la casa felice(フェンラン)
生の気配も音もない静寂に包まれたテシカの湖畔に建つ小さな家に大荷物を背負ったランチが突然押しかけて来た日、気持ちを通じ合わせこれからの時間を共にするという喜びにひとしきり浸りその余韻も落ち着いた頃、ベッドから起き出したフェンネルはランチの背負ってきたリュックサックの中身を覗き込んだ。
「あのさ、君……この中身、全部ノート?」
「うん、ノート全部入れたら他の荷物が入らなくなっちゃって。どうしても全部フェンネルに見てほしかったから」
「……あのね、旅するならもっと着替えとか色んな荷物が必要でしょ? それに今日どこに泊まるかとか、ちゃんと考えてる?」
「えーっと……あのね、うん……とりあえず来ればなんとかなるかな~って……あはは」
笑って誤魔化そうとするランチを見て、フェンネルは呆れ一つ溜息をついてそれから苦笑した。
「いいよ、これからここで一緒に暮らそう。ベッドは一つしかないけど、それでも良ければ」
「えっ、ちょっと、あの、さすがに……それは、いきなり……!」
「見た通り僕一人が暮らすのに充分なだけの小さな家なんだ。もう一つベッドを入れると狭くなりすぎちゃうだろ?」
大胆な申し出にランチは狼狽えるが、フェンネルの言う通りこの家は暮らすのに必要最低限の調度が揃えられているだけの小ぢんまりとした家だった。この中にもう一つベッドを増やしたら確かに部屋が狭くなりすぎてしまう。渋々頷くと、フェンネルはにこりと笑った。ランチの大好きな、切り取って額に飾っておきたくなるような綺麗な笑顔だ。
「でも君が来たんだから、部屋を一つ増築してもいいかもね。君の荷物を置く場所も必要になるしアイディアとかレシピをまとめるのに机とかもあった方がいいでしょ?」
「えっ、増築って……そんな、お金かからない?」
「これでも僕今まで結構稼いでて、それくらいの貯金は充分あるんだよ。君と一緒に暮らせるならそれ位の事なんでもないさ」
楽しそうに微笑みながらフェンネルがすっと手を差し出してくる。何だろうとランチが首を傾げていると、数歩歩いてきたフェンネルがランチの手をそっと取った。
「荷物は後で送ってもらうにしても、とりあえず当面の着替えとか必要でしょ。色々買わないといけないから村に行こう?」
「うん……」
手を繋ぐのは別に初めての事ではない、今まで何度も手を繋いで一緒に歩いた事はあったのに、何故だか妙にフェンネルの掌の温度を意識してしまって鼓動が速まりどくどくとやけに大きく耳の中で響く。私、フェンネルが好きなんだ。フェンネルも私を好きで、これから一緒に暮らして。自分のとった行動に所以するとはいえ急に変化してしまった状況と心のありように少しだけ混乱して、隣の存在を今までとは違う大きさと重みで意識してしまう。
ここまで来てしまったのは本当に衝動的にやってしまった事で、その後どうするかなど少しも考えていなかった。王宮の仕事を辞めてすぐ荷物を纏め、まっすぐフェンネルの許を目指した。少しでも早く会って気持ちを伝えたい、それしか考えていなかった。
今までは本当に料理の事しか考えてこなかったから、知らなかった。好きな人と手を繋いで寄り添い歩くのが、こんなにも恥ずかしさに顔が熱くなって居たたまれないような気持ちになって、それ以上に甘く胸がときめいて心が暖かさで満たされるものだということを。ゆっくりとした歩調で言葉もなく二人で村への道を辿っていると、やがて道の向こうから買い物籠に一杯の荷物を持ったバジルが歩いてきた。
「あっ、フェンネルさん起きたっすね! 村に用事っすか?」
「うん、このおバカさんがね、着替えの一つも持たずに来ちゃったもんだから。下着とかタオルとか替えの服とか、当面必要になりそうなものを買いにね」
「……? ランチさんすっごい大きな荷物持ってたっすよね? てっきりぼくフェンネルさんと一緒に暮らすための荷物だと思ってったっすよ」
疑問符を周りに一杯浮かべているようなバジルの不思議そうな顔を見て、ランチはますます居たたまれない気持ちにさせられた。そうだ、ランチは料理バカだ。皆と別れてからというものフェンネルの事で頭の中が一杯になって、フェンネルの事を考えていると次から次に湧き出してくるレシピのアイディアを何かに取り憑かれたように次々とノートに書き留めて、書けども書けども止まらなくなってフェンネルに見てもらいたくて仕方なくなってもう我慢ができなくなってしまって、ただそれだけしか頭になかったのだ。王宮の仕事もままならなくなったランチの様子を見ていたサフランに呆れ困ったような苦笑で送り出されて、申し訳無さは募ったが自分の正直な気持ちに嘘はつけなかった。ランチは料理バカで、フェンネルバカだ。他の事なんてすっぽりと頭から抜け落ちてしまう位の強い気持ちがこの二つに対して溢れている。
