星をみるひと5
「教えてよ……分からないんだよ、ねぇ、ファさん」
感情を顔に出しているつもりはなかった。それでも、モニタの向こうのファは強い困惑を面に浮かべていた。
落ち着いてきちんと説明して、そんな声が聞こえる。
食いしばった奥歯から力を抜いたら、止めた涙がまた溢れてきそうな気がした。
どうしてそんな事が聞きたいの。そう問われるだろうと思っていたのに、その言葉がファの口から出る事はなかった。
ファさんは知っているんじゃないか、全部知っているんじゃないか。それなのにどうして、一緒にいないの。
ファさんは、カミーユの事だったら、感じるし分かるんじゃないか。
不思議と、悔しさはなかった。それはそうであるべき事だったし、自然だと思った。
どんな状態でも、きっと二人でいるのだろうと思っていた。カミーユとファは、二人で、二人でいられたら、どんな状態でだってきっと幸せなのだと。
側に居たいと強く願ったから、壊れたメタスで、何処に流れ着くのかも分からなかったのに、ファはカミーユの所に帰る事が出来たのではないのか。
頼る人もないダブリンで、忙しさと心労からすっかり窶れて、それでも側に居続けたのではないのか。だからカミーユは、戻ってきて。
強い願いが届く、叶う。それはどんなに素晴らしい事だろう。願っても叶わない事の方が、多すぎるのに、叶えた。
心の強さってそういう事だろう。そう思う。
それは美しいだけではないだろう。思いこんでいたり、思い違っていたり、そんな事も沢山あるだろう。
でも、ファはカミーユの事ならば、きっと分かる筈なのだ。
側にいてあげて欲しい。そう思う。
ファがカミーユの隣にいてくれたなら。カミーユはきっと幸せだし、ジュドーだってきっと勘違いを勘違いときちんと悟って、川辺で隣に立っても、穏やかな気持ちになるだけに戻れる。
隣に立って、少し話をして。それだけで良かった筈なのに。満ち足りて、穏やかで、その方が良かった筈だ。
あんな場所は他にはない、そう思う。他にはいない人だ。他に、あんな人はいない。
隙間を埋める言葉を持っている、ただ一人の人だ。言葉すら、いらないのかもしれない。ただ、声が聞きたいから。声が好きだから。
不自然だ。違う、特別だ。あそこに、居たいのだ。
願っても叶わない事の方が多い。それでも、どうしても叶えたい願いがある。
ようやく見つけたものを、失いたくない。それは、強い願いだった。
あんなの治ってるって言えないって、どういう事なの。
どうして、離れるの。折角戻ってきたのに。
ねぇ、ファさん。どうして。
涙の跡が頬に残り泣き腫らした目をしたまま玄関のドアを開け入って来たジュドーを見て、キッチンで洗い物をしていたリィナは、怪訝そうに眉を顰めたけれども、おかえり、と静かに言っただけで、洗い物に戻った。
心配をかけてはいけない。
頬を触ると、涙の跡が少々硬くがさついていた。きっとひどい顔をしているのだろう。
いつまでリィナに心配をかけてしまうのだろう。いつまで経っても、自分の事すらままならないで。
玄関のドアを閉め、洗面所へと歩いて、照明を点けて蛇口をひねった。
熱が篭もり火照った手に、勢いよく流れるひやりとした水が気持ちいい。
少し、落ち着けたような気がした。水だけで簡単に顔を洗うと、台所へと戻る。
「お兄ちゃん、また電気点けっぱなしよ」
目が合うなり、フライパンの中の炒め物を皿によそっていたリィナは高い声でそう言い放った。振り向くと、洗面台の照明が灯ったままになっていた。
「あ、ごめん」
「もう、何度言えば直るのかしら。ちゃんと消してきてよ」
それこそ昔から毎日注意されているが、電気を消し忘れる癖は直らない。リィナがこまめに電気を消すのが習慣づいているように、ジュドーは電気を点けっぱなしにするのが習慣づいているかのようだった。
洗面台まで戻り照明を消して戻ると、食事の用意が終わったのか、テーブルには食事が並び、リィナは席についていた。
「食べたくないかもしれないけど、食べないと駄目よ、ご飯にしましょう」
リィナの声は穏やかだった。僅かに口の端を上げ、目を細めて微笑む。
