12
娘の力の事を、沢谷ノブユキも妻も薄々とは感付いていた。だがそれは、人が用いるべきではないものだ。娘が幼い頃に人前では決して見せぬように釘を刺して、娘も言い付けを守って大人しく従っていたから、普段は思い出す事すらなかった。力は振るわれず、何も問題は起きなかった。
シリアへの研究旅行で見つけた文献と絵を、許可を得て日本に持ち帰ってきた。放射線測定でこの文献が書かれた詳しい年代を絞り込んだうえで、どのような経緯を背景に生まれた説話か仮説を立て、可能であれば文献を引いて状況から仮説を証明する。
あまり面白みのない仕事だと思っていた。内容が荒唐無稽すぎるし、そんなに大したものでもない、与太話の類とも思えた。神話はいくらかの真実と事実を含む、彼のそんな学者としてのポリシーに合致しない仕事のように思えた。
だが、空港に迎えに来た娘に、土産話の代わりと何の気なしに文献と絵を見せた時に、沢谷ノブユキの運命は抗いがたい力に決定されてしまった。
娘は、まるで実際に見てきたかのように、文献に書かれた内容を(書かれていない事すら交えて)語り始めた。
古代ギリシャ語で記された文献を娘が読める筈はない、第一彼女は透明なビニールの袋ごしに文献に触れただけで、まともに目を通してすらいないのだ。
沢谷は興奮した。娘の見通す力は確かなもので、真実が見えてしまう事を彼は知っていた。
太古に起こった人と使徒とグロンギの争い、全てを洗い流した大洪水、やがて人の中に目覚める堕天使の力。これが全て真実だというのだ。興奮しない筈はなかった。
だが、比較宗教学の論壇で内容を発表しても、事実という証明は出来ない。娘の力の他に証拠はないし、超常能力の証明は比較宗教学から逸脱する、沢谷の専門ではない。
事実だと主張した沢谷は頭がおかしいと陰口を叩かれて、あるいは面と向かって非難され、論文は誰にも顧みられなかった。
こうなれば、娘の超常能力を証明し、以て自説の証明とするしかない。専門ではない研究に沢谷はのめり込んでいった。大学も辞め、もう付いていけないと嘆く妻と別れて息子を手放し、山の中の借家を借りた。
娘の能力はサイコメトリーの他にも、テレキネシス、テレパス、透視、予知など多岐に渡っていた。驚く程に強い力を娘は発揮した。
沢谷は夢中になった。誰の諫言にも耳を貸さず次々友を失って、彼の目には最早、娘の能力しか入らなかった。娘もその頃はまだ笑うこともあった、辛抱強く実験続きの毎日に耐えていた。
だが、その蜜月は、そんなには長く続かなかった。
山の中にぽつんと建った借家に、大勢の男が踏み入った。彼らはやはり能力者という触れ込みで、娘の能力を利用しようとしていた。仲間に引き入れようというのを断ると、取り押さえられた。
父親は殺せ、取り押さえられて壁に手をついた沢谷の耳にそんな言葉が飛び込む。続いて娘の、やめてという涙混じりの声。
絶叫は、沢谷を取り押さえていた男から上がった。体の自由を取り戻して振り向くと、男たちは全身を炎に包まれて、のたうち回っていた。床に柱に火が燃え移る。脂と髪とウールとポリエステルの燃える嫌な臭いは黒く煤っぽい煙に乗って辺りに満ちた。
ごうと燃える炎の中に娘の姿はなかった。沢谷の眼前に立っていたのは、黒と黄金の皮膚に額から突き出た一対の角、赤く爛々と大きな複眼に鋭い顎、異様に発達し盛り上がった筋肉を持った、異形だった。
おとうさん、と異形の喉から娘の声は漏れた。
お前が燃やしたのかと問うと、首を盛んに横に振る。こんな事しようとしてないと言う。声に涙の気配が混じると、呼応するように炎が大きく揺れた。
とにかくこの場を離れなければならないが、出入口は当の昔に焼け落ちている。飛べるかと問うと、異形は頷いた。沢谷は異形の黒い手を取った。
異形の姿はシリアから持ち帰ってきた絵の下部に描かれていた、人ではない何かに似ているように思われた。もしこれが、この姿こそが堕天使の力の覚醒の結果であり、覚醒の前には伝承のギルスのように超常能力が芽生えるのならば。
