セレストブルー09
翌日の昼頃、ふらりとアキノが姿を見せた。手には昼食にするのだろうまんぷくマルシェの料理が入った袋を抱えている。
「ようリンドウ、昨日はお疲れ様、お陰様で会議は滞りなく進んで大成功だったよ」
「……そうか、それなら良かった。俺一人の力ではなかったが……役に立てたなら良かった」
「ほんと、ランチさんのアイディアとお前のお陰だよ! お前の母上様も、お前が作ったものだとは言ってないけど美味そうに食べておられたぞ」
「母が……そうか」
微笑みながらふっと目を伏せリンドウは呟いた。昨日渡した菓子の中にはリンドウが作ったものとキキョウに作ってもらったものが混ざって入っている。母がどちらを食べたのかなど分からない。だが、それでもいいと思った。リンドウが自分にはこれしかないと決意し進み始めた和菓子という道を、少しでも理解してもらえたような気がした。
「だがなぁ……そんな得体の知れない物が食えるかなんて頭の固い連中もいてな……申し訳ない事にかわいい方が少し余っちまったんだが……後で皆で分けて全部食べたから安心してくれ」
「そうか……いや、いいんだ。効率的な流動食以外のものを今更受け付けられない人もいるだろうからな」
余ったのはかわいい方。残り十分で作業に加わってもらった為数が少なかったのもあるかもしれないが、キキョウの作ったものはリンドウのものより明らかに完成度が高かった。当然の結果だとも思う。
「それでな、糖分補給に砂糖を食べるだけじゃない、見た目なんかも楽しんでのリフレッシュが効果的って分かったから、これからは積極的に取り入れていこうって話になったんだ。このマルシェもいつでもあるってわけじゃないからどうしようかと思ってたんだが、カムイから和菓子屋の支店を誘致して今回みたいに会議の休憩に出すものを頼んだり、それだけじゃなく職員の休憩とかに使うのもいいだろうって話になってな」
「それなら、世界樹の国から洋菓子店も一緒に誘致すればいい。和菓子とはまた違う美味しさがあるからな。そちらの方が好みに合う者もいるだろう。それに……今の我々にとってはライバルだがゴーマンストアがあるのだからそれを使うのもいいだろう、あそこなら和菓子も洋菓子も揃う。便利に使える筈だ」
「おおっ、洋菓子ってあのやたらキラキラしたイケメンが作ってるケーキとかっていうやつだな! 一度食べたが確かに和菓子とはまた違ってふわりとした食感で表面に塗ってあるやつも濃厚で美味かった……確かにそれはいいかもしれないな……!」
「サクサクのパイや季節のフルーツを沢山乗せたタルトなんかもあるし、卵と牛乳で作るプリンもとろけるような味で美味いぞ。今度パフェも食べてみるといい。持ち帰りもあるから暖かい部屋で冷やしたものを食べると格別だ」
「すごいな、そんなに種類があるのか」
「まだほんの一部だ。和菓子だって店に置いている物や今回出した物以外にも様々な種類があるぞ」
「はぁー……一口に菓子といってもなかなか奥が深い世界なんだな」
興味深げに感心してみせるアキノにリンドウは微笑んで頷いた。初めて和菓子というものに触れ弟子入りを師匠に必死に懇願していた頃は、その先にこんな深遠な世界が広がっているとは知りようもなかった。一生かかっても極め尽くすことなどできなさそうなその奥深さは、こうして独り立ちしても今尚リンドウの心を惹き付けてやまない。国の為に働く外交官という輝かしい未来を約束されながら人生を狂わされてしまったと人には映るかもしれないが、リンドウ自身はこの道を選んだ事に一片の後悔もない。一つ心残りがあるとすれば、理解が得られず勘当されてしまったままになっている両親の事だけだ。
いずれ、心から納得できる和菓子が己の手で作れるようになったなら。それまで家の敷居は跨ぐまいと決めている。だがこうして人づてにでも母の様子を聞くと心が揺らいでしまうのを感じた。
「ところで、見たところ撤収作業中みたいだが、またどこか行くのか?」
「ああ、会議に茶菓子を出す仕事が終わったからそろそろ次の街へ移動しようという事になったんだ。ゴーマン商事とのファン争奪バトルも今回も勝利を収められたしな。だがまだ決着は付いていないから、そう遠くない内に再訪する事になると思う」
「そうか。昼飯にここの料理が食えなくなるのは寂しいが……また来るの待ってるからな。一度ゆっくり時間をとって、他の国の話とかもじっくりまた話そう。じゃあ作業の邪魔になっても悪いし、昼飯を食う時間もなくなっちまうからそろそろ行くよ。また会うまで元気でな」
「ああ、アキノも元気で。また」
幾度か振り返り手を振りながら庁舎の方へと歩き去るアキノに手を振り返して見送る。誰にも何の相談もなく突然道を外れ別の道へ進んでしまったリンドウに対しても、学生時代と何の変わりもなくアキノは接してくれる。心からのありがたさとほんの少しの後ろめたさが胸を覆う。
アキノの姿は路地の先の角に消え、胸を疼かせる感傷めいた気分を振り払うようにリンドウは広場に歩き出していった。撤収と移動の準備がまだまだ残っている、感傷になど浸っている時間はない。
それなのに、昨日身体に刻みつけられた甘やかでいて偽りの優しさは消えない。たとえ嘘でもいいから優しく愛されたいのだと望んでしまう己の心に対する歯痒さが鬱積していく。こんな事を繰り返していても何の解決にもなりはしない、それなのに。
