13

 カップをソーサーに置いて、ふっと真魚は斜め上を見上げた。そこには何も無い、視線の先にはリビングの高い天井があった。
「……真魚さん、どうか、しましたか?」
 葦原と会話が続かず、居心地悪そうに長い体を縮こまらせていた氷川が真魚の様子に気付いて、覗き込むように首を傾げた。
「何か、声が聞こえたような気がして」
「声、ですか? 誰の? まさか津上さんとか」
「いえ、翔一くんじゃないです。よく知ってるような気がするけど、一度も聞いた事がないような」
 俯いて目線を伏せて、真魚が答えた。
 思い出そうと記憶を手繰るが判然としない。葦原も怪訝そうに真魚に目線を向けていた。
 氷川と葦原は、相性が悪い。氷川は葦原のつっけんどんな言動が苦手だし、葦原は氷川の四角四面で暑苦しい所がうざったい。
 二人の間に存在するある種の信頼関係は、翔一の仲介を抜きにしては成立し得ないものだった。
 翔一はよく喋ってまた人によく話を振るから、口下手な氷川や無口な葦原も、翔一の質問に答えているうちに何となく会話になっている。
 流したりふわりと付け足したりして、どう見ても断絶している氷川と葦原の間を繋げてしまうのだ。
 まるで手品だ、そういえば翔一は手品が得意だった。真魚と太一を驚かせて喜ばせるのが大好きで、期待通りに二人が驚くと、実に嬉しそうに破顔して満足気に何度も頷いていた。
 真魚も氷川と葦原とは懇意にしていてそれぞれとは普通に会話するが、翔一のように二人の間に入って会話を成立させる事はできない。だから今日のリビングも、居づらさを覚えさせる重い空気が漂っている。
 何度考えてみても、ここにいる筈の、いなければならない人が足りなかった。
 物思いに沈んでいると、また声が聞こえた。今度はもう少しはっきりと。だけれども誰の声なのかは分からない。
 真魚はソファから立ち上がり、足早に窓へと歩いてサッシを開き、外を見上げた。
「どうしたんですか、その声というのは何と?」
「はっきり、聞こえないんです。でも多分あたしの事、呼んでる……」

***

『G3OP、こちら南条。ロストしたGM‐01はまだ発見できません』
「こちらG3OP。南条くん、もういいわ、帰投して。捜索は他の人に任せましょう」
『了解』
 必要最低限の会話を交わして通信が切れる。八代は息を吐いて不審げに眉を顰めた。
 有り得ない事だった。
 G3‐Xの武装はG3‐X本体・Gトレーラーと無線通信を行い弾薬や使用許可の管理を行なっている。
 無線通信が不通になる――ロストするという事は、故障・電源切れ等で通信機能が使用不能になるか、もしくは通信も出来ない程遠くに離れなければ有り得ない。
 GM‐01のロックは解除されたままだった。つまり使用可能な状態だ。生身の人間が扱えるようには出来ていないが、万が一事故でもあれば大変な事になる。
 先程からひっきりなしに無線での緊急連絡が入っている。奥多摩で山火事があり、そこで大勢が騒乱を起こしているようだ、という通報だった。
 不審な情報があった。黒い大きな影に睨まれた人間が一瞬にして燃え尽きた、という、幻覚で片付けられてもおかしくない訴え。
 もしスペックホルダーやアンノウンの関与があるなら、もしかすれば消えた芦河達の手がかりもあるかもしれない。
 何が起こっているのか状況ははっきりとは見えない。だが、恐らくは只ならぬ事態なのだろう。
 芦河の側にいたかった。もし八代が、芦河に大丈夫だと言えるのならば、いくらでも言いたかった。
 八代はよく意地を張る。女だと舐められるのは嫌だったし、自尊心も自負もあった。G3‐Xの事だってそうだ、必要がない危険だと叩かれ非難されても、それでも必ず必要になる時が来ると意地を張り続けた。だけれども八代の知る人間の中で、八代以上に意地っ張りな者がいた。
