星をみるひと3

 夕焼けの空は、薄曇りの雲にぼんやりと霞み、滲んでいる。夜空と暮れの橙の境目は、ごくごく薄い薔薇色から黄、そして白く光り、そこから透明な青のグラデーションを描いて深い闇へと繋がっていく。
 夜空の深い紺と、宇宙の色は、違う。
 地球では、世界はどこまでも、青を帯びている。
 サブウェイの出口から地上に上がると、道に建ち並ぶ建物の隙間から空が見え、ジュドーは夜空の色の瞳を持った人を思い出した。
 彼は今も、そこで、ようやく弱い光で輝き始めた星を見ていた。
 どうして、俺を知らないのに、いなくならないのだろう。
 不思議だったけれども、彼がいなくなってしまえば、きっとどうしようもなく寂しくなるだろうと思った。
 ファはただただカミーユの愛想のなさを詫び、無礼を詫びて帰っていった。
 俺の事知らないんだから。仕方ないさ。その言葉ばかりがジュドーの口をついて出た。
 諦めているという事だ。それならば、自分は、カミーユにどう接してほしかったのだろう。
 分からなかった。ただ、もっと穏やかに何かを話せたら、とは思ったが、何を話すというのだろう。
 彼と自分には、思い出したくもない戦争の話しか、今のところ共通の話題はないのだ。
 所詮はそんな、細い脆い、繋がりだった。
 それならばそれが、どうして、遠い遠い彼方まで逃げても、切れはしなかったのか。
 きっと、どれだけ離れても、切れはしない。
 何の根拠もありはしないのに、そんな確信だけが確かにあった。
 知らない人なのに。
 また、声が聞きたかった。ジュドーの知る彼の声が聞きたかった。
 強い声。優しい声。彼は何処へ行ってしまったのだろう。
 見つからないのに、寂しくはないのは、何故だろう。
 ぼんやりと家への帰路を辿っていると、どこからか、野菜を煮込んだスープの匂いが強く漂ってきた。
 似たような古びた背の低いアパートメントが、細い道の脇に幾つも並んでいる。道を覆う石畳はすっかり磨り減り、色褪せていた。
 この街に来て一月、朝早い仕事にもすっかり慣れた。
 一緒に働く人達は、圧倒的に年輩の者が多く、女だてらにそれなりの腕力を要求されるリフトカーを操作する中年女性も多かった。
 一年戦争以後、地球上の就労年齢男子は激減した。そんな知識でしかなかった言葉は、ここでは紛れもない現実だった。
 陽気な人が多かった。地球から離れた事のない彼らは、スペースノイドであり現在の人類にとっては宇宙の果てともいえる木星まで行ってきたジュドーを、酒の肴が増えたように面白がった。
 実際に、皆酒好きで大酒呑みだった。歓迎会と称した飲み会では、歓迎される筈のジュドーは自分以外の面々のあまりの呑みっぷりに呆然として、次々と空になりテーブルの隙間を埋めていくジョッキを前にして、一人で酔いが醒めてしまっていた。ここではビールは水みたいなもんだよ、と、子供を三人育てる為に働いているという中年女性が笑って、ジュドーの背中を勢いよく叩いた。彼女の手は厚く、温かった。
 母さん、どうしてるんだろうな。ふとそう思ったが、もう消息を尋ねる術もない。
 俺の息子も、生きてたらお前さんくらいだったかなぁ。宴会も開き、店から駅までの夜道、そんな言葉を静かに笑いながら口にしたのは、殊更陽気な、がっしりとした体格のラテン系の男。もとは大陸に住んでいたというが、戦争で家と家族を失い、ここまで流れてきたのだという。四角いごつごつとした顔に浮かんだ笑みは、本当に息子を見ているかのように優しかった。
 深い深い傷を抱いて、それでも生きているから、笑っている。
 宇宙に住んでたって、地球に住んでたって、一緒じゃないか。どうしてこんな簡単な事を、見失ってしまうのだろう。
