セレストブルー04
「リンドウ、どうかな、試作品できた?」
作業が丁度一段落したところでランチがキッチンカーの前までやってくる。未だに目を合わせることはできないけれども、どうにか普通に接することができる程度には取り繕えるようにはなった。今は昨日ランチから提案された新商品の試作品を作っていたところだった。
「ああ、今出来たところだ。こんな感じになったが、どうだろうか」
試作品をいくつか並べて乗せた皿を見せると、ランチの表情がぱっと明るくなる。今回の試作品はコーンまんじゅう、コーンと狐の鳴き声をかけて愛らしい子狐を模り、とうもろこしの優しい甘みを活かした饅頭になった。
「わぁっ、すごくかわいい! すごくいいと思う! 早速明日からお店に出そう!」
「そう慌てるな、味見がまだだろう」
「あっ、そうだったね、あはは……でもリンドウのお菓子だもの、そこは全然心配してないよ」
指摘するとランチの表情は今度は恥ずかしそうにはにかんだ笑顔になる。ころころとよく変わる感情豊かな表情を見ているだけで、リンドウの胸はどんどん締め付けられ苦しくなっていく。自分にはランチを密かに想うような資格もないのに姿を見るだけで好きだという気持ちを思い知らされてしまう。幸せを与えてくれていた筈のものが今はただ自分を雁字搦めに締め付けて苦しめている。
「ふぁ~あ、んだ、何やってんだお前ら」
「あっキキョウさん、新商品の試作品が出来たところなんです」
「へぇ……」
あくびをしながら歩いてきたキキョウが、ランチの言葉に皿を覗き込んだ。つまらなさそうに眺め回してから鼻からふんと息を吐き、リンドウを睨み付ける。
「センスの欠片もありゃしねぇな。こんなもんを本当に桃栗堂の看板で出すつもりかよ」
「そっ、そんな事ないと思いますよ! 食べちゃうのがもったいないくらいかわいいし、これならお客さんだって喜んでくれると思います!」
「おめぇは黙ってろ、客が喜ぶかどうかは問題じゃねぇ」
ランチの方を見ないままピシャリと鋭い声でキキョウが言い放ち、ランチは尚も物言いたげにしていたが続く言葉を紡げない様子で黙ってしまった。咎め立てするようなキキョウの視線に思わず怯みそうになるが、この件に関して引く気はリンドウにはなかった。ランチと二人で作り上げた和菓子はリンドウにとっては桃栗堂の看板に恥じるところは何もないと思っているし、キキョウがそれは問題ではないという客が喜ぶかどうかがリンドウにとっては一番大事な事だった。掌に収まる小さな和菓子の中に広がる宇宙のような無限の世界を表現する、それも大事なことだがそれも結局は客の目を楽しませ味わってもらうためのものだ。
「一つ、召し上がってみてください。確かに俺には兄弟子のようなセンスはないかもしれません。ですが、ランチのレシピは本物です」
そう告げて皿をキキョウの方に差し出す。目を眇めリンドウを睨め付けたキキョウは、目線を皿に移すと試作品を一つ指でつまみ上げ口に放り込んだ。もぐもぐと口を動かし咀嚼し飲み込む、その様子をリンドウは固唾を飲んで見守った。
「……確かに、味は悪かねぇな」
「本当ですか!」
思わず頬が緩んでしまったリンドウにキキョウは冷ややかな視線を浴びせた。一つ息をつき、再び口を開く。
「だがよ、それが本当に桃栗堂の看板に相応しいって言えんのか?」
「……仰りたい事は分かるつもりです。ですが、伝統を守ると同時に新しい味、新しい形の和菓子にも挑戦していくことで、和菓子の世界はもっと広がる、俺はそう考えています。そしてそれは、師匠の教えに相反するものではないとも思っています」
これだけは譲れない、必死の思いでリンドウは言葉を選びゆっくりと口に出した。不愉快そうに眉を顰めその言葉を聞いていたキキョウは、ふいと顔を背けると舌打ちを一つして何も言わずに立ち去っていった。
その背中を見送っていたランチが、ふと思い出したように口を開く。
「そういえばキキョウさん、最初に会った時もスクラップの中から桃栗堂の看板を必死で探してたよね……お師匠さんから受け継いだ看板を背負ってるんだから看板に傷を付けたくないっていうのは分かるけど、それだけじゃないような……何かもっと他の理由があるのかな……」