これは約束だから。心の内で確かめるようにその言葉を噛みしめる。リンドウを縛るものからリンドウが縋るものへといつの間にか変わっていたその約束だって、気紛れなキキョウのことだからいつ反故にするか分かったものではないのに。
流されてずるずると続けてきてしまったこの関係をこれ以上維持する事に何の意味があるだろう。そんな疑問がまた胸に湧き上がる。当初の目的は形骸化し、リンドウがただ求める心を募らせるばかりになってしまっている今の状況は何を変える力もない。このままではいけない、変わらなくてはならない、それは分かっているのに踏み出す勇気が出ない。
どう変わりたいのだろう、それが分からない。閉ざされているキキョウの心を開け放ち飛び立たせてやりたい、だけどそこに自分はいるのだろうか? 寄り添って眠りあの体温を感じられなくなるくらいなら、今のままでいいではないかという気持ちが心のどこかにあるのを否定しきれない。それは誰の為にもならない、苦しんでいる人を苦しませたままにするだけだ、充分に分かっているのに。
数日後、まんぷくマルシェ一行はルエラニからオルナイに移動した。既に幾度か訪れているオルナイではまんぷくマルシェの料理は大層評判になっていて、料理を買い求める行列が毎日絶えなかった。メンバーたちは(忙しい事などお構いなしにマイペースにサボるキキョウは別として)忙しく立ち働き、休憩の時間を見つけるのも難しいほどだった。
そんな中、一番忙しい筈のランチが人気のない静かな路地を広場に向かい歩き出すと、角からひょっこりとフェンネルが姿を見せた。
「フェッ、フェフェフェ、フェンネル……!? ななっ、な、何してるのこんな所で」
「何をそんなに慌ててるのさ。君こそ何してたの」
「……もしかして聞いてた?」
「おーい、こいつがパーティするってよー! のとこだけね」
やっぱり、とがっくり肩を落とすランチを見てフェンネルがくすくす笑う。
「心配しなくてもちゃんと内緒にしててあげるから。折角のサプライズパーティだもんね」
「もー、フェンネルの事だって驚かせたかったのにー!」
「充分驚いたよ、さっきね。まさかキキョウにそんな話を持ってくなんてさ」
むくれていたランチは、フェンネルの言葉を聞くとすっと真剣な表情になった。確かに今手が空いているのは仕事をサボりがちなキキョウだけなのは確かだが、ランチなりの考えがあってキキョウにそんな話を持っていったのかもしれない。ランチの表情を見るとそんな予感が浮かぶ。
「私ね、キキョウさんに思い出してほしいの。キキョウさんはきっと和菓子を作るのが大好きで、食べた人に喜んで笑顔になってもらえるのが嬉しいから職人になったのに、今はそれを見失ってるんじゃないかなって思って」
天才の自信故か傲岸不遜な接客態度でいいから食えと試食の品を客の口に捻じ込むようなキキョウにもそんな殊勝な心持ちなどあるのだろうか。そうして試食の品を食べさせられた客は一様に味に納得して品物を買っていくから今の所問題にはなっていないが、果たしてキキョウに客を喜ばせようという気持ちがあるのかどうかは甚だ疑問だった。どちらかといえば、自分の納得できるものを作れればそれで満足するタイプのようにフェンネルには映っていた。
「前に、フェンネルの自動マシーンがゴーマン商事に没収されて、自動マシーン頼りの僕はもうシェフじゃない、なんて言ったでしょ。でもちょっと不格好だったけど初めて自分の力だけで作ったフェンネルのケーキが本当に美味しかったから私嬉しくて、フェンネルだって私やファンの人達が喜んだのを見てもっといっぱい努力して、それで今のキラキラのケーキを作れるようになったフェンネルがいるでしょ? キキョウさんはフェンネルとは違うけど、和菓子作りが本当に大好きで、自分の作ったものを食べた人に喜んでもらえるっていうそういう気持ちを思い出してほしいんだ。いくら天才でも和菓子の事が本当に好きじゃなかったらあんな素敵なお菓子、作れないもの」
ランチの独白にフェンネルは困ったような笑みで応えた。今ではもう遠い過去の話だけれども、キッチンカーに乗ってパティシエの姿をしていたのはキッチンカーだけは国の行き来に制限がないからスパイ活動に都合が良かったというだけで、パティシエという職業には何のこだわりも興味もなく自動マシーンに全てを任せてケーキを売っていた頃があった。どれだけ味を褒められても自分で作ったものではないのだから何の感慨も湧かなかった。だけれども真剣に(突飛もないのに何故か美味しい)レシピを考案して提案してくるランチや汗水垂らして心をこめた料理や菓子を作る他の仲間たちを見ていて、フェンネルの心は少しずつだけど確かに変化していった。
ランチになら、出来るのかもしれない。何の理由があってかは知らないが頑なに閉ざされたキキョウの心の扉を少しでも開ける事が。かつて固く閉ざした扉を執拗に幾度もノックされ、ついに根負けして開けてしまった自分の事を思ってフェンネルの口から苦笑いが漏れる。
「あのキキョウがそんな簡単に君の言う通りに動くとは思えないけど、まあ頑張って。何せ君とキキョウ主催のサプライズパーティだから僕は何も手伝えないからね。安心して、当日はちゃんと皆と一緒にびっくりするから」
「んもーフェンネル! またそうやってからかって!」
「ハハ、そんな事ないよ? またそんな変な顔して。さていい加減仕事に戻らないとバジルが一杯一杯になっちゃうね、また後でね」
