セレストブルー11
ウリロベでのファン争奪バトルを終えたまんぷくマルシェ一行はテシカへと移動していた。精神的な蟠りは解けたのかリンドウが極端にキキョウを避ける態度を取ることはなくなっていたが、それでも尚依然として自分は避けられているとキキョウは感じていた。
リンドウの寝場所は相変わらず作業場のままだ。いくらベッドで寝るように言っても頑として聞き入れない。じゃあ今日はオレがこっちで寝るからベッドを使えとキキョウが作業場で寝ようとすると、そんな事はさせられませんとそれも断られる。成程硬い床で寝るのは慣れているのだろうリンドウは寝不足の様子を見せることもなく毎日きっちりと仕事をこなしていたが、床を同じくするといっても手を出すわけでもないのにそこまで拒絶されるとさすがに腑に落ちない。
「おい、そこの生地よこせ」
「はい」
開店前に店に並べる和菓子を作っている時のことだった。生地の入ったボウルを受け取ろうと伸ばしたキキョウの指先が目測をやや誤り、ボウルを差し出したリンドウの手の甲に当たる。その瞬間リンドウの腕がびくりと震えて、ボウルの中の生地がたぷりと揺れた。ボウルが落ちかけるすんでのところでリンドウの指先がボウルの縁を押さえ直す。
「おい、気ぃつけねぇか! 集中しろ!」
「……はい、済みません」
ひったくるようにボウルを奪い取ると、キキョウは小さく舌打ちした。こういう事は今に始まったことではない、リンドウがキキョウを避けるようになってからずっとで、少しでも身体が触れると過剰なまでの反応が示される。今までしてきた事を思えばそれだけのトラウマを与えてしまったのだろうかという反省も浮かぶのだが、何故だかそれとは少し違うような気がしていた。謝った後リンドウは特に怯えた様子もなく俯いて手元に集中し作業を続けている。キキョウに無理矢理抱かれた事がトラウマになっているならばそもそももっと早い段階からこういう反応を示していただろうし、もっと怯えてもいい筈だ。
本当に訳が分からないしリンドウが何を考えているのかも全く分からない。
直接聞けばいい、それはそう思う。だがいざ聞こうと口を開こうとすれば、どんな言葉を発していいものか分からなくなってしまう。答えてもらえないのが怖いのかもしれないし、答えられる内容が怖いのかもしれない、とにかく、たった一言の質問を口に出す勇気がどうしても出なかった。
これ以上嫌われたくない。そんな風に思うようになってしまったのはいつからだったのだろう。確かめる勇気があったなら、キキョウは師匠の胸の内が分からないことにあんなにも長く苦しむことはなかっただろう。また同じ過ちを繰り返そうとしている、それは避けなければならないと分かっているのに、一言口を開くそれだけの事ができない。自分の意気地のなさに我ながら呆れ返ってしまう。
失う事を恐れてしまっている。もう失いたくない、その恐ろしさが問いかけの言葉を口から出す前に消し去ってしまう。妙な話だった。キキョウはリンドウをもう解放したのだ、リンドウは誰のものでもない、もちろんキキョウのものでもない。それなのに失うのが怖いなどと何を考えているのだろう、矛盾というものだ。
あれだけ傷付けて辱めておいて、避けられるのを辛いと思ってしまうのは単なる我儘というものだ。こうなる事は当然の結果なのを知っていてキキョウは行動した。ただ、共に過ごす内にこんなにも惹かれてしまうようになるなど想像もしていなかっただけだ。
真剣に作った和菓子が嘘をつく筈がない。分かれないのだとしても知りたい、受け止めたい。心を変えたい。今のこの状態は投げかけられ続けた言葉を悉く撥ね付け拒否してきた結果なのだ、受け止めなければならない。それは分かっているのに実際に避けられるのがこんなにも辛いのだとは考えてもみなかった。
今更どう取り返しなどつけられるだろう。やってしまった事はなかった事にはできないし、許しを乞おうにもで許される範囲を超えた事をやってしまったという自覚はある。もしキキョウが逆の立場だったとしたら相手を許すなどもっての外だ。今すぐ目の前から消えて欲しい、存在ごと無かった事になってほしいと強く願うだろう。お人好しで善良なリンドウはそんな事を口には出さないが、思っていたとしても何の不思議もない。
