セレストブルー10

 ウリロベに向かう道中から、誰の目から見ても明らかにリンドウのキキョウへの態度はよそよそしくなっていた。以前はもっと(キキョウがすげなく無視するとしても)何くれとなく話しかけていたし、キキョウの作業の様子を盗み見ては憧れに目を輝かせていたものだったが、今は最低限の会話しかしようとしないし視線を合わせようとすらしない。ベッドを使うように何度かキキョウが言ってはみたものの頑として聞かず、居住スペースでは寝ずにずっと作業場で寝泊まりを続けている。
「なぁキキョウ、お前リンドウと喧嘩でもしたのか~? 何か意地悪したんだろ? 早く謝っちまえよ、良くねぇぞ~?」
 まんぷくマルシェが開催されているウリロベの広場でいつものようにサボってベンチに寝転んでいたキキョウを見かけたブーケガルニがそう声をかけてきた。だがそんな事を言われてもキキョウ自身にもリンドウにあんな態度をとられる心当たりがまるでない、眉根を寄せ息をつくしかなかった。
「知らねぇよ、オレぁ何もしてねぇぜ、してなさすぎるくらいだ」
「よく分かんねぇけど、リンドウは理由もなしにあんな態度取る奴じゃねぇぞ。自分じゃ心当たりがなくってもそうとは知らずに相手を傷付けてたなんてよくある話だしよ。とにかくちゃんと話して早く仲直りしろよ~?」
 言いたい事を言い終えると仕事が待っているのだろうブーケガルニは足早に立ち去っていった。人間関係の機微に疎いというよりは関心が薄そうなブーケガルニが言ってくる程なのだ、余程リンドウの様子はおかしいのだろう。心当たりはあるといえばあるのだが、どうしてこうなったのかが分からない。あの夜、お前を解放してやると告げてからリンドウの様子はおかしくなった。今までの己の行いを思えば嫌われ距離を取られるのは当然の事だが、キキョウの行いが理由ならばもっと最初の段階から距離を置かれていた筈だ。屈辱と苦痛からようやく解放されたというのにどうして喜びもせずひたすらにキキョウを避けるのだろう。
 あいつは、本当に訳が分からない。心からそう思った。
 何気ない話を控えめに語りかけてくる低く通る声を、憧れと羨望の眼差しでキキョウの手捌きを覗き見る瞳を、いくら貪っても飽き足りないあの身体を、どうしようもなく恋しく思ってしまっている。失われてしまって、もう戻らないもの。いつもそうだ、欲しいと思ったものはキキョウの手をすり抜け零れ落ちていってしまう。どうしても掴むことができない。天賦の才と美貌に恵まれているとどれだけ人が羨もうとも、本当に欲しいものだけはどうしても手に入らない。
 それだけの事をしたのだから、そう思おうとするが、それでは理屈が通らない部分がある。こんなにも相手の心が分からず知りたいと願ったのは、師匠の元を破門同然に追い出されて以来ではないだろうか。他人に期待する事などもうすっかり辞めてしまっていた筈なのに、ただ一時の悦楽と熱を楽しめればそれだけで充分だと思っていた筈なのに。いつの間にかこんなにも思い焦がれるようになってしまっていた。天に届かんとする木々が鬱蒼と生い茂り空を覆っているウリロベでは、青空を見上げることはできない。生い茂り重なり合う木々の葉をドラゴンの炎が照らし出す閉じた世界しか見えはしない。
 どこまでも高く澄み渡る青空が見たかった。そこには何かの答えがあるような予感があった。リンドウがキキョウに何を見ていたのか、何を感じていたのか。あいつにはオレがどう見えていたのだろう、もう見てすらもらえなくなった今更そんな事が知りたくなった。リンドウが目を向けてくれている間はどう思われようが構わないと思っていたのに。ないものねだりの繰り返しだ、自嘲の笑みが口元に浮かぶ。
 屈辱と苦しみと痛みを与えようとするキキョウに何を思って抱かれていたのだろう、どうしてあんなにも辛そうに泣きながら優しくしないでほしいと言ったのだろう。何一つ分かりはしない、知ろうともしてこなかった。一方的な嫉妬と傲慢から傷付けて苦しめてばかりだったのに今更恋しさを募らせるなど、そんな資格もないだろうに。己の滑稽さにほとほと嫌気が差す。
