遠い遠い、太古の昔の物語。
 神は自らの僕たる、翼持つ使徒を生み出し、使徒を模して地上の動物達を、そして自らを模して人を生み出した。
 人はやがて、獣を狩り、あるいは飼い慣らし殺して食べる事を覚えた。それを人の驕り昂ぶりとして憤慨した使徒達は神に訴えるが、人をこよなく愛す神はその訴えを退けた。不服に思った使徒達は、地上に降り人を襲い殺した。
 力持たぬ人は、一方的に使徒に殺され逃げ惑うばかりだった。それを哀れに思い、神そのものから分かれた強い力持つ使徒――火の力を司る天使は、神を裏切り人の女に子を授けた。
 その子はギルスと呼ばれた。むき出しの火の使徒の力は人には制御できぬものだった。狂暴で力が強く、人と使徒の区別を付けずに襲い掛かり殺し、女は犯した。ギルスは瞬く間にその数を増やして、地上に溢れた。
 その頃の人は争いを好まない穏やかな人達だったが、人の中で闘争心の強い者達が、ある石を見つけた。
 その石はそれ自体が思考と意識を持っているかのように、闘争心の強い者の下腹部に吸い込まれ、戦うのに適したものへと体を作り替えた。
 彼らはグロンギと呼ばれた。ギルスや使徒と戦ううち、彼らは次第に石の力に飲み込まれ、力のみを追い求め戦いを楽しむようになっていった。
 人、グロンギ、ギルス、使徒。四者の殺し合いは果てもなく続き、地上は怨嗟と悲嘆で満たされた。
 神は、裏切り者の天使を粛正した。だが火の力持つ天使は、死の間際に自らの力を地上目がけ撒き散らした。
 神の憎んでやまぬ裏切り者の力は、多くの人に知らぬ間に宿った。最も愛する子達が、消えぬ罪の烙印を負ってしまった。神は罪を赦さず洗い清めることとし、地上は大波に飲み込まれた。


「ちょっと待て、グロンギというのは」
「そうです。九郎ヶ岳の碑文に古代文字で残されていた、未確認生命体を指すと思われる名称です」
 話を切った芦河の疑問に、当麻は淡々と答えを返した。
「親父が二十年以上も前にその伝承とやらを見つけていたなら、何で今までグロンギの名前まで出ているその話が出て来なかったんだ」
「失礼なんですけど、お父さんの研究は、当時全く評価されずに埋もれました。荒唐無稽すぎますし、よくあるキリスト教異端派独自のノアの説話のバリエーションだ、と考えられたんです。当然といえば当然ですが」
 淡々とした当麻の返答に、芦河は軽く頷いて黙った。お父さんは急に、誰からも相手にされないような研究に夢中になった。母の愚痴の中にもあった内容だった。
「だけど沢谷氏は、これが只のバリエーションだとは考えなかった。原文には、ギルスの持つ悪魔の力の描写として、手を触れずに物を動かしたり、隠れた人の位置をまるで見えているように捜し当てた、という下りがあります。姿も人間とは異なっていて、大きな赤い眼と緑の硬い皮膚を持ち、鞭のような触手を身体から伸ばして武器にしていた、という記述もありますね」
 当麻の説明に、芦河はややびっくりして眉を寄せた。緑色の硬い皮膚、大きな赤い眼、鞭のような触手。それはまるで、芦河が門矢士と会うまで苦しめられていたあの姿ではないか。
「ここで、普通の大洪水伝承なら、心の清い人だけ助けられて終わりです。だけどこの話は、もう少しだけ続きます」


 洪水は地上の至る所を攫い、洗い流し尽くした。
 沢山いたギルスはほぼ波に攫われ海に沈み、僅かに生き残った者達も、使徒に狩られた。
 使徒は神に罰せられ、人への激しい憎悪は胸に宿したまま、故なく人に干渉せぬようになった。
 グロンギのうち幾許かもまた、洪水を生き延びていた。敵を失い戦う事を楽しむ心だけ残った彼らは強さを競い合い、人を狩るゲームでその序列を決めるようになっていった。
 だが穏やかな人達の中にも、勇気ある者は新しく生まれていた。人は、人をグロンギに変えてしまう恐ろしい石の力をある程度・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・制御する装置を作り上げ、勇気ある若者はグロンギを凌ぐその力で戦い、自らの命をもって、ついにグロンギを封じた。
 裏切り者の天使との戦いで自らもまた深い傷を負い、愛する我が子たる人を大波に沈めた事で心にも深い傷を負った神は、悲しみのうちに眠りについた。
 いずれ人の中に、忌まわしき力が目醒める日が来る。その日には己もまた復活する事を告げて。