だがどうにも引っ掛かるのはウリロベでのフェンネルの言葉だ。まるでキキョウの鈍感さをからかい笑うように、本当に気付いてないの? と確かに言った。このリンドウの態度には、キキョウがまだ気付いていない理由がある筈だった。からかい笑われるような愚鈍ではないしむしろ勘の鋭い方だという自負はあったが、どうやらその認識も改めなければならないらしい。リンドウの思惑について思い当たる事などなく、お手上げの状態だった。
カステラの生地を型に流し込みながら、こいつ相手だと調子が狂っちまうんだとそんな思いが浮かぶ。ペースを狂わされて苛々させられて、弄ぶつもりがこちらがのめり込んでいて、いつの間にか離したくなくなっていた。独占したい、手離したくない、そんな事を相手に期待したことなど今までなかったのに。その場限りの色恋の駆け引きを楽しむのを好んでいた筈なのに、今はそんな気は全く起きない。そんなものはいっそ犬にでも食わせてやりたかった。
お前さえいてくれればそれでいい。そう思える相手を散々苦しめ自分を避けるように仕向けたのは自分自身だ。どこにも発散しようのない強い思いが胸の底に降り積もり蟠り続けていく。
思えば、恋らしい恋など今までろくにしてこなかったのかもしれない。子供の頃からずっとキキョウは和菓子作りに夢中で脇目も振らず修行に励む日々を重ねていた。師匠の元を追い出されてからというものは自暴自棄になり色々と悪い遊びを覚えたが、キキョウは誰ともまともに向き合おうとせずキキョウと向き合ってくれる人も誰もいなかった。こいつとあの女と、いけ好かないがフェンネル。少ない人数の中に気難しいキキョウと向き合おうとする人間がこれだけいるとは、つくづく不思議な場所だと思った。あの女のせいでお人好しが引き寄せられてんのかもな、そんな感想が浮かぶ。
最初の頃こそメンバーからは少々距離を置かれていたが、物怖じしないブーケガルニは初日から他の者と隔てる事なくどうでもいい話を振ってきたし、温和なディルもブーケガルニと一緒に行動する事が多いからキキョウが態度ほど性質の悪い人間ではないということをすぐに見抜いてしまったようで普通に話してくるようになった。最初から他と隔てがなかったといえばユーカリもそうで、何かといえばおやつにと食べきれない量のパンを渡してくる。その内に遠巻きにしていた他のメンバーもキキョウの口の悪さにも次第に慣れ話しかけてくるようになり、今やこのマルシェの一員としてキキョウはすっかり溶け込んでいた。
誰もが自分の料理に自信を持っていて、料理することが好きでたまらなくて、料理で客を笑顔にさせようと懸命に腕を振るう場所。いつも笑顔と笑い声で溢れていて、最初は居心地の悪さばかりを覚えていたのに、いつしか胸に灯る暖かさに気付かされた。ああそうだ、美味しいものは人を笑顔にするんだ。そんな単純で簡単で、でも何よりも大切な事を思い出させられた場所。
自分の腕に誇りを持って、知らない誰かを一人でも多く喜ばせ笑顔にする為に。そんな風に自分も生きられるだろうか。分からない、だがそうしたいと思った。そう思えたのはランチと、それから隣で毎日休むことなく誰かの笑顔の為に愚直に和菓子を作り続け研鑽を続ける、リンドウがいたからだ。
どうして、と最初は思った。恵まれた環境と約束された未来がありながらそれを擲って和菓子の道に入るなど利口な選択とはとても言い難い。だが段々分かってきた、この男は和菓子バカなのだ。そこに損得勘定など入る余地があるはずがない。誰よりも和菓子の世界に魅入られて、愛してしまっているのだ。
そんな気持ちをキキョウも取り戻せるだろうか。取り戻したい、そう思った。より美しく、味の良い菓子を作れるようになっていくのがたまらなく楽しかった、そんな頃がキキョウにもあった。他人から、特に師匠から認められたいという思いが強すぎるあまり、いつの間にか見失っていた気持ちだった。自分の腕に対する誇りは他人の評価によって作られるものではなくて自分の中に培うものだ。ここのシェフ達は皆そうだし、今思えばどうしてあんなにも他人に気に入られなければ不安になってしまっていたのだろうと不思議に思う。幼すぎたキキョウは確固たる自信を己の中に築く間もなく天才と持ち上げられ、ただ評価を気にするだけのつまらない職人に成り下がってしまっていた。
無為に過ごした時間を今からでも取り戻せるだろうか、どうしても取り戻したい。過ぎた年月はなかった事にはできないけれども、それを埋め合わせて有り余るだけの研鑽を積む事は可能なはずだ。何が大切なのか、何を目指せばいいのか、ようやくそれを見出す事ができたのだから。
