ワンドロ07 膝を抱える・サフラン

 王都のマルシェが開催されているある日の昼下がり、キッチンカーから出てきたフェンネルは試作ケーキを乗せた皿を手にしていた。
 呼び込みを手伝っていたランチに二人で味見をしようと声をかけ、連れ立って休憩スペースの椅子に腰掛ける。
「あら~、ランチさんフェンネルさん、新作の味見ですか~? ケーキなら紅茶があった方がいいですよね~?」
 広間の掃除をしていたユーカリが二人に目を止めてやってくる。
「あっ、いいよいいよ、ユーカリまだお掃除あるんだから、わたしがいれてくるよ」
「あら~、そうですか? それにしてもとってもおいしそうなケーキですね、今回は何のケーキなんですか~?」
 尋ねながらケーキをまじまじと眺めるユーカリの視線には(恐らく隠す気もないであろう)溢れ出る食欲が滲み出ている。ユーカリのおやつも用意してくればよかった、失敗したとランチは思った。紅茶を用意するついでにおやつも持ってこよう、そう思って立ち上がりキッチンカーの方に向き直ると、よく見知った姿が近付いてきているのが見えた。
 近付くにつれカツ、カツとハイヒールの靴音が聞こえてくる。赤毛にメガネ、かっちりとしたスーツ姿のその人はサフラン、用事が何なのかは何も言われずともランチはよく分かっている。だから今すぐここから逃げ出したかった。サフランはまずフェンネルとユーカリに一礼するとランチに向き直り鋭い視線を送ってきた。
「皆さんこんにちは、ご苦労様です。ランチ、三日分の報告書がまだ提出されていませんが……いつ提出できますか?」
 予感的中。言われると思った事をそのまま言われた。提出の目処など立っているはずはない、手付かずなのだ。
「あっ……えーと、うん、これからやる……かな? あはは」
「子供の宿題の絵日記ではないんですよ、後からまとめてやらないでください。その日にあった事を記録するという事が大事だというのは分かっていますね?」
「はい、すいません……」
 反省したのかしょげて肩を落としたランチを見て溜息を一つつき、サフランは再び口を開いた。
「今日中に今日の分も含めて四日分提出してください。今後は溜めないように」
「はい……」
 素直に頷いたランチを見かねたのかフェンネルが机に手をかけ腰を浮かせてサフランに向かって口を開いた。
「報告書を溜めてるランチが悪いのはそうだけど、マルシェの仕事もあるのに四日分を今日中っていうのは無理があるんじゃないかな? マルシェが終わってからじゃ徹夜になっちゃうかもしれない……明日の仕事もあるんだし、さすがにちょっとひどすぎるんじゃない?」
「いいの、フェンネル、私は大丈夫だから。悪いのは私だし」
「良くないよ、君に無理をされるとマルシェ全体にも影響が出るんだから。そりゃ君が悪いけど、だからといって無理をしていいって事にはならないでしょ?」
 ランチの非は認めながらもなんとか庇おうとするフェンネルをすっと目を細めて見つめると、サフランはまた一つ息をついた。
「ちゃんと報告書も提出した上で睡眠も十分とる、あなたならできますね、ランチ」
「えっ!? え……ええっと……あんまり、自信ない……かも」
「できますよ。無理でもやってください。これに懲りたら二度と報告書は溜めないように。それでは私はこれで」
 そう言い残してサフランは踵を返し王宮へと去っていく。その後姿を胡乱な目で見つめてからフェンネルは再び椅子に腰掛けた。
「悪いのは全面的にランチだけど、ちょっと無理な事言うよねあの人も」
「ううん、私のこと本当に信頼してくれるんだと思うよサフランは」
 軽く口角を上げて何やら嬉しそうにすら見える表情で語るランチを見たフェンネルが軽く眉根を寄せてムッとしたことをランチは気付かないでそのまま言葉を続ける。
「私の事一番分かってくれてるのはサフランだから」
「へぇ……そんなに仲いいんだ?」
「仲がいいっていうか私が一方的に面倒かけてるだけかも、向こうがどう思ってるかなんて聞いた事ないし。でも付き合いは長いから多分分かってくれてると思うよ」
「あの人も王都の人なの?」
「ううん、サフランはもっと南の方の村で生まれたんだって。といってもあんまり詳しく聞いた事ないんだけどね」
「全然知らないんじゃないか」
「そうだね、でも見てれば分かるよ」
「何それ、女の友情ってやつ? 僕には分からないな」
 すっかり機嫌を損ねて面白くなさそうな顔をしたフェンネルの横でユーカリが相変わらずケーキに熱視線を送っている事に既にフェンネルもランチも意識が回っていなかった。
「じゃあ私、今日ちゃんと寝るためにも今から報告書書いてくるね! 何かあったら呼んで!」
「えっ、ちょっと、ケーキの試食……」
「本っ当にごめんねフェンネル、今回はユーカリと食べて!」
「君が食べないと意味ないじゃないか、ちょっと!」
 フェンネルへの謝罪もそこそこにランチは駆け出して、すっかり置いてけぼりを食らったフェンネルは深く溜息をついて、ユーカリに紅茶を頼むことにした。