頬を膨らませ不満げに睨むランチの顔を見て愉快そうに笑ってからフェンネルは足早にさっさと立ち去ってしまった。後に残されたランチはこれからの事を思ってか一つ長い息をついて、それから思い直すように頭を上げ前に向き直ると自身も広場へと歩き出していった。
キキョウさんの本気が見たいんです。その言葉を思い返しただけで胸がムカムカしてきてキキョウは小さく舌打ちした。
ランチの前に立っているのが耐え切れなくなり何も考えず歩き出してしまったが行く宛てもない。とりあえずキッチンカーに戻ることにするかと歩いていく。
和菓子を作る時キキョウが本気でなかった事など今まで一度もない。最高のものを作るために技術を習得する手間暇は惜しまなかったし、常に新しいものを作ろうとアイディアも練り続けている。自分の作品ともいえる和菓子を作る時に手を抜いた事などある筈もない。だが。
桃栗堂の看板に閉じ込めておくのはもったいない、キキョウ本来の力を出し切っていない、師匠はそう言った。
キキョウの和菓子は桃栗堂の看板の元で客に出されるものなのだ、桃栗堂らしさがなくては看板を掲げている意味などないではないか、そう思っていた。だがそれを師匠は、キキョウは桃栗堂の枠に捕らわれていると言った。
自分を押し殺し、そうあれと望まれていると分かるものを作る。自分の中のその傾向は確かに自覚があった。幼い頃から参加してきたコンテストでは審査員の評価が高くなるであろうものを作ったし、師匠に弟子入りしてからは桃栗堂を継ぐ者として看板に相応しい桃栗堂らしい菓子を作る事しか考えていなかった。だが師匠が本当に望んでいたのは、キキョウ自身を前面に出した菓子だった。
そんなものを今更どうやって作ればいいだろう。審査員が気に入るであろうもの、師匠が気に入るであろうもの、客が気に入るであろうもの。そんな事しか考えていなかったキキョウが今更どうやって自分自身と向き合い自分だけの表現を探せばいいのだろう。
——俺にはなんだか、この蒼の色が、兄弟子の心の色のように思えてならなくて。
ふっとそんな言葉を思い出した。空の色を集めたような錦玉羹。あれも客受けするだろうと思い考案したものでしかない。だがあの蒼の色合いをこの色だと確信し判断を下したのはキキョウの心に違いない。心の色などと何を戯言をと今でも思っている事に変わりはないが、あの色を美しいと判断し好ましく思い客に出すに値すると思ったのは確かだ。
キッチンカーまで戻ると、作業場でリンドウが何か作業をしていた。覗き込むと同じ形だが微妙に形状のバランスが異なる、林檎を模したと思われる見たことのない饅頭がいくつか並べられている。
「新作の試作か」
「あ、はい。中々思い描いている愛らしい形にならなくて……今日は和菓子は売り場に出していませんから兄弟子はどうぞ休んでいてください」
「言われなくても仕事なんざする気はねぇよ」
ぞんざいな返事を返し、キッチンカーの脇に置いた椅子に無造作に座り込んでキキョウは一つ息をついた。リンドウの作る和菓子は(ランチの出す突飛なアイディアのせいもあるが)外見は桃栗堂の枠から完全に逸脱しているように見えるが、その実基本の部分は桃栗堂の味を守っている。師匠の教えを己よりよく理解しているのはリンドウなのだ、その事が胸をざわつかせる。どれだけ夜に征服し支配し隷属させたところで、その事実は変えようがない。
馬鹿正直と言っていいほど素直な気性のリンドウの事だ、師匠に言われた事を忠実に守ったのだろう、そしてキキョウよりもずっと早く正解に辿り着いた。キキョウのように余計な忖度をする事もなく、素直な気持ちで師匠の教えを受けたのだろう。そんな素直さが自分にもあったなら、と認めたくない羨望が湧き上がる。
「リンドウさーん!」
正面から走ってきたのはマジョラムだった。試作に没頭していたリンドウが声に気付いて顔を上げる。
「マジョラムか、どうした?」
「そろそろ食材が届く時間だから運ぶ人手が欲しいんだって、ブーケガルニとディルがもう広場で待ってるから」
「分かった、すぐ行く」
返事をしてリンドウは早足で広場へと駆けていった。リンドウもマジョラムもキキョウに声を掛けてこようとしないところを見ると、面倒臭がるのを見越されているのだろう。その方が都合がいいので黙っている事にする。だが尋ねたい事があり、持ち場に戻ろうとするマジョラムの後ろ姿にキキョウは声を掛けた。
「ちょっと待て、聞きてぇ事があるんだけどよ」
「なに? 急いでるから手短にね」
「おめぇリンドウとの付き合いは結構長いんだよな」
「まあ、ぼちぼち二年ちょっと位にはなるかしらね? それがどうかした?」
二年ちょっと。恐らくリンドウが師匠の元から独り立ちしてそう時間が経っていない頃からの付き合いなのだろう。それならば知っているかもしれない。
「あいつは……リンドウは、おめぇと初めて会った時からああいう可愛い菓子を作ってたのか?」
「ううん、最初の頃は地味めな、ザ・和菓子! みたいな奴ばっかだったわよ。まぁあれはあれでキレイだったんだけどさ、それがお師匠さんに習った通りに作ってる奴だったらしくて、リンドウさんって真面目すぎるじゃない? だから俺は手本通りのものしか作れんとか言って結構悩んでたわねそういえば。でもリンドウさん本が好きでどんな本でも読むから、あたしたちから借りて女の子の流行ファッションとか雑貨の本を見てる内に、自分が可愛いものが好きって気付いたみたい。それをお菓子作りに取り入れるようになったのって一年くらい前……王都のマルシェもそろそろ終盤辺りの頃からかな? ……って、そんな事あたしじゃなくって本人に聞きなさいよ!」