ランチの言葉に記憶を辿り、確かにそうだったと思い出す。オレはこの看板だけあればいい、そう言っていた。リンドウにとっても師匠から受け継いだ桃栗堂三号店の看板は大事に守らなければならないものである事は確かだが、はっきりと言葉には表せないながらも看板を背負う事に対するキキョウとの意識の違いを感じていた。
結局次の日からコーンまんじゅうは店頭に並び、キキョウは機嫌を損ねたり何か文句を言ったりすることもなく(日によって気紛れにではあるが)下拵えなどを引き受けてもくれた。和菓子の本場であり伝統が守り継がれているカムイの里でもこの目新しい和菓子は受け入れられ、概ね好評だった。
その日の朝も早くから仕込みを始め、キキョウも餡作りや饅頭の皮作りなどを請け負ってくれていた。見事な手際だけれどもあまり見てばかりいると怒られるので、自分の作業を進めるのも忘れないようにしながら時々ちらと横目でキキョウの作業をリンドウは見守った。
「おめぇ……」
「……何でしょうか?」
手は止めないままでキキョウが口を開くが、リンドウの返事に答えを返さないまましばらく沈黙が落ちる。何を言い澱んでいるのか気になり、リンドウは思わず手を止め首を横に向けてキキョウを見やった。
「なんで、和菓子職人なんぞになろうと思った……いいとこのボンボンで学校に行って外交官目指してたんだろ。一人前になれるかどうか分からない和菓子職人なんぞよりそっちの方がよっぽど確実だし、おめぇにゃ向いてたと思うがな」
思いもよらぬ事を聞かれ、リンドウは答える言葉に戸惑った。キキョウがリンドウの事情に興味を向けるとは思っていなかったし、何故突然そんな事を聞くのかも分からなかった。だが答えなければまた不機嫌になってしまうだろうし隠す理由もない、何より自分の事を分かってもらういい機会かもしれないと思い言葉を選んでリンドウはゆっくり口を開いた。
「俺の故郷は工業の国で、食べ物といえばチューブに入った栄養食しか食べたことがありませんでした。それが小さい頃から当たり前でしたから特別疑問に思った事もなかったのですが……ある日、街で師匠のキッチンカーを見かけたんです。何を売っているんだろうと覗いてみると、見たこともないような色鮮やかで美しい美術品のような細工ばかり置かれていて、しかもそれが食べ物だと知って、とてもショックを受けました」
気持ちを落ち着け、リンドウは饅頭作りの作業を再開しながら少しずつ言葉を紡いだ。
「一つ買って食べてみるととても美味しくて……外交官になることは親に強いられたわけではなく自分で決めた事だったのでその道を進む事に不満はありませんでした。でも、その和菓子の味と美しさがどうしても忘れられなくなって。思ったんです。俺も、人に感動を与えられるようなあんな和菓子を、作れるようになりたいと。それで、師匠に頼み込んで弟子入りして学校は辞めました」
「あの師匠が弟子を新しく取るたぁ思ってなかったが、どんな手使ったんだ」
「……その、確かに、弟子は取らないとは言われたんですが……毎日、弟子にしてくれるまで帰らないと言ってキッチンカーの前に座り込みました。師匠も呆れたのか根負けしたようで……」
「ルエラニでか?」
「はい」
するとキキョウは、くっくっと低く笑って、その時の師匠の顔が見たかったぜと愉快そうに漏らした。
「筋金入りの馬鹿みてぇだなおめぇは。ルエラニで一日中座り込むか普通? 凍死しちまわぁ」
「他に……方法が思いつかなかったので……それに温かいお茶を時々師匠から頂きましたし……」
「そういう問題かよ。くっく……」
しばらくキキョウは低く笑い声を漏らしていたが、ふっと静かになる。そっと横目でリンドウが様子を伺うと、キキョウは手元に視線を落とし黙々と手を動かしていた。
「……そんな、憧れだけでやってける道じゃねぇぞ」
「それは、分かっているつもりです。俺には足りないものがまだまだ沢山あります。でも、兄弟子に比べれば遅々とした足取りかもしれませんが……一つ一つ、身につけていくつもりです。確かに俺には官僚の方が向いていたかもしれませんし、それなりに志もありましたが……あの頃の視野の狭い自分が外交官になっても、満足のいく仕事はできなかったと思いますし、何より生まれて初めて、何を捨ててもどうしてもやりたいと思った仕事なんです」