 今更キキョウの話などリンドウが聞いてくれるだろうか。そうだ、いつだってキキョウは今更だ、いつも手遅れだ。何が本当に大切なのかが見えなくて、取り逃してしまう。あまりにも愚かで滑稽だ。もう乾いた笑いでも漏らす他はない程に。

 休憩スペースでリンドウが昼食を食べていると、フェンネルがやって来た。今から休憩かと尋ねるとそうだよと答え、少し離れた席に座って盆に載せ持ってきた賄いに口を付け始める。
「今度は一体何をされたの。ここに来てからの君のキキョウへの態度は、僕以外の全員も気付いてる程おかしいよ」
「……」
 口を開いたフェンネルの問いかけは、いつかは問われるだろうと思っていた質問だった。だがどう答えればいいのかはまだ分かっていなかった。この胸の裡を、どう言い表わせば的確なのだろう、それがどうしても分からない。
「何も、されていないんだ……ただ、言われた」
「何を」
「お前を解放してやる、と……そう言われた瞬間、どうしたらいいのか何もかも分からなくなってしまった……」
「……解放って、何か条件付きだったって事?」
「最初会った時、兄弟子は元々ゴーマン商事のシェフ募集の誘いに乗ろうとしていたんだ。好きにさせればゴーマン商事側には付かない、そういう約束だった。だがもうゴーマン商事側に付く気はないからとも、言われた」
 匙を持った手を止めて、淡々とした感情の乗らない声でリンドウはフェンネルの質問に答えた。答えを聞いたフェンネルは微かに眉を顰め、ふうと一つ息をついた。
「分かっていたつもりだったけど、君って人は本当に馬鹿正直で真っ直ぐで生真面目だね」
「……何故、そう思う。俺は不誠実な人間だ……ほとほと思い知らされた。すぐに流されてただ一人を愛し続ける事もできない、愚かで弱い男だ。正直や真っ直ぐなどとは程遠い……」
「そうやってすぐ自分を責めるところが生真面目なんじゃないか。自分を誤魔化せないほど馬鹿正直で、真っ直ぐ真剣に、キキョウを愛し始めている」
 かたり、と音が鳴った。リンドウが取り落とした匙が皿の上に落ちた音だった。
 愛している? そうだ、愛している。胸が張り裂けそうなほど求めてやまない。分かっている、既に気付いているし知っている。だがもうどれだけ求めても欲しいものが与えられることはない。リンドウは解放され、自由という名の孤独を得た。どれだけ求めてもあの掌が口付けが滾りが熱が与えられることはもうない。キキョウの希望通りに寄り添い眠れば欲しいという気持ちは抑え切れなくなるから別の場所で寝る他はないし、胸の奥底に秘めようと決めた想いを思わず口走ってしまいそうで恐ろしくて目線すらまともに合わせられなくなった。こんなにも臆病で弱く、挙句の果てには皆に心配までかけてしまう自分が情けなかった。
「……ねぇ、もうやめなよ。キキョウは君のその真剣さに応えてくれる人かい? 僕にはどうしてもそうは思えない」
「それは、誤解だフェンネル……。兄弟子はああいう人だから誤解されやすいだけで……今はただ人を信じるのが怖くなっているだけなんだ。それもランチや皆のお陰で好転してきている。俺を解放すると言ってきたのも恐らくその影響で……だから、お前が思っているような人じゃないんだ」
「キキョウの事はよく分かってるつもりだよ、先に攻撃することで自分の心を覗かせないよう自分の殻に籠もって心を守ってるんだって事も、他人にも愛情や友情にも何にも期待を持てなくなってて、誰といたとしてもいつだって孤独なんだって事も」
 フェンネルの言葉はキキョウの人となりを的確に言い当てていて、あまり接点もないだろうによくそれだけ分かるものだと素直に感心し尊敬の念が湧いた。あまりにも孤独で、淋しさのあまりに体温を求めずにはいられないのにその温もりに孤独が癒やされることはない。どれほど激しく抱き合おうとそっと寄り添い眠ろうとも、ずっと二人ではなく一人と一人だった。自分の無力さが歯痒く、とても悲しかった。
