星をみるひと6

 少し雲が多い。上空は風が強いのだろうか、雲は早足に流れて、満月を隠しては通り過ぎていく。
 緩い波が河岸に当たり砕ける音に、今までは気付けなかった。
 並木が穏やかな風に揺すられて立つ、葉擦れの微かな音。
 こんなに、静かだったのか。
 もっと音があったような気がする。それは流れていたものだったのだろうか。あの人の持っていたものだったのだろうか。
 空を見上げる。月の光は白く眩しく夜空を照らして、弱い星の光は、かき消されてしまっていた。
 見えない星を探す。隣に立つその人と、同じ場所が見たくて。
 きっと、目で見る事は出来なくても、見える筈なのだから。
 かさりと、芝生の踏まれる音がした。
 振り向くと、その人は、そこに立っていた。ヘルメットを脇に抱え、くすんだ青のメッシュのライダージャケット。
 憮然とした表情は、蒼白い月の光に照らされていたけれども、硬さや鋭さはなかった。
「ファさんに、怒られたんでしょう」
「……君には関係ない」
「図星だ」
 いつかと同じ言葉。いつかと同じようにカミーユは少し唇を突き出して頬を軽く膨れさせ、それを見てジュドーは笑った。
「この前は、ごめん」
「いいさ。君はどうせ、何を言ったって、したいようにしかしないんだろう」
 一つ息をついて、カミーユはいつものように脚をゆっくりと踏み出し、ジュドーの隣に立って柵に軽く手を掛け、空を見上げた。
 知らない人の筈なのに、分かられている。
 それはきっと、ジュドーがこの人に知って欲しいと望んだからなのだろう。心のどこかで、自然に。
 覗かれたくはない痛みを、それでも、知って欲しかった人と、同じように。
「君はどうして、そこに居るんだ」
「居たいからだよ」
「どうしてずっと、隣に居るんだ」
 その言葉にジュドーはカミーユを見た。カミーユは空を見上げるのをやめ、ジュドーに首を向けていた。
「ずっと前からだ、気付いたらいつも居た。誰なのかも知らなかったのに」
 知っている眼だった。深い深い、夜空の蒼い色の瞳。
 その目線は確かにジュドーに向いていた。今まで、気付けなかっただけではないのだろうか、そう思えた。
「それは、こっちが聞きたいよ、どうして居なくならないの」
「居たいから、なんじゃないのか」
「どうして」
「理由が必要か」
 雲が流れ、月が隠れ、顔を出す。
 問いにジュドーは軽くかぶりを振った。
 言葉を飛び越え、分かる、ということ。それが、知らなくてもいい事だったのか、知るべき事だったのかは、分からない。
 それでも、この人がいたから、知ったのだと思う。
 どうして今まで分からなかったのだろう。この人は、いつだって、ここに居たのに。
 ジュドーの知っていたカミーユ、目を塞いでいたカミーユ。彼はここにいる。今なら分かる。
 何かが彼を変え、立つ力を与えた。それが何なのかは分からないけれども。
 手を伸ばせば届く距離に、いつでもいた。手を差し出せば、その手をとってくれる。
「一つだけ、思い出した事があるんだ」
 何、と聞くジュドーに、カミーユは答えの代わりに左手を差し出した。
「君は、俺の手を取った。そうしたら、忘れていた筈のものが見えた」
 あの日のように。吸い寄せられるように、ジュドーは右手を差し出して、掌を重ね合わせる。
 忘れていたもの。
 流れ込むのはやはり、体温ほどの生温いぬめる痛み、優しいから流れる涙、苦く眩しい湖畔、幾重もの甲高い叫び声、こだまする守りたいという声。
 その先、ずっとずっと奥に、それはあった。
「わざわざ見上げなくたって、あるんじゃないか」
 何だかおかしくなって、ジュドーはくすりと笑った。
「これは、君の持っているものだろう」
 カミーユもおかしそうに微笑んでいた。目線を合わせた手に落として、手は見ずに何処か遠くを見ている。
 でも、同じものを見ている。
 不安や疑問はなく、妙な確信だけがあった。
「あんたのだよ。見せてくれたのは、あんたじゃないか」
 ずっと、もう一度見たいと願っていた。こんなに近くにあったのに。
 目を灼くような剥き出しの太陽光、地球の作る影が、あなたを蒼く染める。
 恒星である筈の遠い星の熱は届かなくて、それでも冥いその真空は、遺された祈りに、届かなかった思いに満ちている。
 漂う隕石に一つ一つ名前はなくても、一つ一つ、違うもの。
 眩しくて、悲しいから暖かい、人の想いの満ち満ちた、そら。
「見たかったもの、見えたんだ」
「見えた、と思うよ。一人で、ずっと、見えなかったのに」
「そういうもんさ」
 はっきりと言葉にはならないものまでを、感じる事が出来るのならば。
 本当は言葉などいらないのだろう。不確かで、あやふやで、概念を形で縛るのに、すぐに形を変えてしまう、人によって形の違う、そんなものは。
 それでも。言葉を紡ぐ唇の動き、話す言葉を探す目線、語る声が、好きだから。あなたの、紡ぐ言葉が、好きだから。
 形にするのは、分かってほしいから、分かりたいからなのだと、思うから。
「君が、いてくれたから、見えたんだ」
「それはこっちの台詞だって」
 何故だかとても嬉しくて、ジュドーは口を大きく緩めて笑った。
 知るべきだったのか、知らなくてもよかったのかは分からないけれども、きっと知りたかった。
 あなたがいてくれたから、ということ。
「君は、僕が誰だか、分かるのか……」
 ここにいる、ということ。
「あんた、カミーユだよ。ここにいる」
 蒼白い月の光は、緩い風を照らし、頬に零れた涙を照らす。
 泣かないで欲しいのに、とは思わなかった。
 悲しみからではなく、悔しさからではなく、零れる涙もある。そんな簡単な事を、ようやく思い出せた気がする。
 濡れてなお真っ直ぐな眼は、確かにジュドーを見て、ジュドーと同じものを見ていた。
 意味は作っていくもの。価値は生じていくもの。それでもそこに、この人がいたから、知っていてくれたからこそ。