「ありがとよ、もう行っていいぜ」
この忙しいのに何なのよ! と文句を零しながらマジョラムも広場の方へと走り去っていく。その背中を見送りながら、キキョウの口から溜息が漏れ出した。
リンドウも決して容易く自身の表現へと至ったわけではない。元々和菓子などとは縁のない生活を送っていた上にあの性格だ、手本通りの物が作れるようにはなってもそこから発想を広げていくような思考の柔軟さは足りなかったであろうことは想像に難くない。そこにランチが現れて自由な発想を教えられ、探究心によって自身の目指すべき道を見出したのだろう。
なぜ自分はもっと早く気付けなかったのか。師匠の言葉が足りなかったのは勿論あるけれども、恐らくそれ以上にキキョウは孤独だった。心を閉ざしたキキョウの側を誰もが一時通り過ぎていくだけで、キキョウの心を知りたいなどと言う者はリンドウの他には誰一人いなかった。一人でやっていけるしその方が煩わしくない、ずっとそう思っていたけれども作る物のジャンルは違えども同じ食を追究する仲間たちとそしてランチとリンドウは研鑽を積み続け、その結果進むべき道を見出したのだ。
それがオレとあいつの違いか。分かってしまえばどうという事はなかった。淋しくて哀しい人、キキョウの事をフェンネルはそう言った。それはこういう事だったのかと思い至る。あの男にはどこまでも見透かされているようで不愉快だが、言う事は当たっていた。図星すぎて腹が立つほどだ。
変われるのだろうか、往くべき道を見出だせるのだろうか、こんなに擦り減り疲れ切ってしまった自分でも。リンドウのように素直で実直にはとてもなれない、捻くれ擦れた自分でも。
変わりたい、心からそう思った。こんなしがらみや苦しみや痛みに縛られているままなのはもう御免だった。師匠が本当に言いたかった事はもう分かっているのだ、師匠の期待に応えられる自分に変わりたい。キキョウさんの本気を見たいというランチの言葉は未だに腹が立つが、恐らくそういうしがらみから解き放たれ、本来の力を出し切ったキキョウらしい菓子を見たいという意味合いなのだろう。師匠の言葉を聞いたランチがキキョウに期待するもの、それが分からないほどキキョウも頑なではない。
今更認めてもらえなくてもいい、ただ、言葉には出してもらえずとも師匠が誇れるような弟子でありたい。今のままでは駄目なのだ、変わらなければならない。遅まきながらようやくそう気付けただけでも、成り行きからとはいえこのマルシェに参加した事は良かったのかもしれない。
だが、良かったなどと無邪気に言っていられないだけの事をキキョウはした。キキョウを知りたい、心を変えたい。虐げられているにも関わらずキキョウの心の中にそっと入り込んでこようとするリンドウという男の事が何一つ分からないし、今となってはどう接していいのかすら分からない。生真面目で真正直なだけの単純な奴だと思っていたのに思いも寄らない事ばかりを言い出す。真っ直ぐに見つめられると見透かされるのではないかという怖さが募る。
キキョウのしてきた事は許されないような事だし元から許してもらおうとも思っていない。だがそんな上辺の罪ではない、もっと心の奥底を覗き込まれようとしているのではないかという直感のようなものがリンドウのあの真っ直ぐな視線から目を逸らさせる。醜さを弱さを暴かれるのが怖い。あの縋るような目線の前では嘘など何もつけなくなってしまいそうで怖い。快感に溺れ焦点の定まらぬ潤んだ目にさせてしまえばそんな事は考えなくて済む。
自分がリンドウに抱いている感情が最初の頃のような憎しみや妬みだけではなくなってきているのを薄々感じていた。和菓子に対する情熱の強さや真剣さに対する共感のような気持ち、理想的な環境で健やかに育った肉体と精神に相応しい生真面目さや素直さに対する羨望。だからこそ知られ暴かれるのが怖い。
傷付け賤しめればそれで満足できると思っていた。それなのに、何か別の異質な感情が芽生え始めてしまっている。仕事をこなすキキョウに向けられる純粋な尊敬と羨望の眼差し。普段は落ち着き払っているのに和菓子について語る時だけ白熱してしまう口調。心を知りたいと、誰からも言われたことのない言葉を初めて言われた。ただ黙って優しく涙を拭ってくれた。キキョウの心の色を美しい空の色なのではないかと言った。フェンネルに言われるまでもない、あれだけの事をしたというのにそんな風に真っ直ぐ実直にキキョウに接してきた者など今まで誰もいなかったから、どうしていいのか分からない。リンドウに対する気持ちの正体が分からず、持て余してしまっていた。
そんな戸惑いや迷いも、深く交わり身体を繋げている間は考えずに済む。いつからだろう、リンドウを抱く目的が辱める為だけではなくなったのは。
いつからだろう、リンドウを自分だけのものにしてしまいたくなったのは。
だがそれは叶わぬ願いだ。リンドウにはランチという想い人がいる。いくら身体を従わせたところで心まで変えることなどできないだろう。ましてやあれだけ辱められ賤しめられたのだ、リンドウがキキョウを軽蔑し憎んでいたとしても何の不思議もない状況なのに愛など得られる筈がない。