それにしても、とキキョウは一つ息をつく。リンドウとはこのぎくしゃくした関係がずっと続いてしまうのだろうか。どうにかしたいがどうしても一歩踏み出す勇気が出ない。何か切っ掛けでもあればとは思うが、普通に時間を過ごしていてもそんなものが勝手に転がり込んでくるはずもない。あと一歩を踏み出す勇気、それが何よりも今欲しかった。
買い出しに行ってきたと思しき大きな袋を手に提げたバジルとオレガノが帰ってきたが、バジルは何やらご機嫌の様子で鼻歌など歌いながら弾むように歩いている。買い出しがそんなに楽しかったのだろうか、変な奴と思いベンチに寝転んだキキョウは視線を上に戻した。
「おっ、なんかご機嫌だなバジル~、なんかいい事あったのか~?」
通りかかったブーケガルニがバジルに声をかける。キキョウが視線を再びバジル達の方へ戻すと、首がもげそうなほど大きく縦に首を振るバジルの姿が目に入った。
「それが、とってもとってもすごいっす! あのっ、あのっ、フェンネルさんのお父さんとお母さんが今度このマルシェに来るっす! どんな人なのかな~って考えたらボクわくわくしちゃって待ちきれないっす! 今もフェンネルさんのお父さんとお母さんに食べさせるケーキを試作する材料を買ってきたっす!」
「へぇ~フェンネルの父ちゃんと母ちゃんかぁ~、そりゃ~楽しみだな! 俺様も早く見てみたいぜ~!」
「おれも楽しみだな、フェンネルさんのお母さんならきっとすごい美人なんだろうなぁ」
他愛のない会話が賑やかに交わされる。あんないけ好かない男でも人の子だ、木の股から生まれたわけではないだろうし父も母もいるだろう。そんな事より気にかかっているのは、フェンネルの病状についてだった。口止めはされたもののあれから何度も駆け足で物陰に駆け込んでいく姿を目にしていた。あいつはこのままここに留まるのが正解なのではないか、いけ好かない奴だというのにそんな考えさえ浮かんでくる。どうにも他のメンバーのお人好しが伝染ってしまったようだった。
どちらにしろ口止めされた時のあの顔付きは他人の意見を聞き入れるようなものではなかった。どこまでも自分の意志を貫こうとする強い決意に満ちていた。ランチならともかく、キキョウが何を言ったところで聞きはしないだろう。考えるだけ時間の無駄だった。
「兄弟子、ここにいらしたのですか。そろそろ店番の交替の時間ですので行きましょう」
寝転んだ脚の方向からリンドウが駆け寄ってきてキキョウの前で立ち止まる。そういえばそんな時間か、そう思いながら右手をリンドウに向けて差し出す。
「兄弟子……? その手は?」
「悪ぃけどよ、怠ぃから起こしてくんねぇか?」
何気ない風を装ってそう頼むと、リンドウは表情と肩を明らかに強張らせた。思った通り、肉体的接触を明らかに嫌がられている。微かに眉根を寄せると、そのキキョウの表情の微妙な変化にはっとした様子のリンドウは左手を伸ばしてキキョウの手を掴み、引っ張って助け起こす。キキョウの上体が起きるとすぐにリンドウの手は離れていった。
ベンチから起き上がり立つとリンドウは苦い顔をしていた。何か苦しみにでも耐えているような顔で、何か悪い事でもしたような気分にさせられる。良くも悪くも表情に出る、フェンネルがリンドウを評した言葉だが確かにその通りだと思わせられる。
「……まぁ仕方ねぇけどよ、そう露骨に触るのも嫌って態度取られると結構傷つくぜ」
「違います、違うんです! 嫌なのではなく、ただ……」
「ただ?」
続きの言葉をキキョウは待ったが言葉を継ぐことはなくリンドウはキキョウに背を向けた。
「……交替に遅れてしまいます、行きましょう」
そう告げてキキョウの返事を待つことなくリンドウは歩き出す。嫌じゃないなら何だってんだよ、もやもやとした気持ちが胸の中に蟠る。リンドウの数歩後を歩きながら考えるが、嫌われている以外の可能性がどうしても浮かばない。触られると嫌な事を思い出しちまうってことか、そう思う他はなかった。ただ、違うと言い張るのはキキョウに気を遣っていると考えるのが自然だが、本当に気付いてないのというフェンネルの揶揄が脳裏を掠める。オレは何に気付いていないというのだろう、何を見落としているのだろう? それがどうしても分からなかった。