「キキョウの孤独は、キキョウ自身が自分から心を開かない限り癒やされないんだ。君が責任を感じることじゃない。皆が皆ランチみたいに人の心を開くのが上手なわけじゃないんだ、そんな事ができるのはランチみたいなごく少数の人だけさ」
「だが、俺は……」
「君が好きなのはランチだろう? それでいいじゃないか。君を解放して、それからキキョウが君に特に何か話したわけでもないんだろう? 身体だけが目当てで、それがなくなったからもう興味がなくなったって事じゃないの? 僕はそんな事でもうこれ以上君に傷付いてほしくないよ」
 フェンネルの指摘はいちいちもっともで、言い返す言葉を失ってリンドウは目を伏せた。そうか、もう興味がないのか。心のどこかで認めたくなかったから否定し続けていた可能性を第三者から突き付けられ、認めざるをえなくなる。キキョウにとって自分は師匠とキキョウの間に割り込んできた目障りな弟弟子でしかなくて、それ以外の何者にもなれなかった。その事実が、切り裂かれるような痛みを胸に生じさせる。
 ランチを慕い、これからの人生を共に歩んでいきたいという望みは何一つ変わっていない。それはフェンネルの言う通りだ。だがその望みすら食い潰してしまいそうなほどキキョウを求める心は激しく強くなって、自分が本当は何を望んでいるのかがまるで見えなくなってしまう。
 どうなりたいのだろう、どういう形に落ち着けば誰も傷付かずに済むのだろう。どうすれば、キキョウは孤独ではなくなるのだろう。
 そこまで考えてようやく思い至る。キキョウを孤独から救うのが自分であればいいと思っているという事に。だがどうやって、もう身体の関係も消えキキョウの興味も向けられてはいない自分が果たして一体どうやってそれを為せるというだろう。
「フェンネル、俺は、俺を傷付けようとすることでかえって兄弟子の方が傷付いていたのではないかと思えてしょうがない。そうしてしまう自分にずっと苦しんでいたのではないかと、そう思えてしょうがないんだ」
「君は人が良すぎるよ。理由はどうあれ君が望まない事をさせられていたのは事実だろう?」
「……最初は、確かにそうだった。どうしてこんな仕打ちを受けなければならないのか訳も分からずにいた。だが……兄弟子は、泣いていたんだ……。とても辛そうに、泣いていた。俺には慰める事も何もできなくて、どうしようもなく無力で……そんな自分が、もどかしくて仕方がなかった。どうにかしたいと、何でもいい、少しでも力になりたいと思っていたのに……解放すると言われて俺はもう傍にいる事すらできないのかと思って……だから……」
 噛みしめるように少しずつゆっくりと紡がれたリンドウの言葉をフェンネルは遮らずに聞いていた。やがて言葉が途切れると、長い溜息を一つ吐いて肩を竦める。
「それは、キキョウには言ったの?」
「いや……」
「じゃあ言ってみれば? 僕としては君にはランチを選んでほしいんだけど、今のままじゃすっきりしないでしょ。相手の心なんていくら考えても分かりはしないよ、実際に聞いてみるまではね」
 フェンネルの言葉にリンドウは目を伏せたまま答えなかった。確かにいくら考えたところでキキョウの本当の心など分かりはしない。だが今までどれだけ知りたいと願い尋ねても心を開かず答えてはくれなかったキキョウが、まともに取り合ってくれるだろうか。
「少し、考えさせてくれ……」
 ぽつりと呟くとリンドウは賄いの皿を持ち上げ残りをかっ込み、席を立って仕事に戻っていった。
 リンドウも難儀な性格だな、と自分の事は棚に上げてフェンネルは思った。底抜けにお人好しで、愚直なまでに真っ直ぐで、だからキキョウの言動なんてまともに受け取ることはないのに受け止めて真剣に向き合ってしまう。身体を重ねた情に流されているだけかと思っていたがこれは案外深刻な問題かもしれないと危機感が湧き上がる。
 だが恐らく、今のキキョウはまだ完全に心を開いたわけではない、リンドウの言葉もにべもなく突き返される可能性が高いだろう。その後にランチと二人きりになる機会でも作ればリンドウの心も落ち着いていくのではないだろうか。まだ時間はある、ゆっくり地固めしていけばいい。休憩の時間をリンドウとの会話に大分費やしてしまったから、そろそろ戻らなければならない。フェンネルは冷めて温くなった賄いに匙を運び食べ進め始めた。