いつまで、リィナに甘えてしまうのだろう。心配をかけて、気遣いや優しさに甘えて。
駄目な兄貴だ。またそう思う。本当は、甘えさせてやらなくてはならないのに、助けられてばかりで。
「勿論食べるよ、お腹空いた」
つられるように浮かべた笑みは作ったものではなくて。本当に、嬉しかったから。
一言一言を、まともに受け止めて、鋭さに胸を抉られて。
自分の口から出た言葉にすら、胸を抉られて。
目を背ける事を知らない。逃げる事を知らない。本当の事ばかりを口にする。
血まみれで、痛みのあまりに痛いという感覚すら麻痺して忘れてしまうほど。
流れ込んだのは、抉られる痛み。薄らがぬままに抱え続けて、それなのに、どうしてあなたは目を開けた。
どうして立って、穏やかに少し哀しそうに微笑んで、知りもしない他人の隙間を埋めてゆく事が出来る。
忘れられない痛みを、忘れられない夢の美しさを思いながら。信じたものを、今も信じ続けようとして。
「カミーユはね、誰に命令された訳でもないのに戦ったのよ、世界を救えると信じてね」
それでも、あなたは、叫んだのか。
俺は人殺しじゃない、と。
見つけたものは、見つけたと思えばすり抜けて掌から零れ落ちる。まるで最初からなかったかのように。
幾度も繰り返してきた事だ。
いくら失くしたくないと願っても、願いは叶わない事の方が多くて。
それでも、見つけた事を忘れなければ、それは確かにあった事になるのだと、そう信じているから。
忘れられないのではなく、忘れたくないと強く願っているのならば、それがどれだけ痛くても、望んだ事なのだから。
自分の力で、願いが、届いているのだから。
三日後、会う約束をしたファを待って、ジュドーは駅の改札の前に立っていた。
おとといも昨日も晴れていたのに、カミーユは現れなかった。
彼にとっては、星を見上げる場所など何処でも良いのだから。顔を合わせたくないと思われれば、ジュドーが現れそうな場所になど来る筈もなかった。
嫌われちゃったかな。そんな単純な言葉で言い表せるとは思わなかったが、単純なだけに力の強いその言葉は脳裏にこびり付いて離れなかった。
それなのに。それでも、その人は隣にいて、やはり初夏の明るい色の空を見上げ、まだ出ぬ星を探していた。
あんなに怒って。不躾にあんな事をして、きっと覗かれたくはないものを見た。嫌われたって仕方がない。それなのにどうして、いなくならない。
午前十一時半の駅は、人通りもまばらで閑散としている。今日も晴れていた。太陽はもうずいぶんと南に高く昇り、鋭さを増した陽光は夏が近い事を感じさせた。
通りを見やると、道沿いに植えられた木々はすっかり濃い緑色の葉を茂らせている。あまりそんな事は気にかける方ではないし、新しい環境に馴染む事に忙しかった為かぼんやりとしか思い浮かべられないが、この眺めは少し前はもっと淡い桃色をしていたような気がする。
しばらくそのまま外を眺めていると、そのうちに改札から出てくる人の波が短く押し寄せた。
到着したのだろうか。忙しなく改札を潜る人々の中から目的の顔を探す。人の波が切れる頃、改札を通ったファが小さく手を上げたのが見えた。
ジュドーも軽く右手を上げて挨拶を返す。
「もうすぐお昼ね、何か食べましょうか」
「そうだね、ファさん何が食べたい」
「あら、あたしの方がきっとこの街の店は詳しいわよ、良い店があるの」
歩き出したファに早足で追いついて並ぶ。ファは淀む事なく裏通りへの道を選んで歩いていった。
確かに、ジュドーはこんな道は歩かない。用事がない。
「何で詳しいの」
「前にね、住んでたのよ、カミーユと」
照れくさそうにファは笑った。車のエンジン音や人の行き交う気配は裏通りに建ち並ぶ建物に阻まれ、もう随分と遠い。日陰になりひやりと湿っぽい石の壁のせいだろうか、日射しも表通りよりは心なしか和らいでいるように思えた。
やがてある看板の前でファは立ち止まり、入り口のドアを押し開けた。暗い色の石の外壁のその建物は、看板を見ると確かにレストランのようだった。
ファに続いてジュドーも中に入ると、人気はない。昼時だというのに他に客はいなかった。ドアを開けた時に鳴ったベルの音にウエイトレスが一人奥から出てきて、二人は奥まった席に案内された。