 そう思った。
 失ったものは決して戻る事はないからこそ、大切なのだけれども、それはとても悲しい事だった。
 失うばかりではない、見つけたものもある。それでもそれは、言葉にしようとすれば、まるでなかったかのように掌からこぼれ落ちる。
 どうしてこんなに、世界は、捉えどころもなくうすぼんやりとしているのだろう。
 もっと明確な輪郭を持っているとばかり思っていたのに、世界は、どこまでも蒼く眩しく。
 道の脇に等間隔に並ぶ背の高い街灯が河の上流の方角から、一つ一つ灯っていく。
 美しいから、地球は美しいから、愛されるのだろう。
 でも、宇宙だって綺麗なんだよ。そう言いたかったが、誰に言えばいいのか分からなかった。
 あの景色を、もう一度、見たかった。流れ込む想い。初めて感じた、他人の想い。
 アパートメントの自室には電灯の明かりが灯っていた。リィナはもう帰っているらしい。
 玄関のドアを開け、ただいまと告げると、リィナが電話のモニタの前からジュドーを呼んだ。
「セイラさんが、お兄ちゃんに頼みたい事があるんだって」
 告げるとリィナは鍋を火にかけたままのキッチンへと急ぎ足で戻っていった。何だろう。不審に思いながらジュドーはモニタに映るセイラ・マスの端正な顔に向かった。
『こんにちは、ジュドー。どう、もう地球には慣れて?』
「ええ…何ですか、頼みって」
『ハヤト・コバヤシを知っているわね。彼の最期を詳しく知りたがっている人がいるわ。どうしてもとは言わないけれども…出来れば、話してあげてほしいのだけれども。その人から、ハヤトの家族へも、伝わる筈だから』
 忘れようのない名前だった。
 ほんの少しの時間、顔を合わせ、僅かな言葉を交わしただけなのに、忘れられない跡を残した人だった。
 六年経った。それなのに、まるで昨日の事のようにはっきりと鮮明に覚えている。
 そうか、家族が、いたんだな。
 今までそんな可能性すら考えていなかった事をジュドーは恥じた。目を背け遠くに行っている間、ハヤトの家族は、彼の最期を詳しく知る術も持たずに、きっと悲しんでいたのだ。
 何も言葉が出てこずに、ジュドーはただ首を二三度、縦に振った。セイラの声が耳の中でやけに遠く響く。


 一度連絡を貰い打ち合わせをした通りに、その男は駅前の喫茶店で待っていた。
 店に入ったジュドーは一度見たその人の顔をすぐに見つけ出し、新聞を読んでいるその人の座るテーブルの側に立つと、軽く頭を下げた。
「よく、来てくれたね。座って」
 少ししゃくれ気味の顎と精悍な印象の三白眼を持つその男は、カイ・シデンと名乗った。
 元ホワイトベースのクルーで一年戦争ではガンキャノンに搭乗し、戦後はフリーのジャーナリストをしているという話だった。
「会って貰えないかと思っていたよ。誰だって、嫌な事は思い出したくないからね」
 カイは肩を竦めて軽く笑った。どこか軽い皮肉の漂っているような笑みには妙に愛嬌があって、不思議と気分を害されなかった。
「ホワイトベースの事を、本にしようと思っているんだよ。出来るだけ、事実だけを書いた本を、残したくてね。でも、君が望まないならハヤトの死については書かないつもりだ。奴のダチとして、聞いておきたいっていうのが一番の理由さ」
 薄く笑うと、ジュドーは軽く首を横に振った。
「いい事だと思います。皆、知ったほうがいい。ハヤトさんの、家族にも、俺に代わって話してあげて下さい。それと、今まで話せなくて、申し訳なく思っているって」
 うまく話せるか分からないけど、と付け加えると、カイは軽く口の端を上げた。
「ゆっくり、話せる所からでいい。今日は、他に予定がないなら、俺はいくらでも付き合うから」
