世界はそれを恋と呼ぶんだぜ(リンラン)
翌日の仕込みをしながらリンドウの口から漏れるのは溜息ばかりだった。ユーカリからの手紙を受け取って世界樹のマルシェに舞い戻り、そこに待ち受けていたのは世界樹の国の王宮から来た料理アドバイザーのランチという少女だった。そこまではいい、何の問題もない。ユーカリの手紙に書かれていたゴーマン商事のやり口は悪辣でとても許せるものではなく、莫大な借金で窮状にある世界樹の国の力になる事には何の異存もない。未だ修行中の身ではあるが出来るだけの事をしたいと思っている。
困惑しているのは、ランチが今まで接してきた女性と少し違う、という点だった。
とにかく何をするにつけても距離が近い。子犬ではあるまいし無防備に無警戒に近寄られてもリンドウとしては対処に困る。子犬ならば遊んで撫でてやればいいが、相手は妙齢の女性なのだ。近寄られると風向きによってはシャンプーの香りなのか甘い香りが漂ってくるし、この間仕入れに行った時など重そうなので荷物を持とうと手を差し出したらどういう訳か手を握り返された。こんなにリンドウの懐にぴょいと踏み込んでくる女性は今までの人生で遭遇した事がないので、どうすればいいのか心から本当に対処に困る。
甘い香りを嗅ぐ度、触れられ体温を感じる度に、心臓の鼓動が強く速くなり頭に血が上る。平静でいられない。それなのにあろうことかランチは至近距離からリンドウを見上げ眩しいほどの満面の笑顔を見せる。そんな笑顔を間近に見せられると、ますます平静さを欠いてしまう。
ランチの態度はリンドウにだけ特別に向けられているわけではない。フェンネルともブーケガルニともそんな感じだ。だが二人はごく自然にランチの距離の近さとスキンシップを受け入れている。ただ一人リンドウだけが狼狽え感情の持って行き場を見失っている。それどころか焦りや照れとよく似て少し違うこの感情の名前すら知らない。
一体何なのだろうあれは、その事を考えると溜息ばかりが漏れる。(恋愛関係にあるわけでもない男女間のそれとしては)距離が近いぞと何度窘めてもそうかなあと返すばかりでランチは大して気に留める風も見せず、同じことが繰り返されていく。あの碧くつぶらな瞳で真っ直ぐ見つめられると何やらありもしない肚を見透かされるようで、意味の分からないやましさに駆られる。
修行が足りない、精進が足りない、未熟者だ。結論としてはそういったところに落ち着くのだが、あんなに距離を詰めてくる妙齢の女性と平静に対応できる修行などどうすればいいのか皆目見当も付かない。フェンネルはその容姿から普段から騒がれて女性慣れしているだろうしブーケガルニはそういう細かい事を気にしなさそうだ。どういう鍛錬を積めばいいかの相談相手としては不適格に思えた。
他の女性メンバーに付き合ってもらって練習を、という考えもちらりと浮かんだが、まずミツバは笑顔で断ってくるだろうし妙齢の女性というにはまだ幼なすぎる。ユーカリとマジョラムならばどちらもランチと歳の頃は同じだしいい練習相手にはなるだろうが、練習では留まらず不埒な想いを抱いてしまいそうで恐ろしかった。己の理性の堅牢さには些かの自信があるが、それでも女性との接触は未知数の体験なのだ、何が起こるかなど分からない。練習のつもりが消えない傷を相手に与えてしまっては……と考えると二の足を踏まざるをえなかった。男は時に理性の制御を振り切って獣の本性を表す事がある、いつでも理性的に己を律することのできる男であれと厳しく父に躾けられてきたリンドウだが、距離の近いランチに覚える訳の分からない感情を思うと己を制御できる自信など持てはしない。
脈拍が上がり妙に落ち着かずそわそわしてしまう事にも体温が上がり頬が熱くなる事にも戸惑っている。普段の己を保てない。そんな理由でリンドウはランチの事が少々苦手だった。だが悪意の全くないであろうランチを己の未熟から苦手に思うのも後ろめたく、しかしながら眼前の問題を解決する端緒すらも掴めずにいる八方塞がりの状況にリンドウは置かれていた。
せめてもう少し距離をとってくれればこんなに心乱されずに済むのだが。そう思ってみたところでリンドウには近すぎる距離がランチにとっては当たり前のもののようで、二人の認識はどこまで行っても噛み合わない。
フェンネルやブーケガルニのように受け入れ慣れるしかなさそうだが、どれだけの接触を経れば慣れられるのかなど全く見当も付かなかった。ふつふつと煮立つ小豆の鍋を見守りひたひたの水位を保つよう水を足しながら、リンドウはただひたすらに思い悩んでいた。
だから気付かなかったのだ。隣にランチが立ちリンドウの顔を覗き込んでいる事など。
「リンドウ? ねえリンドウってば?」
「!?」
気付けば肩口に密着したランチの目線がリンドウの顔を覗き込んでいた。あまりといえばあまりの事態に慌てふためきリンドウは水の入った器を台の上にひっくり返しながら後退った。
「いっ……い、いっ、いつの間に!!」
「さっきから何回も呼んでたよ。リンドウ全然気付いてくれないんだもん」
「だっ、だ、だからといって! きょ、距離が近すぎといつも言っているだろう!」
「えっ、そうかな? そんなに近かった? それより水が、早く拭かないと。小豆もちゃんと見てないとだよね、邪魔してごめんね」
言いながらランチは持っていたバインダーを台の上に置き、台布巾を手にして台の上をびしょびしょに濡らした水を拭き始めた。距離をとった事で少し冷静さを取り戻したリンドウも、小豆の煮上げに支障が出てはいけないと器に水を汲み直し鍋の前に戻る。
