイチは扱われた。
 だから何だというだろう。もう今では関係のない事だし、万に一つ父と姉が生きているとして、会いたいとも謝って欲しいとも思わない。過ぎ去った事だしもう母も死んでしまった。今回の件と関係があったとしても、別段感想は浮かばない。
 そろそろ津上が出てくる頃合いだろうか、そう思い何とはなしに左右を見渡すと、廊下を八代が歩いてきた。
 ショウイチが気付いて目線を向けると、軽く笑みを零す。横に腰掛けて、八代は緑茶のペットボトルを差し出した。
「お疲れ様、どうだった、今日の津上くんの訓練」
「別にどうという事もない。変わった事はなかった」
「そう、ならいいの」
 薄く笑みを浮かべて、すぐにその笑みを頬から消して俯いた八代を、芦河は不思議そうに見やった。
「どうかしたか」
「何でもないんだけど……良かったのかが、分からなくて」
「何がだ?」
「津上くんの事。戦う事なんかないのに、恩着せがましくアンノウンとの戦いに巻き込んで」
 そんな事か、とでも言いたげに、芦河は首を軽く横に振ってみせた。ナンセンスだ、という思いを込めて。今度は八代が不思議そうに芦河を見た。
「……どの道、あいつは自分から首を突っ込んでいたろうさ。そもそも事の始まりだって、あいつが勝手に首を突っ込んでいたじゃないか。住む場所と仕事を世話してやったと思えば、そう悪いことをしたわけでもないだろう」
「でも……」
「別に騙してるわけじゃない、あいつも全部納得した上での話だ、お前が気に病む事なんか一つもないだろう」
 芦河は思ったそのままを返したが、八代は答えを聞くと、浮かぬ顔のまま俯いた。
「ショウイチ、津上くんの事は、もう疑ってないの?」
「……正直、分からなくなった。あいつは、アギトの為に沢山の人が死んだと言った。そう言った時は、嘘をついてるようにはとても見えなかった。アンノウンを倒してアギトを守りたいと思っているのは、本当なんじゃないかと思えた」
「そうよ、きっと本当よ」
「……何で、そう言い切れる? それだけの材料もないだろう」
 訝しげに目線を向けて芦河が問うと、八代は自信ありげに口の両端を持ち上げて笑った。
「勘よ」
「…………勘、って、そんな自信満々に言うような事か」
「あたし、人を見る目は確かなつもりだけど」
 言い切って八代は、勝ち誇ったように笑みを深めた。認めるのも面白くないが否定するのも違うような気がして、芦河は苦虫を奥歯で噛み潰したように顔を顰めて八代から目線を逸らした。
「じゃあ、これから新装甲の性能テストだから行くわ。悪いけど後はお願いね」
 愉快そうに笑いを零しながら八代はベンチを立ち、小走りに駆け出していった。お前が採用した海東大樹はG4システムのチップを盗もうとしてたんじゃないのか、と文句を言おうにも、八代の背中はさっさと角を曲がって消えてしまったので、芦河は何だかおかしくなって自嘲気味に軽く笑った。

***

 捜査一課所属、南条と川口はその日、数日前に(恐らくアンノウンに)母親を殺された女子大生の護衛に当たっていた。
 交替で任に当たっているが、今の所動きはない。本人にも事情は説明してあり、講義が終われば余計な寄り道はない。
 中央線を降り最寄り駅を出て住宅街へ。まだ時刻は夕方の四時半、道を進むにつれ人通りが減るが、ゼロにはならない。
 国道を渡るための地下道へ続く階段を降りる。半ばまで降りた所で保護対象が足を止め、階段を降り始めようとした南条と川口も動きを止め息を呑んだ。
 奥から歩いてきた影が、階段から斜めに差し込む光を受ける。てらりと脂でぬめり、燻した金色をした、つるりとした甲虫の外殻のような皮膚、突き出た角に剥き出しの牙。
 アンノウンだった。
