永遠の都7

 テルアビブ空港とエルサレム市街地を結ぶバスの窓から見えた古びた城壁は、夕陽に照らされ橙とも桃色ともつかぬ淡い光を帯びていた。
 乾期に入っているため、見渡す丘に生えた下草は枯れ、白い石灰質の岩がところどころごつごつと剥き出しになっている。まばらに植えられたオリーブの樹の葉は乾いて黒茶けている。
 カミーユは手持ちの荷物から上着を取り出すと、ジュドーに渡した。締め切った窓越しにもしんしんと冷気は車内に降り積もり始めていた。
 バスは新市街と呼ばれる地区にあるターミナルで停車した。バスを降り通りに出ると、ほぼ姿を隠した夕陽は地平線の際で温度の低い炎のように昏く燃え、この街の建築物全てに使われているというエルサレムストーンを紅く染め上げていた。
「思ったより、普通の街だね」
 素直な感想をジュドーは口にした。イングランドに住む多くの人がそうであるように、彼はこの地の宗教的対立にはあまり興味がなかった。
 飛行機の中で退屈だったのか、今なおこの地でムスリムとシオニズムを標榜するユダヤ教徒の争いの絶えない理由に対する疑問を、不思議そうに、しかしあまり興味もなさそうに口にした彼に、カミーユは知る限りの断片的な知識を話した。
 元来、イエスはユダヤ教のラビでありその改革者であったし、ムハンマドはアラブの民の祖先はユダヤの民と同じくアブラハムで、ユダヤとキリスト両者の信じるものと同じ神が己を最後の預言者として世に送り出したと語った。三つの宗教は同じ神を信じる兄弟のようなものだった。
 だがユダヤ教徒は神がモーセを通じてユダヤの民に与えた律法を冒涜したイエスを認めなかったし、アッラーが自分達の信じる神と同じだとも認めなかった。キリスト教徒にとってユダヤ教徒はイエスを迫害し死に至らしめた憎むべき民であり、ムスリムは(アレキサンドリアの哲学の成果や重要な発明が彼等からもたらされたにも関わらず)未開の野蛮な民だった。ムスリムにとっては、両者はアッラーの下された完璧な経典であるクルアーンを信じず、人によってねじ曲げられ不完全な神の言葉である律法や福音書に縋る異教徒だった。
 三者いずれもが己の宗教の聖地とするのが、エルサレムだった。ヤハウェの栄光を示す都。イエスが十字架に磔となり全ての人類の罪を贖った街。ムハンマドが昇天したと伝えられる地。
 しかし、イスラムにとっては少々事情が違う。彼等にとっての聖地とはあくまでメッカとメディナであり、エルサレムは(自分達と同じただの人間であるとクルアーンに繰り返し主張される)預言者が昇天したと伝えられる地に過ぎない。アッラーの横にも上にも何者をも置かない厳密な一神教を教義とする彼等にとっては、宗教の始祖たる預言者も信仰の対象とはなり得ない。
 ユダヤとイスラムの対立は、表向きがそう見えるだけで、政治的経済的理由が第一であるというのが真相だった。産業革命以降世界を経済的に支配していた西欧キリスト社会が、膨大な石油資源を擁するイスラム世界への牽制として、憎しみの対象であった筈のユダヤ教徒を援助する顔をして、シオニズムというそれらしい衣を被せて対立の火種をばら撒いていたに過ぎない。
 しかし、人々がそれを宗教的対立であると信じれば、利害では片付かない問題であると信じられている為に事態はこじれ戦争の種が無くなる事はない。軍需産業が食いっぱぐれる事はなくなるのだ。
 何故神を信じるのか。己に問う事を忘れ神に寄りかかるならば、いとも容易く人は神を盲信出来る。それは神に限らない。
 己を正しいと信じる者は、間違っている者をあまりに裁き断罪したがる。
 個人のレベルでならば三者は融和できるだろうし、その実例も枚挙には暇がないだろう。必ずしも互いの宗教を軽蔑し憎んではいないだろう。だが集団となると話は別だった。