「……何を捨てても、か……」
一言ぽつりと言ったきり、キキョウはもう何も言わずに手を動かし続けた。横目に盗み見たキキョウの横顔は、どこか寂しげで儚げで、手元の饅頭の皮を見つめる瞳の色の深さにどきりとする。
今でも思い出す。師匠に弟子入りを許された日の帰り道、もう日は沈んで夜になっていて、行く道の先にはひときわ明るい星があった。これから自分はあの星を目指して歩いていこう、手が届かないほど遠くにあっても例え辿り着けないのだとしてもそれでも、一歩でも近付く為に足を踏み出そう。そう決めたあの日から、寄り道したり休んだりもしたかもしれないが、ただその輝きだけを目指していた。最初は一人で歩いていたのが次第に仲間が出来て、一緒に歩いていくのが楽しくなっていった。だがいつかはまた一人で歩いていかなければならない。
まんぷくマルシェで世界を回る中で、世界中には未知の食材や料理が数多くある事を知った。和菓子に関しても、本場であるここカムイには優れた和菓子を受け継ぎ続けている老舗が沢山あるし、新しい試みも数多く日進月歩の世界だ。そういった古いものも新しいものも学び身にしていきたい。ゴーマン商事との勝負が終わった後の自身の身の振り方についてそう考えるようになっていた。
もしゴーマン商事との勝負が終わったなら、その後キキョウはどうするのだろう。気にはなったけれどもその疑問を口に出すことはできなかった。お前の知った事かと言われるのが関の山だろうし、そんな事を訊くのは失礼ではないだろうかと何故だかそんな風に思えて仕方なかった。干渉を嫌う人の内面にずかずかと踏み込もうとするのは良くない事だろうと思うし躊躇われた。いつかはそんな話もできるようになれば、そんな期待はあるもののそこまでの道筋は全く見えないから、今はただ目の前の仕事をこなすことしかできなかった。
夜になり明日の準備を終え、月も美しく風も心地よかったのですぐに寝る気にはなんとはなしになれず辺りを散歩していたリンドウは、池の畔でしゃがみ込んだミツバを道の先で見かけた。
「……ミツバ、こんな所でどうした? こんな時間に一人で出歩いては危ないぞ、シオンはどうした」
「リンドウさん……」
声に気付いたミツバは首だけを動かしてリンドウを見やった。不安げに瞳が揺れて月の光を滲ませている。そういえば今日はランチとシオンと出掛けていたが、何かあったのだろうか。
「一人で考えたかったので、シオンちゃんには黙って出てきました……」
「何かあったのか? 聞くだけになるかもしれないが、俺で良ければ話してみろ」
そのリンドウの言葉には答えずにミツバは前に向き直って池の水面に視線を戻した。揺蕩う水は月の白い光に照らされ斑紋のように不規則な模様を描く。リンドウもミツバの横にしゃがみ込み、しばらくミツバの言葉を待って何も言わず揺れる水面を見つめていた。
「……今日、お家に帰ったんです……金光寺家が今大変なんだって、お父様がこの国でどんな大きな役割を持っているのかもミツバ何も知らなくて……どうにかしたかったんですけどうまくいかなくて……どうすれば良かったのかって考えてたんですけど全然分からなくて……」
やがて、ぽつりぽつりとミツバは口を開き始めた。誰かに語りかけているのではない、自分に言い聞かせるような苦しげに息を詰めた声色だった。リンドウはちらと横にしゃがんで俯いたミツバの顔を見てから目線を前に戻した。
「俺は、ミツバは大人になったと思う」
「……どうして、ミツバぜんぜんうまくできなかったです……それなのに」
「家の事や親の事、色んな事が見えるようになったんだろう。そして、自らの果たすべき責任や役割も自覚して、どうにかしようとしたんだろう。俺は勘当同然で家を飛び出してきた身だからそう偉そうな事は言えないが……己の役割を理解して責任を果たそうとするのが大人だと、俺は思う。最初はうまくいかないかもしれないが、これまでのマルシェでもミツバは様々な仕事を最初はうまくできなくても少しずつできるようになっていっただろう、だから焦ることはない」
水面を眺めたまま淡々とした口調でリンドウは言葉を発した。しばらくの沈黙の後、視線を感じて横を見るとミツバは不思議そうな顔でリンドウを眺めていた。
