永遠の都6

 夕暮れ時、何も言わずに出ていったジュドーが部屋に戻ってきたのは、もう日付も変わる頃だった。
 明日は早い時間に飛行機に乗らねばならない。早く休もうと思っていたが、理由のない寝苦しさに寝付く事も出来ぬまま、ジュドーを待つ格好になっていたカミーユは、ベッドに腰掛けて開いていた本から、目線をドアを開けたまま入り口に立っているジュドーに移した。
 安い酒の、少々薬品臭いアルコール臭が鼻をつく。
「あっれ、まだ起きてたんだ」
「飲みに行くなら、そう言っていけよ」
「別に、そのつもりはなかったんだけどね。成り行きだよ、成り行き」
 何が可笑しいのだろう、ジュドーはけらけらと低く笑い続けながら、隣のベッドにどさりと寝転がった。
 両足だけで器用に靴を脱ぐと、ベッドの下へ放り落とす。
 仰向けに寝転がり、腕で目を覆ってもまだ何か愉快そうに低い笑いを零し続けていた。
 本を閉じてベッドから下りて立ち上がり、本をしまう為に荷物を置いているクローゼットの方へと歩こうと足を踏み出すと、左の手首を突然鷲掴まれた。
 笑いは止んでいた。振り向くと、ジュドーは今にも泣き出しそうな目をして、笑おうとしていた。
 その様に、カミーユは本当に驚いていた。驚きのあまりに、何も言葉が浮かばなかった。
「ごめん、何でも、ない」
 今度こそジュドーは笑顔を作って、掠れた声でそう告げた。
「言いたい事があるなら、言えよ」
「……ないよ」
 何でもないという言葉には反して、ジュドーは手を離してはくれなかった。それどころか、掴む掌にはますます力が篭もっていく。
 それを振り解く事も出来た筈だったが、その考えはカミーユには浮かばなかった。
 時々、本当に希な事だけれども。振り解くのは見捨てる事と同じなのだと思わされるような眼をして、縋ってくる。
 振り解く事も、出来るのに。振り解きたくないと願っているから。彼の手を振り解くのは、彼に手を振り解かれる事と等価なのだと、知っているから。
「言いたい事なんか、無い」
「じゃあどうしてそんな顔するんだ」
 不愉快さを口調から消す事が出来ずに、己の物言いがひどく冷たく鋭くなってしまった事に、カミーユは再び驚いた。
 その様子を見てジュドーは、首を気怠そうに動かし、目線を外して何もない薄汚れた壁を見た。
 初めてだ、と思った。何も言えなくなって目線を外すのは、いつもカミーユだったのに。
「カミーユは……ずるいよ」
 掠れた声は震えていた。
 さかんに目をしばたくジュドーの睫は濡れていた。どうして泣くんだ、聞きたかったが、語調が冷たくなるのが恐ろしくて口を開けず、カミーユは手首にかかる力に逆らうのを止めてベッドの脇にしゃがみ込んだ。
「俺は、俺は……あんたじゃなかったら、駄目なのに。嫌なのに。他に、いないのに」
 目を逸らしたまま言う事じゃない、目を見て言え。そう怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、感情を吐き出せば、ジュドーの泣いているのが悲しくて、自分まで泣いてしまいそうで、カミーユはただ首を横に振った。
 力が入らない。持ったままだった本を床にことりととり落とした。
 そうじゃないだろう。俺だって、そうだ。
 同時に浮かんだ二つの答えは、相反するものだった。
 カミーユはファさんの事なら分かるんじゃないか。そう、言いたいのだろうと思った。
 だが、それは違った。ファの言う通りに、カミーユは恐らくファの見て欲しいものを見る事は、出来ずにいた。
 ファの優しさに甘んじて、己の痛みばかりから眼を逸らす事も出来ずに。
 ジュドーでなくてはならなかった。彼だからこそ、分かってくれた。そう、思っている。
 他には、いはしない。いはしなかった。
 いるのかも知れない。何処かに、他に、まだ見ぬ人がいるのかも知れない。
 それでも、それだけではもう駄目だった。彼でなくてはならない。彼以外のものなど、望みはしない。