 今はもう石油の時代ではないのに、争いの種は燃え尽きる事もなくくすぶり続けている。価値を失い誰からも顧みられなくなった地で、親を殺された憎しみが、子を友人を恋人を奪われた悲しみが、途切れる事もなく連鎖し続けている。喜びの儚さに比べ、怒りや憎しみとは何と強く人の心に刻まれるものなのだろうか。その烈しさはカミーユにとって、よく理解の出来る覚えのあるものと良く似ているに違いなかった。
 その連鎖を一息に断ち切れるものは、確かに空から降ってくる隕石や小惑星くらいであるのかもしれなかった。
 勿論、そんなやり方をカミーユは認めはしない。カミーユが信じたものは、有無を言わせず断ち切る力ではない。クワトロ・バジーナは、火の入ったコロニーレーザーの前で確かに、人類が自ら気付き目覚め行動する事を信じようとしていたのだから。
 それでも、隕石を落とさざるを得なかった男の焦燥の断片は感じられる気がする。世界はあまりにも緩やかに流れすぎ、幾度血を涙を流しても目に見えて姿を変えたりはしない。それでいてその波は、抗う事など思いもつかぬほど大きい。
 悲しみが、痛みが、そのままの形で他者に伝わるのならば。過ちを経ずして痛みを学習した人は過ちを繰り返す事もきっとなくなるだろう。しかし、それが未だ不完全な心しか持ち得ぬ人間という生き物に如何に大きな代償を要求するのかを、カミーユは身をもって知る事となったから、それを性急に望む事など、出来はしなかった。
 少しも遠ざかりはしないのに、それはもう手の届かない話だった。幻や蜃気楼の類と差はないのかもしれない。
「随分詳しいんだね」
 返事も興味の薄そうなぞんざいなものだった。眠くなったのだろうか、ジュドーの瞼は重そうに半分閉じられていた。
「昔、色々調べたんだよ。信じたくて」
「……何を?」
「考えなかったか、自分が墜としたパイロットは、何処に行くのかとか。助けられなかった人は、どうなってしまうのか、とか」
 結局は、カミーユは神を見つける事は出来なかった。書物に書かれた理屈からは、知識は得られても実感を得る事は出来なかった。
 それでもとにかく祈りたくて、それは何でも良かった。特定の名前など持っていない方が良かったのかもしれない。
 棚に入れた小さな仏像を前に、ベッドに並んで腰掛け話したエマ・シーンの聡明で美しい笑顔。彼女も、遠ざかりはしないのにもう手は届かない。
「少しも考えなかったとは言わないけど、どっちかっていうと、その日きちんと飯が食えるかとか、そんな事ばっかり気にしてたな。自分の事だけで精一杯でさ。カミーユは優しいんだよ」
 嘘をつけ、と思った。
 おどけて笑ったジュドーは前に向き直って目を閉じた。いつも前ばかりを見るから、後ろにある死も生もそのままの重みで、重くも軽くもならずに抱える男。考えていないというのは嘘だ。ただ事実に理由付けをして重くする事も軽くする事も出来ないだけではないか。
「結局、何も見つけられなかったんだから同じだろう。理屈で信じるには、宗教的体験っていうのか、そういう特別な何かで見えないものの存在を実感しないとよく分からないものなんだろうな」
「例えば?」
「例えば……そうだな」
 こころもち首を傾けて目線を床に落として、カミーユは続ける言葉を躊躇い口ごもった。
 エコノミークラスの座席は狭く、前の座席のシートの後部が視界に入る。アイボリーのペンキの塗られた鉄の背面は煤けて茶黒い汚れが拭いきれずにこびり付いていた。
「……お前がここにいた、とか」
 あまりに適切さに欠ける答えだったが、他にカミーユは適当な例を持ち合わせていなかった。
 隣で答えずに目を瞑ったままの男は当たり前に神ではない。カミーユは彼を信仰はしない。
 彼はあくまでカミーユの前にいて、おどけて冗談を言い、抱きしめキスをする体温の高い男だ。彼は人であるからここにいるのだし、もし神なのだったら体の求める欲とも無縁でいられたのだろう。
 神ならば、カミーユが守りたいと願う必要も余地もないのだ。
 それでも他に適切な例がないというのは、彼がここにいるという事実が確かに信じられないような奇蹟であったからなのだろう。