 仕事は今日は休日、他には一切予定は入れなかった。ジュドーは浅く頷くと、考え込むように軽く瞼を伏せた。
 二人の座る窓際の席には、昼下がりの柔らかい日射しがガラスごしに差し込んで、照度の低い暖色の照明に薄く照らされた店内で窓際の一列だけが明るかった。
 頼んだコーヒーをウエイトレスが運んできた。勤め始めたばかりらしく、足下が覚束ない。ソーサーにはコーヒーが零れていた。
 それを目に留めても気にするでもなく、ジュドーはシュガーポットから砂糖を三杯掬うとコーヒーに放り込み、落ち着かない様子でコーヒーをスプーンでかき混ぜた。
「ダブリンから、ノルウェーのカラバ基地に行って宇宙に戻る途中、だったと思います」
 唐突にジュドーは口を開いて、言葉を切ってコーヒーを啜った。
 カイは頷くと、メモ帳のようなものにペンで何かを書き付け始めた。
「アウドムラのハヤトさんから、通信が入ったんです。ダブリンにコロニーが落ちるから、アーガマは市民の救助にあたってくれって。アーガマはダブリンに逆戻りして、じきにハヤトさんが飛行機で来て、ブライトさんと何か話してた」
「ああ」
 最初から、順番に話さないと、いきなりあの空気を語るのは無理だとジュドーは思い、ハヤト・コバヤシの死んだ日の事を、最初から思い出し、口に出していく事にした。
「あの時、カミーユが乗ってて…」
「知っているよ、カミーユ・ビダン」
「コロニーが落ちるのを感じて、ひどく苦しんでたんだ。どうにかしたくって、その時、グラスゴー上空だったから、そこで降ろしてやろうとした。でも、余分に使える機体がなくって。そしたらハヤトさんは、自分の乗ってきた飛行機を使えって…」
 カッコつけてんな、と小さく呟いて、カイは口の端を上げて微笑んだ。皮肉の色はなかった。
「ハヤトさんはドダイでアウドムラに帰っていって、じきに、ネオジオンがダブリンを爆撃し始めた。橋を落として、車が逃げられないようにして、海から逃げようとした救助艇まで撃ってさ。俺たちは、空港を守ろうとしてたんだ。カラバが、空港の避難民を、アウドムラに乗せてた。ハヤトさんも、ぎりぎりまで空港で指揮をとってて、避難民を一杯に詰め込んだアウドムラを守る為に、ドダイで敵とやり合い始めたんだ」
 ゆっくり、一つ一つの言葉を噛みしめるように、何度も息を継ぎながら、ジュドーは言葉を口から押し出していった。
 記憶は、目を背けていても、薄れる事はなかった。
 誰のものかも判別出来ない数知れない怒号。重く厚い雲に覆われて暗く曇った空を、モビルスーツが何機も飛び交っていた。ジムIIIが墜とされていく。
「もうすぐコロニーが落ちてくるっていうのに、ネオジオンの奴ら、しつこかったんだ。アウドムラのすぐ側まで接近されて、ハヤトさん、自爆して敵を潰そうとするんだ。無茶苦茶だ」
 すっかり冷めて冷たくなったコーヒーを啜ると、カイが、不思議そうに口を開いた。
「君も、そういうの、感じるのか」
「そういうのって」
「ハヤト、自爆するって君にわざわざ宣言したわけじゃないだろう」
「あぁ…声が、ずっと、聞こえてたんです」
「声?」
「カツに会いたいって。誰なのか知らないけれども。それに、口に出して宣言もしたな。自爆すれば二機潰せるって」
「カツは、奴の息子さ。息子といっても養子だがね。アーガマのクルーだったが、グリプス戦役で戦死した」
 それを聞いて、ジュドーはふと、その名前を他に聞いた事を思い出した。
 口に出していたのはカミーユ。あの時見えた彼、あぁ、彼がカツなのか。ハヤトの会いたかった息子なのか。
「それで、奴は自爆したのかい」