 怖くて仕方がないのに、誰の言葉も耳に入れないで姿を消した。頑迷ですらあった。だけれども彼が恐れていたのが、誰か、とりわけ周囲の人、八代を傷つける事だったのだと知れば、馬鹿だとは思えても嫌悪など湧くはずもなかった。
 彼は誰かの為に孤独に耐えられるのだから、アギトに負ける筈がない。それでも八代は心配だったし、側にいたい。それは自分が安心したいという願望だろう。
 でも、それがもし力になるのならば。
 伝えたい事を伝えられないまま失う事が怖い。芦河は負けたりはしない、それを信じている。だけれども信じていても、やはり恐れはあった。

***

 彼の影は大きく力強い。未確認生命体第四号によく似た黒い生き物は、悪意や愉悦すらなく、ただ目の前のものを壊し、燃やそうとする。
 身の丈はそんなに変わらないように思えた。殊更に大きく見える理由は、己の心がそう見せている他にはないだろう。
 ふらつき後退った足を踏みとどまらせて、芦河は意識して足裏を地に擦り付けて踏張った。この黒いものには芦河の攻撃は効いていない。殴り付けても蹴っても、びくともしない。
 力を尽くそうとも及ばず、びくともしないものは恐ろしい。ゆらりと黒い影は揺らめいて、音を悟る間もなく、知覚の困難なスピードで太い腕が伸びて拳が迫った。コンマ数秒反応が遅れれば捉えられる、危うい間合いでどうにか身を躱すが、無理に捻った胴を支え切れずに脚がよろめく、だが倒れられない、無理くりに踏張って、芦河が再び前に向き直ると、黒いものに津上が斬りかかっていた。
 津上の姿は、アギトのようではあるが、芦河の知らない姿だった。
 その力は猛る事はない。胸や脛を覆う白銀は金属なのか筋肉なのか判別はつかないが、静かにしかしはっきりと光を纏っている。
 溢れだすものはない。全てを抱え包み湛えて、その力を振るう意志の力がある。
 津上も、恐れ怯えながらそれでも変わったのだろうか。怖いと言っていた、あの眼の暗さが真実なら。
 芦河には分からなかった。津上翔一は能天気で陽気で、どうでもいいような事も何でも楽しそうで、ややいい加減な物言いをする青年だった。彼だからアギトへの変化という苦悩も然程苦にすることはなく、ああして何も悩みなどないように笑えるのではないか、そう思っていた。
 変化すると言ったって、芦河は津上のようにはなれない。笑い飛ばす事など出来ないし、これから先どうするかを考えれば気も塞ぐ。受け容れてくれると言ったって、自分が戻った事が八代にとって本当に最善なのかなど、今も分からない。
 芦河は芦河のままで。芦河なりの受け止め方があり、受け入れ方があるという事だろう。だがそれがどのようなものかなど、全く見えはしない。闇雲にでも何かしてみれば見えるものもあるのではないか、そんな不確かでいい加減な憶測しかなかった。
 だが、白銀のアギトに感じる力強く静かな意志の力が津上のものであるのならば。彼にはやはり人に言えぬ痛みがあり、悲しんで恐れてそれでも、足を踏みだし決意したのではないか。彼はそれでも選んだから、アギトである事を躊躇わないのではないか。
 分かりはしない。芦河にとって津上は不可解で理解の及ばない人種だ。あんな風に息をするのも楽しんで喜ぶような感じ方はできない。あんな笑い方はできないだろうし似合わないだろう、したいとも思わない。だけれども分かる事もあり、見える事もある。
 人は変われる、足を踏みだし歩く事ができる。生きる事を望む限りは。そして芦河は、自分の手で守りたいものがあり、見たいものがあるのだから、生きる事を望んでいる。
 こんな力も運命も、いらなかっただろう。だけれどもこの力を、もし守られるべき誰かの為に使えるのならば。この忌まわしい運命も不必要な力も、忌むべきではないものへと、変われるのではないか。芦河は何気ない風景を、どうという事はない八代の笑顔を、簡単に失われてしまう暖かさの全てを、守りたいのだから。変わらないものが己の中に確かにあるのならば、想いを見失わないのなら、芦河は変われる。