「まあ、そういう訳だからちょっと行ってくるから、夕飯の支度は任せちゃっていいかな?」
「はい、バッチリ任せてくださいっす! 帰ってくる頃には出来たてのご馳走用意してるっす!」
行ってらっしゃいっすと元気な声で二人に手を振り、バジルはフェンネルの家へと歩いていった。二人も再び村へと歩き出す。
「バジルくんとは別々に暮らしてるの?」
「うん。バジルがいると色々世話を焼かれちゃうから、自分の事は自分でしたくてさ。それでも今日みたいに僕が村に顔を見せない日には世話を焼きに来るんだけどね。村の知り合いに子供のいないご夫婦がいてね、そこで面倒を見てもらってる。働かないのにお世話になれないっすなんて言ってたけど、これから僕と一杯働いてもらうからって説得するのに凄く苦労したんだよ。そうそう、それから君に言われた通りちゃんとバジルの家族と会ってきたよ」
柔らかく微笑んでフェンネルがそう報告する。バジルがこれからもフェンネルのケーキ作りを手伝っていくという決意を聞いて、皆との別れ際にランチはフェンネルとバジルに、バジルの家族に会いバジルの今迄と今後の事をしっかり話すように提案した。分かったよとフェンネルは頷いて、言葉通りに話をしてくれたようだった。
「バジルくんのご家族、どうだった?」
「やっぱり急にバジルがいなくなって凄く心配してた。マルシェで大活躍してくれたって話したら喜んでくれて……それで、働かせてくれてありがとうございます、これからも息子をよろしくお願いしますって頭を下げられちゃって……ほんと参ったよ。バジルが一人前のパティシエになるまで生きてる責任出ちゃったなぁって思って」
「そっか。ふふ、そうだよ、フェンネルはバジルくんが一人前になって独り立ちするまで、ううん、その先ももっと長生きしてくれないと困るんだから」
「参ったな、僕そんなに頑張れるかなぁ?」
「私も一緒に頑張るから、できるよきっと。何かね私、フェンネルと二人でだったら何でも出来ちゃう気がするの。不思議なパワーが湧いてくるっていうか」
「愛の力ってやつ? ふふ、ランチらしいね。本当に奇跡だって起こせちゃいそうだね……」
ランチを見下ろして目を伏せたフェンネルの瞳に長い睫毛が色濃い影を落とす。こんなに美しい人が自分の事を好きだと言ってくれるなんて心のどこかでまだ信じられない気持ちがあって、でも繋ぐ手の温もりが本当の事だと教えてくれるから柔らかな幸福感が胸を満たす。陽光はまだ明るいけれども大分西に傾いてきていた。とりとめのない話をしながら歩いている内にいつの間にか硝子の林の道を抜けて村に入っていた。雑貨屋で当面必要になりそうなものを買い揃えて家路につく。
家に帰るとバジルは食べきれないような量の料理を用意して二人を待っていた。今日はフェンネルの家で食事してくると言ってあるというのでバジルと三人で食事を始める。離れていた間の話で盛り上がる食卓は賑やかで和やかで、あっという間に時間が過ぎていき、食べきれないと思っていた料理の数々もいつの間にか綺麗になくなっていた。
「ほんとランチはよく食べるよね。ユーカリほどじゃないけど」
「フェンネルの食が細すぎるだけだよ! もっとちゃんと食べないと体丈夫にならないんだからね。それに今日は、バジルくんの料理が本当においしかったから」
「へへ、お世話になってるおばさんのお手伝いをして料理も習ってるっす。放っとくとフェンネルさんちゃんと食事してくれないっすから……。マルシェにいた時もみんなから習ってたから、ぼく一杯料理覚えたっすよ!」
「そっか、これからバジルくんの料理を色々食べられると思うと何だか楽しみだなぁ。これからは私も作るから、バジルくんも食べてね」
「はいっす!」
「ふふっ……ほんと、色気より食い気っていうかなんていうか……」
堪えきれない様子で笑いだしたフェンネルをきっと睨み付けるけれどもその視線もますますフェンネルを笑わせるだけだった。むくれていると、バジルが後片付けを始めようとするので私がやるからと言いつつ立ち上がってランチは皿を流し台へと運び、食器を洗い始めた。後片付けを終えるとフェンネルと何か話していた様子のバジルは席を立ち、また明日と言い置いて帰っていった。
バジルにも気兼ねせず帰れる場所ができた。その事がランチはとても嬉しかった。働かなければご飯を食べてはいけないと悲しい事を言っていた、帰れ
る場所もない寄る辺のない子供だったバジルが、今はあんなに伸びやかに笑っている。バジルがお世話になっているご夫婦にも近い内にご挨拶に行きたい、そう思った。
「ねえ、フェンネルはこれからどうするの? バジルくんにお菓子作りは教えるんだろうけど……」
「その事だけど、近い内に村で小さな店を開こうと思って準備してるところなんだ。君も一緒に働いてくれるよね?」
