永遠の都3

 何かが急に変わってしまうという事は、なかった。
 ただ、感じる彼の気配は、より生々しく、彼の吐く息の匂いと温度を伴うようになったのかもしれない。

 目を覚ますと、すっかり太陽が顔を出していた。
 鋭い朝陽の眩しさに目を細めて、何かがのしかかり体を動かせない事にようやく気付く。
 肩口にジュドーの頭、胸の上に腕が投げ出され、右の腿を挟み込んだ彼の力の抜けた脚は思ったよりずしりと重く硬かった。
 首だけを動かして枕元に置かれた目覚まし時計を見ると、八時をもう大分過ぎている。肩で少々鼾混じりに寝息を立てている男は、とうに仕事に出ている筈の時間だった。
 肩をゆっくりと上げて静かに頭をベッドに下ろしてやると、ジュドーが目を開けた。
 寝惚けて半開きの眼はいつまでも夢を見ているように感じられて、何も言えなくなる。
「……ん、あ…おはよう」
 二、三度緩く瞬きをして、ジュドーはそう口を開いた。
 霞んで滲んだのは、明るい碧色。こいつは、どうしようもない程に、綺麗なのだ。そう思った。
「おはよう…………もう、八時、過ぎてるぞ」
 言われてジュドーはぼんやりと時計を見た。顔色が一瞬で青ざめ、急に跳ね起きる。
 裸のままでドアを飛び出して、電話に向かったようだった。
 カミーユも体を起こそうとした。腰の奥に鈍い痛みがある。その場所を意識すると、入り口の辺りにじくりと痺れのような痛みが広がった。
 腰から下が気怠く重い。体を起こして立ち上がり、歩こうとすると、内股を引きつれたような痛みが襲った。
 普段とらない無理な姿勢で普段使わない筋肉を使い、普段行わない運動を激しく行ったせいだ。そんな分析には何の意味もなかった。とにかく足を踏み出すのが辛い。
 ベッドの下に投げ出された服を拾おうと腰を屈めると、ずきりと鈍く痛む。
 こんな状態では、通勤など出来そうにもなかった。服をかき集めてベッドに腰を下ろすと、膝に肘を突き、思わず両手で頭を抱えてしまった。
 ファはよく平気な顔をしていたものだ。
 ふとそんな事を思うと、何故だかとても心細さを覚えた。
 気付くと、肩の辺りがぞくりとする。体は大分冷えてしまっていたようだった。一人になった途端に、そんな事が気になってしまうのは、どうしてなのだろうか。
 こうではなかった。
 何がなのだろう。その言葉ばかりが、繰り返し頭の中に響く。
「具合、悪い?大丈夫?」
 ジュドーが、ドアの向こうから頭だけを覗かせていた。
 顔を上げると、どうしても表情を硬くし眉を顰めてしまう自分に気付いた。大丈夫だと、笑えたら、いいのに。
「お陰様で、体中ぎしぎしいってる」
「……ごめん」
 本当に申し訳なさそうにジュドーは言うので、謝る事じゃないだろう、と吐き捨て、顔を背けた。
 望んだことだった。こうありたいと。
 だが、部屋に入ってきたジュドーが側に屈み込み、腰をそっと抱き取られると、そんなわだかまりもすっと溶けてしまった。
 匂いがする。汗の匂い。肌の匂い。
 分かっていた事だった。不自然だと。何があろうともカミーユは男でしか有り得ず、体は誰かを受け入れるようには出来ていない。
 それでもそれを望み、彼を感じる事に心が満たされる。
 首の付け根にかかる緩い息は、冷えた体を優しく温める。
 流れ込むのは熱っぽく、じわりと滲む想い。
 こうして、ここに、いてくれるから。それを望んでくれるから。
 それは確かなものなのだと、確かにこちらを向き、通い合うものなのだと、思えた。
「仕事、早く行かないといけないだろう」
「休んだ。病気かって聞かれたから、そういう事にしておいた」
「寝坊、したじゃないか。俺の事待たないで、早く寝ろよ」
「いつもは、目覚まし鳴る前に眼ぇ覚ましてるよ。なんだかさ……」
 首の付け根に彼の唇が触れる。そっと軽く、甘えるように。
「こんな、ぐっすり寝たの、本当に久しぶりだ」
 声が明るいのが、何故だか悲しく心細かった。その笑いは自嘲ともとれてしまう。それが、悲しかった。