手前の馬鹿さ加減のせいで欲しいものはどんどん手から零れ落ちちまうんだな、そういう星の巡りに生まれたんだろうオレぁ。自嘲気味にそんな思いが胸に浮かぶ。
それもこれも己の愚かさと弱さの故だ。全て自分が招いた結果。それを引き受けて、このマルシェが終わればキキョウはまた孤独に戻るのだろう。オレみたいな大馬鹿野郎にはそれがお似合いだ。浮かぶ思いは自嘲を含んだものばかりだった。
その日の夜、今日は気分じゃねぇとキキョウが言ったので、男二人が並んで寝るには少々狭すぎるベッドで抱き寄せられ身を寄せ合い眠りに就こうとする。だがすぐ側に体温と鼓動、寝息を感じると、欲しいという気持ちが抑えられなくなっていく。意図せずして息が甘さを含んで荒くなり、腰骨の辺りがじくじくと疼き出す。このままではとても眠ることなどできない、とりあえず一旦起きようとリンドウがそっと身体を起こそうとすると、ぐっと肩が引き寄せられてもう眠っているとばかり思っていたのに目を開け薄く笑んだキキョウの顔が眼前に迫る。
「発情しちまったのか? しょうがねぇ奴だな……まぁそういう身体にオレが仕込んだのか」
「違います……ただ、ちょっと……寝付けないので……」
ふぅん、と肩を掴む力は抜かないままキキョウが嘯く。いつの間にか股間に伸びていたもう片方のキキョウの手がもう熱くなり形をとり始めていたものをそっと撫でる。
「んっ……ん…………」
「しっかり発情してんじゃねぇか。トイレでも行って抜こうとしてたってとこか」
「それは……っ、は……ぁ」
「でもよ、どうせ抜くだけじゃ満足できねぇだろ? 後ろにぶち込まれて中に出されなきゃ満足できねぇいやらしい身体になっちまったんだからよ」
笑みの混じった声でキキョウに言われ、かっと身体が熱くなる。欲しい、と思ってしまう自分の身体の浅ましさが恨めしいのに強まる欲望は抵抗する気力をどんどん削いでいく。
「……今日は、気分では、ないのでしょう」
「発情したてめぇのいやらしい面見たら気が変わった。どうしてくれんだ、これ」
リンドウの股間を緩く撫でていた手がリンドウの手首を捕まえ、昂ぶり熱を持ち始めているキキョウのものに宛てがわれる。これが、欲しい、身体の奥に。欲求はどんどん強まっていって息が荒くなっていく。こんな関係を続ける事に何の意味があるだろう、そう思っているのに身体が求めるのを止められない不甲斐なさが胸を刺す。意味も望みもなくても求める心を消し去れない。あまりの不毛さに泣き出したい気持ちになった。
「何で……そんな、泣きそうな面しやがるんだ」
密やかな声で呟いたキキョウの顔が近付いてきて、慰めるように触れるだけの口付けが唇に温もりを伝えてくる。その温もりが優しければ優しいだけますます胸は苦しくなる。
「そんなに、オレに抱かれんのは辛ぇか」
「……」
いつものような揶揄の色もなく、何気ないような声で投げかけられたキキョウのその問いにどう答えればいいのか分からずリンドウは黙りこくって目を伏せた。手に入らないと分かっているのに身体も心も全てを求めてしまうのが苦しい。身体を重ねている間は心まで得られているのではないかと錯覚してしまうのが苦しい。胸が張り裂けそうなほど苦しくて、辛い。
触れてくるだけの柔らかな口付けが幾度も繰り返され、その心地よさに伏せた目を閉じる。肌にかかるキキョウの息が熱い。その熱さをより深く感じたくて緩く口を開くと、心得たとばかりにキキョウの唇が深く重なり、熱い舌先が入り込んでくる。
深く繋がり口内を犯すしなやかに熱くぬめる舌の感触は、このままここから溶け合って一つになってしまえるのではないかという錯覚を与えてくる。手に触れさせられたままの昂ぶりを撫で擦るとどんどん熱が増し形がはっきりとしていく。感じ求められている、たとえ身体だけでも、今だけでも。まるで恋人にでもするような甘く溶け合うような口付けは胸を痛ませるが、それでも求め与えたい心を止めることはできない。
唇を合わせ舌を絡ませ合ったまま上衣が脱がされ、愛おしむような手付きの熱い掌が素肌を撫で回す。キキョウの両腕が背中に回されて引き寄せられ、きつく抱きしめられる。抱きしめ返したくなり戸惑いながら上げた腕は、力無く下ろす。この気持ちを悟られてしまえばこの関係はそこで終わりになってしまう、それが恐ろしくてたまらない。続けるべきではないと分かっているのにどうしても捨てられない。悪意でも嘘でも何でもいい、触れられ交わり高められたい。強く求める心を捨てられないのがあまりに辛くて、後から後から涙が溢れ出ては流れていく。
止まらない涙のせいで息をしゃくり上げるとキキョウは舌を抜き唇を離した。抱きしめられた腕の力も緩む。
「泣くほど嫌かよ」
不思議なほど感情の色を感じさせない穏やかな声でキキョウが問う。この問いにも答えようがなくてリンドウはぎゅっと目を瞑った。
「優しく……しないでください…………」
「どうしてだよ」
「辛いんです……優しくされるのが……」
その答えを聞くとキキョウは黙ったままリンドウから腕を離し、起き上がって掛け布団を後ろに押しやった。無言のままリンドウの下衣と下着を纏めて膝までずり下ろし、脇から腕を入れて肩を抱え膝を押してうつ伏せになるようリンドウを促す。
「そんなに無理矢理されんのが好きなら望み通りにしてやるよ、ド変態」
