ワンドロ08 抱きしめる

 日も落ちた王宮広場を照らすのは周囲に等間隔に設置された街灯のほのかな明かりだけだった。王都のマルシェのキッチンカーの周りを何をするでもなくぐるぐるとゆっくり歩きながら、ランチは俯いて息を一つ吐いた。
 王都のマルシェを開くに当たって最初に決めた目標額が近日中に達成できる。世界樹のマルシェから苦楽を共にしてきたシェフたちと目標を達成できる達成感や嬉しさはもちろん大きいけれども、ランチの心の大半を占めているのは寂しさだった。
 六人のシェフたちと新しいレシピを開発し、みんなで一丸となってマルシェという場を作り上げてお客さんにおいしい料理を提供して、笑顔になってもらう。世界樹のマルシェで借金返済をしていた期間を含めてその仕事が今までのどんな王宮の仕事よりも楽しくて、それ以上にランチが六人のシェフと仲良くなりすぎてしまって、離れがたいという気持ちがあまりにも強くなっていた。
 最初から終わりが決まっていた仕事だった。今更何を言っても何も変わらない。分かっているけれども離れがたくて、何をすればいいのかも分からなくてただマルシェの象徴ともいえるキッチンカーの周りをうろうろと歩き回り続けていた。
「……ランチ? 何してるのさ」
 足を止めたランチが振り返ると、フェンネルが不思議そうな顔をして立っていた。
「えっと……なんとなく。フェンネルこそどうしたの、夜遅いのに」
「僕も、なんとなくだよ。おそろいだね」
 言うとフェンネルはくすりと眩しそうに微笑んだ。どんな顔をしても絵画のように決まってしまうフェンネルだけれども、やさしい笑顔は本当に綺麗で温かくて、透明なケースに入れて飾ってしまいたいような気持ちになる。それじゃフェンネルが見世物みたいだからだめ、と思い直してそれ以上その雑念に苛まれなくていいようにランチは後ろを向いてフェンネルに背中を向けた。
「なんとなくで二人ともここに来ちゃうなんて、なんだかおかしいね」
「案外、僕とランチ、考えてる事は一緒なのかもね?」
「フェンネルは、何を考えてるの?」
 返答を待ってみたけれども、一向にフェンネルからの返事が返ってこない。振り向いてフェンネルの顔を確かめようかとも思ったけれども、それがどうしてかとても怖い事のように思えてしまって、心臓の鼓動がやけに早く高くなる。何でもいい、何でもいいから一言だけでもフェンネルの言葉を何か聞いて安心したかった。それなのに振り向く勇気が出なくて、ランチはただ立ち尽くしたまま、実際の何十倍も遅く時間が流れているような錯覚の中でフェンネルの言葉をひたすら待った。
 だが、返ってきたのは言葉ではなかった。
 肩から胸に回された腕の重みと、背中に感じる体温。ふわりと抱きしめられているのだとランチが認識できたのは数秒後だった。
「ふぇっ、ふぇふぇ、フェンネル……? どど、どうしたの……?」
「これなら僕の顔は見えないから、君に顔が近いって言われることもないでしょ」
「そっ、それはそうだけど、そういう問題じゃなくて」
 あたふたと藻掻くと、フェンネルの腕の力が少しだけ強まった。
「少しだけ、このままでいさせてほしいんだけど、いい?」
「……いっ、いい、です」
 顔も耳も肩も熱い。浴槽に浸かってのぼせてでもいるように脈動が耳の中でうるさく鳴り響いて頭がぼうっとした。
 でも、こんな事くらいフェンネルにとってはなんでもない事で、色んな女の子にしてきた事なのだろう。そう思うと、なぜだかみぞおちの辺りが重りでも飲んだようにもやもやとして、何とも言えず泣き出してしまいたいような気持ちになる。
「ねえフェンネル、私はね、みんなといつかお別れしなきゃいけないんだなって思って、それが寂しかったんだけど、フェンネルもそうなの?」
「うーん……僕はちょっと違うかな」