 奇蹟とは、案外に心のみの問題なのかもしれなかった。目に見える結果は寓意に過ぎないように思われた。
 神を見つけられなかったカミーユは、彼を見つけて、彼もまたカミーユを見つけた。他にはいない人を、愛した。それは確かに奇蹟の他には付ける呼び名がないに違いなかった。

 新市街のホテルに一泊して、翌日の朝、目的地であるカトリック団体の事務所を訪れてファの所在を尋ねると、ファは旧市街にいると教えられた。詳しい所在を聞いて事務所を出、ヘロデ門から旧市街と呼ばれる地区に入った。
 門を潜ると、開けた視界の彼方、小高い丘の上に黄金の屋根が見えた。岩のドーム。ユダヤのソロモン王が建てた神殿がローマ兵によって破壊され、その跡に建設されたイスラムのモスクだった。
 アルジェのカスバとどこか似ている、入り組み曲がりくねった見通しの悪い細い坂道。今どこを歩いているのか、方向を掴めなくなる迷路のような街。狭い道の両脇には香辛料を売る店だとか雑貨を置いた露店だとかが雑然と並んでいる。人通りは多く、人いきれの生む熱気と香辛料や動物の臭いが混じり合い、独特の臭気が鼻をついた。
 頭にターバンを巻いたムスリムらしき男が驢馬の首につけた縄を引いていた。どこかで鶏が騒がしく喚いている。
 携帯端末に表示した地図を睨みつつ、現在地と目的地を確認しながら歩を進める。次第に人通りは少なくなり、強い陽に照らされて壁が濃い影を落とす石畳の道は、先刻の雑踏が嘘のように思える程にしんとした。
 やがて視界が開け、急に広い空間と高い壁が姿を現した。俗に嘆きの壁と呼ばれる、ユダヤの神殿で唯一現在にまで残っている部分だった。
 そこから西に進む。昔アルメニア人と呼ばれていた人々が住んでいた地区。今でもそこは彼等の子孫が暮らしている筈だった。そこに小さなテントが張られ、ファは看護士として働いているという。
 また少し進んだ先、井戸の脇のちょっとした広場に、言われた通りテントが張られていて、小さな人だかりが出来ていた。
 ファは清潔な白い制服を着て、横で医師の診察を受けている女の子供なのだろう、赤子を胸に抱いていた。
 ファの服は呆れるほどに白かった。薔薇色がかった灰の色をした石灰石が積み上げられた風景の中で、その白さは異様にも思われた。彼女の肌も相変わらず白く、しっとりと潤った漆黒の髪と同じ色の瞳、なだらかな曲線で構成された東洋的な容貌は、この街でも少々異質で際だっていた。
 声をかけられず、かなりの距離をおいてカミーユは立ち止まってしまった。ジュドーも一緒に立ち止まったのだが、カミーユを暫く見ていたかと思うと一人で歩き出し、少しずつ小走りに足を速めてファに駆け寄っていった。
「……あなた、ジュドー、どうして」
「どうしてじゃないよ、そっちこそどうして何も言ってくんないのさ。探したんだよ」
 駆け寄ったジュドーに気付いたファは心底驚いた顔を見せた。カミーユが訪ねるという連絡はいっている筈だったが、その連絡の中にジュドーの存在はなかったのだろう。
 やがてファはまだ立ち止まったままのカミーユの姿を認め、赤子を抱いて押し黙ったままカミーユをまっすぐに見つめた。
 言いたい事は沢山あった筈だったし、駆け寄って抱きしめて確かにいるのだと確認もしたかったが、赤ん坊が泣き出してしまう、と妙な言い訳が頭に浮かんで、カミーユはやはり足を動かさずファを見ていた。ファの黒い瞳は陽の光が鋭いせいか眩しそうだった。
「もうすぐ、お昼だから、それまで少し待って頂戴」
 ジュドーに向き直ってファが言うと、ジュドーは、分かった、と短く答えてファの前を離れ、カミーユを促して日陰の壁脇へと移った。
 ようやくカミーユものろのろと足を動かした。
 言いたい事を全部言われてしまった。どうして何も言ってはくれない、必死に探したんだ。
 ただ生きて元気でいるのが確認出来ればいい、但し実感でなくてはならないから、直接顔を見なくては気が済まない。それは本当の筈だったが、やはりどこか欺瞞も含んでいたらしかった。顔を見れば、問わずにはおられない。