「リンドウさんが、そんな風に言ってくれると思ってませんでした……いつもミツバのこと子供扱いするから……」
「……それはすまない、だが、子供もいつまでも子供ではないだろう? ミツバの成長を俺は仲間として誇らしく思う」
そう言うと、ミツバは照れ臭そうに目を伏せてほんのり微笑んだ。面差しも初めて会った頃に比べて大分大人びてきたように思う。いつまでも子供ではないのだな、自分で口にした言葉が実感として感じられて、多少の感傷も併せ持った不思議な心持ちになる。
ランチや他の仲間と共に歩んだ世界樹のマルシェ、王都のマルシェでの日々は確実にミツバを成長させた。だが自分はどうなのだろう、それがリンドウには分からなかった。仲間達と歩んだ日々の中で、自分の行く道も何を目指すのかも朧気ながらも見えてきたとは思う。それでも成長の確かな手応えといったものは掴めていない。
未だ半人前の身ゆえか、ミツバに焦るなと言ったくせに己は焦ってしまっているのかもしれない。偉そうな事を言ってもリンドウもまだ大人になどなりきれていない。不安や焦燥を押し殺して日々手を動かしているだけで、現在立っている場所と目指す場所までの距離など全く掴めない。師匠の元にいる頃はそんな事を考える暇もなかったが、暖簾分けしてもらい一人で修行するようになってからは常にそんな不安と戦っていた。目指す場所に少しずつでも近付いている事は確かなのだと己を信じる他なかった。
そこまで考えてふと、己の中にあった気持ちを自覚する。リンドウはキキョウに頼りたいとどこかで思っている。今己がどれほどのものであるのか、どの方向を目指せばいいのか、教え導いてくれる事をどこかで期待している。それを期待しても無駄だろうし、そもそも兄弟子に当たるからという理由だけで一緒に修行していたわけでもなくつい最近まで顔や名前すら知らなかったキキョウに甘え頼ろうとするのはおかしな話だ。何より安易に人に頼ろうとするそんな気持ちが己の中にあった事が許せない。リンドウが期待の目を向けるだけキキョウが苛立っていたのは、そういう理由もあったのではないかと思えた。
もっとキキョウの心の内が知りたい。リンドウに向ける苛立ちの正体を知りたいというのも勿論あるけれども、人の体温を求める寂しげな瞳の色の奥にある想いを知りたかった。そこにはもしかしたらリンドウに対する憎しみしかないのかもしれないけれども、それでも何も分からずに振り回される現状よりは余程いい気がした。
だがそれは、まるで水面に揺蕩う月を掴むような話だ。リンドウとてあれだけ酷い仕打ちを受けて尚キキョウを憎む気持ちを持てない事に対する答えは己の中にはない。心など、自分自身のものであっても案外きちんと把握できているわけではない。答えなど望むべくもないのかもしれない。
キキョウの顔を思い浮かべてまず出てくるのは、不機嫌そうに凄んだ顔でもなく興味もやる気もなさそうな無気力な顔でもなく、どこか遠くを眺めている横顔だった。愁いと寂しさを含ませた長い睫毛が影を落とす瞳は、リンドウには分からないどこかを見ている。その整った横顔を見ていると、すぐ隣にいるのに手の届かぬ人のように思われて、不安によく似た名前の分からない感情で胸が締め付けられる。どうしてそんな心持ちになってしまうのかも良く分からなかったが、分からないからこそリンドウはキキョウの心を知りたいと願ってしまうのかもしれない。
そろそろ戻ろうとミツバを促しキッチンカーまで送っていく間も、様々な思いが頭を巡り纏まらない。身体を幾度となく重ねようとも心は少しも近付かない。誰をも寄せ付けようとしないその心に触れる事は叶わないのだろうか。水面に浮かぶ月の影は手で掬い上げようとすれば砕け、空に輝く月はいくら手を伸ばそうとも届かないように。
キッチンカーに戻り部屋に入るとベッドに脚を投げ出し寝転んでいたキキョウは身体を起こし、待ってたぜと呟いて唇の左の端を上げた。ベッドから降りて入り口で立ち止まったままのリンドウにゆっくりと歩み寄り、まるで恋人にでも触れるかのようにリンドウの頬を掌でそっと包んだ。愛情も労りもなくただ温もりだけがある、どうしようもない虚しさが胸をつく。言い知れぬやり切れなさと悔しさに顔を歪めると、キキョウは怪訝そうに眉を上げた。