約束された神の目覚めの時には、この子は裁かれてしまうのか。
考えが纏まらぬ内に、眼前の景色は知らない風景となっていた。辺りは暗い、どこかの森の中の様子で、今いる場所から街の明かりは確認できない。異形の全身から光を漏れると、姿が娘へと戻った。
沢谷と娘が、今立っているのが本来いるべき時間の約二十年後だと知るのは、意識のない娘を沢谷が抱えて歩き始めて程なくしてからだった。
***
まだ時刻は昼だというのに辺りは薄暗い。黒い煙がひっきりなしに上がり、辺りを包んでいる。ぱちぱちと生木のはぜる音が響いて、煙が目鼻に沁みた。津上は目を細めて眼前に佇むものを見た。
目の前のそれは、いつかのニュースか雑誌か何かで見た未確認生命体第四号に似ていたが、全く別の何かだった。
それは(二本足で直立歩行している、という意味合いにおいて)人の形をしていた。異様に発達した筋肉は甲殻の様に黒く、脂でぬめり光っている。金色の細い筋が盛り上がった筋肉をくっきりと縁取っている。
彼の顔はどこかアギトにも似ている。額から突き出た一対の黄金色の角、鋭い顎、大きな複眼。津上の知る第四号ともアギトとも全く異なっているのは、目が淀んだ黒に沈んでいるという点だった。
「一体何なんだ……どういう事なんだ、これ」
問い掛ける口調ではあったが、津上の疑問は誰にも向いていなかった、漏れ出ざるをえないから溢れ零れてしまっただけの呟きだった。
ごうごうと燃え盛る森を背にして、それは立ち尽くしていた。辺りの茂みから焼け出されて男が駆け出てきて、それに何かをしようとした途端に、ばっと大きな炎に包まれた。火はすぐに消えて、人だったとは想像の難しい黒い炭の塊のようなものがぼとりと転がった。
「止められる?」
マナの口調は淡々としていた。津上は軽く横に首を振った。
「分かんないよそんなの……でもあれを、山から降ろしちゃいけない、って事でしょう」
「そう。あれはもう、目に入ったものを壊す事以外はしないから。街に降りたら大変な事になるでしょうね」
「……そんなの絶対、駄目だ」
呻いて津上は両腕を構え腰を落とした。
恐ろしい敵は今までもいたし、勝てる気などしなかった事も覚悟を決めた事もある。だが目の前のあれは、そんな恐ろしいアンノウン達とも何か違う。
津上にはあれが、アギトのように思えた。
己を失い力に呑まれて暴走したアギトは、例えばこんな風に見えるのではないか。その姿は縋るべき慈悲も見当たらず、理解できないもののように映った。
人はそれを恐れるだろう。津上が今恐れているように、分からないもの、言葉の届かないものを、恐れ忌むだろう。
どうして捻じ伏せようとするしか出来ないだろう。彼がもしアギトなら、津上はいくらでも言葉を尽くして、木野にも最後には伝わったように、いくらかだけでも伝えて少しだけでも分かりたいと、いつだって願っているのに。彼に言葉が通じず目に入ったものを壊すしかないなら、そんな事はとにかく何としても止めなくてはいけなかった。
鋭く腕を振ると、力の証は必要な時に腰に現れる。紫の宝玉を龍の爪が掴んでいるかのような、そのベルトの両脇を力一杯に押し込む。
「変身!」
津上は強く白い光に包まれて姿を変える。はらはらと散った光の残滓の向こうには、光を集めて煌めく白銀の姿があった。力強く展開したクロスホーンは繰り返し火入れをして鍛えぬいたような深紅色をしていた。
マナとその父が見た事のない姿のアギトが駆け出すと、その両手にはどこから出たのか一対の曲刀が握られた。
「素晴らしい、予言以上じゃないか。神とも戦おうという、身の程を知らないで膨れ上がった人の力が二つ、どちらが勝つにしても愚かしい」
アギトの背中を見守って口を開いた沢谷ノブユキの声は、弾んで明るかった。マナはちらと横に目をやって、すぐに前に視線を戻した。
沢谷の目は橙色した火に照らされて、きらきらと輝いていた。まるで花火を見上げる子供のように堪えきれない笑みを浮かべて、沢谷はアギトと王を見守っていた。