 いてほしかったのだ、と思った。それはカミーユのエゴだった。それでもファに、手の届く距離に居て欲しかった。
 二人隣り合った家に住み、学校に通っていた頃の事を何故だか思い出した。その頃、母親代わりだと言わんばかりに口うるさくカミーユの態度や爪を噛む癖を注意するファを、カミーユは口うるさいと無邪気に思っていた。
 他に誰があんなにカミーユを気に掛けてくれただろう。何の見返りもなくファは。勝手に突っ走るカミーユを追い掛けて。ファだって、それまでの生活をティターンズに奪われ、親と離れ離れになって。それなのに。
 ファは静かに、愛してくれていたのではないか、僕を。
 分かっていたつもりだった。それでもカミーユは、きっと分かってはいなかったのだろうと思った。だからファは一緒にはいられないと言った。泣きながらそれでも。
 どうしたら、分かる事が出来るのだろう。ファの望むように分かる事が出来るのだろう。
 もう分からない事になってしまったのに、諦めきれない。
 それはエゴだった。もう遅すぎるのだろうし、カミーユは他に換えられぬものを既に見つけたのに、何もかもを手にしようとするのは、エゴとしか言い様がなかった。
 やがて診察を待つ人の列が途切れ、ファは横の若い医師に何事かを告げると、二人に向き直って軽く手を振り、駆け寄ってきた。動きやすそうなスニーカーの底のソールが石畳に擦れ、ザッと鈍く重い音が小刻みに上がり、近付いてくる。
「お待たせ。ごめんなさいね」
「本当だよ。ちょっと連絡をくれたらそれで済むのにさ、何も言ってくれないんだもの」
 肩をすくめたジュドーは嬉しそうに笑っていた。ファは無事だったという事を兎にも角にも確認できた安堵が柔らかく広がっていた。
「元気そうで、良かった。安心したよ」
「本当にごめんなさい。急な話でね、あんまり忙しかったものだから後回しに後回しにしてしまって、心配かけたわ」
 ようやく口を開いたカミーユに答えたファの笑顔は、僅かに俯きどこか硬かった。
 忙しいというのは嘘というよりは言い訳なのだろうと思った。ファは話したくなかったのだ。きっとカミーユが未だ尚ファを手放したくないと思っている事を知っていたから。
「いいさ、こうして会えた」
 にこりと笑顔を浮かべたつもりだったが、その笑顔がぎこちなくはないかカミーユには自信がなかった。
 しかし、カミーユの顔を見てファは、安心したように柔らかく笑んだので、きちんと笑えているようだと知れた。
「ねえ、お昼食べない?お腹空いたでしょう」
 ファの提案にジュドーが強く頷いて、喉も渇いたよ、と明るく応じた。
 ジュドーがいてくれて良かった、と思った。カミーユが一人だったなら、カミーユは何も言えなかったかもしれない。
 ファはすぐ側の家に入っていった。後に続いてドアを潜ると、土間に四人掛けのテーブルが何個か並んでいる。陽の差し込まない室内は外よりはひやりとして心地よかった。
 しばらくして出てきたアラブ系と思しき婦人にファはカミーユの分からない言葉で何事かを話していた。婦人はファの言葉に頷くと、奥に入っていった。テーブルについてファは微笑んで口を開いた。
「簡単なものしかないけれども。ジュドーは、足りないかもしれないわね」
「酷いなぁ、それじゃ俺がまるで凄い大食らいみたいじゃないか」
「いやだ、誉めてるのよ。何でもおいしそうに沢山食べてくれるんだもの。作り甲斐あったのよ。それにね、本当に質素だから」
 軽くむくれたジュドーを見てファは楽しそうに笑った。
 一人だったらこんなファの笑顔は見られなかっただろう、そう思う。心の中でそっとジュドーに感謝した。
 ファの笑顔は、言葉も出なくなるくらいに、可愛い。昔から思っていた事。昔は素直に言うのはスマートでない気がして、そんな言い訳をして照れていて、言葉も出なくて、照れ隠しに反対の態度をとった。ファもまだ子供で、そんなカミーユの態度が面白くはなくて、他愛もない口喧嘩ばかりをしていた。