「俺には……兄弟子の心が分からないです……」
「は? なんだそりゃ」
「どういう気持ちで……そうやって優しく触れてきたり、かと思えば無理矢理……どうして、どうして俺を抱くんですか……! そうでなかったら俺は、こんなに…………俺はもう、振り回されたくないんです……どうして兄弟子は……!」
絞り出すような声で訴えたけれども、リンドウの言葉を聞いたキキョウはつまらなさそうに溜息をついた。リンドウの頬に当てた手を外し、肩を鷲掴んで背後の壁に押さえつける。
「てめぇ、なんか勘違いしてやしねぇか? てめぇが何をどう思って勝手に振り回されようが知ったこっちゃねぇよ。てめぇの事なんざ好きな時に好きなように抱ける性欲の捌け口程度にしか思っちゃいねぇ」
「分からないんです……そう思われていてもそれでいいと、思っていた筈なのに……兄弟子はどうして……それが少しでいいから知りたくて……」
必死に訴えても、キキョウは肩を掴んだ力を緩めることなく感情の読めない冷たい眼差しをリンドウに向けるばかりだった。そこにあるのはどうしようもないほど明確な拒絶の意志で、その硬く冷たい感触にリンドウの胸の内も寒々とした絶望で冷えていく。
「おめぇなんぞに分かってもらいたいたぁハナから思ってねぇしその必要もねぇよ。まぁそうやって頭ん中グチャグチャになってる顔を見てるのはなかなか気分いいぜ」
そう言い放って口元に笑みを貼り付けたキキョウの顔を目にしていると、何故だか抑えきれないほどの悲しみがこみ上げてきてリンドウは潤む目を細めた。酷い事を言われてはいるが、それは最初からのことでもう慣れてきたと思っていた筈だった。それなのに何故リンドウの心はこうも掻き乱され悲しみに震えてしまうのだろう。キキョウの心が知りたいから、それは何のためになのかも分からない。これだけはっきりと拒絶されても消えないその望みが胸を締め付ける。
振り回されたくないなら関係を絶って敵にでも何にでもなればいい、酷い仕打ちを受けただけ、憎まれただけ憎み返せばいい。分かっているのに、寂しげな横顔の瞳の奥の色ばかりが思い起こされてどうしても憎むことなどできない。
キキョウの心だけではない、自分の心すら見えない。この激しく吹き荒れる胸を裂くような感情の正体が分からない。それが感情なのかそれとも全く別の欲なのかすら最早区別がつかない。キキョウの視線が冷たく言葉が刃のように鋭いことが、どうしてなのかは分からないけれども初めて会った頃よりずっと胸を傷付ける。
しばらく睨み合った後、キキョウはリンドウの肩から手を外して二の腕を両側から押さえ、キキョウの後方へと投げ飛ばした。リンドウは勢いのまま数歩よろけて、ベッドに倒れ込んだ。するりと帯を解く音が聞こえ、振り返るとキキョウは着物を脱ぎ捨て、薄くはあるが境界線がはっきりと分かる筋肉に覆われた細身の裸身を晒していた。
「嫌です……俺はもう、兄弟子……」
「今更何言ってやがる。好きな時に好きなように抱かせるって約束だったろうが」
「もうこんな事、したくありません……お願いです」
こんな心がぐちゃぐちゃな状態のまま抱かれるなど耐えられないと思った。それならば理不尽に無理矢理犯される方がまだましだった。だがキキョウはリンドウの懇願を鼻で笑い飛ばすと、リンドウの肩を押さえ身体をベッドに倒し押し付けた。
「とっとと脱げ、一人で脱げねぇなら手伝ってやる」
「お願いです兄弟子……やめてください」
「ごちゃごちゃとうるせぇ口だな」
忌々しげに目を眇めそう吐き捨てると、キキョウは身体を傾けリンドウの口を唇で塞いだ。リンドウの口内に無理矢理舌を割り込ませ、逃げようと足掻くリンドウの舌先を絡め取る。くちゅくちゅといやらしい音を立てて唾液が掻き混ぜられ粘膜同士が触れ合う感触に、身体はあっという間に快感に支配され囚われてしまう。嫌だ、こんなのは嫌だ。何がそんなに嫌なのかすら分からないまま引き裂かれそうな痛みが胸を苛む。