「うん、勿論! 私が接客するからフェンネルとバジルくんが二人でお菓子を作ればバッチリだね!」
小さな店。具体的な案を聞いて、三人で店で働く光景を思い浮かべる。可愛らしい外装の店内を暖かで楽しげな空気が満たし、近所の人や観光客がフェンネルのキラキラのケーキに目を輝かせ、ランチは注文されたケーキを紙箱に入れ笑顔で渡し、客足が引いた頃には厨房を覗いてフェンネルとバジルが何やら楽しげに言葉を交わしながら作業している様子を見守る。一段落したらお茶を淹れて休憩して、そしてまた働く。夕陽が落ちる頃店を閉めたら家に帰り、夕食を作りそれを食べながらフェンネルと新しい菓子のアイディアを話し合ったりして、家事の諸々を済ませたらその日出た新しいアイディアをレシピノートに纏めて眠りに就く。そんな毎日が過ごせたならどんなに楽しいだろう。それは実現しない夢ではない、自分達がこれから形にしていく未来なのだ。
「素敵だね、フェンネルのお店。早く働きたいな。レシピのアイディアも一杯あるから、新商品も一杯出せるけど……」
「けど……?」
「ここに来る途中でね、ちょっと考えてたの。テシカでしか食べられない、テシカならではの食材とか何かを使ったフェンネルのお菓子を何か作れたら、観光に来てくれたお客さんもきっと喜んでくれるし、村ももっと盛り上がるんじゃないかなぁって。テシカは山の斜面を利用した果樹栽培と牧畜があるでしょ? それで何か名物になるようなお菓子を作りたいなって」
「いい考えだと思うよ。店はまだ外装工事中でオープンはしばらく先だから、それまでに何個か考えて試作もしてみようか」
「うん!」
フェンネルの同意にランチは嬉しそうに笑って頷く。だけどその笑みは急にすっと消えて、殊の外真剣そうなランチの眼差しがフェンネルを見つめた。
「ねえフェンネル、お別れパーティの日、フェンネル私に言ったよね。君には君の未来があるって」
「うん、言ったよ」
「あのねフェンネル、私は自分の未来も夢も何も犠牲にしてないよ。今の私の夢は、フェンネルと一緒にテシカでしか作れないすっごくおいしいお菓子を作る事だし、私の未来にはフェンネルが側にいてくれないとやっぱり嫌だなと思って、だからここまで来たの。フェンネル抜きの未来や夢なんて考えられない、だから私……」
「うん、分かったよ……あのさ、君……今自分が熱烈な愛の告白をしてたって事気付いてる?」
熱烈な愛の告白。至極真剣だったのでそんな事は考えずに考えていた事をただ懸命に口にしていたが、フェンネルが側にいない未来など考えられないという台詞など熱烈な愛の告白以外の何物でもない。そう思い当たると急に恥ずかしくなり、ランチは耳まで真っ赤になって俯いてしまった。
「君は、僕といる未来を選んでくれたんだね……いつまで一緒にいられるか分からないけど、すぐに君を置いていってしまう事になるかもしれないけれども、それでも僕は、君が僕を選んでくれた事をとても嬉しいと思ってしまう……」
密やかで穏やかなフェンネルの呟きに、ランチはそっと顔を上げた。フェンネルの頬を、すうっと一筋硝子が零れたみたいな美しい涙が伝っていく。
「今でも僕には自信がないんだ。明日命が尽きてしまうかもしれない僕が、君にどれだけの幸せをあげられるだろうって。それでも僕は我儘だから、君が僕を選んでくれた事を嬉しいと思ってしまう……」
フェンネルの言葉にランチはゆっくりと首を横に振った。ポケットからハンカチを取り出しフェンネルの頬の涙を拭う。
「私だって我儘だよ。フェンネルがそんなに不安に思ってるのにそれでもずっと一緒にいようねって言ってくれた事が、凄く嬉しいもの。本当はね、明日終わっちゃったってそれでもいいの。でも出来れば、お爺ちゃんとお婆ちゃんになるまでずっと一緒にいたいな。明日の事なんて明日になるまで分からないもの、だから、その日その日を精一杯生きていきたいんだ、二人で一緒に」
ランチの言葉を聞きながらもフェンネルの涙は止まらない。ハンカチで頬を拭っていたランチの右手を両手で包み額の辺りに押し頂き、俯いてはらはらと涙を零す。
「ありがとう、ランチ……僕の側にいてくれて、ありがとう……レシピノート百冊分のお菓子を作るまで……バジルが一人前になるまで……頑張って生きるから」
「レシピノートはこれからもどんどん増えるから、ずっと、ずっと一緒にいようね」
ランチは椅子から立ち上がってフェンネルに寄り添い、フェンネルの頭をそっと胸に抱き締めた。二人で生きていく、そう決めた。たとえどんな結末が待っていても、お互いに幸せだったと思える筈だから。
一ヶ月ほどの後、フェンネルの店がオープンした。店名は「la casa felice」、幸せな家という意味の名前だった。
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