「どう違うの?」
「それは秘密」
 いつもならちゃんと教えてとかからかっているのかとか何かしら怒り出すのに、ランチは何も言わずただフェンネルの抱擁を受け入れていた。
 本当に寂しくなったんだね、みんなと別れる未来を思うのが。
 それを思うフェンネルの胸中にも幾分暗いものが渦巻いていた。フェンネルは、ランチと別れたくなかった。他のシェフも一緒にマルシェを作り上げた大事な仲間だけれども、それぞれしたい事がありそれぞれの道がある。一抹の感傷のようなものはないわけではないが、それぞれの人生に干渉すべきともしたいとも思わない。王都のマルシェが終わった後も王宮の料理アドバイザーとして王宮に留まる事が決まっているランチの未来や人生にだって干渉すべきではないけれども、全てを捨てても惜しくないほどの離れがたさを感じてしまっていた。
 腕の中に感じる温もりを、自分だけのものにできたらどれだけいいだろう。心からそう願う。
 だけど、フェンネルはランチに未来の約束を何も与えてやることができない。治らない傷、軋む体。限界はもうすぐそこに見えている。いつまでこうしてケーキを作っていられるのかももう分からない。
 ランチと初めて作ったケーキの事を思い出す。ふたば豆をすり潰してクリームにたっぷり混ぜ込んだ草原ケーキだ。よく覚えている。
 ふたば豆は料理にはよく使う食材だけれども洋菓子に使うなんてフェンネルは考えた事もなかったし、あの頃はそんな工夫も必要ないと思っていた。だけど、騙されたと思ってと言われて試作してみた草原ケーキの味はふんわりと柔らかい甘さで、発想と工夫次第でこんな新しい味が生まれるのだという事を知り、心密かに衝撃を受けた。
 既存の枠を壊すのではなく、新しい発想を組み合わせる自由さ。それがフェンネルが愛したランチの本質だ。手の中に閉じ込めてしまいたいという願望とどこまでも自由であってほしいという願望がいつでもフェンネルの中でせめぎ合っている。
 連れ去ってしまえたら、と思った事もあった。自分だけを見てほしいと思っている。だけど、そうではないのだ。それではランチはランチでなくなってしまう。今のまま輝いているランチでいてほしい。
 ただ、この思いは(いくら遠回しに伝えようとしても一向に伝わらないから)伝えるだけでも伝えてしまいたい。きっともっとはっきり態度にしなければランチには伝わらない。ただ知ってほしい、ランチを愛したフェンネルという男がいたことを、覚えていてほしい。もしもう二度と会えなくても、それでいいから。
 フェンネルが腕を外し体を離すとランチはゆっくりと振り向いた。街灯の微かな光でも耳まで真っ赤になっているのが分かって、なんだか無性におかしくなってしまいフェンネルが笑いを漏らすと、ランチは面白くなさそうにぷうっと頬を膨らませた。
「なっ、なんで人の顔を見て笑うの!」
「あはは、ごめんごめん。君があんまり面白い顔をしてたから」
「フェンネル~!」
 ぽかぽかと二三発軽いパンチを浴びせられて、それでもフェンネルの笑い声は止まらなかった。
「寂しいのはもう直った?」
「……ん。ありがとフェンネル……」
「じゃあ僕はそろそろ寝るから。君も早く部屋に帰らないと、悪い狼に食べられちゃうかもよ?」
 頷いたランチを確認すると、フェンネルは踵を返して歩き出した。
「あっ、フェンネルはなんで寂しかったのか、まだ教えてもらってないよ~!」
「内緒だってば」
「も~、教えてよ~!」
「おやすみランチ、また明日」
 振り返らないまま答えて、フェンネルは歩き続けた。行く先がこの夜の道のように暗くてももう恐れはしない。フェンネルの心の中には与えてもらった光があるから。

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