「……それで、何の用だ」
台の上を拭き終わったランチにそう話を振ると、そうそうと言いながらランチはバインダーを再び手にしてリンドウの前に書類を示した。
「あのね、今日の売上なんだけど、ここが計算が合わなくて……」
「トータルでは合っているのだろう? 記入ミスではないか?」
「それがね、こことここを足すとこうなるから、間違ってはないみたいなんだよね……でも合計金額を出そうとしてもどうしても辻褄が合わなくて……」
「少し待て、小豆が煮上がったらきちんと見るから…………」
そう口にしてふと目線を上げると、気付けばランチの顔が至近距離にあった。バインダーを二人で顔を突き合わせて見ているから自然とこういう距離になってしまったという事は分かるが、それと平静を保てるかどうかはまた別問題だ。気付いた途端にかーっと血が上って耳や首の辺りまで顔が火照り心臓が早鐘を打ち始める。
「どうしたの? リンドウなんか顔が赤いけど、熱とかある? もしかして具合悪いの?」
ランチはといえば意にも介さず落ち着いたもので、リンドウの体調の心配など始めている。おかしいのは体調ではない、心だ。訳の分からない感情に支配されて身体の動きまでぎこちなくなる。バインダーを覗き込むため屈めていた上半身をどうにかゆっくりと上げてランチから距離をとり、幾度か深呼吸を繰り返す。
「大丈夫? 明日お店休みにする?」
「……大丈夫だ、問題ない。具合も悪くない」
どうにか平静を装いずり下がりそうになっていた眼鏡を直すと、水の入った器を手に鍋に向き直る。今ランチの方を見てしまえば、一体自分はどうなって何を口走ってしまうのか分からない。そんな正視できない恐怖のようなものがどこかにあった。修業、鍛錬だ。精神を統一し常に平静であれ。簡単に心を乱すな。様々な言葉で己を戒めるが、一度生まれてしまった動揺はそう簡単には収まってくれない。菜箸を手に取って小豆を一粒摘まみ、指先で潰して煮上がり具合を確認する。潰した豆はほぼ芯のない丁度いい具合まで煮上がっていたので一つ息をつきながら火を止め、潰した豆を舐め取って台布巾で指を拭いて、ランチに向かい顔は向けずに手だけを差し出した。
「確認するから、その書類を貸してくれ」
「えっ、うん……」
多少戸惑った様子の声色のランチがバインダーをリンドウの手に乗せ、受け取ったリンドウは算盤を取り出してくると書類の数値の確認を始めた。次々に計算を進め、やがてある箇所で手を止めその箇所をランチに指し示す。
「ここが間違っているのではないか? 他の場所と計算が合わん。先程言っていた所の数字も変わってくる筈だ」
「ここかぁー、ブーケガルニの売上だね、もう一回確認してきて計算し直してみる! ありがとうリンドウ!」
「ああ……」
つい何気なく、意識すらすることなく。嬉しげな声で感謝の言葉を述べるランチの方へとリンドウは顔を向けてしまった。視界に飛び込んできたのは当然ながら、心から嬉しげな笑みを浮かべるランチの顔だった。計算に集中する事で取り戻した筈の心の平静はその笑顔を目にした途端に脆くも崩れ去り、どくりと一つ大きく心臓が高鳴る。この笑顔に感じる感情を言い表す言葉をリンドウは知らない。なぜこうも大きく心が揺り動かされ、その心の動きによって体温や脈拍や身体の動きにさえ影響を与えられてしまうのかも知りはしない。ただ分かるのは、理由も分からずにこんなにも大きな動揺を与えられてしまうのは己の未熟さが如実に証明されているのだ、という事だけだった。
「……滝だ」
「えっ?」
「滝に打たれてくる!」
「えっちょっと待ってリンドウ、滝なんかないよこの辺! こんな時間にどこまで行くの!」
「止めるな、俺は何としても今すぐ滝に打たれて精神統一せねばならんのだ!」
「あんこが出来てないよリンドウ! 明日の準備!」
必死にリンドウの腕を掴んで引き滝行をランチが止めようとする。あんこという単語を耳にしたリンドウは、ぴたりと前進する動きを止めた。
「……俺は、動揺のあまり自らの職務を放棄しようとしていたのか…………」
「えっ? いや、そんな大袈裟な話じゃないっていうか……ただ用意しておいた方が明日楽かなって……」
「いかん! 己の為すべき事すら忘れ去った愚か者の俺は最早小豆にも劣る、さやえんどうの鞘の中の豆だ! 豆だけでは食べるに値しない鞘に頼り切った豆だ! そんな未熟な豆に価値などない、もう腹を切って詫びるしかない……!」
「わーっ! 刀、刀しまってリンドウーっ!! さやえんどうだって大事な食材だよ、さやえんどうの乗ってない親子丼とかちらし寿司なんて指揮者のいないオーケストラ同然だよ、大事な野菜だよーっ!」
「いや、いらん! 食感を楽しむ鞘ならともかくその中の取るに足りん未成熟の豆を誰が必要としている! 俺は豆だ、小指の先にも足りん豆なんだーっ!!」
刀を抜いたリンドウの腕をランチが押さえどうにか動きを封じようとする。結局この騒ぎに他の面々も次々にリンドウのキッチンカーに集まり総掛かりで止めたため、リンドウの切腹はどうにか免れた。ついでにブーケガルニに売上金額を確認したランチがこれで計算が合ったと上機嫌で帰っていく。その後ろ姿を呆然としたリンドウは為す術もなく見送った。今目にしている後ろ姿に感じる感情の名前は何と言うのか、それすらも分からずに。
それを恋と呼ぶのだとリンドウが自覚するのは、もう少し先の話になる。
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