 ここにいる彼の、この掌の温度を、きつい安酒の臭いのする荒い息を、濡れて細められた明るい碧の眼を、誰よりも何よりも愛している。
 例え誰が何を分かろうとも、もう彼でなくてはならない意味が、あった。
「他に、誰が、いるんだよ」
 左の手首を掴む彼の右手に、右手を重ねた。
 流れ込むものを受け止めるのはカミーユでなくてはならないのだと、彼が願う、それは、どんなに幸せな事だろう。
 分かる。大切なものがどれだけ沢山あったのだとしても、求めるものは、ひとつだった。
 それでも、それで、胸に抱く大切なものの価値は少しも失われるものではない。
 ジュドーは誤解を正解として思いこもうとしている。否、彼の中では、その誤解こそが真実であるべきだった。彼の見た真実を、カミーユは誤解と呼んでいる。
「好きなのは、いてほしいのは、お前だよ。まだ、分からないのか」
「分からないよ……」
 節くれ立った大きな手の、手首を掴む力はもう随分と弱まっていた。
 この手を、離す事など、出来はしない癖に。
 もし、彼が離したとしても。カミーユが離しはしない。探し出して、捕まえる。
「お前だけなんだよ」
 何を失ったとしても、誰を失くしたとしても。彼がいてくれた。いてくれる。
 それだけで、いい。
 言葉に出来る意味など、その程度のものだった。
 彼は分かっている筈なのに。カミーユも、分かっている筈なのに。無駄に同じ事を繰り返し、徒らに傷つく。
 たとえ知っていても、信じたい事の方を信じようとすれば。
 知る事に意味がないとは思わないけれども、所詮は、こうして、少しずつ繰り返して、それでも這いながらでも前に進む他は、ないのではないか。
 分かる事はかけがえがないけれども、それでもその程度のものなのだと思った。
 この手を、愛している。他に何を知ればいいというのだろう。
 力の抜けた彼の手を両の手で強く握りしめ、そっと口づけた。
 どんなに離れてもいなくなりはしない彼を、それでも離したくはないと思うのは、彼の体も愛しているからだ。
 脂の抜けて乾いた指先を。彼の明るく美しい瞳で捉えたものが、彼を形造るのではないか。彼の声で語られる言葉が、好きだから。
 どうして、体と魂を分けてなど考えられるだろう。
 この体が、その心を抱いているから、彼は彼なのに。
 この手でなくては駄目だ。この肩でなくては、この眼でなくては。
 ジュドーはのたりと体を起こして、幾度か手に口づけるカミーユを不思議そうに見た。
 見られる事に激しい羞恥を呼び起こされて、カミーユは唇を離して俯いたけれども、頬にかかった彼の左手が顎に移り、すぐに上を向かされた。
 見上げるジュドーの顔は、ベッドライトに後ろから照らされ、影差していた。
「ねぇ……好きだよ」
「知ってる」
「ずるいよ……俺は、俺ばっかり……あんたじゃなきゃ駄目なんだって、思い知らされて……」
「俺だって、そうだ」
 顎にかかっていた手が右脇の下に回され、急に体を引き起こされる。
 ベッドに肘を突いたカミーユの肩を掴む手には、過分な力がかかっていた。痛みに息を漏らしたカミーユの唇は、ベッドライトの光を遮る影にすぐに塞がれてしまった。
 流れ込む息の酒臭さに、思わず頭を背けようとしたが、彼の右腕に後ろ頭を押さえられ、それを許さなれなかった。
 肺が灼けつくように熱くなり、視界が眩む。
 当然のように口の中に入り込んできた彼の舌先は、普段よりも熱くねとりとしていた。
 何に渇いているのだろう。貪り飲むように、彼は喉を低く鳴らす。
 明日の出発は早い、疲れている。押しとどめようと理性が伸ばす手は、彼の胸板を力無く押すばかりだった。
 この街に着いてから毎晩。日毎に彼の求め方は力強さと激しさを増した。
 まるで、砂埃の匂う大地から、白い壁を灼く陽光から、力を受けてでもいるように、彼は倦む事がなかった。
 次の日に痛みで歩けなくなるような事はさすがにもうなくなっていたが、不慣れな暑さや旅の疲れも手伝って、カミーユの体があまり休めていなかったのも事実だった。
