ワンドロ27 イメソン(宇多田ヒカル「あなた」)
目が覚めるとすぐ隣に静かに寝息を立てる穏やかな寝顔がある。すっかり見慣れた光景だけれども、その寝顔を見つめる度にフェンネルは他に何を失ってもこれだけは失いたくないという切実な衝動に胸を焦がす。ランチが目の前から突然いなくなる事などきっとないだろう、先にいなくなってしまうのは恐らくフェンネルの方だ。それでも、毎日こうして安らかな寝顔を見られるだけでフェンネルの胸は愛おしいという感情で溢れそうなほど満たされてしまう。
ランチの寝顔ならば一日中でも眺めていられそうだけれども、起きているランチと他愛のない雑談をして食事をして新しいレシピを考えて、日常のそんな一つ一つの事柄をどれも今は一つたりとも掌から零したくない。そして、出来うるならば昨日とそう変わり映えしない今日が来て、今日とそう変わり映えしない明日が来てほしいと願っている。
時間は限られている。フェンネルはベッドから起き上がって着替え、朝食の支度を始める。そのうち寝ぼけ眼を擦りながらバジルが起き出してきて朝の挨拶をする。それに少し遅れてランチが起きてくる。二人が顔を洗ってきてテーブルに着く頃には朝食の準備はすっかり出来上がっていて、最後に熱いコーヒーを各自のカップに注いで朝食が始まる。
「バジル、今日はマートルさんとこの子の誕生会に呼ばれてるんだっけ」
「あ、はいそうっす。こういうの初めてだからちょっと緊張するっす……」
「そう硬くなることはないよ。呼ばれてる子はみんなもう友達だろう、楽しんでくるといいよ」
バジルの家では誕生会などという行事はとんと縁遠かったらしく、パーティが始まるまでまだ大分時間があるのに既にかなり緊張していた。その様子がおかしくてフェンネルはくすりと笑ってコーヒーを啜った。
「というわけなんだけどランチ、今日は二人でのんびりピクニックでもしない?」
「……えっ、うん、私はいいけど……」
「大丈夫、今日は身体の調子がいいから。問題ないよ。それにそんな遠くまではいかないさ、天気も良さそうだし湖に行こう。二人でお弁当を作ってさ」
微かに不安げに眉を動かしたランチに安心してもらいたくて、そっと微笑んでみせる。ランチはまだ少し戸惑っていたけれども、こくりと小さく頷いた。
朝食を済まして後片付けをすると、フェンネルとランチは二人で簡単なサンドイッチとおかずを作り、家を出るまではまだ時間があるバジルも手伝う。弁当の用意が整った頃にはすっかり日は高く登っていた。バジルに見送られて、二人並んで家を出る。
湖に向かう間、フェンネルはランチと手を繋いで歩く。どうしてみんなでマルシェをしていた頃からもっと早くこうしなかったのかな、もっと何回でも手を繋いで歩きたいな、今はそう思う。あの頃も今も、フェンネルの心を占めるのはランチだけだ。毎日を共にしても日毎に思いは深まっていく。もしも突然ランチがいなくなってしまったら、フェンネルは今度こそ本当に生きてはいけないだろう、そう思う。
「ねぇフェンネル、二人で外歩くの、なんだか久しぶりだね」
「そうだね。誰かさんがあんまり心配するから自由に出歩けなくて」
「それは! 私はほんとにフェンネルの体の事……!」
反論を返そうとするランチの口を、フェンネルは唇でそっと塞いだ。口を離すと、耳や首まで真っ赤になったランチがわなわなと震えている。
「フェンネル! もう、まだ人が見てるのに!」
「ふふ、そんなの関係ないよ。したい事は我慢しないって決めたんだ」
もう、と言いつつランチがフェンネルの肩を拳で軽く叩く。何の効き目もない制裁。その感触を後どれだけ感じ取る事ができるだろう。
湖までは歩いて二十分ほどで、水際に立つと湖を囲むガラスの結晶が光に煌めき空の蒼をその身の内に宿して波一つない湖面に影を落としていた。子供の頃は見飽きて何も思わなくなっていたこの景色も、芽を輝かせ景色に見入るランチが隣にいるだけで輝きと色彩を増して、この上もなく美しいもののように思われた。
生き物の影がない湖の上を雲が渡っていく。風はほぼなく、暑すぎず寒くもないいい日和だった。適当な場所にシートを敷くと、ランチとフェンネルは二人で並んで座り湖面を眺めた。
「ほんとはもっと花が咲いてるような所がよかったけど、ちょっと遠くなっちゃうから」
「ここもすっごく綺麗だから私好きだよ、ありがとうフェンネル、一緒に来てくれて」
「それは僕の台詞だよ、ありがとうランチ」
ランチの方を向かず前を見たままフェンネルは呟いて、ゆっくりと体を横に倒しランチの太腿に頭を乗せた。
「フェンネル? 疲れた……?」
「こうしたいだけだよ。こうやって見るとね、湖がすごく煌めいて綺麗なんだ」
側頭部から伝わるランチの温もりを感じながら、フェンネルは彼岸のものであるかのような湖を眺め続けた。
もし、僕がいなくなってしまったらランチはどうするだろう。また誰かを見つけて幸せになってほしいけど、僕の事は忘れないでほしいな。口には出せないそんな言葉は胸の内で溶け消えていく。
「ねえランチ、覚えてる? 今日はね、君が突然百冊も新レシピのノートを持って押しかけてきてから一年なんだよ」
「えっ、そうなの? よく覚えてるねフェンネル」
「覚えてるよ。君の事なら全部。だから今日は二人で過ごしたかったんだ」
フェンネルの言葉に応じるように、ランチの手がフェンネルの髪を優しく梳き撫でる。
僕の優しい天使は僕を撫でる手まで優しいんだね。母さんとは違う、僕だけの天使。
さぁっと風が渡り湖面が波立ったけれども、しばらくするとまるで風などなかったかのように再び湖面は静まり返る。フェンネルは首を動かしてランチを見上げた。どうしたのとフェンネルに声をかけてランチはフェンネルの顔を覗き込む。特に際立って美しいわけではないけれども好奇心に輝いた瞳が印象的な丸く優しい顔立ちの、フェンネルにとっては他のどんな人より眩しく美しい人。
なんでもないよ、とフェンネルは答えて、ランチの首を腕で掴まえて体を起こしそっと口付けた。
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