ワンドロ15 花・赤面・ランチ

 テシカの湖畔にはフェンネルお気に入りの場所があるという。その話を聞いたランチは、次にテシカに行く時に二人でそこに行きたいとフェンネルに提案し、フェンネルもランチならいいよ、という返事を返したので、ランチは少しのドキドキを胸に秘めたままテシカへの再訪を迎えた。
 ガラスで出来た大地の、ひやりとした空気と静寂に包まれたその村は、やはり何度見ても絵本の中の出来事のようで現実味がない。そういえばフェンネルの顔もまるで嘘のように美しいけれども、時間を共にする内に体温があり血が通う現実に生きている人間なのだということが分かったから、テシカの村も住んでみれば現実になっていくのかもしれない。
 このガラスで出来た大地には植物は育たない。草や木、その実りを糧とする動物もいない。ゴーマン商事が来る前までは唯一の産業は無限に原料のあるガラス工芸で、職人たちの腕もよく質も高かったけれどもその稼ぎだけでは村の人々の生活を最低限維持するのも難しかったという。だからこの村は本当にゴーマン商事によって救われたのだ。
 オニオンという人が(世界樹の実を取る見返りとしてとはいえ)ジュリィに色々気遣いをするような一面もある事を知ってからは、商人としてこの地に価値があると思ったからリゾートホテルを立てたのには違いないだろうけれども果たしてそれだけだったのだろうかという思いもランチの中に芽生え始めていた。その答えを本人に聞くことなど出来ないからただ想像するだけだったが、王子に言葉巧みに多大の借金を負わせた悪辣な商人というだけではない他の面もきっとオニオンにはあるのではないか、フェンネルはずっとその事を言いたかったのではないかと、ランチは考えるようになっていた。
 テシカの村の広場は他の街のようにタイルで覆われてはおらず大地を覆うガラスがむき出しになっている。下を見下ろすと小難しい事を考えたからか少ししょぼくれた自分の顔が目に入って、これではいけないと思い直してランチはばっと前に向き直り笑顔を作って道行く人に声を掛け始めた。
 やがて昼の繁忙期が終わり、村の人々も昼寝の時間に入ったのか人通りが少なくなる。ランチはキッチンカーを覗き込み、中でバジルと一緒に店番をしていたフェンネルに声をかけた。
「フェンネルもバジル君もそろそろ休憩にしない? それでフェンネル、あのね……」
「分かってるよ。お昼ご飯を食べたら連れて行ってあげる」
 少しだけ口角をあげて柔らかく微笑んでフェンネルは答えた。どこに行くっすか? とバジルが問うが、大人の秘密だからとフェンネルは答えようとしなかった。
 軽く昼食を済ませると店番はマジョラムとオレガノに代わってもらう事にする。
「じゃあちょっと出掛けてくるから、みんな後はお願いします」
「ランチ、フェンネルに変な事されないようにしっかり気をつけなきゃダメだからね」
「あはは……大丈夫だよ」
 マジョラムにそう返したものの脳裏をよぎるのは王都のマルシェが大成功に終わった後、別れ際にフェンネルにキスされた事だった。
 でも、嫌じゃなかった、んだよなぁ……。あの時の事や唇の感触、甘い香りをつい思い出してしまい我慢できないほどの照れくささが湧き上がってきていけないと頭を振って振り払う。
 再会した時フェンネルが何事もなかったかのようだったのでランチもなるべく気にしないように努めてきたが、そうは言っても完全に意識しないというのは無理な話だった。だから今日二人で出掛けるのだって実はかなり緊張しているが、二人でゆっくり話せる時間があればフェンネルもどういう意図であんな事をしたのか話してくれるかもしれないと思った。
 村外れで先に待っていたフェンネルと合流して、脇にガラスの結晶が林立した道を行く。陽光に照らされたガラスの道は一時の夢のような美しさでランチを包んだ。でも、この美しさは生命を育まず受け入れないという代償がなければ成り立たないものなのだ。それはきっとずっと昔からこの村の民を苦しめてきたのだろう。この村の美しさを人の形にしたかのようなフェンネルは、美しいと言われる度にどんな思いでいたのだろう。そんな事を思って胸がきゅっと締め付けられる心地がした。
「村からそんなに離れてないんだ、もうすぐ着くよ」
「あのね、フェンネル……ずっと聞きたい事があって」
「なんだい?」
「あの……王都で別れる時に、どうして……その……」