店番を交替してユーカリとネリネは休憩に入る。昼時のピークはもう過ぎているので客足はまばらだ。口に出す言葉も浮かばないまま店番の椅子に座り客を待つが、流れているのは決して嫌な種類の沈黙ではなかった。触れたら壊れてしまいそうな脆く柔らかで、壊れてしまうのがどこかしら哀しいような空気だった。こうしてこいつと一緒にいられるのはあと何日、どれだけの時間残っているだろう、別れる前にどうしても真意が知りたい。感傷めいた思いが過ぎり、自分らしくないと苦笑が漏れる。
突然隣に座っていたリンドウが立ち上がった。見上げるとあまり顔色が良くない。体調でも良くないのだろうかと声をかけようとするが、リンドウの方が先に口を開いた。
「済みません……少し、厠へ行ってきますので、その間お願いします」
「顔色が良くねぇぞ、具合でも悪ぃんじゃねぇのか? 誰かに代わってもらうか?」
「……いえ、大丈夫です、すぐ戻りますので」
そう言い残すとリンドウは足早にキッチンカーを出て、駆け込むように公衆トイレへと入っていく。個室に鍵をかけ、ドアに凭れて荒い息を吐く。
ただ手を握っただけだ。それなのに感じる肌の感触と体温にたまらない気持ちにさせられる。あの手に毎晩のように肌をまさぐられていた記憶がくっきりとした感触として身体中に蘇って、欲しいという気持ちが抑えきれなくなる。指先が少し触れるくらいならばまだ耐えられるというのに、少しの間手を握った程度でこんなにも身体を熱くしてしまう自分自身にどうしようもない嫌悪が湧く。それなのに、身体を燃え立たせる欲望を抑えることができない。
前掛けをたくし上げて下衣の留め紐を緩め下着と共に膝まで下ろすと、もうすっかり硬く大きくなったものが上を向いて物欲しそうに先端をぬめり濡らしている。キキョウの右手を握った左手で掴むと、まるでキキョウの掌に包まれているような錯覚に陥って扱く手が止まらなくなる。
そういえば、キキョウにこうしてここを刺激された事は今まで一度もない。愛してもいない相手を気持ち良くさせる必要もないという事なのだろうから当然といえばそうだった。だからこそだろうか、そんな経験はないから実際どうなのかなど分かりはしないのに、キキョウの掌の温度と感触を宿した手で昂ぶりを扱くとキキョウに手で高められているような錯覚を与えられて、息は増々荒くなり興奮は陶酔に発酵して頭を蕩かしあっという間に果てそうになってしまう。
「あっ……兄弟子っ…………兄弟子……っ!」
いつ誰が入ってくるかも分からない公衆トイレの中だというのに抑え切れない声が漏れる。遊んでいる右手を割った裾から胸に差し入れ、いつもそうされていたように硬くしこった乳首を弄ぶ。頂点に達するまではあっという間で、急いで便器の蓋を開けその中に幾度となく精を放つ。
射精後の虚脱感と共に、一体自分は何をしているのだろうという虚無感ともっときちんと触れられなければ満たされないという欲求がどこまでも混じり合うことなく胸の中で渦巻く。指先の温もりを感じただけで辛い、手を握るなど耐えられない。固く抱き締め合いキキョウの香りに包まれて唇を重ね合わせ、熱く太い滾りに身体の奥底を犯され絶頂と恍惚を感じたい。そんな事ばかりで頭の中が一杯になってしまう己の浅ましさが心底厭わしかった。
溜息を一つつくと後始末をこなし、着衣を整えてトイレを出て売り場へと戻った。遅くなって済みませんとなるべく平静を心がけてキキョウに声をかけると、客は来てねぇから構わねぇよと返された。
「それより、まだ顔色悪ぃぞ」
「……そうでしょうか、特に不調はないのですが」
「ならそんな苦虫噛み潰したような面してんじゃねぇよ、客商売なんだぞ」
「はい……」
ままならない己へのもどかしさや憤りは顔に出てしまっていたようで、キキョウに注意されても返す言葉もない。やり場のない想いは袋小路に閉じ込められて行き場を失って、今にも爆発してしまいそうだった。いつまで口に出さずに耐え切れるのか全く自信がない。かといって、口に出してしまうのはもっと恐ろしい。キキョウはリンドウの事などきっと目障りな奴程度にしか思っていない。もし違うのだとしても、拒否される可能性が大きすぎて口になどとても出せそうになかった。ランチのお陰で心を開き始め態度は軟化しているものの、リンドウに対しては元々憎しみすら抱いていたのだ。受け入れられるなどと楽観的な事は到底考えられなかった。