 夜半の頃になっても眠れず、小川のほとりの草むらにマジョラムは腰を下ろし一時も留まることなく流れていく川面を見つめていた。ドラゴンの炎は夜になると明度を落とすものの依然として空を照らし続けるから、魔法の国には夜の暗闇はない。キッチンカーを手に入れて魔法の国を飛び出し初めて魔法の国の外で迎えた夜は、外の世界の夜とはこんなにも暗いものなのかと驚嘆したものだった。それも月日が経つにつれて段々と当たり前の事になっていった。緩い風に細かに波立つ川面は光を反射して煌めきうねり、どんどん先へ先へ進んでいってしまう。
 突然降って湧いた交換留学の話の事をずっと考えているが、答えは見えてこない。元々学ぶ事は好きだし、独学の限界を感じ始めていたこともあり未知の新たな知識を得られる工業の国での留学という話はとても魅力的だ。だが、国を代表しての交換留学生ともなればマジョラムの双肩には重い責任がかかってくる。今まで自由気儘に生きてきた自分にそんな責任が果たせるのだろうか。
 だが、忘れられないのは初めて魔法を使えた時の喜び、初めて魔法の国の外で迎えた夜の暗闇への驚きだ。そんなワクワクをいつだってマジョラムは求めている。工業の国には未知の知識が溢れているだろう、まだ知らない驚きや喜びが溢れている筈だ。責任の重圧と好奇心の間でマジョラムの心は不安定に揺れ動き、定まらなかった。
「マジョラム……? 眠れないのか?」
 声に振り返るとリンドウがいた。軽く頷くとそうかと返事が返ってきて、リンドウはマジョラムの隣に腰掛けた。
「リンドウさんこそ、こんな時間まで起きてるなんて意外。いっつもすっごい規則正しい生活してるじゃん」
「俺もちょっと眠れなくてな……歩きながら考え事をしていた」
「そっか、あたしも」
「留学の事か」
 落ち着いた密やかな声の質問に、マジョラムはこくりと小さく頷いた。
「あのさ、リンドウさんも迷った事があったって言ってたよね、それって和菓子職人になるって決めた時の事?」
「そうだな。元々俺は外交官になるために学校に通っていたが、偶然和菓子と出会ってしまってどうしても自分が味わったような感動を人にも伝えられるようになりたいと思ったんだ。だがもちろん両親は反対したから、その時は自分のやろうとしている事は尊敬する両親に反対されてしまうようなとんでもない間違いなのではないだろうかと、少し迷った」
 それならどうして。その疑問が口に出せなくてマジョラムはそっと横に座るリンドウの横顔を覗き見た。リンドウはただ静かな瞳で川面を見つめている。こんなに真っ直ぐで迷いなどなくただひたすらに前へ前へと進んでいそうなリンドウでも迷う事などあるのだろうかとマジョラムは少し不思議に思った。だが人間なのだ、迷い惑う事ももちろんあるだろう。
「だが……俺は不器用だから、自分の心に嘘がつけなかった。俺には和菓子しかない、そう思ったんだ。結果として両親からは勘当されてしまったが……心残りではあるが悔やんではいない。だからマジョラムにも、心に悔いの残らないように、自分の望みをしっかりと見つけてほしいと思っている。急ぐ話ではないから時間をかけても構わない、自分の心としっかり向き合ってくれ」
「うん……そうだね、ありがとリンドウさん。ちょっと時間はかかるかもしれないけどさ、アタシ一生懸命考えてみるよ。自分が本当にしたい事は何なのかって」
 そう言うとマジョラムは立ち上がり、両腕を上に伸ばして背伸びをした。リンドウを見下ろしてにこりと笑ってみせる。
「話してくれてありがとね。明日も早いからいい加減そろそろ寝るから、リンドウさんもあんまり遅くなりすぎないようにね」
「ああ、程々にしておく」
「……まあリンドウさんの方が大人だからアタシに出来るアドバイスなんて大したことないかもしれないけどさ、アタシが聞ける事だったらリンドウさんの悩みも何でも聞くから気軽に相談してね、じゃあおやすみ!」
