10

 部屋に戻されると、マナは空になった食器を回収し、質問を投げかける間も与えずに部屋を出て行った。鍵を掛ける音もしっかりと聞こえた。
 一人残されて、深く息を吐くと津上はベッドに腰掛けた。
 そもそも己がアギトとして体験したあれこれの顛末も普通ではなかったけれども、今聞いた内容は更に理解し難いものだった。
 やはりここは津上が生まれ育ったのとは別の世界で、津上は迷いこんでしまった異分子だった。
 自分が存在する事が世界にとっては綻びであり歪みであり、混乱を大きくしているという。
 彼がもし見た目の通りに、この世界での神にあたる人物であるならば、その言葉は真実なのだろう。
 勿論、「歪み」という話を全て是とは出来ない。世界は変わっていくものだ。朝が昼になり夜になる。冬の寒さはいつしか和らいで、気付けば夏の日差しに照らされる。種は芽を出して、やがて茎が伸びる。大人は老いていくが子供は育っていく。一時だって留まってはいない、生きているという事自体がそうではないか。そして人はより良い方向へと変わろうとする。もし変化が許されないのであれば、この世界は、生きていく事ができないではないか。
 破壊する為だけに生み出された世界とは、何だ。そんなものがあっていい筈がない。
 彼の力をもってしても帰る事は不可能と言われたのは勿論ショックだったが、今はここに生きる人の事――例えば芦河や八代であったり、瀬文や当麻、そしてマナ――の方が気がかりだった。自分はきっとどこでだって生きていける、津上は根拠のないそんな確信を持っていたけれども、生きていく世界自体が壊される運命にあり、壊されなくても歪んで壊れていってしまうというのなら、この世界に生きる人たちはそれを甘んじて受け入れなければならないというのだろうか。
 そんな事は、絶対におかしい。
 真偽を確かめる方法がないが、もし本当に未確認生命体の王が生まれた事によって何万人も人が死んでしまうというのなら、そんな事を見過ごせる訳がない。
 マナともっとちゃんと話をしなければならない。彼女の事についてはまだ、全くといっていい程分かっていない。だけれども用事がなければ彼女がここに来る事はないだろうし、鍵を壊して抜け出して会いに行けば、次にどういう拘束をされるのかが分からなくなる。今のところは彼らと争う必要が感じられないし、そのつもりもなかった。
 電灯を消すと、靴と上着を脱いでベッドに身体を横たえた。する事がないのであれば無駄に動き回っても仕方がない。
 来た原因が分かっているなら、もしかしたら帰る方法を探し出す事も可能かもしれない、次に彼に会ったらそれを問おう。
 大して眠くもないが、黴臭い布団を被る。布団を干したいな、窓を開けたら怒られちゃうだろうか。ふと思った。
 そういえば芦河の家の冷蔵庫に、今日の夕飯の材料を出したままだった。今日は鰈の煮付けとサラダ、ほうれん草の胡麻和えに、鶏ささみとキュウリやチーズやセロリを生春巻きで巻いたものを作ろうと思っていた。蛋白質とビタミンを中心に摂取できるように、毎日それなりに考えている。何を作ろうか何を食べようか、取り合わせはどうか、栄養のバランスはいいだろうか。そんな事を考えながら献立を決めるのも楽しかった。
 芦河はちゃんと食事をしているだろうか、気になった。嫌われているようではあったけれども、津上は、芦河の事が嫌いではなかった。
 彼は津上が知っている人たちにどことなく似ていた。口数が少なくて口が悪くて、怖い顔ばかりしているけれども何か頼むと意外にすんなりと聞いてくれる所などは、まるきり葦原のようだった。折り目正しくて正義感の強い警察官で自分に厳しいけれども家の中はだらしない様子だとか、真面目すぎてすぐむきになる所なんて、(芦河はあんなにはぶきっちょではないけれども)氷川を見ているようだった。臆病で中々足を踏み出せない所は、もしかしたら津上自身に似ているかもしれない。だから勝手に親近感が湧いてしまって、うざったいと思われているのだろうけれども、放っておけなかったし甘えてしまった。