「キリスト教の異端派の伝承として解釈すると、かなり不自然なんですよね、これ。じゃあイエス・キリストの復活は何だったのって話になる。単なる民間伝承と考えられなくもないですが、沢谷氏は、これは本当の事ではないか、神の復活が近いのではないだろうかと考えたんでしょう。恐らくは、娘……マナさんが、アギトに変貌した事を根拠として。神に倒された天使の撒いた力が、覚醒を始めたのではないかと」
「馬鹿馬鹿しい、発想が飛び過ぎだ」
「そうなんですよね、少々飛躍しないといけない。何故沢谷氏は確信を持つに至ったのか、それがはっきりしません。あそうだ、そういえば一つ聞きたいんですけど」
「何だ」
「お姉さんの持っていた変わった力って、どんな力だったんですか?」
 質問され、芦河は言いづらそうに口の端を曲げて暫し黙りこくっていたが、やがて口を開いた。
「人より色んな物が見える人だった。姉さんは秘密にしていたから、俺しか知らなかった筈だ」
「色んな物? 例えばどんな?」
「今でいうサイコメトリーって奴だろう。物に触ると、例えば買ってきた時とか作られた時とかの様子が見えてたようだった。俺が学校で使ったノートだとかその日着ていた服に触ると、その場にいたんじゃないかって位正確に状況を言い当てられた。後は恐ろしく勘が良かったな、神経衰弱だとかババ抜きで勝てた試しがない。他に超能力だとかそんな様子はなかったが」
 芦河の言葉を、当麻は目を伏せて聞いていた。芦河が話し終わると顔を上げる。
「……例えば、なんですけどね。お姉さんが、この古文書や絵の原本に触ったとしたら、どうなったと思います?」
「どうなったって……」
「これが書かれた当時の事、もしかしたら内容の真偽について、見えたんじゃないかって思いません? そして沢谷氏がお姉さんの能力を把握していたならば、確信を抱いてもおかしくはありません」
 どちらにしろまともな話ではない、発想は相変わらず螺子が飛んでいる。芦河は文句を言いかけてやめた。そもそも今はまともな話など端からしていないのだ。
「親父がどうだったかは知らないが……神が復活して、それで何だっていうんだ。その話の通りなら、神とかいうのはアギトを憎んでる、復活なんてしたら姉さんが殺されるって事になる。いくら何だってそこまで酷い親じゃなかった」
「そうなんですよね。でも例えば、例えばですよ。どうにかして恩を売り付けたら、助けてもらえるんじゃないだろうか、って考えても、不思議じゃないですよね?」
 当麻の言葉に、芦河は意外そうに目をしばたかせた。
 恩を売るというが、何をどうするというのか。
「この伝承がもし真実を元にしているなら、使徒は人を憎んでいる。それなのになぜマナさんには付き従っているのか? 何か理由があると思いません?」
「恩というが、どんな恩だ」
「そんなの分かるわけないじゃないですか」
 しれっと言われ、芦河は当麻の口調に苛立って首を動かし、ぎろりと睨み付けた。
「これは私の推測なんですけどね。どうやってかは知りませんけど、もし沢谷さんが神に恩を売って、悔い改めたアギトは襲わないようにしたとしたら? とりあえず一通りの説明は付きます。だけどまだ分からない事があります」
「……何だ」
「実は、スペックホルダーの組織というものが幾つもありまして、大雑把に言ってしまうと、彼らは非合法な裏の仕事をしてるんですけどね。それが最近、何者かによって統合されてたんですよ。それにどうもアンノウンが絡んでる。アンノウンがそんな事をする理由が全く分かりません」
 当麻に分からない事が他の者に分かる筈もなかった。当麻が口を閉ざすと、何かを喋る理由を持っている者も他にはおらず、沈黙が流れた。