「そんな事はない、頼りにしている。話せると思えたら相談する。ありがとうマジョラム、おやすみ」
 キッチンカーの方へと歩き去っていくマジョラムの背中を見送りながら、先程の自分の言葉をリンドウは反芻していた。
 自分の望みをしっかりと見つける、自分の心としっかり向き合う。自分でも出来ていない事を他人へは気軽に言えてしまうものだ。
 今一番それが必要なのは明らかにリンドウだ。心が望むものと向き合えず見つめられない。求めても叶わないし得られない、その結論が出てしまうのが怖い。身体が求めるのを抑えきれずに重ねた身体の熱さを思い起こしながら自慰に耽る度に、やり場のない自己嫌悪がどんどん鬱積していく。
 愛されたい、身体も心も。望みはそれだけだった。なんて身勝手で我儘な望みなのだろう。ランチに心を残したまま一方でキキョウを求める、どうしようもないほど手前勝手な矛盾だ。どちらに対しても失礼で誠実でない態度だ。分かっているのにどちらかを捨て去ることもできずにいる。
 叶わない望みを捨てられずに後生大事に抱えている自分が情けなかった。潔く諦めてしまえばいいのに心のどこかでまだ何かあることを期待している。そんな可能性などないと頭では理解しているのに心がその結論を拒む。もうやめてしまえとフェンネルからも言われた、それなのに。
 憎めるものなら最初から憎んでいた、惹かれるべくして惹かれてしまったのだ、そうも思ってしまう。
 絶え間なく流れ行く小川の川面はゆらゆらと複雑な波模様を光と影とで描き、その様子を一言で言い表すことなどできない。まるで人の心のようだ、不変のものと思った想いも絶え間なく変化を続け、感情は次々に流れていって定まらない。この先の人生を共にする相手はランチしかいない、あの頃は強くそう思っていた筈なのに、今ではその気持ちももう揺らいでしまっている。この人しかいないと胸に固く誓ったことも遠い昔の事のように思われて、それが無性に悲しくてならなかった。
 初恋同士だったという両親のように生涯をかけてただ一人を愛し続けたい、そんな風に思って憧れていた。それに足る人を見つけたとも思った。それなのに揺れ動き移ろってどちらかなど選べないでいる己の心は意志薄弱で軟弱だ。こんな体たらくではこの先長く険しい道を行き、目指す場所になど辿り着けるだろうか。
「こんなとこにいたのか」
 後ろからかかった声に振り向くと、キキョウが立っていた。目線を合わせていられずに、ふいと前を向く。
「いつまで経っても戻ってこねぇからどこ行ったのかと思って探したぜ。何してんだこんなとこで」
「……眠れそうになかったので、少し考え事をしていました」
「それくらいこっち見て言えよ、顔も見たくねぇほどオレが憎いか?」
 詰問するような口調のキキョウの言葉に返せる返事などない。いっそ憎めていたならこんなにも苦しむ事はなかった。唇を噛んで目を伏せる。
「口もききたくねぇほどオレが嫌いかよ、聞いてんだ、答えろ」
 キキョウの語調は徐々に荒くなっていった。何を言えばいい、答えられる言葉など持ってはいない。嫌いでも、憎くもない。今すぐにでも縋り付いて愛を乞いたいほどだ。でもそんな事をして何の意味があるだろう。
「どうして……俺を探したりするんです」
「あぁ? そりゃこんな遅くまで戻ってこなきゃ多少は心配になるだろうがよ」
「俺の心配なんて、どうして兄弟子がするんですか……?」
「しちゃ悪ぃのかよ」
 明らかに機嫌を損ねた様子の声でキキョウが吐き捨て、草むらを踏みしめて近付いてくる。距離を置きたい、そう思って立ち上がろうとすると肩を掴まれぐるりと後ろに身体を向かせられ、もう片方の肩も掴まれる。面白くなさそうに眉根を寄せ目を細めたキキョウが正面からリンドウを睨み据えた。
「別に嫌いでも憎くても構わねぇよ、けどな、それならそうと言え、逃げてんじゃねぇよ! 面も見たくないってんならそう言え! お前はオレにどうしてほしいんだよ、何が気に入らねぇんだよ、お前の考えてる事が全然分かんねぇんだよこっちは!」