いつまで耐えればこの想いはこの衝動は、過去のものになってくれるのだろう。どうすれば諦められるのだろう。何気なく触れただけで毎度これでは、キキョウも先程言っていた通り傷付いてしまうかもしれない。そんな事は望んではいない。どうにかしたいとは思うものの、具体的な方策は全く見当も付かなかった。
その日は朝から重い雲が空を覆っていて空の上の風の流れも早く、いつ降り出してもおかしくないような天候だった。午後過ぎからぽつりぽつりと雨が降り出したかと思うと急激に本降りになる。丁度ブーケガルニとディルと物資の搬入をしていたリンドウは三人で手分けして濡れては困るものを屋内に運び入れていく。力自慢のブーケガルニとディルがいるため、周囲の緊急避難はすぐに終わった。
「この急な雨では他の場所も難儀しているかもしれんな、マジョラム達は魔法が使えるから問題ないだろうが……」
「手分けして当たっか! ディルはミツバとシオンの方見てきてくれ。俺様とリンドウはとりあえずフェンネルのとこが近いから行ってみっか」
「分かりました、終わったら他の所も見て回りますので、また後程」
ディルと別れ、ブーケガルニとリンドウは雨が流れる地面を蹴立ててフェンネルとバジルが作業している辺りを目指した。到着すると半分ほどの機材はまだ雨晒しのままで、ボウルに入ったホイップクリームはもう使い物にはならなさそうだった。
「あーあ、こりゃ参ったなぁ、まぁこの急な雨じゃしょうがねえか~」
「……待て、おかしい。フェンネルとバジルはどこだ?」
「言われてみれば……妙だな。お~いフェンネル~?」
二人で手分けして辺りを探すと、芝生に横たわる背中が見えた。白に緑のパティシエ服、緑がかったブロンド、間違えようもない。
「フェンネル、おいフェンネル!」
駆け寄ったリンドウはフェンネルの背中を抱え起こしてびしょびしょに濡れた頬を叩いたが、頬はひやりと冷え切っていてフェンネルの反応も返ってこない。このままの状態ではまずいという事だけは分かる。とりあえずこれ以上身体を冷やしてはいけない。
「ブーケガルニ、来てくれ! フェンネルが!」
「おわっ! フェンネルどうしたんだ!」
「分からん……だが身体が冷え切っている、早くキッチンカーに運ぼう」
「わ、分かったぜ!」
ブーケガルニと二人して雨に濡れ脱力しきって重いフェンネルを抱え、フェンネルのキッチンカーへと運び入れる。濡れた衣服を全て脱がし箪笥の中を見繕ってパジャマと思しきものに着替えさせベッドに寝かしつける。その間にフェンネルの体温はぐんぐん上昇し、高熱でベッドの上のフェンネルの額が汗ばんで前髪が張り付いていた。
「俺はマジョラムとチューベローズ様を呼んでくる、ブーケガルニはここでフェンネルを見ていてくれ、それから、タオルを冷たい水で絞って冷やしてやってくれ」
「お、おう、分かった、任せとけ!」
言い残すとリンドウは足早にキッチンカーを出てマジョラムのいるであろう辺りへ駆け出す。ここ最近フェンネルは大きなパーティ用のケーキの注文を受けていてかなり無理をして仕事をしていたようだった。そこにこの雨で身体が冷えて体力の限界を迎えたのだろう。
だから言ったのだ、早く故郷に帰れと。そんな悔しさと歯痒さで胸が一杯になる。安静にしていれば体調を崩す事はないはずのこのテシカの地で倒れてしまったということは、フェンネルの状態はもう取り返しがつかないものになってしまっているのだとしても何もおかしくはない。あの時もっと強く言っていれば、後悔が胸を塞ぐが何を言ったところでフェンネルは聞き入れることはなかっただろうという確信めいた思いもどこかにある。
マジョラムとオレガノは片付けを終え屋根の下で雨宿りをしていた。びしょ濡れになって駆けてくるリンドウを見て何事かと驚いた表情を見せる。
「マジョラム、フェンネルが大変なんだ、すぐ診てやってほしい。疲れが溜まっていたところに雨で身体を冷やしたらしくて雨の中倒れていたのを俺とブーケガルニが見つけたんだ。とりあえず濡れた服は着替えさせてベッドに寝せているが、高熱が出ている」
「えっ……リンドウさんそれマジ!? 分かった、すぐ行く」
「おれ、チューベローズ様を呼んでくるよ。フェンネルさんのキッチンカーに行けばいいんだね」
「ああそうだ、済まないが頼む」
オレガノの申し出に頷いて、フェンネルのキッチンカーに向かったマジョラムの後を追って駆け出す。フェンネルの作業場辺りまで来ると、ランチとバジルが辺りを見回していた。恐らくフェンネルを探しているのだろう。
