星をみるひと4
君が来てから、晴れの日が、増えた気がするよ。
晴れた日には、僕はここで星を見ているから。
微笑むと、とても綺麗だと思った。
とても柔らかい、笑い方をすると思った。
宵闇の川縁は大抵あまり風も強くはなく、月の白い光が雲の切れ間から差し込んでは隠れる様子すら、音であるかのようだった。
時折、車が近付き走り去るエンジン音が大通りから風に乗って流れてくる。
まるで夢を見るように、遠くを見つめるように、軽く伏せられた濃い蒼の眼は、月の白く冷たい光の下で、確かに美しかった。
「なんだかさ、変な感じがする」
ジュドーの呟きは、まるで独り言のようだった。目線は、空にぽかんと浮かぶ下弦の月に向けられたまま。
隣に立っていたカミーユは、その呟きに、首を軽くジュドーの方へと向けた。
「あの月にも人が住んでてさ、コロニーが浮かんでて、木星にまで人がいるなんて、こうやって見てると想像も出来ないのが、不思議だなって」
「そういうものさ」
微笑んで、カミーユは、悲しそうに少し眼を細めた。
「そんな想像をするには、遠すぎるし綺麗すぎる」
「月なんてシャトルで一日で着くのにね。目に見える距離から、離れられないんだなぁ」
「目で見ているんだ、当たり前さ」
「そりゃそうか」
あっさりと納得して軽く二三度頷いたジュドーを見て、カミーユは口許を緩め、ぷっと小さく吹き出した。
「あ、何がおかしいの、人が真面目に感心してるのにさ」
「素直な奴だと思って」
「どうせ単純だよ」
「そう悪くとるなよ、誉めてるんだから」
軽く眉を顰めて不平そうにむくれるジュドーを見て、カミーユの口許からは押さえてくぐもった笑いが更に漏れた。
面白くなさそうにぷいと顔を背けて、ジュドーは先刻と同じように月を見上げた。
『アステロイドベルトまで行った人間が戻ってくるっていうのはな、人間がまだ地球の重力に惹かれて飛べないって、証拠だろ』
そう言ったのは、ハマーン・カーン。
あなたは飛びたかったのか。
飛ぶ為には人のぬくもりはしがらみでしかないと言い、それでも、触れたかったのか。
大切な人のいない世界なんて、価値がないじゃないか。
どうして、一人で、飛ばなくちゃいけない。
何の為に、飛びたかったんだ。分かりたかったからじゃないのか。
今となっては、確かめる術もない。
ハマーンの意志を感じても、見えるわけでも、話せるわけでもない。ただ、感じる。
認識の届かない意識の奥深くでは話せているのだろうか。時々、夢を見る。だがそれも、それだけだ。ジュドーは起きている時のように自分の意識をコントロールして話したい事を考えて話せているわけではないし、ハマーンも喋るとは限らなかった。厳しく睨み付けてくるだけの時もあれば、不思議なほど穏やかに微笑んでいる事もあった。
彼女と自分の間にあったのは、埋めようのない激しい拒絶だった。
認められなかった。いくら求められようとも、彼女のやり方を認めてしまえば、それまでの全てが、無駄だった事になってしまう気がした。
そして、彼女の強い信念を覆す事も、出来はしなかった。
信じたいから帰ってきた人に、信じさせる事が、出来なかった。
伸ばした手は、届かなかった。彼女は手をとろうともせず、ジュドーを爆発に巻き込まぬよう離れて。
どうして、一人でいたくないのに、一人で死ぬんだ。