 意外なほど必死な様子で詰問してくるキキョウの様子に意表を突かれ、答える言葉を持ち合わせていないリンドウはただ目を伏せた。言われた通り今のリンドウはただ逃げているだけだ。辿り着いた仮説を証明されるのが怖くて、必要とされていないと認めるのが怖くて逃げている。
「……兄弟子にどうしてほしいとか、そういう事を言える立場ではないです、俺は……」
「目ぇ見て話せ」
「そんな風に、気にかけてもらったり優しくされるのが、辛いんです……これ以上、心を掻き乱されたくないです……」
 目を上げられないまま、ぽつりぽつりとリンドウは呟いた。しばらくの後、力強く肩を掴んでいたキキョウの両手が離れていった。
「……それが、分からねぇって言ってんだ。どうしてそうなる? 何をどうすればそうなるんだよ、全然分かんねぇよ……」
「兄弟子は、今まで通りにしていてください……それで、何の問題もないでしょう?」
「問題があるかないかじゃねぇ、どうしてかって聞いてんだよ! 答えろよ!」
 キキョウの苛立った声が叩き付けられるが、答えるべき言葉はやはり持ち合わせていない。あなたを愛しているから、そう答えたら何かが変わるだろうか。だが変わるとしても失うという形での変化になってしまう事が恐ろしくて、とても口には出せない。怖くて逃げているだけだ、こんなにも弱く脆かっただろうか自分は、そんな思いが過ぎる。キキョウを前にするとどうしてこんなにも逃げるしかないほどに弱くなってしまうのだろう。いつも背筋を正し凛としていたい、そう思っているし心掛けている筈なのにキキョウの前ではそれができない。自分でも意識していなかった弱くて脆い面が顔を出してしまう。
「……俺は、弱い人間です。だから、今までと同じようにはもう……できないんです」
「それじゃ答えになってねぇ。とにかくちゃんとこっち見ろ」
 そう言われても顔を上げる勇気も出ないまま目線を巡らす。すると、今まではなかったものがキキョウの胸元にきらりと光るのが見えた。
「それは……まんぷくマルシェのバッジ…………どうして」
「貰ったもんはとりあえず付けんだろ。センス悪ぃデザインだしオレにゃ似合ってねぇのは分かってるけどよ」
「……」
 口を噤んでキキョウの胸元のバッジを見ながら、不可解な感情が己の中に湧き上がるのをリンドウは感じていた。キキョウの心を開いたランチに対する強い嫉妬。ランチと親しげにする——例えば、どこかランチと二人だけの雰囲気を持った空間を作ってしまうようなフェンネルであるとかスキンシップ過多のブーケガルニにもこんな気持ちは抱いた事はないのに、どうして想いを寄せている筈のランチにこんな気持ちを抱いてしまうのだろう。そんなもんいるかとけんもほろろに突っ撥ねていた、仲間の印であるバッジをキキョウはようやく受け取った。その事自体は喜ばしい筈なのに、そこまでキキョウの心を開かせたのが自分ではなくランチだという事実が受け入れ難く妬ましくて仕方がなかった。
 分かっている、ランチだからできたのだ。どれだけ無碍にされてもへこたれず、諦めずに語りかけ続ける事で固く閉ざされた相手の心の扉をそっと開く、ランチにはそういう力がある。リンドウにそんな力はない事も分かっている。だがそれでも、キキョウの心の扉を開かせたのが自分ではないということが自分の無力を示しているようでどうしようもなく悔しくて、情けなかった。
 傍にいたとして何の力にもなれない、求めてやまない愛情が向けられる事もない。無力感が胸を覆って身体から力が抜ける。絶望にどこか似た虚脱感に支配されて、それがやがて諦めに変わる。
「……俺は、兄弟子の力になりたい、心を変えたい、そう思っていました……。でも俺には、そんな力はなかった。せいぜい暇潰しの道具程度にしかなれなかった」
「何言ってんだてめぇ、それは違うだろ!」
 肩を離れて降ろされていたキキョウの両手がリンドウの襟首を掴み上げる。どうしてこんなにひどく傷付いたような悲しげな顔をしているのだろう、兄弟子は。その理由がリンドウには分からなかった。唇を引き結んで歪め、眉根を寄せて目を細めたキキョウの表情は、今にも涙を流し始めてしまいそうだった。