 数瞬の後悲鳴が上がって、保護対象は腰から力抜けたのか、へたり込んで階段に尻をついた。アンノウンが足を踏み出して、南条と川口は慌てて階段を駆け下り始めた。
 南条が先に懐から拳銃を取り出し、それを見て川口は携帯電話を取り出してダイヤルしつつ、保護対象を抱き起こそうとする。
「本部、アンノウン、アンノウンです! はっはや、早く、対応を!」
 騒ぎ立てる川口の声が、南条の放った銃声に掻き消される。すぐに、アンノウンの胸あたりでちぃん、と音がして、次に天井にぼこりと小さな穴が開いた。
「跳ね返し……え……」
 思わず南条は呆然と自分が放った銃弾が開けたばかりの穴を見つめた。この銃に装填されているのは神経断裂弾。神経断裂弾は実戦を経て改良され、頑強な未確認生命体の外皮を撃ち抜けるように特殊合金コーティング・スパイラル加工がなされている。至近距離ならば鉄板も撃ち抜ける。
 今までアンノウンに対しては、届かないか或いは届いてもあまり効果を発揮していないと報告にはあった。だが恐らく、届いているのに跳ね返された、というのは初めてだろう。
 保護対象と川口が階段を駆け上がる不規則な足音が響いた。南条も気を取り直し、構えは崩さないまま後ろ向きに階段を登り始めた。
 南条は、アンノウンに遭遇するのはこれが初めてだった。保護対象の女子大生は、ごく普通の年頃の娘で、今日一日ずっと見ていたが特別どうという事もない。印象で話をするならば、何故彼女がこんな怪物に狙われるのかは全く分からなかった。アギトといえばアンノウンと戦って倒したというではないか。彼女にそんな力があるとはとても思えなかったし、生命の危機に晒されて尚、そんな様子は一切なかった。
 後ろ向きに歩き続けて、左足を上げて後ろに踏み出したが段を踏めずに軽くよろめく。階段は終わっていた。南条は後ろに向き直ると駆け出し、川口と保護対象を駆け足で追った。
 正直な感想を言えば、何もかも投げ出して逃げ出してしまいたかった。アンノウンがアギトだけを狙っているというのならば南条を追ってくる事はない。
 一体が数百人の死者を生む事もあった未確認生命体を撃ち倒す力を持った、神経断裂弾を弾き返す相手だ。南条に、いや、人間にどうこう出来るとは思えなかった。
 二人に追いついて、南条は後ろを顧みた。アンノウンはゆったりとした歩調で歩いていたが、三人との距離は詰まっていた。保護対象の歩みは恐怖のためか辿々しくぶれて定まらない。このままでは追い付かれる。
 今来た道を逆に辿って逃げ続けると、追うアンノウンに気付いた通行人が悲鳴を上げ逃げ出す。このまま大通りまで出てはとんでもないパニックを誘発する事にもなりかねない。
 下手に発砲すれば、思わぬ方向に跳弾する危険性があった。例えば目や関節の内側、口といったような箇所を寸分違わず撃ち抜けば跳ね返されないかもしれないが、そこまで精密な射撃技術はないし、外した時のリスクが大きすぎる。妙な方向に跳弾すれば、全く関係のない通行人に当たってしまう可能性も大いにあるのだ。
 我彼の間の距離は既に五メートルほど、眼前に迫っている。アンノウンが一駆けすれば、簡単に追い付かれる距離だった。
 距離が詰まっている事に気付いて動揺したのか、庇う川口が肩に置いた手を保護対象が振り切ってバランスを崩し、転倒する。川口がすぐ助け起こそうとし、南条は銃を構えて二人を庇うように立つが、アンノウンが歩み寄る速度は変わらない。
 終わった、と思った。恐怖に涙を流し引き攣った声を上げている保護対象が、アンノウンから逃れるために走る事など出来そうにないし、南条と川口にあのアンノウンに対抗する術はない。保護対象を守ろうとしたとて三人仲良く殺される他はないだろう。