それはきっとジュドーと同じ理由からだったろう。ジュドーの手をとってしまえば、彼女の中で、彼女の為に戦った者達の死は、きっと無意味になってしまったのだ。掲げた理想を果たしてこそ、その為の死に意味が生まれるのだと。過ちの為に犬死にをさせたのだと、そんな事だけは、認める訳にはいかなかったのだろう。
惹かれる、というのは、結局どういう事だったのだろう。
ハマーンを「分かっていた」というのは、どういう事だったのだろう。
伸ばした手を、彼女は、とろうともしなかった。
分かるという事すら無意味なのではないか。手を伸ばしても、届きはしないのではないのか。
だからこそ、知りたいのかもしれない。
隣に立ち星を見上げる人は、何故ジュドーの手をとったのだろう。
仕事場から家へ帰る途中に三十分ほど。ジュドーは毎日、川縁で空を見上げた。
晴れた日には、カミーユが言葉通り現れた。曇りや雨の日には来ない。
最初のうち、ジュドーは一人で喋っていた。ブルドックに良く似た上司や同僚の愛妻弁当の手の込みよう、他愛もない話だった。
聞いているのかいないのか分からなかったカミーユは、次第に時々話に笑いを漏らすようになり、やがて相槌を打ち始め、そのうちにたまに自分の仕事やファの話をするようになった。
たまに、宇宙の話をする事もあった。月の話のように、漠然として抽象的な話ばかりだったけれども、不思議と心に素直に流れ込んできた。
カミーユとそうして話す時間は、驚く程に穏やかな気分になれた。不自然な程に自然で、とても心地良い時間だった。
彼を感じるのは、心地良い。
そこに理由はない、そういうものなのだろう。カミーユという存在を、心地よく感じているのだろう。
ジュドーといるのは、気持ちがいいんだよ。そんな事をよくプルが言い、惚れられたなとビーチャやトーレスに冷やかされていた。
こういう事だったのだろうかと、今になって思う。それは、恋とかそんなものとは全く別のものだ。
恋が、こんなに、穏やかである筈がない。
心地よくある事、綺麗だと感じる事。不思議ではあったけれども。
休日の百貨店は、流石に少々人が多く、混雑していた。
昼近くまで惰眠を貪っていたジュドーは、色々必要なものがあるとリィナに起こされて外に引っ張り出され、荷物持ちをさせられていた。
「後は、晩ご飯の材料かしら」
「そんなの近くの店で買ったらいいじゃないか、早く帰ろう」
両手にそれぞれ大きな紙袋を持たされ、ジュドーは少々うんざりした様子で不平を漏らした。
中にはフライパンやら組み立て式のスチールの棚、キャニスターや食器など、結構な重さの買い物が詰め込まれている。
「でもここの地下の食料品売り場、一回見てみたいんだけど…」
そんなジュドーの苦い顔を気にもかけず、リィナは飄々とした様子で側に飾られているエプロンに目を移している。
ジュドーがそれを見て半ば諦めて肩を落とし息を深くつくと、後ろから高い声がリィナを呼んだ。
「リィナじゃない、買い物?」
振り向くと、白い頬に薄いそばかすの浮いた、暗いブラウンの髪を長く後ろに伸ばした、歳の頃は十八九といった少女が立っていた。
「メリル、こんにちわ」
リィナも笑顔で挨拶を返す。ちらとリィナを窺うと、学校の友達よ、と説明が返ってきた。
「そちらの方…」
「ああ、あたしのお兄ちゃんよ」
「へぇえ、これが噂のお兄さん。初めまして」
噂?