 芦河と八代の関係は、如何に鈍い津上とはいえ、すぐに感じ取る事ができた。もし小沢さんと氷川さんがそんな事になったらきっとびっくりしてそれから、おかしくて笑っちゃうけど、あの二人はいい感じだなぁ。そんな風に思った。誰かが誰かをとても好きなのが嬉しかった。そういう気持ちは、暖かくてやさしい。芦河は多分、八代が津上に気を移すのではないかと心配していたようだったが、そんな事は絶対有り得ないのにと思うとおかしくなった。
 芦河は、きっと前に進みたい。守りたいものがあるなら、変わっていくのが怖くても、恐れてもたじろいでも、負けたりなんかしない。
 それを助けてやりたかった。恐れて進めなかった自分が沢山の人に助けられたように。
 薄墨を撒いたような蒼い闇が、火の気のない部屋を覆っている。山の中の事、カーテンの外の闇は更に深い。芦河も、心細い気持ちをきっとずっと抱えていただろう。
 それほど立派な事はできないけれども、きっと大した事はできないけれども、何か助けになれればいい。芦河が、思ったよりは怖くないのだと思えるようになればいい。そう思った。

***

 厚さ二センチの防弾ガラスの向こうで、G3‐Xがスコーピオンを構えて引鉄を引いた。
 撃ち出された鉄球が次々に砕け散っていく。飛び出してきたコンクリートの壁も、キックで砕かれた。
 モニターには仮想の敵――ハリネズミのアンノウンの姿が映し出される。G3‐Xの視界にシミュレートされただけで実際には存在しない、謂わば幻だが、実際のアンノウンのデータを元にした動きをとる。
 やや辿々しい動きながら、G3‐Xはハリネズミの動きを躱しいなし、拳を叩き込む。食らった攻撃はG3‐Xのプログラム制御により実際に受けた衝撃のように装着者の身体に伝わる。何発か殴られ怯みかけるが、何とか気を持ち直してG3‐Xは構えを直し、再度アンノウンへと向かっていった。
 やや破れかぶれとも見える攻撃だったが、連続した左と右のパンチがアンノウンの胸元に当たり姿勢を崩させる。その隙にG3‐Xは走り、置いてあったケルベロスに暗証コードを入力し、組み立てる。
 アンノウンが立ち上がり駆け出した。直線上、まっすぐを狙いケルベロスが火を噴き、雨霰の如くに弾丸が降り注いだ。シミュレートされたアンノウンはモニター上で動きを止め、爆発し燃え去った。
「テストはここまでよ、お疲れ様」
 オペレーションルームからインカム越しに八代が声をかけ、G3‐Xはその仮面を外した。汗でしとどに前髪を濡らした南条のしかめっ面が出てくる。
 インカムのスイッチを一度切って、八代は目線を斜め後ろに流した。芦河がやはりしかめっ面でガラスの向こうを睨みつけていた。
「どう、ショウイチ。彼も中々やるでしょ。津上くんが戦い慣れてて落ち着いてたしシステムとのシンクロ率も高かったから声はかけてなかったんだけど、元々候補としては考えてたのよ」
「昨日アンノウンに追われていた奴だろう。本物を前にして動けなくなっていたようだったが、大丈夫なのか」
「慣れるわよ、一人で戦うわけじゃないんだし。ちゃんとサポートしてあげてよ」
「その余裕があって、あいつが嫌がらなければな」
 目線を逸らして芦河が吐き出す。八代はその様子を軽く笑い流すとキーボードを叩き、テストシステムの終了処理を始めた。
 昨日の今日で、急遽新たな装着員として決まった南条のG3‐X装着テストとは急な話だったが、八代は前々から彼用の調整データを作っていたようだった。未確認生命体対策班に関わる業務に就く際に受ける研修で、特に優秀だったという。芦河は今まで彼の事を知らなかったが、彼は所謂キャリアで元々文武両道。体力的・技量的にはG3‐Xを動かすのに問題はないだろうと思われた。
