セレストブルー12
数日が経過するとフェンネルはすっかり復調し、仕事にも復帰することができるようになった。フェンネルの父母もマルシェを訪れ、ガラスのバラを譲ってくれた人達がフェンネルの父母だと知り大いに驚き再会を喜び楽しげなランチとバジル、それに少し照れくさそうに微笑むフェンネルが二人を出迎えて、マルシェは穏やかな時間を少しずつ取り戻していた。ガラスのバラの効能がどういうものなのかをリンドウは知らない。だが、テシカの民の体質を根本から改善するようなものではないのではないかという予感を抱いていた。
「チューベローズ様、フェンネルの事なのですが……またテシカの外に出ては同じ事の繰り返しになるのでは……?」
周りに人がいないのを見計らい質問を投げかけると、チューベローズはふむと唸って目を眇めリンドウを見た。
「それはあやつも承知の上じゃ。それでもこのマルシェが終わるまではどうしてもと言うのじゃから止められんじゃろう。なに、旅も終わりに近付いておることじゃし、ガラスのバラの効果でいくらかではあるが外の空気にも耐えられるようになっておる。このマルシェが終わった後はすぐにこのテシカに戻り静養しておれば今回のような事にはなるまい」
「ですが……」
また、あんな風に失うことを恐れてランチが泣きじゃくってしまうような事になっては。それを思うと胸が痛んだ。未練がましいと我ながら呆れたが、リンドウに笑顔をくれたランチの笑顔が何よりも好きだったから、それが失われるような事になるのは耐えられない。
「あやつも何も死ぬつもりでおるわけではない。今回のように身体を痛めつけるような無理をせんようせいぜいサポートしてやることじゃな」
「……はい」
言いたい事は色々あったが、フェンネルは穏やかな物腰からは想像もつかないほどの頑固者で言って聞くような性格ではない。ましてやその固い意志の源泉となっているのはランチへの想いだ、例え止めるのがランチだろうと誰が何を言っても聞かないだろう。
フェンネルにはランチが必要だし、ランチが求めているのもフェンネルだ。そこに自分が入り込む余地など微塵もありはしない。分かりきっていた事だけれども改めて思い知らされると思わず苦い笑みが漏れる。
「それより吾輩はおヌシの事の方が気掛かりじゃがの。人の心配をしている場合ではないのではないか?」
チューベローズの言葉に思わずどきりとしてリンドウはチューベローズに顔を向ける。この梟になら何もかもお見通しと言われても何も不思議ではない。一体どこまで何が分かられているのだろうと思うと気が気ではないが、チューベローズはそんなリンドウの内心を見抜いているかのように楽しげにホッホッホと笑うばかりだった。
「……ご忠告はありがたく胸に留め置きます。では仕事に戻りますので」
「賄いが出来たらすぐ呼びに来るのじゃぞ~!」
相変わらずの食い意地の張ったチューベローズの言葉に頷いてリンドウはその場を後にしキッチンカーへと戻った。歩きながら考えるのは、確かに自分は今他人の心配をしているような場合ではないという事だった。折角キキョウが心を開いてくれるようになったというのに、自分の都合でキキョウに居心地の悪い思いをさせもしかしたら傷付けてさえいるのかもしれない現状はなんとか打開したい。だが自分でもコントロールできない欲求を消し去る方法など見当も付かない。
いっそ、想いを告げてしまおうか。フェンネルを心から想うランチの姿を見て吹っ切れたように、キキョウの心さえ分かれば心の整理がつけられるのではないか、そう思った。だがきっとキキョウを前にすれば拒絶が恐ろしくて何も口を開けなくなってしまうだろうという事も容易に想像できた。
知りたいと強く願っているのに本当の事を知るのがどうしようもなく怖い、二律背反だった。キキョウにとって自分が必要のない存在だと思い知らされてしまう事に耐えられる自信がなかった。それだけ己が強くキキョウを求めてしまっているのだと自覚させられる。