店の中は外の光が入らない造りになっていた。橙色の照明だけが柔らかく店内を照らしている。
出された水に口をつけると、ファはすぐにテーブルにコップを置いた。カタ、という堅い木の音は何故だか耳に痛く響いた。
「分からなくなったんだわ、いいえ、最初から分からなかったのかも」
テーブルの上にセットされたメニューを手にとりながら、ファは口を開いた。
目線はメニューの上。
「……もしかしたら、分かったから、なのかもね。もう分からない事だわ」
「何でさ、ファさんには分かる筈だろう」
差し出されたメニューを受け取って、メニューを受け取るには相応しくない憮然とした顔でジュドーは答えた。
次に出る言葉をジュドーは待っていたが、ファがまたコップを手にとって水を飲んでいる間に、ウエイトレスが注文を取りに来た。
注文をメモしたウエイトレスが奥に下がると、再び沈黙が流れる。
「ここね、カミーユとよく来たの」
ファの視線はどこか遠い。まるで昔の事を話してるみたいだ、とジュドーは思った。
昔の事は、諦めてしまった瞬間に昔になる。そう思う。諦めてしまったのだろうか。どうして。
「誰も知らない、いい店を見つけたって喜んで……そういうの好きなのよ」
「楽しかったんでしょう、一緒に、見つけて」
「ええ、でもね、分かってしまったから」
何が、という問いにファは答えを返さなかった。何かを堪えるように目を伏せ、口の両端を無理に上げる。
ファのそんな顔は見たくなかった。そんな顔をしなくてはならないなんて、不自然だ、そう思った。
「俺が口出しする事じゃないんだろうけどさ、ファさんもカミーユも、一緒にいたいんじゃないか。それなのに、おかしいよ」
「そうよね、おかしいわよね、でもね、一緒にはいられないって思ったの」
「どうして」
伏せていた目を上げて、ファはジュドーをまっすぐに見た。
しっとりと深い黒い色の大きな瞳の光は、はっきりとしている。
「カミーユ、誰にも言わなかった事を、あなたになら話すのよ。あなたなら、分かるから。覚えてない筈なのに感じるのよ。そういう分かり方をしているんだわ」
違う、それはきっと、違う。ジュドーは首を横に振った。
そんな分かり方、本当はおかしい。
「あたしに話さないのは、あたしが分からないからだって、いつ頃からだったかしら、分かったの」
「そんなの違うよ、ファさんはカミーユの事一番知ってるし、カミーユの事なら感じるんじゃないか。それに、そんな分かり方と好きって違うでしょう、全部分かってどうするの。全部は分からなくたって……好きになれるじゃないか、分かったからって好きになれる訳じゃないでしょう」
今度はファが、軽く首を横に振った。
「カミーユは、聞いて貰いたかったんだと思うわ。分かってくれる人に。それに、あたしが我儘なのよきっと。何処を見ているんだか分からないのが、耐えられなくなったの」
あぁ、まただ、またこの科白。
見ているのに。きちんと見ている筈なのに。
俺は知らない、と声を荒げたカミーユの強い焦燥が実感となって胸に浮かぶ。
「カミーユは、ちゃんとファさんの事、好きなんじゃないか……どうして、そんな事、言うの。ちゃんと見てるよ、俺には分かるよ」
「それでもね、別の所を見ているっていうか、あたしだけ見てないって思ったの。欲張りなのね。またあたしの名前を呼んでくれるようになって、それだけで充分な筈なのに、あたしの名前を呼んでくれなかった頃みたいに何処を見ているのか分からない眼をするのが、たまらなかったんだわ。治った筈なのに、まだそんな眼をするのかって」
「好きなのは、ファさんなんじゃないか、それじゃ駄目なの、どうして何処を見てるか分かんないとか、そんな……」
今度は無理にではなく、ファは柔らかく口の端を上げて、微笑んだ。
「あんなにたくさんのものを抱えたカミーユに他のものを見るななんて、無理な話なのよね。分かっている筈なんだけど、やっぱり駄目だったの。あたしには、分かれないんだわ。自分勝手で、嫌な女なんだわ」
「違うよ……そんな事ある筈ないよ、でも……」