軽く会釈をされて、引っ掛かりを感じながらジュドーは、少々ぎこちない笑顔を作り会釈を返した。
「リィナね、学校でお兄さんの話ばっかりなもんだから、どんな人かってみんなで話してたんですよ。こんなかっこいいって知ったら大変よ」
「んもう、普通よ」
「そんな事ないわよ、びっくりしちゃった」
笑い合う二人の話は長引きそうに思えた。横目で辺りを窺うと、パジャマ売り場の向こうに小さなカフェが見えた。
「こんな所で立ち話もなんだから、一休みしない?」
壊れやすい物が多いので床に下ろすわけにもいかず荷物を持ったままの腕も相当だるくなっていた。その気配が伝わったのだろうか、ジュドーの提案にリィナは少々思案顔をしながら頷き、メリルは嬉しそうに頷いた。
カフェの席に腰を下ろし、ようやく重さから解放された肩を揺すって息をつく。
注文を考えるのも億劫で、向かいの椅子に座った二人に合わせてブレンドを頼むと、テーブルに肘をついた。二人はケーキまで頼んだようだった。どれだけ腰を落ち着けるつもりなのか。
ふと、流れている曲が耳に入ってきた。随分と昔の曲なのか、ノイズがかなり混ざっている。
言葉はまるで紙コップに降り注ぐ終わりのない雨のように溢れ出す
言葉は滑らかに流れる、宇宙を越えていくかのように
悲しみの海、喜びの波は、開かれた僕の心に流れ込み、僕を癒す
古びたギターの響きは優しかった。頬杖をついたまま聴いていると、メリルとリィナの会話も途切れ、二人とも歌を聴いている様子だった。
「この歌、何てんだ?」
低く口ずさむメリルなら知っているかと思い、尋ねると、リィナが答えた。
「ビートルズよ、『ACROSS THE UNIVERSE』っていう歌」
「何だよ、ビートルズって。虫?」
ジュドーの疑問に、リィナは信じられないといった面持ちで、違うわよと強く否定を返した。
「ビートルズって、昔のとっても有名なバンドよ!この街の出身なのよ!お兄ちゃん何で知らないの!?」
「そんなの知らないよ」
リィナはセイラの所で趣味のいい音楽を随分と覚えたようだったが、ジュドーは音楽などとは無縁の生活を送っていた。
歌というものがある事を、この街に来てようやく意識したほどだった。
元々、大した好みがあったわけではない。好きという程好きだったわけでもない。
ただ、こんな事も忘れていたのかと、思う。こんな、当たり前のものも、忘れていた。
アコースティックギターの響きと高い歌声は、優しい。リィナの呆れ顔も、やさしい。
自然に頬が緩むと、それを見たリィナの呆れ顔も心なしか柔らかくなったように思えた。
リィナも、手が届かなかったものの筈だった。一度は諦めて。それなのにこうしてここにいて、笑っている。
苦労のかけ通しだったから、学校の友達と笑うリィナなど、見るのは初めてかも知れない。
まるで、奇跡だ。それは確かにジュドーの望んだものだった。それがこうして今、目の前にある。
「あたしね、この街の生まれだから、小さい頃からずっと聴いて育ったんですよ。両親もファンだし、街のあちこちでもしょっちゅう流れてるの。お兄さんも聴いてみて下さいよ、いい曲ばっかりだからきっと好きになるわ」
メリルの笑顔は屈託がない。明るい笑顔はとてもチャーミングだった。ああ、と答えてジュドーは軽く頷いた。
ずっとこの街にいた。それならば、対岸に突き刺さった巨大なコロニーも、きっと見ている。
そんなものを人はいつまでも鮮明には覚えてはいない。時が流れると共に少しずつ風化し、思い出に変わっていく。そういうものだし、そうでなくては生きてはいけない。
記憶の薄れていく事を悲しみながら、それでも新しいものを見るし、他愛のない事に笑う。そういうものだ。
記憶が生々しすぎては、語りたくもなくなる。
いつまで俺は、あの時の爆風を覚えている。悲鳴を、押し潰されそうな絶望を、いつまではっきりと。
「お兄ちゃん、具合悪い?」
顔を上げると、心配顔のリィナが覗き込んでいた。
「腹減ったから、俺も何か食べるもの頼めばよかったと思ってた」
にこりと笑って答えると、リィナは呆れ顔に戻ってため息をつき、メリルがメニューを渡してくれた。
忘れ去る事も出来ずに引きずって。
それでも、忘れたくないと、願う。
覚えていたい。確かにそこにいた人を。