うつ伏せになったリンドウの腰骨を両手で掴み腰を高く上げさせながら、硬く冷たい声でキキョウがそう告げる。その方がずっといい、身体の痛みに耐えればいいだけなのだ、心が痛み続けるよりもずっと楽だ。愛されてなどいないと思い知らされた方がずっと楽だ。下帯を解く衣擦れの音がして、きつく閉じたつぼまりに先端が宛てがわれ無理矢理抉じ開け押し入ってくる。
「ぐっ、ううっ……う、あ……はっ……うあぁっ!」
「もうちょっと……緩めろ、入らねぇだろ」
「んっ、んんっ……ふ、はぁっ……あ……あぁっ……」
無理矢理身体を割り開かれる痛みとそれとは裏腹のぞくりと背筋を震わす感覚に翻弄されながら、力むことで後孔を緩めようと試みる。荒い息を深く吐き吸いながら自身を犯す太く硬い熱に感じる愛おしさに甘ったるい声が上がる。いっそ憎んでしまえるほどに滅茶苦茶に犯してほしい、そうすればきっとこの想いを捨てられる。実際にはそうはならないであろう無駄な願いが胸に浮かぶ。何をされたところできっとこの想いを捨てることなど叶わない、それを知っているのに目を背けて見ない振りをしようとしている。
キキョウが激しく腰を使い始め、慣らしもしていない出入り口が擦れて痛む。キキョウの荒い息遣いと肉のぶつかり合う音がいやにはっきりと耳に響いて、奥底を突かれる度に頭の天辺まで堪えきれない快感が突き抜けていって甘ったるい声が喉から漏れる。もっと痛みだけを感じたい、身体の苦しみに苛まれたい、それなのに男を受け入れる悦びに慣らされ切った身体は奥深くを突かれる快感を鋭敏に感じ取ってしまう。
「あっ、は、ああっ、ん、うっ、ふ……は、あっ、あぁっ、あっ、そんな……っ、おくまで……っ、ああっ!」
「こんな無理矢理挿れられてそんなに感じてんだからほんとド変態だな、あぁ? そんなにケツ振ってよ、そこまでしてチンポが欲しくてたまんねぇのか?」
「ううっ、んっ……あぅっ……は、あっ、あぁっ……あ、あっ、や……っ」
キキョウの嘲りにも返す言葉はない。もっと嘲り賤しめ辱めてほしい、そうすれば憎めるかもしれない。この気持ちを、捨てられるかもしれない。そんな事は無理だと分かり切っているのに僅かな可能性に縋るしかない。激しく揺さぶられ抉られ突かれる快感に脳まで溶かされそうになりながら、いっそ憎めたらと叶わぬ願いを心の内で必死に唱え続ける。この程度の事で憎めるようになるくらいならとうの昔にキキョウを憎んでいただろう、愛するようになどならなかった。強く深く打ち入れられる楔の熱さに身体は酔いしれ胸は震える。愛してしまったのだと打ち明ければこの間違った関係はきっと終わりになる。そうする事が正しいのだと分かっているのに、どうしても嫌だと心の奥底からの願いが訴えかけてくる。手放したくない、繋ぎ止めておきたい、そう望む心を止められない。
突然動きを止めたキキョウが、リンドウの腰を体重をかけ上から強く押さえつけてくる。力の入らない肘と膝はすぐに崩折れ、うつ伏せに寝そべった状態になったリンドウの上にキキョウが伸し掛かり腕を押さえ脚を絡めて身動きを封じられてしまう。
「無理矢理されんのが好きなら、こういうのも燃えんだろ?」
耳許で囁かれる低い声が興奮を煽り立て、抽送が再開される。身動きの取れない状態で先程までよりは浅いながらも力強く抉り突かれ、身を捩ることも叶わずに一方的にリンドウは犯され続け、この状態に激しく興奮している自身の淫らさを思い知らされ消え入りたい気持ちとこの快楽にずっと浸っていたい欲求とが胸の中で渦巻く。
「やっ、あっ、あぁっ、あ、ああっ、はっ、あ、そこっ、だめっ、あぁっ、だめですっ、あぁっ、あっ、いっ……は……っ」
「そんな感じまくってる声で、駄目も何も説得力ねぇぜ、もっと欲しいんだろ?」
「だっ、そこ……やぁっ……あっ、そんなに……されたら……っ、ああぁっ、や、あぁっ、だめで……ほんとにっ、だめ……っ!」
「駄目じゃねぇだろ、悦いんだろ? ちゃんと正直に言えよ」
身動ぎすら叶わず、絶頂に近付きつつある身体がびくびくと跳ねるのをキキョウの体重が無理くり押さえつける。律動は激しさを増し、急激に頂点へと押し上げられていく。与えられる快感を追い求めるのに懸命になりすぎて、口中に溜まった涎を飲み下せずに口の端から溢れさせ、垂れた涎がシーツに染みを作っている。そんな事にすら気付けないほど、完全に支配され征服され犯されているこの状況が与える悦楽は圧倒的だった。
「やあぁっ、あっ、あぁっ、も、だめっ、イクっ……イク、イっちゃ……っ! あぁっ、だめっ、だめ、イク、イク……っ!」
「いいぜ、いやらしいケツの穴掘られて感じまくってイっちまえよ、なぁ淫乱」
「は、あっ、ああぁっ——……!」
艶めいた低い声が耳に流れ込んできた途端に理性は弾け飛び、上から伸し掛かっているキキョウを跳ね除けそうなほど激しく身体が震え跳ねる。少し遅れて内側に熱い精が放たれ、その熱さにまた身体が震える。
「あぁっ、はっ……ああぁっ…………」
全て放ち終えるとキキョウはすぐに身体を離した。浅い所に放たれた精はすぐにどろりと流れ出してきて会陰部から陰嚢を伝いシーツを汚す。ぐったりとした身体で、一滴も漏らす事なく受け止められればいいのにとぼんやりとした思考が浮かぶ。まだ熱に浮かされたように意識がぼんやりとしたリンドウの耳には、膝を抱えて座り込んだキキョウの、どうしてこうなっちまうんだ、という消え入りそうなか細い声の独白など届く由もなかった。