 昔は差別や偏見もあったのかもしれないが、今現在において同性同士の恋愛や結婚は、地域によって多少の差はあるものの、大体に於いてはごく当たり前の事だった。
 ことこの土地は、昔、国という単位があり国境線が地図の上に引かれていた時代から、ネーデルランドと並んで権利獲得の運動が盛んであった事もあって、同性同士でも結婚も当たり前にするし、それが奇異の目で見られる事もない。
 カミーユ自身も、それを特別だと思った事はない。日常ごく普通に目にする当たり前の事だったし、バーボンが好きな人がいればスコッチが好きな人もいる、そんなレベルでの解釈をしていた。
 だがそれが我が身に実際に起こってみれば、その差異はバーボンとスコッチよりも遙かに大きかったし、それはどこかいびつなようにも思われた。
 彼を愛しているのだ。感じ、流れ込む彼を知り、それを愛したのだ。
 距離すらも関係のない理解を得たのに、距離に捕らわれてどうするのだろう。
 それでも気付いてしまったものから目を背けることは出来なかったし、そうする理由もなかった。
 こうではなかった、そう思うだけだった。では、どうだったというのだろう。分からなかった。

 ファと同じだ。本当はずっと前から、誘われていた。
 月にある、知り合いがやっているもっと大きな会社で働かないか、雇い主からそんな話がずっと前から持ちかけられていた。
 返事を延ばし延ばしに今まで来てしまったのは、何故だったのだろう。
 ファがいるから。前なら、そう答えられたのに。
 ジュドーが忘れる事を恐れているから。自分が、変わる事を、恐れているから。
 何がどうなろうとも彼は忘れる事など出来ないのに。一時も留まる事無く、全ては変わっていくものなのに。
 宇宙は広すぎて暗すぎて、聞こえなくていいものまでもが聞こえそうで。
 ジュドーは帰りたいと願っているのを、出会った頃から感じていた。
 彼と一緒にならば。今ならそう思うのに。
 彼が一緒に聴いてくれる。彼が分かってくれる。彼が分かって欲しいと願うものを、きっと分かる事が出来る。
 それなのに、恐れている。きっかけがなくては踏み出せなくなってしまった。
 彼もきっと恐れているから、きっかけがあったのに帰りはしなかった。カミーユがいるから、そう言い訳をして。


 変わる事が、怖い。


「ここも、随分、慣れてきたね」
 反論の出来ぬ事にカミーユは軽く歯噛みをした。軟膏状のローションを小指の先ほど、それだけで入り口はいとも容易く指先を飲み込むようになっていた。
 灼けるような痛みすら、熱を生み籠もらせるばかりだった。
 体が、その刺激を、はっきりと快感であると認識するようになってきた。
 受け入れる事に慣らされ、自分の体が、知らない体になっていってしまう。
 怖い。怖かったのに、喉から漏れるのは、どこか恍惚とした高い呻きだった。
 中を大きく掻き回されると、押さえきれずに腰が上下に動いた。快楽ばかりが先走りをする。気持ちが追いついてはいかない。
 こうではなかった筈なのに、待ち侘びている。
 誤魔化せないものは、痛みだけではない。満たされる心地よさも、熱さに上り詰める感覚も、誤魔化す事が出来ない。
 どうしてもっと上手に、嘘をつけないのだろう。
 自分で聴いたこともないような甘い声ばかりを出して、奥歯の浮き上がるような快感に身を震わせている。
 心から嫌だと思えば、きっと彼はやめるだろう。本当か嘘か、見透かされてしまう。
 握った手の甲に口づける彼の息は荒く、耳の中に籠もって響く。まるで急がないと消えて無くなってしまうとでも言いたげに、急いた様子で口づける。
 どうして、そんな事をするんだ。
 無意味な問いだった。答えなどとうの昔に出ているその問いを、口には出せずに胸の内だけで何度も繰り返す。
 触れた肌から湿っぽいぬくもりと共に答えが流れ込むから、胸は熱くなるのに。

 あんたが、カミーユだからだよ。

 言葉ではない。彼の眼に温度の低い暗い炎が灯ったように僅かに影が差して、細められる。
 そんなやり方はずるい。そう思った。
 綺麗な色の瞳だった。明るく澄んだ、碧色。それが翳るところなど、見たい筈がない。
 守りたいのだと思った。だけれども、彼は何に傷つくのだろう。
 
 ただいとおしい。手を伸ばせば掌に触れるこの腕が、肩が、胸板が。
 もしも、この腕を、失ったならば。
 そんな事にふと思い当たるのは、恐れているからなのだろうか。

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