 津上の双剣の斬撃を躱して、黒いものは無造作に右の腕を振るった。回避が間に合わない津上の左の肩口を裏拳が襲う。
 芦河は駆け出した。何も考えはない、体が自然に動き出した。黒いものの顔面に正拳を叩き込もうとするが、すんでで手首を掴まれて放られる。
「芦河さん!」
 津上の叫び声はすぐに遠ざかった。投げられたと思った次の刹那には、芦河の背中は燃え盛る木の幹に叩きつけられていた。
 変われるならば、どう変わればいい? あの拳が追い切れぬほど速く、刹那の気配も逃さないほど鋭くだ。
 芦河は変われる筈だった。そして今は変わりたい。嘆いて立ち止まらずにいられるように、何かを守る為の己の力から目を逸らさないで、大切なものを見つめ続けられるように。そんな風に変わりたい。
 すっと、心が凪いだ。
 木のはぜる音も津上の声も、ざわめきとして外にある。
 黒い煙の向こう、森を包んで燃え盛る炎の向こうには、白く霞んだ青空があった。夏が近付いて、日に日に空の青は濃さを増している。普段ならば、空が青いのは当たり前だから別段どうという感想も浮かばないのに、今は炎と煙に塞がれて見づらいはずの空の青さが、やけにくっきりと胸に染み込んだ。
 ああ、綺麗な空だ。きっといつも空は綺麗だったのに、どうして今まで気付かなかったのだろう。
 ふと、感想が胸に浮かんだ。
 何事もなかったように立ち上がると芦河は足を肩幅に開き、真っ直ぐに前を見た。相変わらず力強く大きな黒いものの美しさも強さも弱さも、今は見える気がした。在るように見る、それはどれだけ困難な事だろう。黒いものは、それ以上でもそれ以下でもなかった。当たり前の事を悟るのは、どうしてこうも困難だろう。
 どうすればいいのかはもう分かっている。両腕を軽く前に伸ばして、芦河は両の腰に両の掌を当てて押し込んだ。黄金色の体は滲み歪んで、すっと戻った時には変わっていた。
 人を超越した肉体の力は、拘る心を超越した精神に支えられて、未知のもの知らぬもの恐ろしいものを、在るように見て受け止め、必要ならば力を振るうだろう。
 右半身は赤く、左半身は濃紺、それを繋ぎ合わせるのはアギトの生きるという意志。両手のそれぞれに片手剣とハルバードが握られた。
 立ち上がった芦河を見守っていた津上は、芦河の変化を見届けると、ただ頷いてみせた。今は沢山の言葉や意味は必要がないから、それだけで十分だった。
 出来る。胸に確信があった。剣を下段に、ハルバードは小脇に構えると、芦河は駆け出した。
 黒いものは先程までと同様に、ごく当たり前のようにゆるりと剣先を躱した。放たれた左の拳の手首をハルバードの柄が受けて跳ね上げる。空いた腹を狙い膝蹴りを放つがまたゆらりと躱されて、黒いものの体は向かって右に僅かにずれた。そこに、津上が手にした双剣が、川の流れに晒した布のように白く残光を引いて迫った。
 強いものは強いように、なだらかなものはなだらかに。事象それぞれに合わせて見れば、次にどうなるのかまでが緩く見えた。動きは次の動きや目的に繋がって連続している。その意味で孤独なものは存在せず、全ては繋がり流れて存在していた。
 黒いものも、隔絶した存在ではない。胸元に肩口に白銀の斬撃を受けて、黒いものは大きく吹き飛ばされた。
「芦河さん、変われたんですね」
 津上の声は弾んでいた。そうだな、と軽く返して、芦河は黒いものに向き直り剣を構え直した。
 手応えはあった。津上と連携すれば、決して対抗できない相手ではない、胸に確信が湧いた。
 黒いものはややあって、ゆらりと体を起こした。ぐるりと辺りを見回して、一点で目線を止めた。
 目線の先のマナは、苦しげに眉を寄せて軽く口を開き、浅い息をさかんに吐いていた。立っているのも気怠げで、背中を丸めて肩を落としている。
「いけない」