無理に笑われるより、自然に笑われた方が、胸が痛いのは何故だろう。
どうして笑って、そんな事を言うの。
続ける言葉が見つからないままコップの水を一気にあおると、ウエイトレスが注文した料理を運んできた。
二人とも俯いて、黙々と料理を口に運ぶ。
柔らかくジューシーなチキンソテーは、確かにこんな寂れた客のない店の料理とは思えないほどの出来映えで、普段ならば夢中になって平らげてしまいそうな味だったのだが、味気なく口の中でもさつくだけだった。
「あたし、嫌な女なのよ」
料理に目を落としながら呟いたファに、ジュドーは頭を上げて口の中のものを飲み込み乍ら、二三度首を横に振ってみせた。
確かに、シャングリラから出港したばかりのアーガマで、カミーユと離れる事を恐れて不安定な精神状態だったファが周囲に不安をぶつけるのをうるさいと思った事はある。
でもそれも、今になってみれば充分に理解の出来る事だったし、その時のファの気持ちを考えれば当然ですらあった。寧ろ、ジュドーやエルが、何も知らなかったとはいえ無神経で配慮が足りなかったようにも思える。
ファは一生懸命だっただけではないか。懸命にカミーユを思っていただけではないか。
「昔、ロザミィって子がいたの。綺麗で、きっとあたしより年上だったのに、まるで子供みたいでね。シンタとクムと仲が良くって、一緒に遊んだりしてたのよ」
ナイフとフォークを持った両手を止めて、ファは楽しかった事を思い出すみたいに、穏やかに微笑みながら呟いた。
「突然現れて、カミーユの事、お兄ちゃんって言い出すの。変な話でしょう。ティターンズの強化人間だったの。何でなのかは知らないけど、カミーユの妹だって刷り込まれてたのよ。でもカミーユ、それでも、妹だって」
自分を「お兄ちゃん」と呼ぶ、知らない女性。
無邪気な子。
どうしてファはそんな話をするのだろう。ジュドーはどうしたって、プルの事を思い出してしまう。これはファの話で、カミーユの話なのに。
「ロザミィ、そのうちに自分の事を思い出して、ティターンズに帰ってしまったのよ。エマさんが…上官がね、あれはティターンズの強化人間だって、ライフルを撃つのを、あれはロザミィだからやめてくれって、言うのよ。あたしは、ほっとしてた。だってカミーユはおかしかったもの。突然現れた女の人にお兄ちゃんって呼ばれて、その人の事、本当の妹みたいに言うのよ。おかしいわよ。全然知らない人なのに、放っておけなくなって、あたしには分からない事を分かってるみたいに。あたしには分からなかったから、いなくなってくれた、って思った。カミーユは泣いてたのに、カミーユがあたしには分からない理由で泣いているのが怖かったから、分かれないのが悔しかったんだわ、ロザミィがいなくなって、ほっとした、行ってくれたって、いなくなってくれたって思った」
ろくに息も継がずに一気にまくし立てたファの黒い大きな眼からは、涙がこぼれていた。それでも、ファは微笑んでいた。
どうして笑ったまま、泣くの。もういいよ。
言いたかったのに、ファがまだ何かを続けようとするので、ジュドーは何も言えなかった。
「あたし、酷い事を言ったわ。強化人間もニュータイプも、そんなもの初めからないのに、そのせいで戦争が起こるって……ロザミィは何も分からなかったのに、細胞までいじられて、何も分からなくなって、それなのに。カミーユ、殺してしまったのよ、敵になってしまって言葉を聞いてくれなかったロザミィを。その後でカミーユ言ったの。強化人間もニュータイプも、出来るのは人殺し位だって。あたし、取り返しのつかない事を言って。カミーユは笑いながら言うのよ。あたしには分かれないから、取り返しのつかない事を言って……」
ファは泣いていた。ぽろぽろと零れる涙を拭いながら、肩を竦めて泣いていた。
違う、それは違う。そう言いたかったが、何を言ってもファを納得させる事の出来る言葉は持ち合わせていないようにも思えた。
例え分かれたって、分かろうとしなかったら、すれ違うんだ。その言葉はあまりに感覚的すぎて、誰にも伝わらないような気がした。