 左右一車線の路地で、南条たちの後方から野太いエンジン音が響き近付いてきた。斜め後ろに停車すると、重い金属が擦れぶつかる音が響いた。
「SAUL、やっと来た!」
 川口が揺れた声を喉から絞り出した。G3‐XはGM‐01を右手に構え、アンノウンに向かい引鉄を引く。南条の小銃から撃ち出された神経断裂弾とは違い、スコーピオンの弾丸がアンノウンの外殻に勢い良く弾き返される事はなく、アンノウンの体にめり込む。だが、外殻を突き破った銃弾はぽろりと体外に排出され、アンノウンの体に開いた穴は何事もなかったかのように盛り上がり修復された。
「早く逃げろ、今トレーラーが追い付いてくる、早く行け!」
 構えを解かず、G3‐Xは太く鋭い声でそう告げた。軽く頷くと、南条と川口は両脇から保護対象を抱え、走りだした。
 組み合い揉み合う物音が後ろから聞こえるが、追いかけてはこない。三人は振り返らずに走った。
 しばらく道なりに走ると、前方から青いトレーラーが走ってきて、三人の側で急ブレーキをかけ停車した。Gトレーラーだった。
 ようやく助かる、何とか守りきれた。側面のドアがスライドして開き、タラップに足をかけて、南条は息を吐いた。
 登りかけると、保護対象の短く高い悲鳴が響いた。振り返ると、そこに異形がいた。
 南条と川口は知る由もないが、先日芦河が青いアギトへと変化し倒した犬を模したアンノウンとほぼ同じ、犬の頭に人の顔を持った奴が、低く唸り声を上げてドアの奥を睨んでいた。
「は、早く中に!」
 再び体から力が抜けてしまい、動けない様子の保護対象を川口が引き摺り上げ、のろのろとタラップを登ってドアの中へと入る。
 銃を構えた南条も続こうとするが、睨み合った形のアンノウンが動いた。動揺したためか足を滑らせ、踵がタラップの段を踏み外す。がたりと滑って次の段に踏みとどまるが、腕を振り上げ鋭く地を蹴ったアンノウンはまっすぐに南条を狙い目指していた。
「逃げて!」
 銃のグリップに力を込め握り直すと、後ろから大きな声と、走りこんでくる靴音が響いた。靴音の主は、南条の頭のすぐ上あたりのタラップを蹴って、すぐ脇を通り抜け前方へ飛び上がると、頭と肩からアンノウンの鼻先に飛び込んでぶつかっていった。
 咄嗟の事に驚いて、南条は声も出ない。飛び出してきたのはG3ユニットの制服を着た、若い男だった。
 突然の飛び込みに対処しきれず地面に転がったアンノウンとやや揉み合うと、アンノウンの鋭い爪を避け素早く飛び退る。躊躇のない動き、見るからに彼はアンノウンと対峙する事に慣れていた。数瞬先にそこに来るはずの攻撃を回避する為の動きを、数瞬前に開始している為、生身にも関わらず、アンノウンの攻撃が彼に当たっていない。
「ちょっとあなた、早くしなさい! こっちへ!」
 知っている声に叱咤される。振り向くと八代がハッチから姿を覗かせていた。
「は、はい……」
 慌てて起き上がろうとするが、思うように腰が立たない。それでも無理矢理に力を入れて、南条は中腰のままでタラップを一気に駆け上って、ハッチ内へ飛び込んだ。
 すると、八代がハッチ横のパネルを操作した。ハッチが閉まっていく。南条は驚いて八代を見た。
「えっ、ちょっ……ど、どうするんですか彼は!」
「G3なしでどうやってアンノウンと戦うんです!」
 南条と川口が口々に喚き立てるが、八代は一瞥しただけで答えもせず、モニタールームへと戻ろうとする。
「八代さん、彼を見殺しにするんですか! 彼は私を助けてくれたのに……」
 南条の言葉に、ようやく八代は振り返ると、軽く首を横に振った。
「違うわよ。あたしたちは彼の邪魔になる、それだけよ」
 短く答えると八代はドアを潜り閉めた。訳が分からずに南条と川口は怪訝そうに目線を合わせたが、何も分かる筈がない。