「オレが……全部悪かったんだ、それはおめぇの気が済むまでいくらでも謝る。許して貰えなくたって構わねぇ。けど、そういうのはやめろ……。おめぇはオレの欲しかったもんは何でも持ってんのに……手前には何もできねぇみてぇな事言うんじゃねぇよ……。じゃあこうやって愚図愚図ウダウダしてるオレぁ一体どうなっちまうんだよ! オレぁ変わりたいんだ、おめぇみてぇに! 他の事なんてどうでもよくなっちまうほど真っ直ぐで夢中に、和菓子を作んのが世界一好きだって言えるように、なりてぇんだよ! それでもてめぇはまだオレの心を変えられなかったって言うのか!?」
 突然の告白に動揺して、返す言葉もなくリンドウはただぽかんとした顔でキキョウを見つめた。あれだけの腕と才があって、それ以上に望むものがあるというのだろうか。和菓子を作る事を素直な気持ちでキキョウが楽しんでくれるようになれればいい、師匠の話を聞いてからは確かにそう思っていた。だけどどこかで、あんなに美しい菓子を苦もなく産み出せるキキョウが菓子作りを楽しんでいないわけはないとも思っていた。そのキキョウが、自分のようになりたいのだとそう言う。美的センス、際立った技術、キキョウこそリンドウが欲しくてたまらないものを幾らでも持っているというのに、どうしてそんな事を言うのだろう。心底分からなかった。けれども、師匠の言う通りリンドウの和菓子への向き合い方はキキョウに変化をもたらした、そういう事のようだった。
「……すみません、卑屈になりすぎていました。俺が兄弟子より優れているところなど一つもないから、まさかそんな風に思ってもらえているとは思わなくて……」
 そう答えると、キキョウはリンドウの襟首を掴んでいた手を離し、真っ直ぐにリンドウを見据えて静かに口を開いた。
「腕とか才能とかの話じゃねぇよ。おめぇはクソ真面目で、馬鹿が付くほど和菓子作りが好きだろ。そういう所を多分師匠も認めたんだ。オレぁいつの間にか好きだなんて素直に言えなくなっちまってた。客に食べてもらって喜んでもらう為に商売してんだって事も忘れてた。あの時……おめぇがオレをここに誘わなきゃ一生思い出せなかったかもしれねぇ事だ」
 いつもどこかしら茶化して面白がっている風のキキョウが、真剣な様子で訥々と思いを口にしていく。この言葉は、本物なのだ。その実感が空虚だった心を少しずつ満たしていく。胸が一杯で何も言えずにいると、キキョウはぷいと川面に背を向けた。
「明日も早ぇんだろ、もう戻って寝るぞ」
「……はい!」
 返事を聞くとキキョウはさっさと歩き出して、リンドウは少し離れてその後を追った。隣に並んで歩く事など叶わないかもしれない、それでもせめて背中を追う事だけでも許されるのならば。それを、キキョウが認めてくれるのならば。この道をもっともっと先まで歩いていける、そう思った。想いは少しも届いていないわけではなかったのだ。キキョウの内心を少しでも知る事ができたのも、ランチがキキョウの閉ざされた心を少しでも開いてくれたお陰だろう。自分勝手に嫉妬の念を抱いてしまった事を恥じ入ると共に、心からの感謝が湧き上がる。
 キキョウがより良い方向へ進んでいけるなら、切っ掛けが誰であっても何であっても構わない。できれば自分がという欲は消えないけれども、それこそ分不相応というものだろう。フェンネルが言っていたように人の心を開く力は誰にでも備わっているわけではないし、だからといってリンドウがキキョウに影響を少しも与えられていないという思い込みも違っていた。結局、自分にできる事を精一杯するしかないのだ。見ている人は見ているし、それは意図するものとは違っているかもしれないしごく小さいものかもしれないが、何らかの影響を周囲に与えている。
 想いは伝えられなくても、兄弟子と弟弟子としての関係ならばこれからキキョウと築いていけるかもしれない。もう抱いてはもらえない事が今はまだどうしようもなく辛いけれどもその痛みもいずれは薄らいでいって、この先同じ和菓子職人として研鑽し合えるような関係になれれば、それでいいのではないか。ずっとずっと知りたいと思い続けていた心を垣間見せてくれたキキョウの背中を見つめながらそう思う。