「これで満足?」
「ああ満足だとも。アギトの目覚めに呼応して神が目覚め、グロンギはついに封印を破って王が生まれた。私の説の正しさを、今のこの状況が証明してくれている」
どっちでもいいわ、という呟きは誰にも受け取られないまま煙に紛れた。
アギトに気付いて王は目線を向けたが、アギトから炎が上がることはなかった。手順が違う事に戸惑ったのか、王が身動きしないうちにアギトが距離を詰めて曲刀を横に薙ぐが、するりと躱される。続けて払った左の手首を掴まれると力任せに放られた。
燃え盛る木の幹に強かに背中を打ち付け、衝撃で折れた幹が倒れるのに巻き込まれて転がる。熱が膚を焼くが、今は押さえ制御している、身体中を駆け巡る業火に比べれば、何という事もない熱量だった。
王には隙がない、動きは速いし力も強い。アギトがまるで子供のように軽々と放られるとは、津上自身も他の誰も予想していなかった。
王がアギトを見る、軽く手を翳すがやはり何も起きない。
やや離れた場所から両者に熱く視線を投げる沢谷は、隣のマナが苦しげに息を漏らした事にも、その腕や脚が一瞬ぶれて歪んだ事にもまるで気付く様子がなかった。
***
「アギトが止めていますが、いつまで保つか分かりません、一刻を争うんです。こうしている間も惜しい」
青年が口を開いた。芦河と南条も、首都機能を一時麻痺させたテロ事件の首謀者としてニノマエの顔を記憶しているし、彼が死亡した事も聞いていた。何故目の前で生きて立っているのか、疑問は湧いたが答えは得られそうにない。
ただ、人間となれば、G3‐Xの重装備で向かうのは仰々しすぎる。睨み合う当麻とニノマエの顔の青年を交互に見比べて、芦河も南条もどうしたものか判断がつかずに見守っていた。
「嫌だ、と言ってる筈です、しつこい人ですね。アンノウンまで差し向けてくるんだから私の生死は問わないんでしょう、それとももう手駒が尽きたんですか」
当麻の悪態に、青年は返事をしなかった。暫し睨み合っていると、G3‐Xの背後で芝生が踏まれる音がした。
「何だ、うわっ!」
物音に反応して振り返った刹那、背後から襲ってきた鞭に強かに打たれて、G3‐Xが横薙ぎに倒れる。芦河は咄嗟に横に跳んだ。今までいた場所を鞭が舐め擦っていった。背後に現れていたのは、何度か出現している蛇の髪を持った女性型のアンノウンだった。
鞭が閃いて、G3‐Xが構えたスコーピオンが保持した右手から叩き落され、からからと下草の上を滑っていった。姿勢を崩したG3‐Xに再度鞭が襲いかかろうとするが、横合いから駆け込んだアギトの蹴りがアンノウンの脇腹を捉えた。
「貴方達は、人を守りたいのであればこんな所で戦っている場合ではない」
ニノマエの顔をした青年の声は苛立って荒かった。だが苛立ちならば芦河も決して負けはしない。
「お前がアンノウンを操っているのか、それなら津上を連れていったのもお前だろう、一体何を企んでいる!」
「あなたに話す事は何もない」
ニノマエの顔をした青年の答えは冷たい声で放たれた。それ以上の問答は目の前のアンノウンが振るった拳に阻まれた。
当麻が前に足を踏みだした。一歩、二歩。ゆっくりと、だがしっかりと、ニノマエの顔をした青年との距離を詰める。
「その体は陽太のものだ、陽太はもう、死んだんだ。陽太の体を返して」
「今は私の体でもある。私をこの体から引き離したいなら体を消すしかない、それに今はすべき事があります、返すわけにもいかない」
「あんたが何者かは知らないけど、陽太はあんたの入れ物じゃない、あたしの弟なんだ。返せ」
聞く耳を持たずに当麻は足を前に進めた。手を伸ばせば届きそうな程に距離を詰めて、立ち止まる。
「愚かな」
黒衣の青年の瞳がぎらりと青く光った。後ろで銃を構えたものの動けずにいた瀬文が反応する前に、当麻の体が強く叩かれたように後ろに舞った。
「おい、この!」