口付けを交わしながらキキョウはリンドウの上衣を少しずつ脱がせていき、露わになった胸板をまさぐり柔く立ち上がった乳首を指先で捉える。くりくりといじくり回されると、甘い感覚が肩に走り鼻から上擦った声が漏れる。身体が快楽に浸ることを心が咎めるのに行為を拒否することもできずに流されている。いつの間にか蕩かされてしまった舌先がキキョウの熱さを求めるのを意志で止めることができない。もっと与えられたい、もう嫌だ、相反する二つの感情が心を引き裂いてぐちゃぐちゃに踏み躙っていく。長い長い口付けの後、ようやく口を離してキキョウはにいっと愉しげに笑んでみせた。
「したくねぇんじゃなかったのかよ。その割にゃてめぇから舌絡めてきて随分と欲しがってるじゃねぇか」
「っ……、本当に……もう、嫌なんです……」
「てめぇが嫌だろうがそうでなかろうがそんな事ぁどうでもいいんだよ。約束は約束だ、きっちり守ってもらうぜ」
乾いた声でキキョウは告げて舌舐めずりをした。期待と拒絶を両方抱え込むのに疲れ果てたリンドウは、もう反応を返す気力もなくその様を見守った。体格差も腕力差もほぼない、本気で抗えば身は守れるだろう、だがキキョウの言う通り約束は約束だし、求める自分を否定もできない。どう対処すれば正解なのかがもう分からなかった。
「ああっ……あ…………はっ……」
首元に顔を埋めたキキョウの舌先が首筋をなぞり、知られ尽くしてしまっている感じる箇所を強く吸われ甘く歯を立てられて、快感に身体が染められていくのと反比例するように泣き出したい程の悲しみに心が覆われる。快感に荒くなる息を涙を堪えるために飲み込む。甘やいだ快楽に浸っていくほどに心は暗く沈んでいく。どうしても喉から漏れてしまう上擦った喘ぎ声が耳障りで仕方なかった。心と関係なく身体だけが高められていく事が耐えきれぬ程苦痛で仕方なかった。今までだってそうだったのにどうして今更そんな事がこんなにも胸を刺して傷ませるのだろう。鎖骨に沿った肩寄りの箇所に痕を残し胸板を下る唇と舌の感触が嫌なのではない、こんなにも簡単に高められていく己の身体が忌々しい。キキョウの舌先がいい場所を探り当てる度に横隔膜が跳ね首が仰け反る。物欲しげに腰が揺れ、波のように襲ってくる快感を堪えようとキキョウの腕を掴んだ手にも力はない。何も止められず変えられずただ流されているだけの無力感から逃れようとしているのか感覚は鋭敏に快感だけを捉えていく。すっかり硬く立ち上がった乳首を執拗にねぶられ歯を立て引き伸ばされ、はしたない高い嬌声が喉から漏れる。
「やぁっ……あっ、ああっ、あ……っ、ううっ、ん……ああぁっ……」
「何だかんだ言っても感じまくってんじぇねぇか。とても嫌がってるようにゃ見えねぇぜ?」
「うっ……うぅっ……ふ……」
どう嘲られても何も返す言葉がなかった。身体の奥に灯された火は強く燃え盛って身体を火照らせ、もっと強い快感を与えられたいと待ち望んでいる。太く硬い熱に穿たれる瞬間を待ち侘びてしまっていることを嫌でも自覚せざるをえない。どうしてこうなってしまうのだろう。いくら考えても答えなど出てこない疑問が頭を埋め尽くし悩ませ、リンドウを疲弊させていく。
「ここに、もう欲しくてたまんねぇんだろ?」
「はぁっ! あっ……!」
脚の間に差し入れられたキキョウの指の先が会陰部をなぞり奥へと渡り物欲しげにひくつく後孔へとつぷりと挿し込まれる。あられもない嬌声を上げながら身体を震わせるリンドウの反応が面白いのかキキョウの指先が襞を揉みほぐすように動き回る。指の節に押し広げられた箇所が熱く疼き痺れ、もっと快楽を貪り食いたい欲求が指をもっと奥まで引き入れようと腰を揺れさせ肉襞を蠢かせる。だがキキョウの指先は節一つまでの長さから先に進んで来ようとはしなかった。
「あっ……ああっ…………んっ……あに、でし……っ」
「どうした、何か言いたい事でもあんのか」
「もっと……奥も…………その、して欲しい、です……」
耐えきれずに口に出すと、くっくと声を立ててキキョウが笑った。
「もうしたくねぇ嫌だって抜かしてた口でよく言うぜ。好きなんだろ、こうされんのが」
答えを聞いてリンドウは反論する言葉もなくかあっと熱くなった顔を横に背けた。キキョウの言う通りだ、先程まであれだけ耐えられないと思っていたのに一度快楽に溺れてしまえば身体を満たす欲は際限がなくなる。恥知らずと罵られても何も言い返せないほど淫奔になってしまった身体の求めるものに抗えない。
「まぁそんなに欲しいならくれてやらないこともないぜ、タダってわけにはいかねえけどな」