 保護対象がひどく怯えて、うずくまってがたがたと忙しなく震えていた。今南条に出来る事は彼女を守る事だ。命の危険からも勿論だが、恐怖からも。その意味では、先程のように八代に食って掛かってみせたのは良くなかったかもしれない、余計に怯えさせてしまったかもしれない。
 命を救ってくれた彼の事は気にかかるが、何か成算があるから八代は放置しているのだろう。
 保護対象に寄り添った川口とは反対脇に屈みこんで、震える背中にそっと手を当てて、もう大丈夫です、安全です、と出来るだけ穏やかに呼びかけた。

***

 組み合いでは分が悪い。燻した金の甲虫のようなアンノウンの怪力と素早さは想像を凌いでおり、僅かな隙を突かれて胸の辺りを殴り飛ばされる。
 弾き飛ばされて地面に背中を叩き付けられる。衝撃はアンチショックシステムが吸収するが、同時にバッテリーも多く消費する。そう何度も殴り飛ばされ続けるわけにはいかなかった。
 G3‐Xは電力で駆動している、バッテリーが切れればただの鉄の塊になる。
 ケルベロスは既にアクティブになっている筈だったが、下手な場面で使ってもこの眼前のアンノウンに通用するとは思えなかった。通常のアンノウンに比べ、外皮が硬い。スコーピオンの銃弾は外皮は突き破ったものの、勢いを殺され内側の筋肉に押し返された。
 掴みかかる右腕をいなして逆に投げ飛ばそうとするが、腹に左膝が迫る。躱しきれない、G3‐Xに搭載されたAIが選び出した最適解は、腕装甲でのブロックだったようで、知らぬ間に両腕が腹を庇って膝の直撃を受けた。
 衝撃は装甲越しに骨に響く。腹を抱えた格好のままで後ろによろめいて、芦河は歯噛みをしながら姿勢を整えた。
 例えば、もう一人誰かがいて戦っていたなら、G3‐XはGXランチャーを用いてこのアンノウンを吹き飛ばす事ができるだろう。
 だがその想像は、ないものねだりとでも言うべきものだ。G3‐Xが体勢を崩した隙に、アンノウンは頭上の光輪から、フレイルと盾を引き摺り出し構えた。
 先端に鉄球が取り付けられた鎖が勢い良く回り、G3‐Xをめがけ飛んでくる。一撃、二撃と左右に身を振ってかわすが、三撃目に左の肩を捉えられ、大きく体勢を崩す。腹を狙った四撃目は、躱す事もままならずまともに食らって、G3‐Xは背中から勢い良く地面へと叩き付けられた。
 強い。今まで芦河が相手にしたアンノウンと比べても、かなりの手強さのように思われた。
 立ち上がり、振り下ろされた鎖部分をどうにか掴んで引き寄せ、胴を狙って蹴りを放つが、アンノウンの左手に構えられた盾が爪先をいなし逸らした。脚を引く動作が、盾が胸元辺りに叩き付けられる速度に間に合わない。
 衝撃で、鎖から手が離れる。肩口から地面に再び転がる。すぐに肩を起こす、アンノウンはG3‐Xの動作を見守っていた。身じろぎもせず余裕さえ感じさせる静けさだった。

***

 アンノウンだったものの残り火がアスファルトの上に僅かに燻っている。既に姿を戻した津上が鼻から軽く息を吐くと、Gトレーラーの後部ハッチが再び開き始めた。
「お疲れ様、津上くん、ごめんね」
 後部ハッチから八代が姿を見せ、駆け寄ってくる。津上は不思議そうに八代を見た。
「八代さん、何で謝ってるんですか? 何かありました?」
「……ううん、何でもないの。それより、早くショウイチの支援に向かわないと、急ぎましょう」
 八代が躊躇いつつ軽く笑って、津上も不審げながら頷いた。二人がトレーラーへ戻ろうと動きかけた、その時だった。
 その人影は、視界に唐突に現れた。今までそこにいなかったものが突如存在を顕わにする。
 いなかった筈なのに存在している、生きている筈のない女。マナは、袖の長い黒無地のワンピースに身を包み、やや離れた道の先から、先日と同様に津上を見つめていた。