 レクリエーション、アーガマでは確かそんな風に言われていた。罪のないじゃれ合い。それでは済まなくなる日が来る事も知らないで。罪がないのを知っていたから、アストナージもアポリーもエマもそれを見て半ばからかうように笑っていたのだ。まだ幼いのだと、微笑ましさを交えて見守るように。
 どんな喧嘩をしても、謝って仲直りをすれば、元に戻れる。あまりに無邪気に、そう、信じていた頃。
「忙しいみたいだね」
「ええ、大忙しよ。旧市街の人達は貧しいから、まず栄養状態があまり良くない人が多いの。街の中は今のところ一応平穏だけれども、ちょっと外では軍隊崩れの野盗が随分いてね。たまに近くの村を回るんだけれども、まだ新しい銃痕が家の壁にあったりして、撃たれた弾を摘出もしないで過ごしている人もいるわ。戦争はもう終わったんだって思ってたのに、まだちっとも終わってないんだわ」
 ジュドーが表情を固くしてファの言葉に頷いた。
 戦争は終わらない。憎しみは世界のどこかしらで、尽きずに湧き続ける。正しさが他者を踏みつける事も厭わぬ横柄さを生む。
 感じ合えるのだとしても、正しさを信じて疑う事をしないのならば。
 それでも、信じなければ戦い続ける事はあまりに難しいというのも実際だった。
 やがて、奥から先刻の女性が皿を三つトレイに乗せて出てきた。テーブルに置かれた皿の上には、脂で焼いた薄く平たいパンと煮た豆が乗っていた。ファの言葉通りに質素なメニューだった。
 暫く三人とも無言で食事を口に運んだ。
「給料って、出ないんでしょう?大丈夫なの?」
「食事や身の回りのものは支給されるから不自由はないわ」
 ジュドーに軽く答えたファの身なりはこざっぱりとして清潔だったから、それなりの生活を送れているのだろうという事は伺えた。
 コップの水を一口飲んで、ファは俯いて皿の上の煮た豆を見つめて、一つ息をついた。
「わたしね、最近、思うのよ。クワトロ大尉、とても大切な事を忘れて、間違っちゃったんじゃないのかって。いいえ、忘れているふりをしていたのかしら」
 そのファの言葉はカミーユに向いていた。軽く頷いて次を促すと、ファは目線を横に逸らした。
「見捨てられてしまったのは、宇宙にいる難民だけじゃないわ。地球にだってこうして、自分ではどうしようも出来なくて助けの必要な人が数え切れないくらいいるのに」
「政治ってそういうものだろう。支持してくれる人の利益を代表しているんだから。あの人はそんな事したがってなかったのに、させたのは周りの人間だ」
「それでもね、あたしもあの頃、信じていたんだもの。大尉ならきっと、進むべき道を示してくれるんだって」
 その期待こそが、あの頃クワトロを押し潰したものの一つだったのだろうけれども。
 誰もが、己の痛みに押し潰されぬよう、信じ続け戦い続ける事で手一杯だった。
 残されるものは悲しみばかりだったのに、その先に何かがあるのだと、そう信じ続けようとして。
「今、聖書の勉強をしているんだけれども、神の愛だなんて言われたってわたしにはちっとも分からなくって。でも……」
 言葉を切って、次の言葉を探しあぐねているのか、ファは口ごもって目線を僅かに逸らした。やがて一つ息をつき、再び口を開く。
「治らない病気に苦しんでいる人や、蔑まれる職業の人が悲しんでいるんだって、イエスがその人達の手をとって、話を聞いて、傍に居たから。何千年も経っても、そういう優しさって、消えないのね。見捨てられた人を放っておけなくて、お金にもならないのに助けようとする人達が、確かにいるんだもの。それは、イエスがそうしたからだわ。同じようには出来なくても、少しずつでも、形を変えてでも、繋がれて生きていくのよ。そういう風にならね、分かる気がするの」
 あまりに鋭く厳しい陽光。その下に捨て置かれた、何をも成さぬ砂の大地、人々。
 それはあまりに遠く、実感の伴わない事実だった。違う場所で生きる者にとっては、非日常でしか在り得ない。