 正式な辞令交付は勿論まだ行われていないから、現在は依然として芦河がG3‐Xの正装着員であったが、今日のテストを元に八代が報告を行い、近いうちに南条が正式な装着員として認可される筈だった。
 引き受けてもらうに当たって、八代は芦河の了解を取り付け、芦河がアギトである事実を南条に話してある。
 芦河はもう隠すつもりはない。事実が明るみに出れば、もしかすれば芦河の身柄を拘束し調査、という話になるかもしれないが、そのような事態に陥った場合には芦河自身なり八代なりが然るべき団体へ連絡して、そこを通じ抗議をする手筈も整えた。無論アギトについてきっちりと解明する事はこの先必要になってくるだろうが、秘密裏に行われるべきではない。芦河の権利は法によって保護されている。隠していればG3‐Xに敵と認識されて撃たれるような事態も十分起こり得るから、装着員を引き受ける者は芦河がアギトである事を知っているべきだった。その点、津上がいれば話は早かったのだろうが、言っても始まらない。
 勿論南条はいたく驚き動揺した。八代はゆっくりと、アギトには分かっていない事も多いが、芦河が自らの力を制御し戦える事、アンノウンは強力で複数現れる事もあり、芦河がG3‐Xの正装着員として単独で戦うより、アギトとG3‐Xが共同戦線を張る方が効率的且つ安全である旨を説明した。
 決め手は、『あなたが優秀で、あなただからこそ出来ると思って頼んだ』という言葉だった。南条は自尊心をくすぐられるのに弱いタイプのようだった。
 残る問題は、彼が実戦で怯まないか、冷静さを失わないか、という事だったが、こればかりは実際にやってみなければ分からない。
 津上翔一の居場所は判明していなかった。頼みの綱は貸与した携帯電話のGPS機能だが、探索の結果は圏外または電源が入っていないというものだった。
 南条は着替えの為奥に下がり、八代も機材の後片付けを概ね終えてチェックをしている。芦河は腕を組んで、深く息を吸って吐いた。
 気ばかりが焦るが、分からないものは分からない。今出来る事は、動くべき時にしっかり力を発揮できる体制を作り上げる事だった。
 八代の携帯電話が鳴り出した。インカムを外してからポケットから携帯電話を取り出し、八代が電話に出る。
「はい、八代。はい、はい……分かりました、はい、すぐ」
 手早く通話を切り、携帯電話をポケットに再びしまうと、八代は立ち上がりながら芦河を見た。
「アンノウンよ、昨日の奴。南条くんには悪いけど出動だから、呼んできて」
「分かった」
 八代はもう既に歩き出していて、ドアを開けながら告げた。後を追い、芦河も返事を返して軽く駆け出した。

***

 朝食にマナが持ってきたのはやはり白粥だったが、昨日と少しだけ変わっていた。
 上に、ぱらぱらとちりめんじゃこが乗っていた。
 テーブルに座り、いただきますと手を合わせて食べ始めると、視線を感じた。ふと顔を上げると、マナがじっと津上を見つめていた。
「……どうかした?」
「おいしい?」
 感情のない目で大真面目に聞くものだから、何だかおかしくなってしまって、津上は笑いを漏らした。それを見てマナは不思議そうに首を傾げた。
「おいしいよ、ありがとう。やっぱり何か乗ってると食べやすいなぁ。じゃこがあるなら、梅干を刻んで混ぜてみたりさ、かつお梅とかでも美味しいかな。塩焼きの鮭とか、漬物だけでもいいし、卵落として味噌添えた奴も意外といけるんだよね。思いっきり甘辛く煮付けた佃煮とかさ。小海老があったら混ぜてさっと煮て、胡麻油をちょっと落として中華風にするとまた感じが変わるから、おかゆ続きの時でも飽きないで食べてくれるんだよね」
「うちはいっつも、じゃこだったの。お父さんと弟が、梅干は好きじゃなかったから。そんなに一杯乗せるものがあるなんて、知らなかった」