誰かが覚えていなくては、いなかった事になってしまう、そんな気がした。
笑い声、地球の落とす影が、僕の開かれた耳に鳴り響き、僕を励まし、招く。
不朽の愛に限界はなく、まるで幾千の太陽のように僕の周りで輝き、呼び続ける。
宇宙を越えてゆくかのように。
歌は、やさしい。
歌を紡ぎ歌を愛する、人は、きっとやさしいものだ。そう信じてきた。信じている。
支えてくれた、沢山の優しさを、知っている。よく知っている人の身近な気持ち、見た事も会った事もない人の残した想い。沢山、感じた。
それを信じたかった、守りたかった、失いたくなかった。
それだけで、ただそれだけで。脇目も振らずに。
それでも、伸ばした手は、届かなかった。
夏が近付いてきた為か、日が長くなってきた。いつものようにジュドーは川縁に立ったが、まだ太陽は沈みきらず、夕焼けの緋色の光が川面をきらきらと不規則に照らしていた。
星が出ないうちは、来ないだろうな。
ふと、そんな事を考えたのは自分でも不思議だった。思えば、何故自分は毎日ここに来ているのだろう。
夜空を見上げるのは好きだったが、毎日川縁で見上げる理由もない。
ここに来れば、彼に会えるからだ。
明快な理由だったが、何故会いたいのかとなると、途端に茫洋としてしまった。
好きだから。言葉にすれば簡単だったが、どう好きなのかと問われると答えが出ない。
側にいなくても、彼を感じる事は出来るのだ。どれ程離れても、彼はいる。ずっといた。
会いたいと願うのは何故だろう。
会いたい、言葉にしてしまうと、違和感を感じた。それは強い願いだった。
自分が彼に持っている筈の理解とは異質の感情だった。
顔が見たい。声が聞きたい。笑った顔が好きだ。本当の事ばかりを言うけれども、優しいんだ。
ジュドーの知っていた彼は、やはり見つける事は出来なかった。それでも、知らなかった筈の彼にも、会いたいと今は強く願う。
気付いてしまえば、会いたくてたまらなくなった。後ろを振り返るが、並木の伸びきった濃い影の下に芝生が黒々と、ぼんやりと広がるだけだった。
どうして。
分からなかった。何故そんな事をするのだろう。
これじゃ、まるで、恋をしているみたいじゃないか。
あり得ない事だった。彼は男性だったし、男にしか見えなかった。他人の好みに口を出す野暮はしないが、そんな嗜好はなかった。
きっと勘違いをしているのだ。あまりに心地がいいから、隣にいるのが安らぐから。それを、何か他のものと混同しているのだ。
彼にはファがいる。ファには、幸せになって貰いたかった。
ファがいなければジュドーは死んでいたのかもしれない、少なくとも二度は助けられた命の恩人だったし、尊敬している。好きな人だった。
何より、どれだけの悲痛な願いがあったのかを、垣間でも覗き見たから。
帰ってきて欲しい、もう一度話したい。
他者の立ち入る隙などないような強くひたむきな願いを、見た。
それは、こんな何かの勘違いかもしれない不安定な気持ちとはきっと比較にならないだろう。
それなのに何故、二人は離れているのだろう。ここでカミーユと会って以来ずっと抱いてきた疑問だったが、聞くのも憚られそのままにしてきた。
カミーユもファを好いているのは、分かった。好いているというよりは、必要としているという感じかもしれない。
ファの事をたまに話す時のカミーユの表情は、少し眩しそうで、他のどんな時より柔らかかった。
どんな時でも一緒にいてくれた、誰よりも心を許せる人なのだろうから。その柔らかさも、見るのが好きだった。
とても自然だと思う。そんな風に誰かを強く想い、心が寄り添う事は、自然だと思う。
それなのに何故。
いつしか、日はほぼ落ち、川面は薄紫色に霞んでいた。紫紺に塗り潰されかけた空を見上げると、雲が多い。
今日は来ないかもしれない。そう思い、そろそろ帰ろうかと柵から手を外して振り返ると、カミーユが後ろに立っていた。
カミーユは何も言わず、ただ静かに、まっすぐにジュドーを見ていた。
いつからいたのだろう。気付かなかった。不意を突かれ、ジュドーの喉からは暫く言葉にならない低く短い呻きしか漏れなかった。
「今日はもう帰るのか」
少し眉を動かし、カミーユの表情は硬くなった。