「すいませ~ん、誰かランチさんがどこにいるか知りませんか~?」
広場をぱたぱたと駆けてきたユーカリが聞いて回るが、ランチの行方を知る者は一人としていなかった。否、正確に言うならばフェンネルだけは見当がついていたものの口を閉ざし首を横に振ってみせていた。
「そういえば最近ちょこちょこどっか行っちゃうよね、ランチ。どこで何してんのかしら」
「まっ、まさか……ランチしゃんに、かっ、彼氏が……? はうっ、そんなのいけません! 不純異性交遊ですぅっ!」
マジョラムの疑問に答える形のミツバの発言に、ブーケガルニとリンドウがぴたりと動きを止める。
「不純異性交遊って年じゃねぇだろランチも。まぁ~それならそれで俺様達に一言あって然るべきとは思うけどよ~?」
「ラッ、ランチに限ってそんな事はしないだろう! 買い出しにでも出ているのではないか?」
「それなら誰かに声をかけてから行くと思うんですけど~……う~ん困りましたね~……」
困り顔のユーカリに、静観を決め込んでいたフェンネルが近付いていく。
「ランチでないと解決できない急ぎの用? そんなに遠くには行ってないだろうし、戻ってきてからでいいんじゃない?」
「それもそうですね~、確かにそんなに急いではいないですし、戻ってきてからにします~」
納得したユーカリは持ち場に戻っていき、後にはランチに彼氏が出来たという可能性に狼狽するミツバとブーケガルニとリンドウが残された。三人とも一様に真剣な表情で宙を睨んでいる。
「ほらほら、君たちも仕事仕事、ただでさえ忙しいんだよ? ブーケガルニは物資搬入でディルを待たせてるんだろう? リンドウは帳簿の整理するって言ってたよね? ミツバは店の在庫が切れそうだからおにぎりの補充、さあ行った行った」
フェンネルに具体的な作業内容を指示され、三人とも今一つ納得できない顔ながらも目の前の仕事の事を思い出しようやく動き出す。やれやれ、とぼやきを残してフェンネルも店番に戻っていく。
ランチが度々姿を消していた理由が明らかになったのは、オルナイからウリロベに移動する前日になってからだった。閉店と備品の撤収を概ね終わらせたメンバーが一休みしていると、ワゴンに皿を乗せたランチとキキョウがやって来た。
「おーいみんなー! パーティーを始めるよー!」
満面の笑顔のランチと対称的に気怠げなキキョウが二人してテーブルに次々に皿を並べていく。皿の中には、見たこともないような豪華で優美な和菓子の数々が乗っていた。
「まぁ~! すごいです~! いつの間に準備をしていたんですか~?」
「キキョウさんと、こっそり進めてたんだ! みんな疲れてるでしょ? さぁさぁ、召し上がれ!」
ユーカリの質問にランチは嬉しそうに笑顔で答える。確かにオルナイに来てからというもの激務続きで、皆の疲れも溜まっていたところだった。そこに現れた豪華さと繊細さを併せ持った色とりどりの和菓子の数々は、見る者の心の疲れを洗い流すように穏やかで楽しげな心地にさせていく。
「うふふ~、カラフルで、ふわふわで、甘くって~最高です~!」
「はひ~、魅惑的なお菓子です……!」
ミツバとユーカリが手を付けたのを皮切りに、我も我もとメンバー達は美しい和菓子を手に取り目で楽しんでからじっくりと味わう。
「こんな準備してくれてたなんて、全然知らなかったぜ! それに、キキョウもいいやつだな!」
和菓子を咀嚼しながら満面の笑みを向けてくるブーケガルニに、キキョウはやや眉を顰めてみせるが誰がどう見ても照れ隠しにしか見えなかった。
「兄弟子……さすがです……! それに、兄弟子の和菓子、なんだか、生き生きとして見えます!」
「……へっ、そうかよ」
和菓子の事となると普段の関係も蟠りもまるで何もないように真っ直ぐできらきらと輝いた視線を向けてくるリンドウの言葉に、キキョウは今度こそ照れを隠しきれなかったのかぷいと横を向いて目線を逸らした。
「あっ、あれ~!?」
「……どうしたの? ミツバちゃん」
「ランチさんの分がありましぇん~!」
言われて初めてランチはテーブルに並んだ皿を見た。確かに、ない。どの皿ももう空だ。
「あっ! ほんとだ!」
「あら~? ごめんなさい~! あまりに美味しくて……わたしたちだけで食べちゃいました~!」
「あはは、夢中で準備してたら自分の分を忘れてたよ」
正直なところを言うならば食べたかった、あんな絶対に美味しいに決まっているお菓子、とても食べたかった。だけどこれはマルシェの皆の疲れを癒やす為の企画、ランチは顔で笑って心で泣き、照れ笑いで己の心を誤魔化した。
「……けっ」
「あれ? そういえばキキョウさんの分もない! それって、もしかして……キキョウさんも、自分の分を忘れちゃうくらい夢中になってくれてたってこと?」
「……さぁな。今日は疲れたから、もう寝る」
眠そうに欠伸を噛み殺しながら踵を返し、キキョウはさっさと歩いていってしまった。リンドウの位置からでは後ろ姿しか見えないが、ランチはきっと嬉しげな笑みを湛えているのだろう。恐らくこの和菓子パーティには、リンドウもまだ知らないキキョウの過去を知ったランチなりに考えた和菓子を作る事の楽しさや作った和菓子を食べた人が喜ぶ姿を見る嬉しさをキキョウに思い出させるといった、そういう趣旨も含まれていたのではないだろうか。やはりランチは凄い、素直にそう思う。リンドウは愚直に和菓子を作り続ける以外の道を持たないのに、いつだってランチは思いも寄らない方法で新たな道を切り開いていく。