「いえ、その時はなんとかなった。間に合った。けれど、もう防ぎきれなくなって、俺たちが敵に囲まれちまったんだ。その時は長時間の空中戦になるから、コアファイターで出撃してた。でも、ΖΖになれたら、モビルスーツの二機や三機、落とせる自信があったから、変形しようとした。そしたら敵に気付かれて、変形の隙を狙われて、墜とされそうになったんだ。ハヤトさん、その敵を後ろから撃って、でも新型だったそいつには、ドダイの攻撃なんか効かなかった。目を付けられて、サーベルで斬りつけられて、その間、俺たち、変形の最中で、何もできなかった…」
 何もできなかった。動けなかった。その感覚は、今でも掌に、瞼の裏に、まざまざと蘇る。
「わかるよ、あいつも分かってたさ」
 視線をカップの中に残った冷めたコーヒーに注いで、ジュドーはゆっくりと、首を横に振った。
 所詮分かる筈がないと否定しているのではない。ホワイトベースに乗って苦しい戦いを切り抜けてきた人たちならば、きっと分かるのだと思った。
 ただ。もっとうまいやり方があった気がした。
 敵に気付かれないようにすれば。もっといいタイミングがあったのではないか。最初からΖΖで出撃していたら。
 しかし、そんな仮定には、何の意味もなかった。
 失われたものは何一つ戻ることはない。それに気付くのは、いつもいつも、失った後。
「機体がコントロールできなくなったみたいで、海の方に落ちていって。カツの声が、聞こえる、って、声が聞こえたんだ。そんなの、死んで聞いたって、仕方ないじゃないか。海に落ちる前に機体が爆発を起こして…」
「少し、休んだ方がいい」
 カイがウエイトレスを呼び止め、コーヒーを二つ頼んだ。
 冷めたコーヒーが半分ほど残ったカップは下げられて、ジュドーの視線の先には、テーブルの飴色の木目が映るばかりになった。
「辛い事、思い出させてしまって、すまないな」
 カイの声は本当に申し訳なさそうで、ジュドーは却って謝られた事に恐縮し、顔を上げて、いいえ、と呟いた。
 話さなければならない事だった。伝えなければならない事だった。
「君が見ていて感じてくれたから、ハヤトが、何を思っていたのか、分かった。奴の家族も、きっと感謝するよ。本当にありがとう」
「俺は、何も出来なかったから…」
 感謝されるような事は何も。その言葉にカイは、力強く首を横に振った。
「奴の思いが、無駄にならないで、残ったんだ。君のお陰さ」
 ハヤトの思いが残って、無駄にならなかった。それは、ジュドーがハヤトの死をこうして語った事を指しているのだろうか。それとも、ハヤトが生前目指していた、ネオジオンの脅威から地球を守るという目的を成すのにジュドーが大きな役割を果たしたという事を指しているのだろうか。
 どちらにしろ素直に首肯はできず、ジュドーはまた視線をテーブルの木目に落とした。


 かなしいことで一杯だった、カミーユの心。覚えている。
 優しいから、悲しむんだ。他の人の痛みまで、全部抱えて。
 俺の分まで、抱えようとして。
 どうして。俺は大丈夫だったのに。きちんと顔を上げられたのに。
 戦えたのに。
 だって、リィナはいなかったけれども、プルがいてくれたから。
 分かれたと思うんだ。プルが俺を分かってくれた、何分の一かくらいは、分かれたと思う。
 それなのに俺は、見ているしかなかったけれども。
 このままではプルが死んでしまう。それなのに、エネルギー切れで動かないΖΖのコックピットの中で、ただ、見ているしかなかったけれども。
 何も出来ない、誰も助けられない。助けたい人が、死んでいく。やっと見つけたと思ったものばかりが、目の前でなくなっていく。
 誰にも死んで欲しくなかったのに、たくさん、人が死んだんだ。見ているしかなかったんだ。