聞きたい事を、察せられてしまったのだろうか。それとも、勘違いを本気ととられて。
喉の奥が乾いている。べとつく舌を動かして、ジュドーはようやく返事を口に出した。
「聞きたい事が、あるんだ」
「何だ」
いつものように、カミーユはゆっくりと足を動かし、ジュドーの隣に立ち、空を見上げた。
何処を、見ているんだろう。
分かりそうでいて、決して見えはしなかった。知っているものと良く似ているのに、何かが決定的に違う、そんな気がした。
知りたい、同じものを見たい。それは、強い願いだった。
どうしてなのだろう。
「どうして、ファさんと一緒にいないの」
責めるつもりなどない、ただ不思議なだけだったが、どうしても責めるような雰囲気は滲んでしまうかもしれない。
唐突で飾りのないジュドーの言葉に、カミーユははっきりと眉を顰めた。
「知らないよ」
「え…?」
「振られたのは俺の方だ。理由はファに聞いてくれないか」
カミーユの表情は、不愉快そうに歪んでいた。そこに感じられたのは、触れられたくない事に触れられた不快よりは寧ろ、何故、という焦燥だった。
「何で…そんなの、おかしいよ」
「俺は知らないって言ってるだろう」
「だってファさん、あんなに…」
「本人に聞けよ」
それ以上の言葉を遮るようにカミーユはジュドーに背を向けた。歩き出そうと軽く後ろに振られた右腕を、捕まえた。
それ以上何を言ったらいいのかも分からなかった。ただ、行ってしまって欲しくなかった。
振り返りきつく睨み付けてくるが、カミーユはその手を振り解こうとはしなかった。
いっそ振り解いて貰えたのならば、きっと諦められるのに。届かないのだと、諦められるのに。
「もっとちゃんと…話してよ、ファさんと」
「君には関係ないだろう。離せよ」
「だってファさん、あんなにあんたの事好きなんだよ、おかしいじゃないか」
「そんな事、君に言われなくたって分かってるんだ!」
月は雲に隠れ、弱い星の光だけが青白くカミーユの眼に滲んだ僅かな涙を照らしていた。
そんなに好きなのに、どうして。
何が悲しいのかもよく分からなかった。喉を震わせる潰れたような嗚咽は、自分のものではないようにすら思えた。ただ、胸の奥が痛く疼いて、息が詰まった。
悲しいというのは、こんな感覚だった。長い事、忘れていたような気がする。
「…何で、君が泣くんだ」
分からない。ジュドーは首を左右に軽く振った。涙が次々に溢れて、頬を伝い零れ落ちる。緩い夜風に、濡れた頬はすぐに冷えてしまう。
「好き、だから」
「……好き?」
それ以上言葉が出て来ずに、軽くしゃくり上げながら、ジュドーは俯いた。
カミーユの視線からは険しさは消え、代わりに強い戸惑いが表情に浮かんでいた。
「ファの事、好きだったのか…それなら、言った通り、俺の事は振られたんだから気にしないで」
カミーユの声は戸惑いの為か、少し掠れて震えていた。
違う。口に出したつもりだったのに、鼻声のそれは言葉として聞き取る事ができなかった。
顔を上げると、カミーユは少し心配げにジュドーの顔を覗き込んだ。
「知らなかったよ、そんなに好きだったなんて」
穏やかに呟いたカミーユの微笑みは少し眩しそうで、柔らかい。
違う、違うんだ。
激しく何度も首を横に振るジュドーを見て、カミーユの眉は再び訝しげに動いた。
「何が、違う…」
質問は途切れた。カミーユの腕を掴んだ手に力を込めて、引き寄せた。息がかかりそうな程近くに、鼻の頭がある。
突然の事態に、カミーユの眼は驚きに大きく見開かれていた。落ち着いた暗めの蒼の瞳。
綺麗な色だと思ったのと、唇が触れたのは、どちらが先だったのだろう。
温かくて、少し乾いたカミーユの唇に、軽く、触れただけだった。
「な、何で、生きてる間に、こんな出会い方をしなくちゃならないんです。敵になるっていうのは、殺し合う事でしょう」
「カミーユ、困らせないで。あたしは、アーガマにいたって、何もないから」
「僕じゃ、不足でしょうけど、守る位の事なら出来ます、それじゃいけないんですか」
「あなたって人は、残酷な位、優しい子なのね。でも、いつかあたしの心変わりの気持ちも…」
「分かりません、そんなの!」
「そうしないと、自分を殺してしまうような生真面目さに、取り憑かれるわよ」
「生真面目さに殺される…」