 どうにも言い出しづらくはっきりとしない言葉になってしまっているうちに数歩前を歩いていたフェンネルが立ち止まり振り返った。にこりとランチに笑いかけると右手を差し出してくる。
「手、繋がない?」
「えっ……うん」
 多少戸惑ったものの、素直にランチは従ってフェンネルの掌の上に手を重ねた。フェンネルは前に向き直るとやや歩調を落としてまた歩き出した。
「どうしてだか、本当に分からない?」
 少しだけ寂しげに声色を落としたフェンネルの声がそう訊ねてきて、ランチは手を引かれて歩きながらやや俯いて考え込んだ。
「だって、フェンネルは女の人にはみんなに優しいし……」
「誰にだってあんな事するわけじゃないよ。事実ファンの子にあんな事してないでしょ?」
「そうだけど……」
「なら、答えは一つじゃない?」
 フェンネルは振り返ろうとせずどんどん歩いて行く。視界が急に開けて、空の青が湖面にたゆたって周囲のガラスの輝きがきらきらと光を振りまく光景がランチの前に現れた。
「どう、ここ綺麗でしょ。この村で一番お気に入りの場所だよ」
「うん……とっても綺麗……」
「晴れてて良かったよ。雨の景色も風情があるけど、それはまたの機会にね」
 ほぅっと息をついてしばし眼前の景色に見惚れてから周囲を見渡すと、ガラスの結晶に覆われた洞のようになった場所が目に入った。好奇心が勝って先程の問答などすっかり頭から抜け落ちてしまい。フェンネルから手を離すと小走りにランチは洞に近付いていった。
「すごいねここ! あっ、ガラスに映って私がいっぱいいるみたい! 面白い!」
「危ないから気を付けて」
 四方八方に映し出される自分の姿にすっかり夢中になって、フェンネルの注意もランチの耳には届いていない様子だった。やれやれと言いたげに苦笑すると、フェンネルも洞へと入っていく。
「あっ、フェンネルもいっぱい、どれが本物……?」
「本物が分かる?」
 フェンネルが訊ねると、ランチは元気よく頷いて迷う事なくフェンネルの胸に駆け込んできた。
「一番キラキラしてるのが本物だっ!」
 飛び込んできたランチを受け止めて、フェンネルはランチの肩にそっと手を添えた。
「ねえ、本当に分からない……? キスした理由」
 その言葉に、ランチがゆっくりと顔を上げてフェンネルを見上げる。
「教えてくれないの……?」
「君が当てるまでは教えてあげない」
 フェンネルの答えにランチがええーっっと抗議の声を上げると、フェンネルは楽しくなったのかにこりと笑ってランチの手をとった。
「ほら、もう行くよ。そんなにマルシェを空けてられないし」
 正論に言い返せないランチは大人しくフェンネルに手を引かれて湖畔まで戻ってきた。フェンネルが立ち止まって、懐から何かを取り出した。
「これ、今日の記念に」
「わぁ……珍しい色だね」
「リゾートホテルに花を卸してる花屋がちょうど来てたから買っておいたんだ」
 差し出されたのは綺麗に色付いた淡緑色で五枚の大きめな花弁が愛らしい花だった。
「ありがとう、後で付けるね」
 礼を言ってランチは受け取ろうとしたが、フェンネルは花をランチに渡さず、上体を傾けてランチに近付いてきた。
「ちょっ、フェンネル、近いよ!」
「僕が付けてあげる」
 フェンネルの指が髪を掻き分ける感触すら、何か特別なもののように思われてひたすら恥ずかしさばかりがこみ上げてきていたたまれない。ランチは俯いて、この時間が一刻も早く過ぎ去ってくれるのを待つしかなかった。
「出来た。似合ってるよ」
「……ありがとう」
 また礼を言ってちらっと顔を上げると、これ以上ないほど優しく美しく笑うフェンネルの瞳が視界に飛び込んできて、確かに誰にでもこんな顔をフェンネルが向けるわけではないという事はランチにも理解できた。
「ところでランチ」
「……何?」
「なんでそんなに顔を真赤にしてるの?」
 見るとフェンネルの笑顔はいたずらっぽいものに変わっていた。これだからフェンネルの真意がランチには計りかねる。
「フェッ、フェンネルが近かったから!! もう、帰る!!」
 ランチはそう宣言して村へ帰る道へと進んでいくが、後ろを着いてくるフェンネルの押し殺した笑い声は耳に入っている。フェンネルのバカ。口には出さないで心の中だけでランチは村へ帰るまでの間ずっとそう唱え続けていた。

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