 密やかな青年の声に当麻もマナを見やった。黒いものが拳を振りかぶって振り下ろされて、薄汚れたベージュの帽子が空に巻き上げられた。
 マナは隣の父に飛び掛かられて横に倒れこみ、数瞬遅れて駆け出した津上が黒いものの胴を抱えて跳ね飛ばされた。
 あれは力が強い、押さえるのは容易ではない。芦河も軽く駆けて勢いを付けると飛んで、黒いものの背に蹴りを浴びせる。だが黒いものは倒れず、芦河は反動で弾き返された。
 黒いものの濁り沈んだ複眼は、当麻と青年に向いた。黒いものはそのまま足を踏み出した。
「うおおおぉぉっ!」
 絶叫が響き、続いて連続して二回三回と、銃声がこだました。黒いものは銃弾を受けて、衝撃に動きを止め身動いだ。
 ただの銃が動きを止められるはずがない。この銃声は、芦河も津上もよく知っているものだった。
 当麻の斜め後ろで、GM‐01を構え続け様に引鉄を引いているのは、恐らく訳の分からぬ内に一緒に飛ばされ、今まで事の推移を見守っていた瀬文だった。
 GM‐01はG3及びG3‐X専用の武装で、生身の体で射撃を行う事は想定されていない。威力が高く、勿論その分反動も強い。普通なら一発撃てば脱臼を起こしたり衝撃で跳ね飛ばされるだろうし、狙いなど定められるはずがなかった。
 だがどういう訳か、瀬文は引鉄を引き続けたし、弾は黒いものの胴の辺りに概ね命中していた。常識外れとしか言い様がなかった。
「人間、舐めんなあぁっ!」
 やがて破れかぶれに放った銃弾の内の一発が黒いものの臍の下辺りを捕えて、かきんと澄んだ高い音がした。
 銃弾の威力に足を止めるものの、GM‐01の弾が黒いものにダメージを与えられている様子は今までなかった。しかし黒いものは腰を抱え前のめりに蹲ると、低く苦しげに唸り声を上げた。
 それを見届けると瀬文は、荒い息を吐いて口の端を大きく歪めて歯を剥き、にやりと満足気に笑ってそれから、糸が切れたようにどたんと後ろに倒れこんだ。
「無茶苦茶ですね……でも期待通りです」
 倒れた瀬文を見下ろして当麻もにやりと口を歪めた。
「芦河さん!」
 津上が芦河を顧みて、芦河は即座に頷いた。今しかない、そう思われた。
 腰を落としてゆるりと腕を伸ばし引き、芦河は構えをとった。漲った力は足元に紋章を描いて現れる。
 黒いものは、漸く体を起こして苦しみ悶え腕を振り回した。素早く間合いを詰めて津上は両手の双剣を振るった。
 右を逆袈裟に掬い上げ、左と右を横に払い、袈裟懸けに左を振り下ろす。流れは繋がり連続していた。
 軽く助走をつけ芦河は地を蹴った。津上とすれ違い、胸に胴に幾度も斬撃を浴びてもまだ立っていた黒いものを着地点に捉える。
 黒いものの回避の動きは緩慢だった。両足の裏が胸元を捉え、衝撃が走る。弾かれて芦河は着地できずに背中を地面に打ち付けた。
 すぐに顔を上げる。やはり黒いものは両の足をしっかりと伸ばして立っていた。しかし、胸元を押さえて掻き苦しげに悶えている。
 ぴき、と音がした。聞いたことがある、この音はガラスに熱を加えすぎたせいでひび割れる音によく似ていた。
 やがて、ぱりんと乾いた音がして、黒いものの腰の辺りから黒い欠片がぱらぱらと落ちた。黒いものは一層苦しみ悶え身を捩る。
 暫くそうして黒いものは地響きのような低い低い呻きを漏らし続けていたが、ぜんまいが切れていくように声は弱くなり、やがて突然にぐらりと傾いで倒れ伏した。
「……これで、終わった。彼が最後、グロンギはもう、現れる事はありません」
「それで……あなたは、どうするんですか。アギトを許さないから、また殺すんですか」
 倒れ伏した黒いものを見つめながら当麻が呟いた。手は重なったまま、視線は決して交わらない。
 青年は答えず、津上と芦河の変じたアギトを見つめた。緩く首を横に振る。
「あなたは、人も世界も変わっていくものだと言った。だが世界は性急な変化など望まない。なかった筈のものはなかった事になる。あなたも、私も」