 王子の執務室へと帰りながら、サフランはランチのずっと変わらない部分について考えていた。
 お人好しで人当たりが良くて、困っている人を放っておけなくて、いつの間にかふわりと心の奥の隠したい部分に触れられているような心持ちにさせられる。そんな不思議な子だった。
 もちろん書類仕事が苦手で溜め込む癖も全然変わらない。
 ランチと出会ったのはもう何年も前の事、ランチが王宮で働き始めてすぐの事だった。
 その頃サフランは村を、家と家族を失ってあちこちを彷徨い歩き、その果てに力尽きて膝を抱えどこかの軒先に蹲っていた。もう何をする気力も体力もなかったし、このまま死んでいくのだとそれしか考えていなかった。
 近隣の村を荒らし回る山賊に村は焼き払われて村人も(家族も含めて)全員殺され、生き残ったのはサフランだけだった。燃えかすしか残っていない村にいても食料はない、泥まみれの格好で歩き続けたけれども、大半が軍事費に消費される重い税とならず者たちの襲撃に喘ぎ苦しんでいるのはどこの村も同じで、サフランに粥の一杯を恵むような余裕すらない家ばかりだった。
 時には種類も分からない草を齧り、川を見つければ浴びるように水を飲んで、方角も分からずに歩いた。そうして力尽きて座り込んだままサフランはもう三日動いていなかった。視界は霞んでよく見えないし飢えと渇きは極限に達していて、耳だけが痛いほどに音を捉えて煩わしかった。もういっそこのまま無音の静かな世界になってしまえばいい。そんな事しか考えられないようになっていた。
 そんな時にたまたまそこを通りかかったのがランチを含む王宮の厨房から派遣された一団だった。後から聞いた話だと、何やら王宮に献上される珍しい食材を検分しに行く途中だったという。
「大丈夫ですか? どうしたんですか? 声、聞こえます?」
 駆け寄ってきたランチは薄汚れた格好にも躊躇せずに側に跪いて、サフランの頬を叩いて声をかけ水筒を差し出した。
 受け取って中の水を飲み干してしまうと、ようやく視界が少し開けてきて目の前の少女の顔が判別できるようになった。そして、渇きが癒えると次は空腹が激しく襲いかかってきた。声を出そうと思ってもうまく出ない、腹を抱えうずくまるとランチはサフランの肩を揺らして慌てた。
「えっ、どうしたの、お腹痛いんですか? 大丈夫ですか?」
「な……もの…………」
「えっ」
「なに……か、食べる……もの……」
 それを聞いたランチは隊列に戻ると、バスケットに入ったサンドイッチを持ってきてサフランに差し出した。
「これ、食べて」
 ぼんやりと首を上げて見上げたランチの顔はつよく、やさしかった。ふらつく手でサンドイッチを一つつまみ上げ、口に運び入れると涙が次から次へとぼろぼろと溢れて止まらなかった。
 ただのレタスとトマトのサンドイッチだ。そんな料理が、今まで食べたどんなものより美味しかった。王宮の料理人が焼いたパンだし野菜も新鮮だから美味しいサンドイッチには違いないけれども、そうではなく、食べてもいいと目の前の笑顔が語りかけてくれていることが涙をとめどなく溢れさせた。
 その後保護されたサフランが、少しずつ村がなくなり行くところがなくなった事を話すと、ランチは自分が仕事を紹介する、と言った。そんな権限などなさそうな年端もいかぬ少女だ、無理だろうと思ったが、数日後ランチは王宮の使用人の仕事をサフランに持ってきた。
 そして、ランチのしきたりに捕らわれない自由な発想、その発想を形にしていく行動力を、それからサフランは間近で見続けることになった。サフラン自身も真面目な勤務態度と、王宮の仕事の後寝る間を惜しんで勉学に励んだ成果を認められてついに王子お付きの秘書にまで登りつめた。
 極端な話をすれば、ランチからサンドイッチを受け取ったあの時、死んでしまっていたサフランは新しい命をもらった。ずっとランチと一緒だった。これからも一緒だと思っていた。
 でも、もしランチがどこかもっと広い世界へ行きたいというのならば、それに何か言える資格が私にあるのだろうか。
 マルシェのシェフたちとランチが絆を深めれば深めるだけ、そんな不安が胸を過ぎる。
 何がランチの幸せなのだろう。その答えはサフランの中にはまだないし、そう考えて改めて、自身がランチの幸せを願っているのだと気付かされる。幸せになってほしい、できれば自分の手の内で。身勝手な欲望だった。
 答えはまだ何も出ていない、これからだ。俯いていた頭をぴしりと上げると、サフランはドアをノックし王子の執務室へと戻っていった。

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