恐らく無駄だろうという思いは頭の隅に浮かべながら、瀬文は銃の引鉄を引いた。狙いは腿、続けざまに二発放つ。
だが、黒衣の青年の様子は何一つ変わらない、脚を引くことすらしなかった。ちょうど腿の辺りに、一瞬ちらりと波紋のような揺らぎが浮かんで消えた。
青年がこちらを見たと認識した時には、既に瀬文の体は何かに弾かれて宙を舞っていた。真後ろの櫟の太い幹に背中と後頭部を打ち付けられる。息が詰まって吐き出せなくなり、直後に襲い来た打撲の衝撃と痛みを息を吐いて逃がし紛らす事がかなわない。
当麻は体を起こしていた。懲りずに再び前に足を踏みだす。
「返して……!」
ふらりと覚束ない足を前に出して、口元を拭って当麻は呻いた。目の光は爛と黒衣の青年だけを捉えていた。
当麻は再び黒衣の青年の前に立ち手を伸ばしたが、手は何かに遮られて前に進めず、青年の眼前の何もない空間に波紋のようなものが立つだけだった。
「無駄な事を」
「うるさい、陽太を返せ!」
青年と己を隔てる障壁を、当麻は破れかぶれに叩いた。波紋の形に歪んで何事もなかったように光は消える。
逆に青年が右手を伸ばして、当麻の左の手首を掴んだ。当麻は右手で青年の右手首を掴み返した。
「あなたが素直に渡せば、あなたの命を無駄に奪う必要がない」
「返して貰うのはあたしの方だ、あんたに渡すものなんか何も無い!」
「無駄な事を」
再び青年の瞳に蒼く光が灯るのと、当麻が眉を怒らせ青年を厳しく睨みつけるのは同時、それからやや遅れてG3‐Xへとアンノウンをうっちゃった芦河が当麻へと駆け寄った。
G3‐Xは腹を蹴られのめったアンノウンを迎え撃って殴りつけた。刹那、横合い――芦河が駆けていった、ニノマエの顔をした青年とミショウの女がもみ合っていた方角から白い光が強く溢れ、すぐに消えた。見ると、そこには誰もいなくなっていた。
『えっ……何で? GM‐01ロスト……? ちょっと南条くん、何があったの、応答して!』
八代の声が響いたが、南条に事態が把握できる筈がない。青年も当麻紗綾も芦河も、木の根元に倒れていた瀬文とかいう刑事も。誰もいなくなっている。
「状況、分かりませんが、ミショウの二人も芦河さんもいません、消えました!」
『どういう事⁉』
「だから分かりません、僕は現在アンノウンと交戦中ですから、そちらを優先します!」
告げて南条はアンノウンへと向き直る。二対一で優位に戦闘を進めてきたが、ここから先は南条一人でなんとかしなくてはならない。
南条は自分の優秀さには自信がある。芦河に出来る事が南条に出来ない筈はなかった。
脚をゆっくりと抜き、じりじりと後退する。武器の類はガードチェイサーに収納されている、近くまで移動する必要があった。
蛇のアンノウンは鞭を持っており、間合いが広めにとられている。ガードチェイサーまで走れなくはないが、アンノウンがG3‐Xを追ってくるとは限らない、姿を消してしまうかもしれなかった。南条は(今の所分かっている限りでは)アンノウンに狙われる理由はない。
振るわれる鞭を横に飛んで避け、徐々にジグザグに後退する。あと少し、視界の端にガードチェイサーの大きな車体が入った。
『南条くん、GX‐05アンロック済よ、解除コードを!』
「了解!」
答えて駆け出すと、アンノウンも足を速めて追ってきた。あと少しの所で、左手首に鞭が絡みつく。
鞭を引かれて前に倒れそうになりながら、南条は身体を伸ばし、右腕を懸命に伸ばした。ケースに手がかかる。慎重に引き寄せなければ、あらぬ方向に転げ落ちてしまうかもしれない、左腕は鞭の引く力とせめぎ合いつつ、じりじりと足を引く。
ようやく手が届いた。右手をGX‐05の持ち手に引っ掛け持ち上げると力を抜く。鞭に引かれてG3‐Xは全身し、南条はその勢いを利用して蹴りを繰り出した。腕より脚の方が長い、それは相手がアンノウンだろうと変わらない。G3‐Xを殴りつけようと待ち構えていたアンノウンは襲い来た足裏を躱せずに胸に喰らってそのまま後ろへ吹き飛ばされた。