「しっかし、今日はいいリフレッシュになったぜ!」
「そうですね~、明日からもまた頑張りましょう~」
「あぁ! そうだな!」
「はい~!」
仲間たちと明るい表情で明日からの仕事への意欲を新たにする。明日はウリロベへの移動が始まる、ウリロベでもきっとまんぷくマルシェは大盛況になるだろう。だがランチとキキョウが用意してくれたささやかな宴とそこで供された美しい和菓子は、心に潤いを与え明日への活力をくれた。これからの日々も頑張れる、素直にそう思える。
その後撤収作業を完全に終えて明日の朝出発するだけの状態にし、その日は解散となった。キッチンカーに戻り居住スペースに入ると、キキョウはベッドの上に寝転んで暇そうに宙空を見上げていた。
「まだお休みではなかったのですか? 今日は本当にありがとうございました、皆喜んでいました」
「そんな大した仕事はしてねぇよ、あれくらい朝飯前だ」
「そうですね……兄弟子ならば、きっとそうなのでしょう。少し思ったのですが、あの花の菓子、ワンポイントの部分はランチのアイディアでは? 飴飾りもいかにもランチ好みの形だったように思うのですが」
質問を投げ掛けるとキキョウはリンドウをちらりと見て、視線を再び上へ戻した。
「その通りだよ。見る奴が見りゃ分かっちまうか」
「兄弟子の菓子の美しさをよく引き立てていて、ランチらしいと思いました。兄弟子の和菓子はいつも美しいですが……今日のものは本当に生き生きとして見えて、きっとランチのアイディアが相乗効果を生んで夢中になって楽しんで作ってくださったのだろうと思いました」
「……世辞はもういい」
「本当の気持ちです。兄弟子が和菓子を作る事をもっと楽しんでくれたらと、ずっと思っていたんです。俺ではその気持ちを伝えられなかったですが、それができるランチは本当に凄い……」
作った和菓子から見えるキキョウの心境の変化に喜ぶ反面、自身の力の無さが不甲斐なかった。浮かべた微笑みが不自然な表情になってしまっていたのか、怪訝そうな顔でキキョウはリンドウの顔を見つめた。
「俺には、何の力もない……」
キキョウが扉を開け自由に飛び立ち羽ばたけるよう、その手助けがしたい、そう思ったのに現実にはキキョウを苛立たせるばかりで何の力にもなれていない。何の役にも立てていない。己のあまりの無力さは心にぽっかりと虚ろな穴を開けるようで、ざわついた風が出来たばかりの穴を吹き抜けていく。
「……おめぇはおめぇの仕事をすりゃいいだろ、料理や菓子をアレンジしてもっと良いもんにすんのはあいつが本業なんだから、別に気にする事ぁねぇよ」
「それは、そうですが……」
「毎日きっちりてめぇの仕事をこなしてんだ、それが一番大事なことじゃねぇのか」
もしかして気を使われたのだろうか? 疑問を胸に浮かべながらキキョウを見るが、キキョウは視線をぷいと上に戻した。
「そうだ、あと一つおめぇに言っとく事がある」
「何でしょうか」
「もうお前は抱かねぇ。解放してやるよ」
ぽつりと放たれたその言葉にリンドウは咄嗟に反応を返せなかった。それどころか、言葉の意味を頭が正しく解釈することすらできない。呆然として黙りこくっていると、キキョウがまた怪訝そうな顔を作りこちらを見てくる。
「少しは喜べよ、もう嫌々俺の相手させられる事ぁねぇんだぜ。今更ゴーマン商事に付く気はねぇからそこは安心しな」
「……あの、どうして…………急に、そんな事を……」
混乱しきった頭でなんとかそれだけを口にする。なぜ、どうして、何もかもが分からなかった。今何が起こっているのかすら正しく把握できている自信はない。
「どうしてって、気が向いたからだ。一々理由が必要かよ。おめぇだって嫌だったんだろ、やめるって言ってんだから少しはほっとするなり喜ぶなりしてみせろよ」
キキョウの声色はやや機嫌が悪そうなものになってきたが、それでもろくな反応をリンドウは返せなかった。
もう、抱いてもらえない。その事実が胸に重く伸し掛かる。まるで頭の中で鐘でも打たれているように実際には鳴っていない音ががんがんと鳴り響き、キキョウの声が遠い。
ふらりと後ろを向くとリンドウは葛籠を開け、着替えを取り出す。聞いてんのかというキキョウの声はやはりどこか遠い。
「今日は……撤収作業で汗をかいたので…………流してきます」
キキョウの反応を待たずに振り返らないままリンドウは居住スペースを出て近隣のレンタルシャワールームに駆け込んだ。湯を一杯に出し頭から浴びる。もう抱いてもらえない、そう考えただけで行き場を失った身体の疼きは高まっていく。抱いてほしい、疼きは強まるばかりで無意識の内に硬さを持ち立ち上がり始めていた股間に手が伸びる。手を動かす間頭に思い浮かべていたのは、まだ生々しく身体に刻み込まれているキキョウの感触の記憶だった。空いたもう片方の手で乳首をつねり捏ね回しながら何も考えられずに無心に手を動かす。
「——……っ、く……ぅ」
呆気なく達してしまい、手を汚した白濁はすぐにシャワーの湯に洗い流される。
何をしているんだ、俺は。まるで全てを失ってしまったような空虚が心を包んで纏わりつく。単なる達した後の虚脱感とは比べ物にならないほどの虚ろさが身体を支配して、リンドウはしばらくの間何もできずに屈み込んで湯を浴び続けた。
コメントを送る