「カミーユはあたしの事を何でも知っている」
「知っている人がいてくれるから、生きていけるんだろう」


 痛みも、大切だと思った気持ちも、守りたかったものも。
 忘れる事なく、抱えても重さに潰されずに、前を向いて歩いてゆけるのならば。
 知ったものが、確かに今も、存在しているという事に、生き続けているということに、きっとなる。歩いている限りは。
 そう、信じている。


 キッチンのテーブルの椅子に腰掛けて、テレビのニュースをぼんやりと眺めて、紅茶を飲みながらビスケットを囓っていると、リィナがメリルに借りてきたというディスクをオーディオシステムにセットして再生を始めた。
 カミーユは空を見上げるのをやめてしまった。もう必要がないから。単純で明快な理由だったけれども、会う口実を失ってしまった。
 わざわざ会う必要はない。そう言われてしまえばそうなのかも知れないが、ジュドーは会いたかった。顔が見たかったし声が聞きたかった。
 口ではそう言ってもカミーユは、俺もバイクが欲しいなと呟いたら一緒に店でどんなのがいいかと考えてくれたり、時々夕飯を食べに来たりする。
 一人で適当に済ませてしまう、というカミーユの普段の食事がどんなものかは想像もつかないが、リィナの料理をとても気に入ってくれたようだった。食べに来る頻度は少しずつ高くなっている。
 ファさんが忙しくて構ってくれないから寂しいんでしょう、と軽い気持ちでからかったら、かなり力を込めて頭を叩かれた。口より手が先に出るのは、知らなかった。
 どこかもの悲しい響きのキーボードのごく短いイントロから、一転してギターの明るいコードが響き、高く柔らかい声が流れる。
 リィナは向かいの席に腰掛けて、コピーしてきたらしい歌詞カードの束を開いて、流れている曲について説明してくれる。
「この曲ね、メンバーのジョンが作っていたものだったんだけど、彼が生きてるうちには発表されなかったの。解散して、彼が死んでずっと後に、他の三人が集まって完成させたのよ。素敵な話だと思わない。残した曲とか思いが消えてしまわないで、仲間が残して、こうしてずっと生きているんだもの」

  僕のささやかな予定や計画は、忘れ去られた夢のように見失ってしまった
  僕が実際にしていた事柄は、全て、あなたを待つ為にあったように思える

「すごくいい話だし、すごくいい曲だ」

  恐れる事はない
  恐れないで

  愛よりも先に何かあると僕は考えて
  でも、心の中で、僕は更に望んだ
  僕が実際にしていた事柄は、全て、あなたを待つ為にあったように思える

  一人になる事はない
  一人にならないで


 本物の愛だなんて、そんな言葉は照れくさくて大仰で、自分にはとても似合わないけれども。
 まだきっと、きちんと見つかってはいないのだろうけれども。
 少しずつでも、近付いていけたら。

 きんと響くのに優しく震えるギターの音は、隣の人とどこか似ているからきっと好きなのだ。
 ぼんやりとそんな事を思いながら、ジュドーは手に持っていた食べかけのビスケットを口の中に放り込んだ。

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