 呼びかけられ、津上は変身を解いて人の姿に戻った。訝しげに青年を見つめる。
「どういう意味ですか、それ」
「彼女はもう消去されかかっているから」
 その言葉に何か気付いた様子で、津上ははっと目を見開いて、辺りを見回し、駆け出した。
「マナちゃん!」
 マナは膝を投げ出して両手を地面に突き、上体を持ち上げていた。時折ぱちんと歪んで戻る。姿はどこかうっすらとして、存在感が薄かった。
 横には沢谷ノブユキが伏して、割れた額から流れる血が草を濡らしていた。
 駆け寄ろうとする津上をマナは手で制した。息が荒い。津上は足を止めて、青年に向き直った。
「何で、何でこんな、どうして!」
「説明したでしょう、世界が歪んでいると。彼女はあなたを燃やそうとする炎を転移させ続けていた。歪みに関わりすぎて、飲み込まれかかっているのです。元々いる筈のなかったあやふやな存在だったのですから尚更」
 青年の説明の意味がとれなかった。驚いたような納得できないような、苦しげに歪めた顔で津上は再度マナを見た。
「そう、でもだから、境目が曖昧だから、今ならあなたを帰せる」
「えっ」
「声が、聞こえたわ、きっとあれ、私じゃない私なのね。今は壁の形がはっきりしないから、彼女があなたを呼んでくれたら、あなたをそこに送り届ける事が、できる」

 開け放ったサッシから顔を出してぼんやりと空を見上げていた真魚が、びくりと背を震わせた。
「……何? 誰なの?」
 真魚の呟きは独り言としか見えないが、真魚が持つ不思議な力を知っている氷川と葦原は、緊張した面持ちで真魚の背中を見守った。
「そこに、いるの? ねえ答えて、いるの? 翔一くん、翔一くん?」
 真魚が高い声を上げて、氷川は思わず腰を浮かせた。葦原もソファの背から身を乗り出して真魚の様子を伺う。
「帰ってきて、翔一くん」

「でもそんな事して、マナちゃんはどうなるの」
「いいから。どっちだっていいって、思ってたけど、今は、違うから」
 切れ切れに吐く息の間から言葉を搾り出して、そうしてマナは口許を綻ばせると、浅く笑ってみせた。
「あなたが、嫌だって言ったって、飛ばすから」
 目を細めて笑って言うので、津上は目線を逸らして何度か緩く首を横に振った。そうしてから俯いて、振り返って芦河を見た。
 芦河は状況が飲み込めていない。変身は既に解き、訝しげに津上を見ていた。その様子を見て、津上は笑いを漏らした。
「芦河さん、俺、随分急だけど帰ります」
「帰るってお前」
「もう大丈夫そうだし、拒否権ないみたいなんで。八代さんに会えないの残念だけど、宜しく伝えておいてください。あっ、後、俺がいなくてもご飯はちゃんと食べてくださいよ」
「何を言ってるんだお前は、分かるように説明しろ!」
 苛ついて眉を顰めた芦河を見て、津上は一層大きく笑ってみせた。そして今度は再び、青年へと向き直る。
「やっぱり俺、人も世界も、それにアギトも、ちゃんといい方に変わっていけるって思います。だってほら、芦河さんは、人のまんまです。失敗したり間違ったりしたって、変わっていける」
「全ての人がそうではありません」
「そんな事ありません。俺は信じてます」
 鮮やかに津上が笑った。青年は答えず、隣で聞いていた当麻が吹き出した。
 最後に、津上はマナを顧みた。
「手を、貸して」
「俺ほんと……ごめん」
「ありがとう」
 屈んだ津上の手をとって、マナはまた笑った。津上は悲しげに目を細めて首を振って、また芦河を顧みた。
「お世話になりました、八代さんとお幸せに!」
 一際明るい声だけが響いて、姿はふっと、芦河の視界からは消えてしまった。
 文句を言う相手を失って、芦河は戸惑ったような怒ったような顔をして、馬鹿野郎と低く呟いた。

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