「食べたいって思ったら、何だって乗せていいんだよ。知ってる? 台湾だと、おやつみたいな甘いお粥だってあるんだから。おやつっていう訳じゃなくって薬膳って言って、漢方薬が一杯入ってる健康食みたいなもんだけどさ」
 いつもの調子で饒舌になると、マナはきょとんと口を緩く開けて、津上を見つめた。手が留守になっていた、粥を一匙口に運ぶ。
 おそらくレトルトだから、食べられないほどまずいわけでもないが、そう美味しいわけでもない。さらっとして味気ないのだ。
 そこに例えばこんな風に、ちりめんじゃこが散らしてあるだけでも、何だか嬉しくて楽しくて、美味しくなる。
 暫くスプーンを動かして粥を食べ続けたけれども、意を決して津上は口を開いた。
「あのさ、ちょっと聞きたい事があるんだけど」
「……何?」
「弟さんってさ、芦河さんでしょ」
「そうよ」
「何でマナちゃんは歳をとってないわけ? 芦河さんのお姉さんだったら、ちょっと言葉がよくないけど、もっとおばさんじゃないと計算が合わないじゃない」
 返事はすぐには返ってこなかった。皿の底に残った粥を器用に掻き集めて口に入れると、津上は手を合わせ、ごちそうさまと頭を軽く下げた。皿は空になったけれども、マナはそれを片付けようとせず、静かな顔をして何かを考えていた。
「昨日の話、聞いたでしょう。あなたの力と、この世界で発生したある大きなエネルギーの軸が合ってしまった、って」
「聞いたけど、それが何よ」
「軸が合ったのは私の力。時や空間の概念が歪んで曖昧になった所でテレポートをして、私とお父さんは時間を超えて飛ばされてしまった」
 相変わらず淡々とした口調に驚いて、津上はマナをじっと見つめた。
「帰ろうとして何度も試したけれども帰れなかった。私とお父さんは本当ならもっとずっと前に死んでいる筈だったけど、生きてしまった」
 凪いだ水面のような、静かな口調だった。何も揺らす事がない。
 津上は不思議に思っていた。芦河の様子を見ていると、彼が生まれ育ったのはおそらく(程度の問題はあっても)普通の家庭だったと推測された。それなのにどうしてマナは、何かを殺して沈めてしまったような凪いだ目をして、淡々と口を開くのだろう、分からなかった。
 食べるためだけに味もろくにしない粥を流しこむだけだなんて、そんなの楽しくない。美味しくもない。
 甘いものが大好きでケーキに目がなくて、勝気でお姉さん風を吹かせたがって、だけれどもとても傷つきやすくて、とても優しい。津上は、そんな風谷真魚が笑う顔がとても好きだった。料理を口にして、おいしいと感心したような声を上げて、弾けるように笑顔になってくれたら、たったそれだけで喩えようもなく、幸せな気持ちになれた。
 マナも(きっと違うのだろうけれども)同じように笑える筈なのに、どうして。笑いも怒りもしない、よく知っているようでまるで別の顔を眺めていると、訳もなく悲しくなった。
「……あのさ、俺やっぱり、マナちゃんにご飯作ってあげたいよ。今のが美味しかったから、お返しって事でどう?」
「必要ないわ」
「必要とかそういうんじゃなくってさ、ご飯はやっぱり、美味しい方がいいよ。昨日と今日だったらさ、今日のご飯の方が美味しかったもの。駄目とか必要とかじゃなくて、俺がマナちゃんに、美味しい物食べてもらいたいんだよ。喜んでもらいたいの」
 やはりマナは、不思議そうに目をしばたかせて、じっと津上を見るだけだった。
「私、嬉しい事なんか、もう何もないから」
「どうして、そんなのっておかしいでしょ」
「だって私もう、嬉しいとか思ったりしちゃいけないもの」
「いけないって……そんな事ある訳ないじゃない、何でそんな事……」
 マナは答えないで、テーブルの上に置かれたままだった空の食器を手にとった。尚も言い募ろうとする津上をちらと見つめる。