いつの間にこんなにも求めるようになってしまったのだろうと考えた事もあった。だが思い返してみれば、どうしようもなく孤独で人肌の温もりを求めるのにそれに満たされることのないキキョウの事を最初から憎めずにいた。キキョウの器を満たせるだけの想いを注ぎ込むことができるだろうか、満たせたなら、そう思っていた。美しく脆く壊れやすいキキョウという器は哀しみと怒りで満ち満ちていて、満たされた哀しみと怒りが自分自身を更に傷付けていた。どうしてそんなに哀しいのだろう、そんなにも何に怒っているのだろう。分からないままそれでも、別のものでキキョウの器を満たせるようになれればと思うようになっていた。そんな力は自分にはないかもしれない、それでも。
キッチンカーに戻ると、作業場でキキョウが何かを作っていた。覗き込むと、白餡の中に何か黄色い粒が混ぜ込まれていた。
「新メニューの開発ですか?」
「ん? あぁ、ここらはレモンが名産だって聞いたからな、合わせてみたらちょいと面白いかと思ってよ。レモンピールを混ぜてみた」
言いながらキキョウは打ち粉を付けた餅にレモンピール入りの白餡を乗せて手早く包み、リンドウに差し出した。
「味見してみろ」
「……えっ、よろしいのですか?」
「食えっつってんだからいいに決まってんだろ、さっさと食え」
キキョウの言葉の迫力に気圧されて、受け取った新作の大福にかぶりつく。よく伸びる餅を噛み切り噛みしめると、あっさりとした白餡の癖のない甘さがレモンピールの香りを引き立て、レモンピールの酸味が餡の甘さを引き締めていた。
「これは……素晴らしいと思います。白餡とレモンピールが互いを引き立て合って、いくらでも食べられそうな後を引く味です。配合の割合も完璧だと思います」
「フン……そうかよ。ま、オレが作ったんだからその程度当然だろ」
「そうですね」
にこりと微笑むと、キキョウは照れ臭そうにぷいと横を向いた。今までいくらだって称賛を受けてきただろうにマルシェの仲間たちに褒められるとこんな風に照れ臭そうにするのは少し不思議だったが、もしかしたらこれがキキョウなりの仲間意識の表現方法なのかもしれない。そう思うと嬉しくなって口元が緩んでしまう。
「……何笑ってやがんだよ」
「いえ、なんでも」
「折角作ったんだし休憩の時間にでも他の奴らにも食わしてやろうと思うから、中入って作るの手伝え」
「はい」
キキョウの言葉に素直にリンドウは頷いて、中に入り手を洗って大福作りを始める。白餡にレモンピールだなんて普通は合わせようとは思わない、発想がまるでネオ料理のようだけれども本人はそれに気付いているのだろうか。なんだか嬉しくなって口元を緩め微笑みを絶やさないままリンドウは大福を作り続けた。二人並んで和菓子を作るこんな穏やかな時間も然程遠くない未来に失われてしまうのだ、その予感と不安をどこかに抱えながら。
途中フェンネルが倒れるという事件がありながらもテシカでのファン争奪バトルもどうにか勝利を収め、次にまんぷくマルシェが向かったのはカムイだった。最初に取り決めたファン争奪バトルの内容では、それぞれの街で五回勝負し勝敗を決する事になっていた。カムイでのバトルは既に四回終了しているので今回が最後になる。
カムイでも様々な事件があった。ミツバを実家に連れ戻そうと現れた女中のシオンが仲間に加わり、シオンの話を聞いたミツバが実家である金光寺家の担う重責と抱える問題を認識し、自分が家の為にできることを考え始めた事。地獄谷の鬼と呼ばれ恐れられていた無法者たちがシオンとランチの仲介により金光寺家の支援を受けて根城にしている地獄谷の温泉を利用した温泉卵を売る商売を始め、真っ当な道を歩み始めた事。時を重ねればそれだけ思い出は増えていく。和菓子発祥の地であり由緒正しく歴史ある和菓子の名店が多いこの街ではリンドウも学ぶ事が多かった。このファン争奪バトルが終わりまた一人に戻ったら、このカムイのいずれかの名店で短期間でもいいから仕事をして今まで知らなかった様々な味や技法や表現を勉強したいと考えていて、いくつか既に目星も付けてある。ただ飛び入ってもそう簡単には雇ってなどもらえないだろうが、まんぷくマルシェで働いていたという事実はその時にきっと大きな力になってくれるだろう。