倒れこみ立ち上がる間にGX‐05の解除コードを入力、組み立てる。
アンノウンも受けたダメージは然程でもない、すぐに立ち上がるが、起き上がった所を既にGX‐05の銃口が捉えていた。
連続して薬莢が弾け排出される轟音が響く。弾丸はアンノウンの胸に腹に飲み込まれた。暫くすると、アンノウンは弾丸を受けつつ背を逸らせ苦しみ、やがて頭上の光輪が膨張して、全身が爆発を起こした。
GX‐05の弾丸は切れている、引鉄を引いてももう手応えはない。南条はしばし指を戻すのを忘れ、息荒く目を見開いていた。
***
当麻は勢い良く腕を振りほどいた。腕は簡単に解かれたが、ニノマエの顔をした黒衣の青年はきっと当麻を睨み付けた。
当麻と、当麻が許した者しか動くことは出来ない筈のこの時間の中で。
青年の息は荒かった。心なしか、左腕がぶれ、像が揺れ、一瞬かすれて戻って見えた。
ここはどこだろう。当麻は辺りを見回したが、ここがどこなのか分からなかった。森の中のようだが、辺りは燃え盛り煙がごうごうと立ち上っている様子だった。時は止まっているように見えるから、炎も煙も凍ったように動きを止めていた。
「何をしたの、ここ、どこですか」
「引き寄せられた……あなたと私の力がぶつかって、時空間が捻じ曲がった。そして、歪みの根源へと引き寄せられた」
「何を、言ってるんですか」
当麻は辺りを見回した。やや離れた場所、炎の中に黒い影が見えるが、煙に隠れて姿ははっきりとしない。そこから距離を置いて立っている二人の人影、片方の、黒いワンピースの少女と目が合う、彼女は首を軽く動かし当麻を見た。
どうして、動けるのだろう? 当麻は彼女を初めて見た。瀬文が見たという少女と特徴は一致しているが、当麻は初対面だ。彼女が動く事を当麻は許可していない。
「どうしてあなたが『許可』していないのに動けるのか、簡単な話だ。我々も、あなたと同様の力を使っているからです」
心を見透かしたような青年の言葉に、当麻は目を剥いた。
この特異なスペックを使える者が他に二人もいる、という事自体が信じられなかった。ニノマエ以外には例を聞いた事もない、ニノマエいや陽太の体に宿った事すら間違いとしか思えない異様なスペックだった。
「ただ、その左手が足りない以上、私の力は万全ではありません。この人の子の身体に負担がかかっている。そして目の前にあれがいるのならば、私の敵はあなたではない」
弱々しい声で、青年は告げて前に足を踏み出した。
「私はアギトを許しはしない。だけれどもあれをそのままにしておけば、アギトだけではない、人の子は全て死に絶えてしまう。私はそんな事は望まない」
青年はゆっくりと歩を進め、当麻の左側に立った。そして右手で、当麻の左手をとる。
「こうしていれば、あれが何をしようとするかあなたにも分かる。あれは燃やす事と壊す事しか考えられない、世を灰と芥に帰そうとする者。燃やすものは燃えなかった事に、他の事はアギトが受け持ちます。あなたは私に意識を合わせればいい」
「アギト……? それって」
「さあ、時を動かして」
青年の声は穏やかで、今は当麻に対する害意は感じられなかった。
時が動き出す。凍りついていた煙は熱風に乗って勢い良く天に登り、火の粉が舞って散った。黒い煙の間から炎に照らされて、黒い影が見えた。
未確認生命体第四号に似ているが、報道や記録で見知った写真とは全く別の姿だった。全身を黒光りする筋肉と刺々しい装飾が覆っている、禍々しい黒く沈んだ瞳。青年の言う通り、当麻にも伝わってきた。目の前のあれの意識には、目の前のものを破壊する事しかなかった。
それは黒ずんでも濁ってもいない、ある意味で純粋な意志だった。
煙を裂いて、白銀の刃が舞った。一振り、二振り、流れるように動きが繋がっていく。剣の軌跡はほの白く帯を描いた。
未確認四号らしきものは、その刃を鷹揚な動きで躱し続ける。だが諦める様子もなく刃は四号らしきものを追いかけた。