 津上は開きかけた口をそのままに、言葉を失った。マナの目の光はひやりとしていた。何も感じていない、何もかも遮断してしまった、だから温度がない。だから生きている感じがしない。
「だって、人を沢山殺したのに、自分は嬉しいとか楽しいとか思ったら、そんなのおかしいでしょう?」
 津上が何も答えられないでいる間に、マナは食器をトレイに乗せて部屋を出てしまった。津上は悲しそうな目のままで唇を噛み締めて、ばん、と掌で軽くテーブルを叩いた。テーブルは軽く揺れただけで、一人の部屋から音はすぐに消えてしまった。

***

 都会のど真ん中にあるが、ただ緑を増やすという目的の為に作られた緑地公園の芝生は、五月半ばという季節柄もあって、青々と萌え盛っていた。
 周りは広葉樹に囲まれている。ひっきりなしに車が行き交う喧騒は、完全には消えはしないものの、遠く微かに流れてくるだけになっていた。
 サッカーコートほどの広さがある芝生の広場は、今は人気がない。その真ん中に屹立して当麻は天を睨めつけた。
「こんな所で何がしたいんだお前は」
 紙袋を持った瀬文が苛ついた口調で問うが、まるで頓着しない様子で薄く笑んで当麻は振り返った。
「取り返しにくるなら、早く来てもらおうと思ったんです。いつくるかって恐がってるの、馬鹿馬鹿しいじゃないですか」
「は……?」
「それに、取り返したいのはあの人じゃなく、私です」
 ぷいと瀬文に背を向けて、当麻は嘯いた。それが当然、と言わんばかりのふてぶてしい顔付きで。
 確かに、あれはニノマエ(というよりは彼女の弟である当麻陽太)の死体なのだから、彼女が取り戻さなければならないものだ。
 ならば、瀬文と二人で来るのは随分無用心というか、無謀ではないだろうか。護衛はまだ付いているが、あれは間違いなくニノマエで、それならば拳銃程度で太刀打ちできる相手ではないのだ。
 瀬文は、ぐるりと辺りを見回した。四方は鬱蒼とした木々に囲まれて薄暗く、林の向こうの遊歩道もはっきりとは見通せない。丁度雲が太陽にかかって、輝いていた若芝の鮮やかな緑も陰ってやや沈んだ。
 雲が行き過ぎて陽射しが白く辺りを包む。ぱん、ぱん、と炸裂音が二度鳴った。サイレンサーを付けているのだろうか、音が反響しない。豆鉄砲のような音だった。
「当麻!」
 瀬文はようやく叫んで駆け出そうとしたが、当麻は既にすっと左手を前に掲げていた。ごっ、と明後日の方向の地面が抉れる音がした。
「あなたたちを返り討ちにするのは簡単な事ですけど、別にそんなのどっちだっていいんですよ。事と次第によっては手を組めると思いますけど、どうですか?」
 脚を肩幅に開き、左手を掲げたままで当麻は声を張った。返答はなく、何かが動く様子もない。
「好きであの男と怪物どもに従ってるなら止めませんけど、勝てない相手に挑むのって、実に馬鹿馬鹿しくありません?」
 返事の代わりにまた短く、今度は四つの炸裂音が上がった。だがやはり、左手を胸の高さに掲げて前を睨んだままの当麻にその弾丸が届く事はなかった。
「分からない人たちですね。あなたたちに私は殺せない、この左手は取り戻せない。いい加減悟るべきです」
 淡々と当麻が告げる。瀬文は必死に周囲の気配を探った。音はハンドガンのもの、射程はそんなに長くはないだろう。音しか判断材料がないのではっきりと言い切れないが、右前方と正面から撃ち込まれているように思われた。
 当麻の前方は二三十メートル、芝生が続いている。何らかのスペックで射程を伸ばしているのか気配を消しているのか。
「あなたたち、ニノマエの力をおぼえてるでしょう。あれは今、私の力です。私と組めば、あいつを倒して元に戻れるって、思いませんか?」
「おいお前!」
「瀬文さんは黙って見ててください」
 ぴしゃりと言葉を叩きつけられ、瀬文は黙った。目星をつけていた右前方と正面の木陰からそれぞれ、若い男が出てくる。