「本当の、事じゃないか。ニュータイプも強化人間も、人殺し位しか出来なかったって。ニュータイプなんてよく分からないものの為にしなくていい戦争が起きて。結局何も出来やしなかった。本当の事だよ」
「あなたが、そんな事言わないで……あなたが違うって言ってくれなかったら、他に、カミーユに違うって言ってあげられる人が、いなくなってしまうもの……そんな事、言わないで」
持ったままだったフォークを皿に置いた。カチリ、と鋭い音だけがファの啜り泣く声を遮ったが、すぐに消えてしまって、再び耳には顔を両手で覆って啜り泣くファの声が響いた。
「酷い事を言ったって、それはもう、昔の事じゃないか。今はそう思ってないなら、それでいいじゃないか」
「あたしは……大事な事を分かれないし、それをカミーユも知ってるんだわ……だから話してくれないのよ。カミーユは治った筈なのに、話してくれなくて。きちんと結婚しようって、言ってくれたのよ。でもね、あたし、出来ないって言ってしまった。話してくれないのを、なまじ分かるから、耐えられなかった。嬉しかったのに……そうしたいって、思ってたのに」
どうして。
どうしてファも、カミーユも、そんなに自分を責めて。
許してあげてほしい。そうでなかったら、そんな理由ですれ違ってしまったら、あんまり悲しいじゃないか。
誰が悪かったわけでもないのに。もう終わった事なのに、諦められないから昔にはならなくて。
諦められないほど好きなのに、諦められないから、すれ違うなんて。
そんなのあんまり、ひどいじゃないか。そう思った。
「……カミーユが探している人が誰なのか、分かってしまったんでしょう」
脇に置いていたハンドバックからハンカチを取り出しながら、ファはそう口にした。
やっぱり、ファさんには、分かるんじゃないか。そう思ったけれども、口には出せなかった。
「どうして分かるの」
「なんとなく……なのよね。あなたには、分かってしまうんだろうって、思っていたの。カミーユは、あなたに知って欲しいんじゃないかって」
頬に残った涙をハンカチで拭いながら、ファは軽く微笑んだ。コンパクトを開いて鏡を覗き込んで、少しびっくりとした顔をする。
「ひどい顔だわ。ちょっとごめんなさい、お化粧直してくるわ」
バックを持ってファは席を立ち、レストルームと書かれた真鍮のプレートが鋲打たれたドアの中に入っていった。
クワトロ・バジーナと呼ばれた人の事を、ジュドーは知らないに等しい。
グリプス戦役で百式に乗っていた人。ダカールで演説をして、世論をエゥーゴに傾けた。グリプス2でのコロニーレーザーを巡る攻防で行方不明になった。
そして、その後、ネオジオンの総帥、シャア・アズナブルとして現れて、地球にフィフス・ルナを落として、アクシズも落とそうとした。
そんな誰でも知っているような事しか、知りはしない。
赤い彗星、アムロ・レイ、ブライト・ノア。誰でも名前を知っているような有名人だ。
ブライトはともかく、他の二人については、世間の人が有名人について知りうる程度の知識しか、持っていない。
ネオジオンの蜂起、それに続く地球への隕石落としの知らせは、木星にもすぐに届いた。ジオンの残存勢力は地球連邦政府の手を逃れる為にアステロイドベルトや木星圏にも数多くいたから、当然緊張が走り、周囲は騒然とした。
シャアという人が何を思ってそんな事をするのかは分からなかったが、許容出来る事ではなかった。
どんな地獄が隕石の落とされた先に生まれるのか。地球にはリィナがいる。
しかし、やはり何も出来はしなかった。あまりに遠すぎて、何かをしようとしても何も間に合わないだろう事は明白だった。
知らせを聞き、顔色を変えて地球に帰る手続きをとろうとしたジュドーに、ルーが、間に合う筈がないでしょうと叫んだ。
ルーだって知っているのだ、そらが落ちるというのがどれだけ恐ろしい事なのかを。
自分の力や限界を知り、やるべき事を考えるべきだった。ごめん、と謝ると、ルーは首を軽く振って笑った。
そういう所、好きなのよ、ほんと。悪戯っぽいルーの笑みは、やはりどこか寂しそうだった。
演説も見た。ジュドーには、分からなかった。
地球連邦政府に対する怒り、歯痒さ、それは確かに強く持っているものだった。