ランチや仲間たちと過ごした日々は、リンドウに様々なものを与えてくれた。型に捕らわれない柔軟で自由な発想、未知の味覚の可能性、各々の領分を全うして力を合わせ働く楽しさ、笑顔、友情、恋。思い返せば様々な出来事が浮かぶが、どれも大切な思い出だった。
そういえばまんぷくマルシェとして活動を始め初めてカムイに来た時も、こうして夜の池の畔を歩いていた事があった。その時と同じように池の端にしゃがみ込んだミツバの後ろ姿が目に入った。
「夜遅くに女性が一人で出歩くものではない、シオンが心配するぞ」
「リンドウさん……」
声をかけるとミツバは振り向いてリンドウを見上げたが、すぐに目線を池へと戻した。
「ちょっと一人で考えたいって思ったんです……ミツバには何ができるのかなって」
まるで独り言のように静かな声でミツバはそう口にした。ミツバの隣に立って、昔日のように池に映る月の姿をリンドウは眺める。
「もうお前は何だってできる。一人ではできない事も、皆の力を合わせれば可能になるのだとお前にも分かっているだろう」
「そうですね……ミツバはまだ子供だから、ミツバ一人の力では何もできないけど……シオンちゃんや皆に手伝ってもらって力を合わせたら色んな事ができました」
ミツバはまだ子供だから。そんな言葉を口にできるようになっただけで、ミツバが大人になったのだと分かる。
「お前はもう立派な大人だ。自分の未熟さを認めることができるようになったし、他にも色々成長しただろう。覚えているか? 世界樹のマルシェにいた頃は、お前は男性相手の接客ができなくて女性専門に店をやっていたんだぞ」
「あの頃はほんとに男の人が怖かったので……でもリンドウさんや他の皆みたいに怖くない男の人もいるんだって分かったら、勇気が出たんです」
「それが、世界や視野が広がった、成長したということだ。そうして成長したからお前はあれだけ嫌がっていた実家や親戚からも逃げないようになった、強くなったんだ」
キキョウの心を知りたい、そう強く願ったあの日と同じように水面の月は水紋に割れ揺蕩っている。だが今日は決して掴むことのできない水面の月の揺らめきが、これからの未来を考えているであろうミツバの心を表しているように思われた。
「このマルシェが終わったら、ミツバ実家に戻ります。お父様のお仕事の手伝いをしたいって思うんです」
「そうか、とても大切な仕事だな。いい選択だと思う、俺も応援する」
ミツバを見下ろし微笑むと、ミツバもそれに応えるようにリンドウを見上げにこりと笑った。
「ほんとの事言うと、ミツバ、前はリンドウさんの事があんまり好きじゃありませんでした。すぐにミツバを子供扱いして、怒る時も怖かったので……」
「そうか……それは済まない事をした。感情的になると声が大きくなってしまうのは悪い癖だな……自覚がないが、顔も怖いと言われるしな」
「でも、最近ようやく分かるようになったんです。ミツバは立派なレディなのに子供扱いされてたんじゃなくて本当に子供だったし、リンドウさんは心配して怒ってくれてたんだって。皆さんと一緒に仕事して旅をして、ミツバ色んなことを一杯教わって、色んなことが分かるようになりました。その事を、このカムイの街の為に役立てていきたいって、そう思うんです」
真っ直ぐ真摯な目線でリンドウの目を見て、ミツバはそう言った。そこには必死に大人びようと背伸びばかりしていたミツバはもういない。自分の身の丈を知った、ありのままのミツバがいた。もう余計な心配はいらない、頭ごなしに叱りつけていいような子供でもない。信頼の置ける頼もしい仲間の一人だ。
「その言葉を聞けて俺も安心した。お前なら大丈夫だ、金光寺家の仕事もきっと立派にこなしていけるようになる」