含みのあるキキョウの言葉にリンドウは首を動かしキキョウを見やった。リンドウを試し挑むかのような傲岸な笑みを浮かべてベッドを這いリンドウの胸板辺りで上体を起こした。
「しゃぶれ」
己を見下ろしたキキョウの発した言葉の意味を掴みかね、リンドウは戸惑いを隠しきれずにキキョウを見上げた。
「何ぼけっとしてやがる、さっさとしろ」
「あの……何をすれば……」
「あ? チッ、そこからかよ……。これを舐めて気持ちよくすんだよ。さっさとしねぇと前みてぇにその口ん中に無理矢理突っ込むぞ」
言いながらキキョウが膝を前に進めてきて、半ばまで勃起したものの先がリンドウの口に宛てがわれる。唇に触れたその熱さに鼓動が高鳴る。誘われるように口を開くと、キキョウは更に膝を進めその逞しい肉茎がゆっくりとリンドウの口の中に収まっていく。
「歯ぁ立てたら殺すぞ。舌使って……そうだ、しっかり味わって舐めろ」
軽く上擦ったキキョウの声に、こうする事で快感を与えているのだという実感が湧く。男の性器を口に含まされる嫌悪感よりもこれを早く迎え入れたいという期待の方が上回ってしまい、口腔に感じる大きさと熱に身体が甘く疼く。口の中を硬いもので埋め尽くされて舌を動かす度に溢れた唾液が口の端から漏れて流れる。口の中のものは時折びくりと跳ね、幹に走った太い血管から脈動が伝わってくる。むせ返りそうな雄の匂いが口と鼻の中を埋め尽くし、はっきりしない頭をますます眩めかせる。
「根元握って……扱きながら出したり入れたりしてみろ……そうだ、舌動かすのも忘れんな」
キキョウの言葉に従い根元を扱き上げながら首を動かし唇で擦り上げまた口の中に含む。その動作を繰り返すと、手の中のものはどくどくと脈打って硬さと質量を増していく。満足気にリンドウを見下ろしていたキキョウは男根をリンドウに咥えさせたまま身体をひっくり返して四つん這いになり、リンドウの顔の上に跨る体勢をとった。
「んっ! んんっ、んっ……んーっ!」
キキョウの指が後孔に再び挿し込まれ、口の中のものを育てることに意識が全て傾いてしまっていたリンドウは不意打ちを食らい、背中を大きく撓らせた。
「奥まで掻き回してほしいんだったよな? おら、もっと脚開け、口も休めんじゃねぇぞ」
「ふぐっ……んんっ、んっ……」
必死に舌と首を動かし口淫を再開するが、挿し入れられた二本の指が弱い箇所を責め立てる度に腰が跳ね意識が白く飛びそうになる感覚を味わい口の動きが疎かになってしまう。息を吐く度に声の漏れる鼻から忙しなく吸い込める息の量は少なく、息苦しさが募る。触覚は快感に侵され嗅覚はキキョウの匂いに、聴覚は唾液と先走りの汁が舌で混ぜ合わされる音に侵され、感じ取れる世界が自分とキキョウにまで狭まって、身体の全てが快楽を追い求めるためだけのものになってしまったような気がした。
「まただらしなくトロトロ垂らしてんぞ、尻の穴ほじられんのがよっぽど気持ちいいんだな」
笑みを含んだキキョウの声もどこか遠くに聞こえる。先走りではありえないほどの量の粘液が下腹部を濡らしている感覚は確かにあり、己がまた常に絶頂に留め置かれているような快感に苛まれた挙げ句に精液を垂れ流してしまっているのだと知る。その事に対する激しい羞恥も今は身体を熱く火照らせるだけの効果しかなかった。
一刻も早く欲しくてたまらない、もう限界だ。そう思った矢先、埋められていた指が引き抜かれたと思うとキキョウが腰を上げ口の中のものも引き抜かれる。ようやく口から呼吸できるようになり荒い息を整えていると、起きろと声をかけられる。思うように力の入らない身体を起こすと、その様子を大した関心もなさそうな顔で見ていたキキョウはごろりとベッドに横たわり頭の後ろで手を組んで脚を投げ出した。
「欲しいんだろ? ならてめぇで挿れな」
「えっ……あの……」
「オレの腹の上に跨っててめぇで挿れんだよ、それくらいできんだろ」
さも面倒臭そうにキキョウが言い放ち、戸惑いつつも言われた通りにキキョウの腹の上にリンドウは跨った。先程まで口内で大きく育ててきた肉茎を手探りで掴み上を向かせて腰を落とす。今自分がやっている行為がどれだけ恥ずかしく浅ましいかは理解していたけれども、それでも尚この手の中の熱で貫かれなければ耐え難い身体の疼きは止むことはないのだともう分かってしまっていた。