 それでも、拒めなかった。彼がそうせずにはいられないのだろうと、知っていたから。
 確かめる必要などない筈なのに。
 彼を不安にさせるのはカミーユに他ならない。彼に涙を流させ、傷つけるのは、カミーユに他ならない。
 それでも彼は、カミーユの他にはいないのだと、言う。
 こうではなかった筈なのに。
 それでも、知ってしまったから、知らなかった頃に戻る事も出来ぬままに、求めて。
 夜着の裾から忍び込んできた彼の掌も、火照って篭もった熱を帯びていた。
 もう押し戻そうともしないで、カミーユは舌をくねらせ絡ませながら彼の強張った肩を抱いた。
 閉じた目の底は暗く闇に閉ざされ、流れ込む想いは生温くべとついている。
 今は、光などいらない。忘れられないという事実を容赦なく照らしつける無遠慮な光などいらない。
 暗くても、彼の事ならば、感じるのだから。
 熱に粟立つ肌をなぞり伝って、彼の指先は、胸板の皮膚の薄い感じやすい場所を探り当てた事を嬉しがるように、忙しなく、執拗に蠢き回る。
 塞がれたままの唇の端から、高い音の息が細切れに漏れた。
 その声に彼の動きは止まった。暫く身動きもせず深い息を吐いたかと思うと、頭を離し、カミーユを戒めていた手を離す。
 濡れた唇を緩く開けてカミーユを見つめているだけの彼の面に、別段の表情は表れていなかった。
「こうじゃなかった筈なのに、どうして……」
 何気なく呟かれたその言葉には、打ちのめされた絶望の匂いがあった。
 心のままにしか生きられないのに、そのくせ自分の為に何かを望むのがひどく苦手なこの男の絶望は、他人を踏みつけていると信じるところから来るのだろう。
 それが、誰かの為、例えばリィナの為ならば、躊躇わないくせに。
 ずるいのはお前だ。そうやっていつまでも、自分の事を見つめないで、何が欲しいのかを見つめないで、押し込めて抱える。
 ファがいなくなったのは、俺が分からなかったからじゃないか。お前なんか、関係ないんだ。
 息苦しかった。どうして、求める事しか出来はしないのだろう。知ってしまったから誤魔化せずに。手に入れてしまったから手放せずに。
 こうではなかったのに。
「それでももう、お前じゃないと、駄目だ」
 いてほしい。それだけの事で、どうしてこうも息苦しくなるのだろう。
 彼は、ここにいるのに。いなくなりはしないのに。それを知っているのに。
 彼の肩に置いた手をのろりと動かして、頬にそっと触れた。汗にべとついた彼の頬は、思っていたよりも柔らかく指を受け止めた。
 カミーユがその頬に口づけるのを、彼は止めなかった。止めて欲しいというのも、止めないで欲しいというのも、確かな願いだったろう。
 耳の下、顎の付け根に唇を這わすと、彼の腕が急に動いて、強くかき抱かれた。
 こうではなかったのだとしても、今はこうだ。これ以上に今のカミーユにとって確かな事など、ありはしない。

 目の前が眩み、何もかもが白く霞んでいく中で、刻む時だけが完全に同調する。
 詰まる息は、腹の中を掻き回す彼の動きに全く支配される。そのリズムは、彼の鼓動とも同じだろう。
 同じ呼吸、同じ鼓動、同じ波。
 それなのに彼は、ここにいて、カミーユの脚を肩に抱え上げて、ひどく満足そうな様子で顔を見下ろす。
 消えていくものを見るように細めた碧い眼が、低く響く荒い息が、過敏になった肌を舐める。
 壁が薄いという事を承知していながら、引きつれた高い声を抑えられなかった。
 闇雲にも思える彼の激しい動きの、何もかもに必要以上に感じさせられてしまう。
 溢れてしまう。流れ込むものは熱く重みがあり、受け止めきれないように思えた。
 だが、零れたものは、大地に吸い込まれ、なかったことになったように思われても、確かに足の下を流れてゆくのだろう。
 暗いそらを流れ続け、いつかまた出会うのだろう。
 それが彼のものであるのならば、本当はいつでもここにある筈なのだから。

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