それでも、その為に人が大勢死ぬのも厭わないとは、とても思えなかった。
例えばハマーンが言った「地球にしがみつく馬鹿共」とは、誰を指していたのか。権益を占めようとし、贅沢な食事をして煙草を嗜む、政府や軍の上層部の人間の事ではなかったのか。だからハマーンは、そんな人達が数多く潜んでいたダブリンにコロニーを落とした。
地球ではタマンとアヌが、今もきっと漁をして兄妹力を合わせて暮らしているだろう。
マサイは、まだ死んだ恋人を忘れられずに日々を暮らしているのだろう。
そんな人まで死んでいいとは、思えなかった。
ただ、何を思っても届かないし分かる筈もない距離があった。
やがてすぐに争乱は終止符を迎え、リィナが生きて元気でいる事に心底安堵を覚えて。
遠い出来事でしかなかったのだと思う。手の届かない場所で、リィナを失ってしまうかもしれないという危機感にしか、実感はなかったのだと思う。
もう冷めてしまったソテーに再びナイフを入れ、口に運んだ。美味しいのだろうけれども、やはり口の中でもさつくだけだった。
ファはすぐに戻ってきた。水気が軽く残ってしっとりとした頬は穏やかで、気持ちも幾分落ち着いたのだろうという事が知れた。
「立派な人だったのよ。クワトロ大尉。素晴らしいパイロットだったし、本当に地球の事を考えてた」
眼を伏せて、そう切り出したファも、ナイフとフォークを持って再び食事を口にし始めた。
暫く、二人とも黙って食事を続けた。やがてジュドーが皿の上のものを平らげてナイフとフォークを置くと、ファもそれに倣って、テーブルの隅に置かれたナプキンを一枚取り出し、口の周りを拭った。
「いつも、苦しんでた。連邦政府は勿論、エゥーゴの上層部だって、あまり耳を貸してはくれなかったから。出来る範囲で出来る事をしてたんだと思うわ。正しいって思えたのよ。人は宇宙に出る力があるんだから、自分の力で宇宙で生活して、疲れ切った地球を休ませてあげるって。その為に戦ってるって信じてたし、そうだったって思う」
その通りなのだろうと思い、ジュドーは軽く頷いた。
「グリーンノア、あたしとカミーユが住んでたコロニーなんだけどね、そこからカミーユを連れ出した人だったの。過去のある人だから奥歯に物が挟まったみたいな言い方をする事も多くて、歯痒かったみたいだし、女の気持ちなんか全然分からない人でね、そのせいでカミーユにとって大切な人が敵になってしまったりして。確かにいい所ばかりではなかったのよ。それでもやっぱりカミーユ、大尉の事を、尊敬してたのよ。昔みたいに、一緒に学校に通って、そんな風に戻れるわよねって言ったら、するべき事が分かってきたから昔には戻れないって言ったわ。死んでいった人達は世界が救われるって信じて死んでいった、僕もあなたを信じますから、そう言ったわ。信じてたんだわ、大尉の示した方向に向かって進むのが、世界を救う事に繋がるって。大尉は、それが出来る人だって、その為に戦いたいって、信じてたんだわ」
信じていた。ファはもう、諦めてしまったのだろうか。やはり、どこか遠くを見ながら淡々と語っていた。
「その後は、あなたも知ってる通りよ。大尉はどこかにいなくなってしまって、カミーユは外の世界の事を見なくなってしまった。治っても、何処か遠くばっかり見て。まだカミーユの中では何も終わってないんだって、きっと大尉の事探してるんだって、思ったの。でも、大尉を次に見た時は、大尉は名前をシャアに戻してて、隕石を落とした。あたしは、ひどい裏切りだって思った。カミーユはまだ信じているのに、どうしてこんな酷い事が出来るのかって思った。でもカミーユは、何も言わないで、大尉は死んでしまったのに、まだ大尉の事を探して……」
言葉を詰まらせたファに、ありがとうと言うと、ファは唇を噛んで、それでも微笑んで、首を横に振った。
「あたしも、話してしまいたかったの、きっと。どうしてなのかしらね、あなたなら分かってくれるって、そんな風にばっかり思われたら、大変よね」
「俺も、分かりたかったのさ、だから聞いたんだよ」