 何もできなかったから、俺は、許せなくなって。
 本当に許せなかったのは、自分の、力のなさなのに。

 僕は君の悲しみを知っている。君の悔しさを知っている。君の怒りを知っている。君が見ていた事を知っている。
 黒い雨が、海の向こうからそんな言葉を運んできた気がして、だから、顔を上げられる気がしたのに。
 それももう、覚えていないのか。


 優しいから、悲しむのだから。そのとんでもなく優しい、悲しみすぎる心を感じて、忘れられなくなったのに。


 日は暮れかけていたけれどもまっすぐに家に帰る気にはなれず、ジュドーは闇に覆われかけた薄暗い道を、何のあてもなく歩いた。
 リィナには隠し事ができないから。
 リィナの知らない事で、心を乱させたくはない。本人が聞いたらカンカンになって怒る様子が想像されたが、そう思った。
 こんな辛い事を、知る必要など、ないのだ。一人で抱えていれば済むのならば。
 ここがシャングリラでなくて良かった。イーノが、エルがいなくて良かった。
 いたら、きっと、甘えてしまう。
 きっともう忘れなくてはいけないのに。どれだけ悔やんでも、何も、戻りはしないのだから。
 気が付くと、河の側の道を歩いていた。
 あの人は、このあたりで星を見ていた。その人がしていたように柵に手をかけ、空を見上げると、後ろから声をかけられた。
「また、君か」
 前会った時と同じライダージャケット、左の脇にヘルメットを抱え、その人は、どこか照れくさそうにジュドーを見ていた。
「ここ、あんたの場所か。ごめん」
 会いたかった筈だった。それでも一月、探そうとしなかったのは、何故だろう。
 いつでもそこにいたから、探す必要は、なかったのかもしれない。
 背の低い柵にかけた手を離そうとすると、カミーユは右手を出して、それを遮る動作を見せた。
「いいよ、いたいだけいたらいい」
 低くぼそぼそと呟く声も、頬にわずかに浮かんだ微笑みも、どこかぎこちない。
「ファさんに怒られたんでしょう」
「…君には関係ない」
「図星だ」
 少しいじけて、照れ気味に唇を突き出し歪めたカミーユの様子がとてもおかしくて、ジュドーは笑いをこぼした。
 こんな人だと、思っていなかった。
 思っていたよりもずっと、普通だ。そう、普通だった。
 少し、歳よりは子供っぽいところがあるのかも知れない。意外と素直に感情を表す人だと思った。
「この前は、済まなかった。悪かったよ」
「いいよ、だって、俺の事知らないんでしょ」
 ジュドーの隣にカミーユは立ち、同じように、低い柵に右手をかけて、星を見上げた。
 夕暮れの空気は殆ど消えかけて、夕焼けの紅い光の残滓が西の空の際をほのかに暗紫色に染めているだけだった。
 寂れて落ち着いているとはいえ、やはり街の灯りは眩しくて、小さな星の弱い光はかき消されてしまうようだった。北極星だけが、爛々と輝いている。
「怖いんだよ、君の感じは」
「何が怖いのさ」
「知らない奴の筈なのに、言うつもりもなかったことが、こうして口に出る」
 怖い、そう感じる感覚は分かる気がして、ジュドーは微かに頷いたけれども、すぐに顔を上げて、また空を見た。
 口調にも感じる流れにも、恐怖であるとか、そういったものは感じられなかった。
「俺は、もっと色んな事話したいけどな」
「僕の事なんか、何も知らないだろう」
「知らないからだよ」
 知らないから、知りたいんだろう?口に出さなかったのにその言葉は伝わって、カミーユは、違いない、と呟いて苦笑した。
 口を開く事も、口には出さない事も、不思議にどちらもごくごく自然だった。
 なんとなく、分かっちゃうのは、怖いんだな。