薄まった煙の向こうから現れたのは、やはり見た事はない、四号にもアギトにも似ているがどちらとも違う姿だった。
「津上、お前、津上か!」
太い声が飛んだ。どうやら一緒に飛ばされたらしい、アギトが炎に向かって駆け出していた。
「芦河さん!」
答えた声は確かに津上翔一のものだった。前傾姿勢をとって両腕を顔の前で交差させ、四号らしきものの拳を受け止めようとするが、止めきれずに姿勢を崩し、そこにもう一発拳が叩き込まれた。
「うわあっ!」
「津上、このっ!」
芦河は駆け込んだ勢いをそのまま乗せて、四号らしきものの脇腹に蹴りを叩き込んだ。だが四号らしきものは微動だにしない、却って芦河の右足が弾き返されて、勢い余った体が跳ね返され転がった。四号らしきものは芦河を見た。
来る。
当麻にもはっきりと分かった。言われた通りに、合わせた手から感じる青年に意識を合わせる。燃えるはずだったものを、燃えなかった事に。
全てを瞬時に燃やし尽くす筈だった炎を、どこでもない場所へ転移させる。その空間は「存在しない」という定義がなされた為に逆説的に存在してしまった場所だった。存在しない場所では、炎も存在はできない。
芦河は燃えない。四号の意識は再び立ち上がった津上へと向いた。
存在しない筈の場所を瞬時に演算しそこへ炎を転移させる。言葉にしてしまえば短かったが、その作業は全神経を研ぎ澄まし集中し切ることを要求した。
当麻のこめかみから脂汗が一筋、たらりと流れた。気持ちが悪いが拭う余裕もない。
「あれの注意が向けば、燃えるまでは一瞬。人の子の体に宿りしかも体が不完全な私に、あれを阻む力はない。だがこうして、こちらに向けられた力でなければ辛うじて防ぐ事はできます。後はアギトに、あれを打ち倒して貰う以外にありません」
ニノマエ、いや陽太の顔をした青年の額にも汗が浮かんでいた。息が浅い、声を絞り出す間にも苦しそうに息を漏らしていた。
「あれは、何なんですか」
「あれはグロンギの王」
「未確認生命体第四号に見えますが、それならグロンギと戦っていた筈です」
「そう、彼はグロンギと戦う戦士でした。だけれども石の力に完全に取り込まれ、聖なる泉が涸れ果て、破壊しか分からなくなった姿。そもそも彼が芦河ショウイチと同時に存在している事が、この世界が歪んでいる証左だ」
「どういう事ですか?」
「芦河ショウイチ以外には、あの力を振るう者は存在しない筈だった、という事です。そして世界は今、歪みからくる反動で在り方を修正しようとしている」
「修正……?」
「排除という事です。生まれなかった筈のグロンギの王、生きていなかった筈の沢谷マナ、いなかった筈の津上翔一、目覚めなかった筈の私。それらを消し去ろうとしている」
「そんなの、おかしいですよ」
つまらなさそうな声で当麻が吐き出した言葉を、青年は不思議そうな顔をして受け止めた。
「世界っていうのは、人が生きていく場所です。人が生きようとして、それが世界を作っていくんです。世界が人を規定するなんて、そんなの順番が逆じゃないですか」
当麻の言葉はきっぱりとして、語尾もはっきりとしていた。彼女の目はまっすぐに第四号だったものに向けられていた。
「人が変わっていき、それが世界を変えていく、という事ですか」
「よく分かってるじゃないですか」
「それは、私の役割にそぐわない」
「したい事に役割がついていくのが順番です、役割からする事を決めるのも、順番が逆じゃないですか」
青年は答えなかった。
生きる意志が変わっていくことを求め、それが世界を変えていくのならば、この「破壊されるために生まれた、本来はもう存在していない筈の世界」を救い得る希望とは、人が生きようとする事そのものなのかもしれない。
より良く在ろうとする願いが、人の心に宿る光そのものならば。
変転の果てにそれぞれの姿に辿り着いた異形三体が、強まる炎の中睨み合い対峙していた。
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