「ランチ、ランチー!」
ランチの姿を見たマジョラムが慌てて駆け寄っていく。何が起きたのかまだ知りようもないランチは、不思議そうに首を傾げる。
「マジョラム、そんなに慌ててどうしたの?」
「ちょ、ちょっと来て! フェンネルが!」
「……え?」
大きな目を驚きで見開いたまま、しばらくの間ランチは動くことも何かを言うこともなかった。早くとマジョラムに手首を捕まれ急き立てられてようやく歩き出す。その後をバジルが追った。
フェンネルのキッチンカーは高級で部屋もいくつもある豪勢なものだからある程度の人数が入っても大丈夫だろうが、今リンドウが行ったとしても出来る事など何もない。それよりはまだ手伝いが行っていないかもしれないユーカリ達の所へ行き、フェンネルの事も併せて伝えた方がいいだろうと判断してユーカリとネリネの元へ向かう。片付けは粗方終わっていたが残っていた重い荷物を運び入れ、片付けが終わってから屋根の下に入りフェンネルが倒れた事を二人に伝えた。
「フェンネルさん……大丈夫なんでしょうか……」
「……分からない」
「実は、気にはなってたんです……なんだか最近のフェンネルさんとても咳が多くて……急に物陰に走っていってしまう事もあったりして……身体の調子があまり良くないのかなって…………もっとわたしが気を付けてあげれば……」
「……ユーカリ一人が責任を感じる事はない。責任があるとすればフェンネル以外の全員にある。それにああ見えて頑固者だから、仕事を控えろと言っても聞かなかっただろう」
「そうかもしれません……ですけど……」
リンドウの言葉にもユーカリの憂いは晴れず、沈痛な面持ちで俯いたままだった。ネリネがユーカリの肩をそっと抱く。テシカの民は逃れられない死の影がフェンネルに迫っていることを口にはできないし、するべきでもないだろう。雨は止む様子を全く見せずに降り続き激しく地面を濡らしていた。
こんな事があっても、いやこんな事があったからこそ夕食はしっかりと食べなければならない。今日の賄い当番だったユーカリとネリネをそのままの流れで手伝い夕食の準備を済ませ、傘をさし皆に夕食の準備が整った事を告げに行く。フェンネルのキッチンカーを覗くと、ブーケガルニはおらずマジョラムとチューベローズが二人してフェンネルを看ていた。
「リンドウさん……どうしたの?」
「夕食の準備が出来たんだ。ここは俺が一旦引き受けるから二人とも食べてきてくれ。ブーケガルニはどうした? それからディルとオレガノにランチとバジルもどこにも姿が見えないが」
「ブーケガルニとオレガノとディルには薬とお医者さんを探しに行ってもらってる……解熱剤も効果ないしこの様子だとどんなお医者さんを呼んでも意味はなさそうなんだけど、あのバカ何もしないでいられるかよって言うから……薬の事はオレガノが付いてれば大丈夫だからそれで」
そうか、とリンドウは低く返事を返した。確かにブーケガルニならば黙って見ていることなどできないだろう。
「ランチとバジルは?」
「それが……あのね、フェンネルってテシカ出身じゃん? テシカの人って元々身体が弱いらしくて、その病気によく効くガラスのバラってやつがあるらしいんだけど、もう絶滅しちゃったらしくて……でもその話をチューベローズ様から聞いたバジルが探しに行っちゃって、ランチもそれを追いかけて行っちゃったの」
「なっ……この雨だぞ! それにもう暗い、雨で足場の悪い山道をランチとバジル二人では危なすぎる! 俺が探しに行く」
「待たんか」
フェンネルの寝室を立ち去ろうとしていたリンドウを、後ろからチューベローズが呼び止める。
「何ですかチューベローズ様、今は一刻を争う時なんです! 絶滅した薬草を探しにきちんとした準備や装備もなしに山に踏み入るなんて、何があるか分からないのですよ!」
「見つからんかもしれんが、見つかるかもしれん。吾輩はな、あの二人なら案外そんな嘘のような奇跡を叶えてくれるかもしれんと思っておるのじゃよ。奇跡はいつでも起こるわけではないが、奇跡を起こすのはいつも諦めない強い想いじゃからな」
「ですが! もし二人まで山で事故にでも遭ったら!」
「少し落ち着かんか、探すと言ってもそれこそどこをどう探すのじゃ。おヌシ一人で探しきれるような広さの山ではないぞ」