***

 保護対象を厚木の実家まで送り届けて警視庁へと戻ってきたのは、夜十九時過ぎだった。ロビーにかかる時計を見上げて、南条は溜息を吐いた。
 今日は色々な事がありすぎた。超能力やらアンノウンなどと、G3ユニットが延命の為に持ち出したでっち上げではないのか、そう考えていたが、実際に目にしたアンノウンの強さ恐ろしさは、筆舌に尽くし難い。冷静に報告書が書けるだろうか。
 アンノウンを前に銃は構えたものの、脚が震えて、歯の根が合わなくなり、暑くもないのに額に汗が滲んだ。勝てる筈がない殺されると、頭の中のどこかがひっきりなしに叫び声を上げていた。
 配属されて間もない南条にとっては初めて遭遇した現場だった。あんな恐ろしいものと戦わなくてはならないのか。考えただけで気が重くなった。
「お疲れ様、今日はありがとう」
 エレベーターへと歩く南条に、声をかける者があった。八代だった。
「お疲れ様です」
「ああ、ちょっと待って」
 一礼して通りすぎようとする南条を呼び止めて、八代は太い柱の側から足を踏み出して駆け寄ってきた。
「何かご用ですか? 悪いのですが、報告書を書き上げないと」
「すぐ済むわよ。今日は本当に助かったわ。研修の時から、あなた見込みがあるって思っていたのよ」
「はあ、それはどうも」
 笑顔で褒められ、南条はやや不審を覚えて訝しげに八代を見た。確かに、未確認生命体対策班に組み入れられる事が決まって受けた研修の成績は良かった。オペレータールームの機材も問題なく操作できるし、必要であればG3‐Xのオペレートも出来るだろう。システムについて、研修で教わった部分については理解している。
「で、相談があるんだけど。南条くんあなた、G3‐X、着てみたくない?」
「…………は?」
 八代の申し出は、あまりといえばあまりに唐突だった。暫しの間、耳に入った言葉の意味を理解できずに南条は、ぽかんと八代の顔を見つめた。

***

「俺が混乱を大きくしてるって、どういう意味ですか、あなた何を知ってるんです」
「この世界は、破壊者に破壊される為に生まれました。破壊者は来訪したが、この世界を壊すことなく去っていった。だが、壊れる為に生まれた世界です、壊れなければ歪んでいく。歪みの影響で偶然、本当に偶然に、別の世界の別の時間にあなたが生み出した大きなエネルギーとこの世界で発生したある大きなエネルギーの軸が合ってしまい、あなたはこの世界に誤って存在してしまった」
「壊れる為って、そんな……」
「今も歪みは拡がり続けている。この世界には本来いない筈のあなたの存在も、世界にとっては歪みそのもの、歪みを拡げている一因です」
「歪むって、具体的にどういう事なんです」
「いない筈のあなたが存在し、目覚めない筈の私が目覚め、そして、生まれない筈だったものが生まれてしまった。こんな物語は用意されていなかった、もっと前に終わる筈だったのに、終わらなかった為に先の分からない物語が続いているのです」
「……何を言っているんだか訳が分かりません、先が分からないなんて当たり前じゃないですか。あなたは俺をどうするつもりなんですか、まさか元の所に戻してくれるとでも言うんですか?」
「私に次元の壁を抉じ開ける力などありません、あなたを帰す事は不可能です。あなたは存在そのものが歪みですが、芦河ショウイチと関わる事によって歪みが更に強まっている。あなたは彼と関わるべきではない」
「どうしてですか、何でここで芦河さんの名前が出てくるんです」
「彼こそこの世界のアギト、そしてあなたは彼をそうあるべきだった姿から変えてしまう。そうすれば世界の姿はそうあるべきだった世界からずれていって、歪みは大きくなる」
「そうあるべきだったって……そんなのおかしいじゃないですか、何で変わっちゃいけないんですか」
「この世界は変化に耐え切れぬほど脆弱なのです。元々、破壊される為にのみ作られた世界なのだから。私はせめて、人が滅びないようにせねばならない。だからあなたに力を貸してほしい」
「……どういう事ですか?」
「世界が滅びず歪んだ結果、生まれてはならないものが生まれてしまった。だが私は身体が不完全で、それを押さえ込むだけの力は出せない。それの力を防ぐための人も集めていますが力不足です、今はあなたに頼らざるを得ない。放っておけば、何千何万という罪なき人が殺されるでしょう」
「何万って……何なんですか、それ……何が生まれたっていうんですか」
「戦いと相手を打ち殺す強さのみを追い求めた結果生まれたもの、究極の闇を齎す者。グロンギ……あなたがたが未確認生命体と呼ぶ者らの王が」
「……それが、俺がここにいるせいで、生まれたっていうんですか」
「そもそもの発端は破壊者がこの世界を定められた通り破壊しなかった事、あなたは巻き込まれただけです。だが、あなたの存在は確実に影響している」
「俺は……俺は、あなたの言う事はおかしいと思う。人だって世界だって、変わっていくものです、強くなくたって、変わっていけます。強くなっていける。けど、力は貸します」
「考えの違いなど些細な事です。今は力を貸してもらえればそれでいい。彼の者は動き出そうとしています、一両日中には動き出すかもしれません。何か動きがあればまたお呼びします」

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