「真魚ちゃ……うあっ!」
「ひっ……!」
 津上が足を踏み出そうとすると、そこに道路脇の塀の上から跳びかかる影があった。八代が思わず短い悲鳴をあげる。いつかもマナに従っていた、蛇のアンノウンだった。
 突然飛びかかられ、咄嗟に頭を庇うが、庇った腕の上から殴りつけられて津上は地面に転がった。
 転がった津上には構わず、アンノウンは今度は八代へと向き直り掴みかかった。
「離して、離しなさい!」
 やや揉み合った後、八代は後ろを取られて両手首を掴まれ、捻り上げられた。痛みがあるのか顔が苦しげに歪む。
「八代さん!」
 津上が名を呼び叫んで、駆け寄ろうとするが、アンノウンが八代を盾のように己の前に立たせると、たじろいで足を止めた。
「どうするの? その人、死んでしまうわよ。私と来れば、離してあげる」
 マナが、感情のない透き通った声で呼び掛ける。津上は切迫した表情のまま目を剥いてマナを見、アンノウンに目線を移すと、やや俯いた。
「俺が、俺が行くから……その人を、離して」
「津上くん!」
「大丈夫ですよ、芦河さんがいるから、俺、何も心配してないです。ちょっと行ってきますから」
 背中から両腕を捕まれ動きを封じられているが、八代は身を捩って津上を呼んだ。だけれども津上は軽く笑ってみせると、すぐそこに買い物に行くとでも告げるような軽い調子で、八代に言葉を返した。
「そうじゃなくて、あなたが」
「俺ならもっと大丈夫ですって。こう見えてもかなり強いんですよ? 疑ってます?」
「嫌よ、あたし、ショウイチの事ばっかりで、あなたの事なんか何も考えないで巻き込んで」
「いいんです、八代さんは、芦河さんに大丈夫だって言える人なんだから、いなくなったら駄目です。それに、他人事じゃなくって、俺自身が知りたいんです。だから、行きます」
 さもおかしそうにくすりと笑って、津上が答えた。八代は首を何度も横に振ったが、津上は頬から笑みを消すと前に向き直って、八代と彼女を取り押さえるアンノウンへと向かい歩き出した。
「その人を、離せ」
「あなたがここまで来たら離すわ、その人に興味はないもの」
 津上は、八代が見た事もないような厳しい顔をして、はっきりとした怒りを顕わにしていた。アンノウンの後ろに控えていたマナが淡々と答える。
 アンノウンは、その言葉通り、八代を傷つける事はないだろうし、一緒に連れて行く事もないだろう。良くも悪くも、力持たぬ人には興味を示さない。八代は別の強い力を持っていることにも気付かないで。
 人が積み上げ磨き続けてきたその力を、津上は強く信じていた。それを人が、少なくとも八代が正しく用いる事が出来る、という事も。
 八代とアンノウンの横を通り抜け、津上はマナの前で歩みを止め、彼女をまっすぐに見つめた。
 マナはその視線に特段の興味は示さないで踵を返す。それを合図のようにして、アンノウンは八代を掴んでいた腕を離した。
「津上く……!」
 身を捩っていた勢いが余り、数歩よろけた八代が体勢を立て直して振り向くと、マナに手を取られた津上とアンノウンが、ふっと掻き消えた。
 振り向いた刹那には目に入ったのに、本当に急にいなくなってしまった。津上がいた筈なのに、ちらと八代を振り返って薄く笑みを口元に浮かべていたのに、もうそんな気配も全く消えてしまった。
 不必要な不安に胸が騒いだ。ある筈のものがない、それだけでどうしてこんなにも、喩えようのない不安を覚えるだろう。
 八代は落ち着かない様子で辺りを見回したが、もう何の気配もない。緩い風が吹いて、名前の分からない若い草を撫で揺らしていった。

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