Cherry blossoms, in the starry sky
冬の間は低く厚い雲がずっと立ちこめて、冷たくて細かい雨の日ばかりが続き、時によっては短く雪なども降ったものだから、ジュドーは管理など出来ない地球の気候というものがどういうものかをしっかりと思い知る結果になってしまい、陰鬱な空模様とそれを際だたせる暗くくすんだ石の街並みにいい加減うんざりとしていたのだけれども、滅多に顔を覗かせない日射しが、それでも春が近付くにつれて少しずつ柔らかく暖かくなる様子に、地球の愛される理由というのをまた一つ知ったような心持ちを覚えた。
三月半ばともなると、街の並木のいくつかが桃色の花を咲かせ始めた。中にはどきりとするような濃い桃色の花をつけた樹もある。リィナが、あれは桜よ、と言ったので、ジュドーは昔何かの番組で見た、一週間ほどで満開を迎え一気に散ってしまうという儚い花を思い浮かべたのだが。
一月が経ち、四月となってもその花は一向に散る様子がなかった。
花に混じり、先のあたりが濃い臙脂色を帯びた薄い若葉色の葉がかなり多く茂り始めている。ちらちらと花弁は散り、道のあちらこちらに落ちてはいるものの、その様子は昔番組で見たような幻想的な花弁の絨毯といった風情にはほど遠く、道行く人に踏まれ薄汚れた花弁がぽつりぽつりと落ちている様子はいいところ道ばたに落ちているゴミのひとつに過ぎなかった。
マージー河の河畔にもその樹は白樺や楓、楡に混じって植えられていた。
去年など毎日この河畔で同じ景色を見ていた筈なのに、こんな花が咲いていたなどという事は全く意識していなかった。
「こんな花、咲いてたっけ」
上を見上げ、癖なのだろうか、独り言のように呟くジュドーに、隣を歩いていたカミーユは目を向けた。
「咲いてたよ。桜じゃないか」
宵の口、陽はほぼ沈み、河口の方角の空に僅かに濃く灼けた赤茶けた残照の名残があるだけだった。
細い月は、錆びた紅色を帯びて低い空に浮かんでいる。
「桜ってさ、もっとすぐ散っちゃう花なんじゃないの?これいつまで咲いてんだよ」
「すぐ散る奴は種類が違うんだよ。それはニッポンの桜だろう。ソメイヨシノとかいう、あそこの国で交配された奴だよ。一口に桜って言ったって色々種類があるんだ」
「それにしたって差がありすぎだよ。しぶといんだね、ここの奴は」
呆れ半分感心半分といった様子で呟いたジュドーを見てカミーユはさもおかしそうに声を立てて笑い、足を止めて、星を見上げていた頃のような眼で、桜の花を見上げた。
「すぐに散っちゃう桜だったら、花弁が一気に散って風に巻き上げられて、花吹雪になるんだ。夜なんか、まるで、遠くにしか見えない星の中にいるみたいでさ。綺麗なんだけど。俺は、静かに咲いて知らない間に散ってるこっちの桜の方が、好きだよ」
しぶとく、当たり前の顔をして咲く桜の薄桃色の花はそれでも星の冷たい光を受けてぼんやりと白く柔らかく、樹下に立つカミーユを照らしていた。
どうしてこの人は、こんなに、綺麗なのだろう。
普段からいつでも意識している訳ではないのだけれども、折に触れて、思い知らされる。
ズボンのポケットに無造作に両手を突っ込んで花を見上げる横顔の輪郭から、首にかけての線はなだらかで丸いのに細く通っている。
長く濃い色の睫の下の、深い色の瞳ははっきりと力を持っている。
触れてみたいと思うのは何故なのだろうと、今でも思う。
そこに理由はないのだろうけれども。
知る事と愛する事は違うのだろうけれども、知ったものを愛してゆくという事は、ある筈だと思う。
見とれられているのに気付いたのか、カミーユはゆっくりと首を回して、ジュドーを見た。
「どうしてさ……」
「何」
「お前、まだ、その、俺の事、好き、なのか……」
「好きだよ」
さも当たり前のように軽く笑ったジュドーから、カミーユは眼を逸らして俯いた。
「何も言わないから、忘れたんだろうと、思ってたのに」
「だって、言われても困るでしょ」
「それは、そうだけど」
「困らせて会って貰えなくなるの嫌だし」
「そんな事、しない。大体にして……」