嗜めるように言われてはっとなり自分が冷静さを失っていた事に気付いてリンドウは俯き唇を噛んだ。たしかにこの大きく広い山の中、どうやってリンドウ一人で二人を探せるというだろう。
「信じて待ってはみんか、二人のフェンネルへの想いは本物じゃ」
「はい……済みません、取り乱してしまって」
頭を下げ詫び、夕食を摂ってくるよう再び二人に勧める。今度は二人とも素直に席を立ち、使ってきた傘をマジョラムに渡して入れ替わりにベッド脇の椅子に座る。タオルで汗を拭ってやり、水で濡らして絞り額に戻す。
「だから言ったんだ……ランチがどれだけ悲しむか、ちゃんと考えろと」
低い呟きも、熱にうなされ苦しげに眉根を寄せるフェンネルの耳には届かない。フェンネルは気付いていないのだろうか、フェンネルの動きを追うランチの目がどれだけ優しい光を帯びているのかを。フェンネルにバカ! と怒ってみせて歩き出した後で、嬉しそうにそっと笑う癖を。リンドウはよく知っている、ずっと見てきたからよく分かっている。ランチの心はずっと前からフェンネルに向いていて、自分に向けられているのは友愛である事など、分かりたくはないのに知っている。
フェンネルは時間の残されていない自分よりはリンドウを、と考えていたようだが、それでは駄目なのだ。ランチの心はこちらを向いてはいないのだから。残された時間の多寡などその想いが問題にするだろうか。どれだけ短くても構わない、少しでも一秒でも長く共に、きっとそう願うだろう。フェンネルはランチの幸せを願っている、それは間違いのない事実だ。だがランチにとって何が幸福なのかを決めるのはランチ自身の願いと心なのだ。
死ぬな、今ここで、こんなところで中途半端に死んでしまうのはやめろ、ひたすらにそれだけを思った。悲嘆に暮れるランチの姿など決して見たくはなかった。それに、叶わないと分かりながらも諦めきれないランチへの慕情は、フェンネルが死んでしまえばきっと行き場がなくなってしまう。悲しむランチに付け入るような真似は何があってもできないが、捨て去ることもできないだろう。あれだけ成し遂げたがっていたゴーマン商事との戦いの決着もまだついてはいないのだ。
時折汗を拭きタオルを洗い絞り、死ぬなとそれだけを念じながらリンドウはマジョラムとチューベローズの帰りを待った。
朝方親切な人の荷車で帰ってきたランチとバジルは、驚くべき事にガラスのバラを持ち帰ってきていた。リンドウが起きた頃にはフェンネルの状態も安定し、少しだけ様子を見に行くと昨夜とはうって変わって安らかな寝顔で眠っていた。今はユーカリがフェンネルの様子を見ていた。
「おはようユーカリ、フェンネルはどうだ?」
「ええ、マジョちゃんから聞いた話だと、ランチさんとバジルくんが見つけてきてくれたガラスのバラのお陰で熱も下がったし脈も落ち着いたし、もう心配ないそうです~。一時はどうなることかとヒヤヒヤしましたけど……本当に、本当に良かったです……」
「そうだな……ランチとバジルはどうした? 怪我はしていなかったか?」
「はい、実は崖から落ちたらしいんですけど……親切な人に助けてもらって二人とも怪我はなかったみたいです~。わたしが来るまでここでフェンネルさんを看てたんですけど、もうフェンネルさんの状態も安定してるし二人とも山の中を歩き回って疲れてるでしょうから、一旦ゆっくり休むようにしっかり言っておきましたよ~」
「そうか、それならいいんだ。朝食が出来たら運んでくるから、フェンネルの事を頼む」
「はい、任せてください~!」
いつも通りのように見えて心なしか少しだけの憂いを孕んだユーカリの笑顔が少しだけ悲しい。フェンネルのキッチンカーを出て少し歩くと、近くの茂みががさりと揺れた。誰かいるのだろうかと近付くと、鼻水を啜り上げる音がした。
「……ランチ。休むようにユーカリに言われたのではなかったのか?」
茂みの向こうに見えた白いリボンで結わえた焦茶色の頭にそう声をかけると、びくりとランチの頭が揺れた。茂みを跨ぎ、茂みに身を隠すようにしゃがんでいたランチの傍にしゃがみ込む。
「崖から落ちたそうだな。無事だったからいいようなものの、フェンネルだけでなくお前とバジルまで一歩間違えれば死ぬところだったんだぞ。お前はこのマルシェの責任者なんだから、もっと慎重に行動してくれ」
涙をぽろぽろ零ししゃくり上げながら、リンドウの言葉にランチは頷いた。一応反省の念はあるらしい。ハンカチを握りしめているがもうびしょ濡れの様子なので、ポケットからハンカチを取り出し差し出すとランチは鼻声でありがとうと言いながら受け取り、頬を伝い続ける涙を拭った。