 クワトロも、見捨てられた人々を、見捨てる事は出来なかったのだろう。急に、そんな言葉が頭に浮かんだ。ただ彼には、戦いしかなかったから。彼にとっては生とは戦い勝ち取るのみのものであったから。
 戦う事でしか、愛せなかった、何かを表せなかった人だ。
 利害と打算と謀略、憎しみと悪意の向こうにしか愛を見いだせないのならば、それは、何と辛く孤独な道なのだろう。
 それも、カミーユには見えはしなかった。
 ようやく見る事が出来たと思えたのは、ジュドーがいてくれたから。
 どうしてクワトロではなかったのだろう。どうして、ファではない。そう思うけれども、やはりジュドーでなくてはならなかったのだろうと、思う。
 ファは、すべき事を、見つけてしまったのだ。カミーユも、ただ一人しかいない人を、見つけてしまった。昔カミーユがそう言ったように、もう戻る事など、出来はしないのだろう。そう思った。
 進むしかないのだ。進んだ道の先で、二人の道がまた交わる事があるのか、もう分かたれて交わる事もないのかは、分からないけれども。
「ファ」
「何?」
「今、幸せかい」
 おかしな台詞だと自分でも思い、カミーユは苦く口を歪めて笑った。
 ファはおかしな質問に暫しきょとんとカミーユを見つめるばかりだったが、やがてゆっくりと、名の通りに蕾から今し方開いた若い花のように、微笑んだ。
「ええ。幸せだわ。だって、あなたが、生きていて、あたしに幸せかって聞いてくれるんですもの」
 その笑顔は、カミーユが知っているファの顔の中では、確かに一番幸せそうなものだった。穏やかで暖かく滲むものが、流れている。
 ファは、ただ静かに、僕を愛していてくれたのではないか。
 今でも、こうして愛してくれているのではないか。
 それは動かし難い事実であったから、動かし難い事があまりに残酷に思われて、カミーユは悲しくなり、ファの顔を見つめて、微笑んだ。
 ファの笑顔に曇りはない。ファは美しい。幸せで良かった、幸せでいてほしい、そう言いたかったのに、気の利いた言葉も出て来なくてカミーユは口を開かなかった。


 空港へ向かうバスの窓から見える景色は、昨日と変わらぬように見える夕焼けの砂漠だった。
 定期的な連絡は欠かさぬ事をファは約束してくれた。笑顔で話せただろうかとそればかりを思うけれども、ファは微笑んでいた。
 ジュドーはもう何も言わなかった。ただ横で、静かな眼で、二人を見つめているだけだった。
 優しく揺れているのではない。昏く沈んでいるのでもない。
 分かろうとしている。
 彼の優しさは有難くもあったし、嬉しかった。分かろうとする冷静さは、どこか硬さを感じさせたけれども、それは懸命さであったのかもしれない。
 道は随分と昔に舗装されたきり、整備が十分ではないのだろう。旧式のバスはゆっくりと走りながらしょっちゅうがたついて大きく揺れた。
 ジュドーは窓際の席で、窓の桟に肘をつきぼんやりと外を眺めたまま黙っていた。
 揺れているのは夕陽ではない、バスだ。分かっているのに、夕陽の暗い緋色がかった光は、岩山の際に滲んだ。
「そらに、戻ろうよ」
 突然、ジュドーが口を開いた。目線は外に向けたままだったが、窓に映るカミーユの影を見つめているようだった。
 戻らなくてはならない。そう、思う。
 道は分かたれたのだから、恐れるままに俯いていずに、為すべき事を、為さなくてはならないのだろう。
 何を為さねばならないのかを、探す為にも、眼を背けてはいられない。
 カミーユは頷いて、窓の外の、もう夕陽の届かぬ空を見上げた。透明な蒼は、白い光を向こうに映して、段々と暗い闇へと閉ざされていったが、地上から見上げるそれはどれだけ暗く見えても、どこか向こう側に光を宿しているのだと、それだけはカミーユにも、分かったような気がした。

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