俯いたままのカミーユの靴の爪先が、芝生を軽く掻いた。
分かっている事だった。いなくなれる筈などない。でもそれは、意味合いの違う事柄なのだから、今口に出すべき事でもなかった。
しかし、どこから区別していいのか分からないほどに分かちがたい事柄である事も、事実だった。
そういう分かり方が出来るから好きなのか。何がいけないのだろう、とも思う。
「あんたは、どうなの」
「……何が」
「俺の事、好き?」
カミーユは押し黙って俯いたまま、軽く首を横に振った。
「……分からない」
そこには強い困惑があった。
正しい答えだとジュドーは思った。きっと自分にだって分かってなどいないのだ。
離れる事などないのだという妙な確信だけしか、確かだと思えるものなどない。
どんなになっても離れられないというのは、ある意味残酷ではないのか。そうも思うけれども、離れたくはないというのは、強い願いだった。
少し強い風が吹き抜けて、白い花弁が一つ二つ、ちらちらと揺れながら舞い落ちてきた。
この人がどうなろうとも、眼を背けたくはないと思っているのだ、きっと。そう思う。
「ちゃんと、違うって言ってくれないと、期待しちゃうよ」
「そう、だよな。でも、何でだろう、言えない」
少し強い夜の風はまだ冷たい。ジュドーが足を一歩踏み出すと、カミーユはようやく頭を上げた。
「好きだよ」
「……分からないよ」
「ほら、困るじゃないか」
「お前、男だし」
「そうだよ」
「なのに何で」
「理由なんかないよ」
肩に手をかけると、カミーユの体がびくりと震えた。
振り解かれはしない。妙な確信があった。こういうのはずるいのかとも思う。
「好きだって言って」
「……分からない」
「キスしていい」
「駄目じゃ……ない」
「好きって、言って」
カミーユが何かを言う前に、口を塞いでしまった。中途半端に上げられた右腕の手首を掴むと、微かに震えている。
夜風にすっかり冷えてしまった手を握っても、拒まれはしなかった。
認めたくないだけだ。逃げようとする肩を掴んだ手に力が籠もった。
耳の中に響くのは荒い息遣いだけ。受け入れているという事こそが、答えではないか。
嘘がつけたなら、と思う。カミーユが、嘘がつけたなら。きっと拒んでくれたろう。こんなのはおかしいと言ってくれたろう。
どうして、本当の事ばかりを口にするのだろう。
息苦しくなって唇を離すと、カミーユは俯いて、肩を激しく上げ下げして荒い息を吐いた。
「なん……で」
「……何」
「何で……俺…………好き、なんだろう……お前の事、好きだ……」
俯いたままのカミーユの声は、悔しそうでもあったし、今にも泣き出しそうに低く震えていた。
「やっと言ってくれた」
「……うるさい」
「もう一回キスしていい」
「苦しいから、嫌だ」
離せというので右手を離すと、避ける間もなくこめかみに軽く握った拳が飛んできた。
「あいたっ、何するの」
「うるさい、お前、生意気なんだ……自分ばっかり、何でも分かってるような顔、しやがって」
カミーユが顔を上げて、本当に悔しそうに言うので、ジュドーは何だかおかしくなってしまって、頬を緩めて吹き出してしまった。
「何がおかしいんだよ!」
「俺が分かるのは、俺がカミーユの事、好きだって事だけだよ」
「…そんなの……」
言葉を詰まらせてそっぽを向いたカミーユを見て更に吹き出すと、今度は額を掌ではたかれた。
額をさすりながら不平そうに呻くジュドーを面白くなさそうに一睨みして、カミーユは桜の木に向き直って、また上を見上げた。
散りもしないと思っていた花は、それでも大分花弁の目方を減らし、若葉に取って代わられている。
当たり前に咲いて、知らぬ間に静かに散る花。
華やかに一息に散ってしまう花よりも、そんな花の方が好きだと言った、そんな所がきっと好きなのだと思った。
またひらひらと花弁が一枚舞い落ちてきて、花は散ってもまた来年も咲くのだと、そんな当たり前の事が頭に浮かんで、ジュドーも不思議な心持ちで身じろぎもせず咲く桜の花を見上げた。
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