「バジルくん一人で、行かせちゃいけないって、思って……ううん違う…………私もきっと、ガラスのバラを、どうしても、見つけたかったんだ……。私まだ、フェンネルに何も、言えてないのに……もしこのまま、何も言えずに、死んじゃったらって、思ったらそれが、すごく、怖くて……だから、私……」
一言一言、溢れんばかりの想いの詰まった涙声で絞り出されるランチの言葉を聞いて、リンドウはただ静かに頷いた。いつまでも一緒にいられるわけではない、しかもこんな突然命を断たれてそれが永遠の別れになってしまうかもしれない、その事実にランチが感じた驚愕と狼狽と恐怖はいかばかりだったろう。愛する人をこんなにも突然に永遠に失うかもしれない恐怖など、リンドウには想像することしかできない。
「チューベローズ様から、テシカの人達の身体の事は聞いたか?」
「……うん」
「それなら、少しでも早く自分の気持ちをフェンネルに伝えるんだ。あとどれだけの時間が残されているのかは分からないが、お前はフェンネルと一緒にいたいんだろう?」
「……うん、そうだね」
頬の涙を拭ったランチは、ハンカチをリンドウに返す。この湿った重みは、ランチの想いなのだ。愛おしいのに決して自分には向けられない、手は届かないもの。
「少し休め。暗い山の中をずっと歩いたんだ、疲れているだろう。お前まで倒れてしまったらフェンネルが悲しむだろう?」
「うん、そうだね、分かった……今日はマルシェはお休みにしよう。フェンネルもまだ起きられないだろうし……」
「その方がいいな。皆には俺から伝えておく」
ようやく寝る気になってくれたのかランチは立ち上がり、それに合わせてリンドウも立った。ランチの涙で潤んで真っ赤になった目が、眩しそうに寂しげにリンドウを見上げる。
「ありがとうリンドウ、励ましてくれて。ちょっと寝たら大丈夫、ちゃんと元気な私に戻るから……おやすみ」
「おやすみランチ、ゆっくり休んでくれ」
ランチは頷いて踵を返すと振り返らず歩いていった。皆に今日の休業の事を伝えなければ、そう思いつつもランチの背中を見送り続けるリンドウの足は動かなかった。
「あーあ、とんだ馬鹿だなおめぇはよ」
突然頭上から声が降ってきた。何事かと見上げると、脇に生えた木の枝の上にキキョウが寝そべっていた。
「あっ、あっ……兄弟子!? いつからそこに……」
「夜明けくらいからだよ。言っとくけどあの女より先にここにいたんだからな、勝手にごちゃごちゃ話し始めたのはそっちだぜ、聞きたくて聞いたわけじゃねぇからな」
作業場で眠っているリンドウは寝室のキキョウがいるかどうかなど確認する発想もなくここへやってきて恥ずかしい会話を聞かれてしまったという事らしかった。
「……というか、なぜここに……? 木でしたら俺のキッチンカーの周りにもいくらでもあるでしょう……兄弟子も、フェンネルの事を心配なさって?」
「ケッ、んなわけねぇだろ。あんないけ好かねぇ野郎の心配なんざ死んでもするか」
「それにしては……おられる位置がフェンネルのキッチンカーに近すぎます」
「うるせぇよ! それよりおめぇの事だよ、だらしねぇな。男ならあそこで口説き落とすくらいの甲斐性見せろってんだ」
キキョウの言葉の内容が何故だか妙におかしく思えて、リンドウはついふっと笑みを零した。それを見下ろしたキキョウが機嫌を損ねて眉根を寄せる。
「何がおかしいんだよ」
「綺麗事と思っていただいて構わないのですが、俺は、ランチに自分が望むままに生きてほしいのです。その結果自分が選ばれなくても、ランチがそれを本当に望んでいるのなら俺にとってそれは嬉しい事なんです」
「チッ……ほんとにつまんねぇ世迷い言だな。とんだ大馬鹿野郎だぜ、頭湧いてんじゃねぇのか。てめぇの事はどうでもいいのかよ」
「心配してくださっているんですか? でも大丈夫です、ずっと前から分かっていた結果なので。ありがとうございます」
「違ぇよ、自惚れてんじゃねぇぞ。二度寝の邪魔なんだよ、朝飯の準備ができたら起こしに来い」
言うとキキョウはぷいと顔を上に背けた。何故だか不思議と清々しい気持ちで、はいと答えてリンドウはその場から離れていった。
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