「貴様のようなのがいるから、戦いは終わらないんだ、消えろ!」
「俺を戦いに駆り立てたのは貴様だ、そんな事言えるのかよ!俺は貴様程、人を殺しちゃいない!!」
「俺は、人殺しじゃない」
「もし、このままアクシズがグラナダに落ちたら、僕の責任です。僕がハマーンを殺せなかったから」
「ハマーンが死んでもアクシズは落ちていた、気にするな。キュベレイを動けないようにしただけでも、カミーユは充分やった」
「でも、モビルスーツは直せます。ハマーンは、倒せば、直せないんだ」
「見つけた、お兄ちゃん」
やめてくれ、もう、やめてくれ。
流れ込んできて止められないのは、何故だろう。
どうして、見せるんだ。
「わかる、私が誰だか、わかる?」
あれは、ハヤト・コバヤシだ。何処か、空港のような場所。あの男は、金髪の背の高い男は。誰だ。
「カイの手紙にこう書いてありましたね、リーダーの度量があるのにリーダーになろうとしないシャアは卑怯だと。モビルスーツのパイロットに甘んじているシャアは、自分を貶めているのです」
「シャアという人がそういう人ならばそうでしょう」
「十年二十年かかっても、地球連邦政府の首相になるべきです」
「しかし私は、クワトロ・バジーナ大尉です」
「もしそうなら、それは卑怯ですよ、シャア・アズナブル、名乗った方がすっきりします」
ハヤトが目指していたものを、はっきりと知る事もできなかった。
彼は、何かを語るほどの時間も持てぬまま、去ってしまった。
彼が望んでいたもの、目指していたもの。
「人って、誤解を重ねて憎み合ったりしてしまうんですかね」
「違うね、先が見えてる人と、見えてない人がいるって事。一生懸命すぎると、何にも見えない時があるって分かったのよ、あたし」
「ええっ…へぇ」
「ほうら、あたしを馬鹿にした」
「違いますよ、感動してんです。人って、絶対に共感できるって。でも、それには時間が必要です。一人二人が相手じゃないから。…でもね、全ての人達との共感が、得られる時代が来たら、死んでいった人達にも、何処かで巡り会える、そんな気がするんです」
「苦しくはないか」
「いえ、でも、何度味わっても嫌なものですね、この感じ」
「一昔前の人々は、この何倍ものGに耐えながらそらに出た」
「知っています」
「彼らはそらにこそ希望の大地があると信じた。自分達をそらに追い遣った地球のエリート達を憎む事より、その方が余程建設的だと考えたのだ。地球の重力を振り切った時、人は新たなセンスを身につけた。それが、ニュータイプの開花へと繋がった。そういう意味では、確かにそらに希望はあったのだ」
「よく分かる話です、僕もその希望を見つけます。それが今、僕がやらなくちゃいけない事なんです」
それは、夢だ。
あまりに遠くて美しすぎて、届かない。見上げる月のような、夢だ。
「どうして…」
頭を離し、手も離した。カミーユの表情は硬かった。そこには怒りのような激しいものはなく、ただ、ひやりと冷たく鋭い、ざらついた感触だけがあった。
「あんたは、どうして、あの人を捜してるんだ」
「…君には関係ない」
「だって、あの人は、隕石なんか落として…」
「君なんかに何が分かる!」
カミーユの声は厳しく鋭かった。
立ち入る事を拒絶するならば、どうして見せるのだろう。分からなかった。
「あの人を、信じたんだ…あの人が見たかった世界を、僕も、見たかったんだ。その為になら、僕は何だってするって…人殺ししか出来なくても、それが必要ならしようって…」
頬を零れ落ちる、涙。
悲しみだけが、流れ込んでくる。ただ悲しくて、それだけで、それなのに、それだから、待っている。
何故。カミーユも、分からないのだ。だから答えを探して。
知っている声だった。何かを堪えるようなカミーユの声の響き。それは、あの頃聞いた、あのカミーユの声だった。
見つけた。ようやく、見つけたのに。
「何も、知らない癖に…」
踵を返し背中を見せて歩き出したカミーユを、今度こそ追う事は出来なかった。
あんたが、好きだよ。もう泣かないで欲しいのに。
言葉は音にならず、喉の奥に飲み下される。
もう伝える事は、出来ないのだろうか。
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