 愛している、触れて感じたい、胸をきつく締め付けるその思いも、そんな事もあったと苦笑いしながら思い出せるものにいつかなるのだろうか。今はまだ、リンドウには分からなかった。

 数日後、ウリロベでのゴーマン商事とのファン争奪バトルも無事勝利を収め、次の街への移動の準備が始まっていた。相変わらず撤収作業を手伝おうともせずベンチで寝転がりうとうとしていたキキョウの上にすっと影が差す。
「またサボり?」
 片目を薄く開き見上げると感情の読めないフェンネルの微笑がキキョウを見下ろしていた。
「休憩だよ」
「休憩っていうのは働く合間にするものだよ、君はサボりの合間にたまに働いてるだけじゃない」
「さぞお忙しいんだろ、用がねぇならとっとと行けよ」
「君、リンドウに一体何を言ったの? まぁ元の調子に戻ってくれてこっちとしてはありがたいんだけど」
 答える気の失せる質問に、思わず欠伸が漏れる。だが答えなければ答えるまでいつまでも居座るだろう、こいつはそういう奴だ。そんな確信もキキョウの中には既に存在していたので、不承不承ながら返答の言葉を探す。
「大した事ぁ言ってねぇよ、あいつが勝手に自分で立ち直っただけだ。大体あいつにゃなんでオレを避けてんのかを聞いた筈なのにそれも答えてもらってねぇし、マジで訳分かんねぇ奴だから、オレに聞くより本人に聞いた方が早いぜ」
 そう答えると、どういう訳か鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたフェンネルが無言でぽかんとキキョウを見つめた。そんな顔をされるような答えを言ったつもりなどない、不審に思い眉根を寄せるとフェンネルが笑みをぷっと吹き出し零した。
「……何がおかしいんだよ」
「君、本当に気付いてないの? それならそれでいいけど、思ってたより案外鈍感なんだね。まぁどっちにしろ教えてあげる義理は僕にはないし」
「何の話だよ、おい、ちょっと待て」
 何に満足したのかは分からないがフェンネルは背を向け歩き出す。上半身を起こしたキキョウの制止の声に振り返ると、いつもの感情の読めない微笑みではなく事態を面白がっているのが読み取れる実に面白くない笑みを浮かべていた。
「それこそ、僕に聞くより本人に聞いた方がいいと思うよ」
 そう言い残すとフェンネルは前に向き直り早足で駆けて行ってしまった。再びベンチに寝そべり宙を見ながら考えるが、フェンネルの言葉の内容がどういう事なのかさっぱり理解できない。大体にしてあれだけきつい口調で詰問したのに答えないものをどうやって聞き出せというのか。結局、リンドウが何を考え感じていたのかは、自分がキキョウに勝る所など一つもないと思っていた事以外は分からないままだ。
 知りたい。心からそう思う。あいつもこんな気持ちでオレの心を知りたいと縋り付いていたのだろうか、ふとそんな思いが浮かぶ。
 師匠の心が分からないまま放り出された時、心の内が分からない事にあれだけの絶望を味わったのに、同じかそれよりももっと酷い事を自分もリンドウにしていた。あんな奴はどうでもいい、傷付けてやりたいと思えていた頃はそれで良かったが、今はもう違う。
 どうしたら知ることができるだろう。結局師匠の本心は偶然聞く以外に知る術を持たなかったけれども、傍にいられる今の内にどうにか自分の力でリンドウの心を知りたい、そう思った。今のままでは何も納得できないし、どうにも収まりが悪い。己の心の整理も付けられはしない。
 あいつの事は自由にしてやるって決めたのだから、そう自分に言い聞かせるけれども手放したくないと駄々を捏ねる自分もいる。いい加減きっちりと気持ちの整理を付けなければならなかった。まんぷくマルシェが世界中を周る旅は、終わりが見えてきていた。

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