ワンドロ26 ハイヒール・デート・サフラン
サフランがその日の執務を終えて王子の部屋から退出し自室へ向かおうとすると、後ろからぱたぱたと走ってくる足音が聞こえた。足音の主は見なくても分かっている、一つ息をつくとサフランは振り返った。
「ランチ、王宮内では走らないようにとあれほど言った筈ですが」
「あっ、はは、ごめんね、丁度サフランが見えたからつい……」
「どうしました、私に何か用事ですか?」
サフランの元に駆け寄ったランチが満面の笑みを浮かべ質問に大きく頷く。
「あのね、サフラン明日お休みでしょ? 王都のマルシェも明日定休日なの」
「それがどうかしたんですか?」
「もし予定がなければ、たまには二人で一緒に遊びに行きたいなーって……だめ、かな?」
恐らく断られる事など考えてもいないのだろう、輝かしいばかりの笑顔でランチはサフランに訊いてくる。
そういうところですよ、あなた。喉元まで出かかっている文句を飲み込み、サフランは一つ息を吐いた。
「特に用事はありませんが、私でいいんですか? 親交を深める意味でもユーカリさん達と行った方がいいのではないですか?」
「ユーカリ達とも遊びに行ってるけど、サフランとはなかなかそういう機会がないなって思って。私はサフランと行きたいんだけど……サフランはもしかして、嫌……?」
先程まで満面の笑みだったのが嘘のようにしょんぼりと眉を下げて悲しげにこちらを見てくるランチの顔に、サフランは答える言葉を失う。口にしてはいけないと思われる様々な言葉の代わりに深く一つ息を吐いて、心を平常に整える。
「嫌なわけがないでしょう。それで、遊びに行くといっても何がしたいんですか? 私はあまり街にも出ないので行き先はあなたに任せますよ」
「えっ、ほんとにいいの?」
「気が変わってもいいんですか?」
「んもー! そんな意地悪言わないでよサフランー! でも嬉しいな、ありがとう」
表情はすっかり満面の笑みに戻って、それからサフランの部屋に向かいながらランチは明日行きたい場所の事を様々話した。他の店の味を研究したいというので飲食店が多いけれども、王宮に相応しいような服装も見繕ってほしいらしくレディスファッション店もいくつか回ることを提案された。ランチ自身のセンスではサフランに却下されてしまうのでそれならサフランに選んでもらおうという事らしい。
ランチのプランを聞いていると、そんなに沢山は回りきれないと言いたくなりながらも胸が高鳴るのを抑えることができなかった。この胸を満たす思いが憧れなのか羨望なのかそれとも別のものなのか、サフラン自身にも分からなかった。とても一つの言葉では言い表すことなどできない、様々な感情が絡まり合った何かの怪物のようにすら思えた。
私の心には、あなたを縛り手の中に閉じ込めようとする怪物が棲み着いている。だから、来てはいけない。
そんな忠告さえ心を悟られる事に繋がるから口に出す事は叶わない。ランチにどこまでも自由に羽ばたいてほしいというサフランの中の願いが、己の中で複雑に絡まり合い根を張った欲望を知られてはならないと悟らせるから。
次の日、約束の十分前に待ち合わせ場所の王宮の門に着いたサフランは、思っていたよりも早い時間に駆け足で向かってくるいつもの格好のランチを迎えた。
「おはようございます、あなたにしては早かったですね」
「おはようサフラン、ちょっと寝坊しちゃって慌てちゃったよ、でも間に合って良かった!」
「寝坊はしたんですね……道理で、ほら、髪が乱れています」
そう告げてサフランはランチの乱れた後ろ髪を手櫛で整えた。こんな些細な接触にすら、胸はどうしようもなく高鳴り甘く締め付けられる。その事実に、苦い思いが胸に広がる。
「ありがとう。サフラン今日はいつもとちょっと感じが違うね……柔らかい感じがする」
「街に行くのですからそれなりの服を着ただけです。あなたもユーカリさん達に普段着を選んでもらえばいいでしょう」
「うーん……そう思ってみんなで選びに行くんだけど、なんか意見が割れちゃって……結局何も選ばないで終わっちゃうんだよね」
どうしてだろう、と不思議そうなランチは不思議そうな顔をするが、あれだけ主張の強いメンバーが集まれば意見が纏まるほうが不思議というものだ。料理の事ならランチはそれを纏める手腕を持っているけれども、服に関してはそれがないというそれだけのことだ。
「王宮で着られる服は今日選んでしまいましょう。回る店も多いことですし早速行きましょう」
「うん! 楽しみだなー!」
底抜けに明るい声でランチはそう言って、サフランの横に並ぶと手をとった。きっといつもランチは友人とこうして歩いているのだろう。そこにサフランが考えるような特別さは何もない、ランチにとってはごく自然で当たり前の行為なのだ。そうは思ってもサフランの心は晴れることなく、目を伏せて路面を見つめながら歩くことになってしまう。
荷物が増えるファッション店は後回しにして、午前から昼下がりにかけては数店の飲食店を回った。普段そう量を食べないサフランは頼んだ料理を次々に食べるランチに驚いたが、ランチはユーカリはもっとすごく食べるんだよ、と楽しそうに嬉しそうに教えてくれる。そんな事にすらちくりと胸に痛みが走る。
私だけを見てほしい。私の事だけを考えてほしい。そんな身勝手な願いを抱いたところでどうにもならないのに、胸に湧き上がるその思いは決して消えはしない。
飲食店巡りが一段落したところで、フォーマルな衣装を扱うファッション店をいくつか見て回る。並んだ数々のスーツはランチを飾るには窮屈すぎて、どれを勧めたものかサフランは店の中を何周も歩き回りながら真剣に考えた。ふと横を見ると、台にディスプレイされた淡いサーモンピンクのハイヒールが目に入った。
「服を買うなら合わせる靴も必要ですね。これはどうですか? あなたに合う色だと思いますが」
「えーっと……ヒールが高い靴って、ちょっと疲れやすそうかなって」
「王宮に相応しい格好をしたいと思うならそれ位は我慢してください。他の色の方がいいですか?」
サフランに訊ねられ、ランチは首を傾げてうーんと暫し考え込んだ後、サフランに向き直ってにこりと微笑んだ。
「ううん、じゃあこれにする! こういう靴も一つはないとこの先困るだろうし……それにサフランが似合うって言ってくれたもんね」
あなた、そういう所ですよ。また喉元まで出かかった言葉をどうにか堪える。
その後靴に合わせた淡いピンクのスーツと中に合わせるブラウスも選んで購入して店を出たところで、空は夕暮れの橙に彩られていた。橙が段々白んで薄黄色になり、雲は桃色に彩られそれが夜の闇に飲み込まれていく。心も、一つの色で表せたならきっとこんなに苦しくはないのに。夕焼けを見上げてサフランはふとそう思った。
「今日は楽しかったです、また誘ってください」
「うん、絶対また来ようね!」
「さあ、帰りましょうか」
サフランがそう言うとランチは荷物を持たない方の手をサフランの手に絡ませ歩き出した。風が何か煮込み料理の匂いを運んでくる。ああこれは幸せの匂いだ、そう思ってサフランは朝のように目を伏せて歩いた。
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