「っく……あ……」
しばらくの試行錯誤の末にようやく先端が内側に割り入ってくる。それだけで腰が砕けそうになるような快感が脳髄にまで突き抜けて腰を沈める動きが止まってしまう。少しずつ腰を落としては休みを繰り返して、かなりの時間をかけてようやく根元まで収める事に成功する。
「あっ……はぁっ…………あ……」
「挿れただけでイッちまいそうな顔してるじゃねぇか、ほんとチンポが好きなドスケベな穴だな」
「ううっ……ふ…………」
キキョウの嘲りを何一つ否定できないほど身体は貫かれた悦びに打ち震えている。内側をみっちりと埋め尽くす硬さと熱を感じるだけでもうどうにかなってしまいそうだった。もっと欲しい、もっと気持ちよくなりたい、そんな浅ましい欲望で頭の中は一色に塗り潰されていく。意思とは関係なく身体が求めるままに腰が揺れ、緩やかで浅い抽送が繰り返される。
「んっ、あ……ああっ……」
こんなものではまるで足りない。身体が求めるままに徐々に動きは大胆に大きく速くなっていって、より感じる箇所を探り当てようとそれだけの為に悦楽に振り乱れた姿をキキョウの眼前に晒している。面白いものを見るような顔をしてこちらを眺めているキキョウの目にこんな見苦しい姿がどう映っているのかと思う事さえ、平静の己なら耐えられないほどの屈辱を感じる筈なのに全てが身体の奥底の熱を煽りぞくぞくと背筋を震わせる。
「あっ……ああっ…………あに、でしっ……」
「んだよ」
「これだと……っ、イけない……っ、から……あっ……」
「ふうん、そりゃ大変だな」
「ううっ……んっ……突いて、ほし……ですっ、んんっ……」
堪えきれずに甘ったれた声で懇願すると、くくっと喉を鳴らしてキキョウが笑った。頭の後ろで組んでいた手を解き腕を両脇に戻して肘をつき、愉しげな笑みを浮かべてリンドウを見る。
「そんなだらしない顔しておねだりたぁほんとどの口が言ってんだ? そんなにしてほしいなら、目茶苦茶に犯してくださいって言ってみな」
「は、ぁっ……お、俺を…………目茶苦茶に、犯して……くださ……」
言い終わらない内に下から叩き付けるように強く激しく突き上げられ、息が詰まりその後襲い来た快感の波に思わず顎を上げ仰け反ってしまう。
「あっ、ああっ、や、ああぁっ!」
「いい声出して鳴いてんじゃねぇか。オレにケツの穴犯されんのがそんなに気持ちいいのか?」
「あっ、きもち……いいっ……んっ、もっと……もっとほし……っ」
自分が何を口走っているのかさえもうどうでもよかった。激しく突き上げられる快感に浸る事が今の全てだった。頭の中を白く眩ませる悦楽に身を任せてしまう間は何も考える必要も悩む必要もない。本能のままに腰を振りみっともない喘ぎ声を上げて頂点へと登り詰めさせられていく。
「あっ、ああ……っ、も……イク、イク……っ!」
「イけよ……っ!」
一際強く突かれ、限界にまで張り詰めたものが弾けるように全身に行き渡り、膝や肩や背中を震わせる。少し遅れて達したキキョウの放った精液の熱が腹の中を満たし、その熱さに膝ががくがくと震えた。
何を、しているんだろう。
ようやく冷えてきた頭の中にまず浮かんだのはその言葉だった。どうしてこうなってしまうのだろう。こんな事がしたいのではない、リンドウはキキョウの心を知りたいのに、身体を重ねてもその答えに辿り着けないことは分かっているのに、何故こんな。
歩み寄る道筋など何も見えなくて、心も身体も擦り減って疲れ切ってしまった。虚しさと悲しさだけが胸を埋めて、リンドウは肩を落とし項垂れた。
「これで分かったろ、オレに逆らおうなんて考えるだけ無駄なんだよ」
「……違う、違うんです……俺は、こんな事がしたかったんじゃない……」
「ハッ、よく言うぜ。あれだけてめぇから腰振って善がってねだってた奴の台詞たぁ思えねぇな」
己の痴態を顧みれば返す言葉もなくリンドウはしばらく顔を上げる事ができなかった。
どうすれば知ることができるのだろう。ますます強まるばかりなのに辿り着く方法の分からない問いを抱えながら。
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