 よく分かる気がした。何も知らない人なのに、隣にいることがこんなに自然に感じられるのは、本当は不自然なのだ。
 何も知らない人なのに、いつでも隣にいるのは、おそらくは不自然なのだ。
「君は、どうして地球に降りてきた」
「あんたこそ、どうして帰らないの」
「ファが、いるから」
「理由にされたら、ファさんだって、面白くないよ」
「そうかもな」
 帰りたい。今ははっきりと感じる、その流れ。それは、あの頃のカミーユからは、感じられなかったものだった。
 内に内に、固く閉ざされていた心。
 その心が、ほんの僅かの時間でも開かれ、手を伸ばすのには、どれだけの勇気があったのだろう。
「俺も、妹をどっかで理由にしてるけどね。偉そうに人の事言えないや」
「そらが、嫌だったのか」
「好きだよ。でもね、広すぎて、無くしたもんが見つからなくなったから、かな」
「地球だって広いし、それにごちゃごちゃしてる」
「そうなんだけど。ここはさ」
 そこで言葉を切ったジュドーをカミーユは不思議そうに見た。
 ジュドーは言葉を続ける事はなく、カミーユをちらりと見ると、川面に視線を移した。
 きっと、忘れたくない、場所なんだ。
 カミーユが静かに微笑んだのを感じて、口には出さないその言葉が、伝わったのを知った。
 忘れなければならないと、思っていた筈なのに。ジュドー自身にも、どうしてそんな言葉が沸き上がってきたのか、分からなかった。
 プルの事を、ハヤトの事を。死んでしまった名前も顔も知らない沢山の人の事を。悔しかった事を。自分の力のなさを。
 どんなに辛くても、忘れたくはないのだと。
「君は、泣いていたものな」
 その言葉に、今度はジュドーがカミーユを訝しげに覗き込んだ。
「泣いて、ないよ」
「泣いてた」
「覚えてないんだろう?」
「あれ…何でだろうな……でも、君は、泣いてたよ」
 泣いてたのはあんたじゃないのか。そう言い返したかったが、胸が詰まって言葉が出なかった。
 覚えてくれていた。
 たったそれだけの事が、どうしてこうも、嬉しいのだろう。
 ジュドーは泣いてなどいなかった。涙など流してはいなかった。厳密な意味で言うならば、覚えているとは言えなかった。
 それでも、泣いていた、という言葉の帯びる意味が、流れ込んできて隙間を埋めるのを感じて。
 どうしてこんなに、やさしい人なのだろう。
 どうしてこの人だけが、決して埋まることのなかった隙間を埋めてゆくのだろう。
 この人がいなければ。この人がいたから。
 知らなくても良かった事も、知らなければならなかった事も、この人がいたから。

 俺は、この人の事を、好きなんじゃないだろうか。

 やはり、どうしてそんな言葉が沸き上がってきたのかはジュドー自身にも分からなかった。
 月明かりだけが川面を照らす。揺れてさざめく波間が白くきらめき、そのほのかな照り返しの光の中にその人は立っている。
 冷たく緩い風が、彼の長い前髪を、微かに揺らす。
 ぴっと張った清潔な印象の、青年らしい、彫りの深く骨高い眉のライン。長い睫の下の、深い深い、夜空の色の瞳。
 この色を知ってしまったから、忘れる事ができなかったから。
 知っていてくれたから。
 再び夜空を見上げると、星はまばらに、冷たい光を地上へと注いでいた。
 でも、この人が探しているのは、俺じゃないんだな。
 自分が彼に強く感じる特別さと、彼が自分に向けている感情には、大きな隔たりがある気がして、ジュドーはもうそれ以上は何も言わずに、首が痛くなるまで星を見上げ続けていた。

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