「素直なのはいい事です」
「ほんとに勝てるのかよ、見た目はニノマエだったけど、あいつ死んだって聞いてたし、ニノマエよりもっと変な力使ってたし……何なんだよあいつは」
 右から出てきた金髪の男が早口にまくしたてた。もっともな疑問だが、聞かれても返答に困る質問でもある。だが当麻は何事もなさそうに、口の端を上げて笑ってみせた。
「あなたたちに何かしろと言うつもりはありません、あいつの居場所を教えてくれればそれでいいです」
 金髪の男と、正面から出てきた茶髪の男は、一様に戸惑って顔を見合わせた。
 彼らは恐らく成り行きから従っているだけで、忠誠心の欠片もない駒なのだろう。その方が当麻にとっても都合はいい。
「ほんとに俺らの事は見逃してくれるわけ……?」
「私も一応警察官です、不法所持している銃は没収させてもらいますが、殺人未遂で逮捕したりはしません」
 明らかな越権行為、当麻にそんな事を決める決定権はないし、警察官たる者の行動としてもおかしい。瀬文は口を出しかけて、喉まで出た言葉を飲み込んだ。二人の若者は明らかに迷った様子で、恐らくは当麻の言葉に傾き始めていた。
 二人は交わした目線を外すと当麻に向き直った。すると、ごっ、ごっ、と鈍い音が二度響いた。
 芝生をまだらに覆ったのは、血の鮮やかな紅と脳奬のどろりと白じんだピンク色、粉々に砕けた頭蓋骨の破片と思しき、黄ばんだ白だった。
 首から上を一瞬で失った成人男性二人の体は、ばたりと前のめりに崩れ落ち、筋繊維を晒した首の断面から止めどなく溢れ出た血が芝生を汚して地面に吸われた。
 陽炎が揺らめく。そこには誰もいなかった筈の場所に、黒衣の青年が静かに立っていた。左腕の手首から先はない。彼の斜め後ろには、燻した金色の、いかにも硬そうな外皮と角を持った異形が付き従っていた。手に持った鎖付きの鉄球からは、今流れたばかりの血と脳奬の混ざり合ったものが滴り落ちていた。
「最初からあなたが来ればいいんです。その体は返してもらいます」
 当麻は、やはり淡々と言葉を紡いだ。ニノマエの顔をした青年は、ゆっくりと何度か首を横に振った。
「私に逆らおうなどと、愚かな事です。その左手はどうしても必要なもの、あるべきものは、あるべき所へと帰らなくてはならない」
 青年の言葉が途切れると、従っていた異形が動き出した。護衛が通報したとして、G3ユニットが到着するまで逃げ切る事はできるのだろうか、瀬文には自信がなかった。兎にも角にも、当麻の手首を掴んで駆け出す。
 当麻の、いやニノマエのスペックは『物理法則はそのままに、自分の周囲の時間を超加速させる』というもので、あらゆる事態に対応可能な万能の力ではあるが、加速したところで怪物の硬い皮膚を貫く力が持てる訳ではない。
 そしてあまり多用すれば、当麻は時間を一人だけ早く進みすぎて、急速に老化する危険がある。まだ若いのだから十や二十の年をとったところで死にはしないだろうが、出来れば避けたいだろう。
 例えば追い付かれた瞬間、攻撃が当たりかけた瞬間にピンポイントで使うなら、負けないという意味では無敵と言って差し支えないスペックだろう。ニノマエの力に後輩を殺されたり助けられたりし、自身も発動の瞬間を何度か見、実際に高速の時間に身を置いた事もある瀬文は、今は当麻に宿ってしまったスペックの恐ろしさをよく知っている。
 林に駆け込むと、護衛の刑事二人が飛び出してきて異形に向かい発砲する。ちぃん、と鋭い音がして、弾丸は硬い外皮に跳ね返された。異形には傷一つ付いていない。
 その様を眺めていた青年も、異形と四人を追ってゆっくりと歩き出した。立ち込めた生臭い鉄の臭いと陽炎を、緩い風がさらっていった。

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