勿忘草の咲く頃(フェンラン)
ランチが百冊以上のレシピノートを持ってテシカを訪れフェンネルと一緒に暮らすようになって半年ほどが経過していた。季節は春を迎え、主にユーカリ・マジョラム・ミツバの強い勧めでごくごく身内だけで小規模な式を挙げることになり、当日が近付くにつれて何故か式を挙げる二人よりもバジルがそわそわと落ち着きがなくなっていき、そんな様子を見てランチとフェンネルは顔を見合わせてくすくすと笑い合ったりしていた。
ランチが着るドレスは近所の奥さん達が数日かけて用意してくれた。子供の頃からフェンネルを知っている人達で、ランチの事も娘が一人増えたように接してくれている。自分で着るものの事だ、ランチも手伝おうとしたのだが料理以外はからきしのランチは何度も針を指に刺してしまい、ここはいいから出来上がりを楽しみにしておいでと小さなケーキ店を営むようになったフェンネルの店の手伝いに戻らされていた。
当日、村の教会の一室に運び込まれた完成品のドレスを目にしてランチはほぅと溜息をついた。純白の美しいドレス、これを本当に自分が着るのだろうかと正体の分からない不安に襲われる。ドレスやメイク用品を用意した数人の奥さん達がランチを取り囲んでメイクをし髪をアップに整えドレスを着せてヴェールを被せていく。あれよあれよという間に見た目の準備が整っていくのに心の準備は追いつかない。
「さあ出来たよ、とびっきり綺麗な花嫁さんだね」
「ありがとうございます……」
「これならフェンネルの隣でも見劣りはしないよ。あっちが見惚れちゃって式にならないかもしれないねぇ、あははは!」
奥さん達は呵呵と笑い合うが、ランチは鏡の中自分を不安げに眺めて返事を返せずにいた。鏡の中にいるのはドレスに映えるようきっちりした化粧を施した見慣れない自分の顔で、これがいつもの自分よりも美しいのか、本当にフェンネルの隣に立っても見劣りしないのかの判断がつかないし自信を持てなかった。
「ランチ、もう準備は終わった?」
ノックの音が響いて、続いてドアの外からフェンネルの声が聞こえた。入っていいよと奥さんの一人が答え、ドアを開けたフェンネルが顔を覗かせるとじゃああたしたちは会場の準備の手伝いに行くからねと奥さん達はフェンネルと入れ違いにぞろぞろと出ていった。
部屋に入りドアを閉めたフェンネルは少し離れた所で立ち止まって、鏡の中のランチの顔を眺めているようだった。今更何を恥ずかしがることがあるだろうとは思うけれども恥ずかしくて顔を上げることができない。
「ねえランチ、こっち向いてよ」
「……やだ」
「今日の僕の衣装けっこう決まってると思うんだけど、見てくれないの?」
「後で見るし……」
フェンネルがくすりと笑った息の音が微かに漏れ聞こえてくる。笑い事じゃないのに。どういうわけだか拗ねてしまっている自分を感じてしまって、本当はいつも通り素直にフェンネルを見てその美しさを褒めたいのにそれができないことがもどかしくなる。
カツカツと床を打つ靴音が響いて、フェンネルが近付いてくる気配がする。肩を竦め更に顔を俯かせて唇を噛む。フェンネルはきっと輝くように美しいのだ、隣に立つなんて引き立て役にもなれはしない。そんな後ろ向きな思考で頭が一杯になってしまって顔を上げられない。
「ねえ、立って?」
肩にそっと手を置かれるけれども、ランチはふるふると首を振って拒否の意を示した。マリッジブルーというのはよく聞くけれども、それとはちょっと違う気がする。この先のフェンネルとの生活が不安なわけではなくて、今この姿を見られるのがどうしようもなく恥ずかしいだけなのだ。
「式が始まる前に大事な話をしたいんだけど?」
「このままでも話せるし……」
「ちゃんと君の目を見て話したいから、こっち向いてよ」
フェンネルの声音は穏やかだけれども真剣だった。おずおずとランチは顔を上げ、立ち上がってフェンネルの前に立つ。白いタキシードの中にネイビーのベストを着て胸のポケットにポケットチーフと淡いピンクの薔薇を差し微笑んだフェンネルは想像していたよりもずっと美しさのあまりに眩しくて、やはり隣を歩くなんてできないと思ってしまってつい目を逸らしてしまう。
「思ってたよりもずっと君が綺麗だからびっくりした」
「そうやっておだててもダメです……」
「本当の事だよ。そうだな、まるで本物の天使みたい……」
夢見るようにそっと呟いて、フェンネルはランチの手を取った。
「ねえランチ、僕は言ったよね、君には君の未来があるって」
「……うん」
「君の未来に、僕と一緒にいる事を選んでくれたことが、僕は本当に嬉しいんだ。でも、僕は君をきっと置いていってしまう。だから……」
「それでもいいの! 私が決めたんだもん、私がそうしたいの、これからはずっとフェンネルと一緒だって!」
慌ててつい大きな声で告げると、フェンネルは何がおかしかったのかくすりと笑いを漏らした。
「分かってるよ。ちゃんと最後まで聞いて。いい、君の未来は僕がいなくなっても続くんだ。その時前に踏み出す事をやめないでほしい。僕の好きなランチはまだ誰も知らないような新しい味を求めてどこまでも進んでいく女の子だから」
「うん……」
「でも、その時が来るまでは僕の側にいて。これは僕の我儘だけど……でももう君と離れるなんて考えられないんだ」
「うん……離れない。ずっと側にいるよ。毎日、飽きるくらい、一緒にいる」
「ほら泣かないで、折角のメイクが崩れちゃうから。鼻水もダメだよ」
フェンネルの手がふわりとヴェールの上からランチの頭を撫でる。潤んだ目をぱちぱちと瞬かせてどうにか涙を堪え、どうして一緒にいられることの喜びを忘れていたのだろうとそれがなんだかおかしくてランチは笑った。
「やっと笑顔になってくれたね。やっぱり笑顔が一番素敵だし、見ると寿命が伸びる気がするから一杯笑ってほしいな」
「うん、私、一杯笑うね……フェンネルの寿命一杯伸ばさなくっちゃ」
よろしく頼むよ、とフェンネルもにこりと笑う。ノックの音がして、ドアの向こうからそろそろ時間だよというマジョラムの声が聞こえた。
「じゃあ行こうか、僕の世界一綺麗な花嫁さん」
「うん、世界一かっこいい花婿さん」
差し出されたフェンネルの腕にランチは腕を絡めて、歩調を合わせて式場へと歩いていく。逃れられない別れは無慈悲に二人を引き裂くだろう、でもそれでも、この人の生を幸せで満たしたいのだ。生きていて良かったと、出会えて良かったとお互いに思えるような時間を過ごしていきたい、二人で。それが例え儚いものだとしても、ランチがその心に刻んだならそれは確かに存在したことになるのだから。
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