ジュドーが笑うと、ファもそれを見て静かに笑った。コーヒーを飲まない、と聞かれ、ジュドーが頷くと、ファはテーブルの隅に置いてあったベルを持ち上げて軽く鳴らした。奥から出てきたウエイトレスが注文を受け、皿を下げる。
急にテーブルの上はがらんとしてしまった。ファには、もう、戻る気はないのだ。カミーユがするべき事を悟ったから戻れないと言ったように、そういう風に、理解してしまったのだと思った。
だからきっと、諦める為に、話したのだ。外に出して、形にして、はっきりさせて。
側にいてあげて欲しい。いて欲しい。今だってそう思う。
ファには、カミーユの側がやっぱり一番似合うと思う。
でも、それはもう、ファ以外にはどうしようもないのだろうし、ファにだってきっとどうすれば良いのかは分からないのだろう。
コーヒーが二つ、運ばれてきて、手前に置かれる。穏やかな気持ちになる香りだった。
少し甘くて、香ばしい、豆の香り。
「俺がさ、分かるからじゃなくって、カミーユの事好きだって言ったら、変かな」
唐突なジュドーの呟きは、独り言のようだった。視線は手に持ったカップの中。
「変よ、でも、カミーユが好きなのは、分かるわ。あたしだって大好きだもの」
目線を上げて照れくさそうに笑ったジュドーを見て、ファはおかしそうに声を立てて笑った。
ファと別れて家に帰り着き、ドアを開けていつものようにただいまと告げるが、いる筈のリィナの声は返ってこなかった。
不審に思い、あちこちのドアを開ける。最後に開けた自分の部屋の机の前で、ようやくリィナの姿を見つけた。
「ただいま、どうしたの……」
リィナは開けられたドアに目を向け、おかえり、とか細く呟いた。
「ねぇ、これ、飾りましょうよ。しまい込んでないで」
リィナは目を細めて微笑んで、そう告げた。手には、この部屋には一つしかない筈のフォトフレームを持っていた。
「しまってたら、何だか、見たくないものみたいじゃない。可愛く写ってるのに」
明るい声は、無理をしているようにどこかぎこちなかった。言葉が出て来なくて、ジュドーは首を横に振った。
「だって、しまってたら可哀想よ。まるで忘れたいみたいだわ」
「違うよ」
「あたし、酷い事言ったわ。プルに、お兄ちゃんの命を狙ってる強化人間だなんて……プルは、お兄ちゃんの事、好きだっただけなのに」
「違う!」
「忘れてしまったら、可哀想だわ!」
リィナが背負う事ではない。ジュドーが忘れなければそれで、きっと、プルはいなかった事にはならない。
そう思った。
忘れられないし、忘れたくない。
「沢山、あたしがいなかった時の事聞いたわ、エルやイーノに。プルの事も、沢山聞いたわ。なのにあたしはもう、謝れなくって……」
「違うよ……お前は何も悪くないじゃないか、俺が……俺の方が、酷い事一杯言って、何も出来なくて……」
リィナは激しく何度も首を横に振る。涙がぽろぽろと零れ落ちて、リィナが泣くところなど二度と見たくないと思っていたのに止められない事に、ジュドーはひどく焦りを覚えた。
どうして、誰も悪くなどなかったのに、自分を責め続けて。
優しすぎるから、悲しみ続けて。カミーユも、ファも、リィナも。
もう泣かないでほしい、悲しまないでほしい。
それなのにやはり、どうすればいいのかは分からなくて。
細い肩が震えているのが悲しくなって、リィナをそっと抱きしめた。すっぽりと腕の中に収まってしまう、そんな細い体で、泣かないで欲しかった。
「もう、いいんだよ、お前が泣かなくったって、いいんだ」
「だって、プルが、可哀想だわ……」
「お前は、忘れてないんじゃないか。プルの事、覚えてる。それで充分だよ。写真も、飾ろう」
「ごめんなさい……あたし……」
「もういいから」
震えるリィナの手から落ちそうなフォトフレームを受け取って、脚を開き、机の上に立てた。
久しぶりに見る、プルの、本当に楽しそうな笑顔。
やっぱりどこか忘れていたのかもな、と思う。こうして目で見て、ようやく分かる事は、確かにあるのだと。
ようやく微笑んで、それでも笑いながら泣き続けるリィナの肩に置いた手に、力が籠もった。
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