「ふふ、リンドウさんにそんな事言ってもらえるようになるなんて思ってなかったから、ミツバとっても嬉しいです」
そのまましばらく二人で笑い合っていると、ミツバを探すシオンの声が近付いてきた。前を向くとミツバは立ち上がり、池に背を向けた。
「シオンちゃんが探してるので、ミツバもう行きます。ありがとうございました、おやすみなさい」
「ああ、おやすみミツバ」
ちょこんと礼をするとミツバは小走りに駆けていき、その背中を見送った後リンドウはもう一度池へと目を向けた。
まんぷくマルシェでの旅を通して、皆それぞれ何かしらの成長を得た。だが自分はどうだろう、何か成長できただろうか。以前のように何かあればすぐ切腹と取り乱してしまう事はほぼなくなったし、これから進むべき道は定まったとは思うが、キキョウの心を知りたいと足掻くばかりの日々だったような気がする。そして今もってキキョウの心についてはまだよく分からないままだ。ただ。キキョウが自分を憎む理由がどうやら師匠との確執にあるようだと分かってからは訳も分からずに犯されていた頃から比べれば心持ちは大分落ち着いたし、キキョウと師匠の間の蟠りをどうにかしたいと思うようにもなった。
ランチのような人の心を開いて繋いでしまうような力が自分にもあれば、と羨む事もある。だがないものねだりをしても仕方がないし、ただでさえ不器用なリンドウはやり方を選ぶことなどできない。ランチのような臨機応変さや柔軟さもない。
もっと器用だったなら、こんなにも愚かでなければ、キキョウの心を開くことができたのだろうか。愛を得られただろうか。そんな仮定に意味はないと分かっていながらも思わずにはいられなかった。水面に映る月は掬おうとすれば波紋を立て散ってしまうし、空の月には手が届かない。どうしても手に入らない美しいもの。眺めているしかできず、何より月は決して人を愛しはしない。空で孤独に輝き水面に影を落とすだけだ。
そこまで考えて、それは違うと思い直す。月は孤独を悲しみはしないけれども、キキョウは孤独に傷付き苦しんでいる。月のように美しいけれども、傷付きやすく脆い人なのだ。
今、このマルシェの旅に一区切りが付いたら叶えようと胸に秘めた願いが一つある。それが叶ったなら結果がどうあれ正直な気持ちを告げてみよう。リンドウは心の中だけで強く決意を固めて空の月を見上げた。空の月に手は届きはしない、だがキキョウは違う。手が届かないと思っているのは単なる思い込みかもしれず、手を伸ばせばすぐ届く距離にいる筈なのだから。気持ちを知りたい、受け止めたいと口にしたのはリンドウの方だ。いつまでも逃げる事はやめにして、きちんと向き合い手を伸ばしてみよう。もしかしたらその手は、握り返して貰えるかもしれないのだから。
カムイでのバトルも無事勝利を収め、ゴーマンストアとの五度目の決戦の為次に訪れたのはレヴンだった。いつの間にかブーケガルニのマルシェが終わった後の身の振り方は大陸とレヴンを結ぶ豪華客船の料理長に決まっており、それを知った一同は大いに驚いたが、ブーケガルニの腕なら充分務まるだろうという信頼も同時に抱いていた。
料理長になる条件としてブーケガルニには元々同じように豪華客船の料理長を務めていたというブーケガルニの母のレシピを完璧に覚える事が叔母のローリエから課せられていて、皆で相談してブーケガルニはレシピの習得に全力を注げるよう仕事の割り振りを決め直した。その甲斐あってかブーケガルニは膨大な数のレシピを完璧に習得してみせ見事ローリエに認められた。
レヴンを離れる前日の夜、今までレシピ習得の時間を作る為自分の分まで働いてくれた皆へのお礼にとブーケガルニは覚えたレシピで豪華な料理をいくつも用意し海辺に豪勢な宴席を設け、ブーケガルニの家族や島の人々、それに新生魔王軍の面々も加わって賑やかな会合になった。
猫を追いかけては戻ってこなかったり、掃除をした筈なのに掃除する前よりも汚れていたり、突然バンドを始めると言い出したり、いつも予測のつかない突拍子もない言動でその日その日を精一杯楽しんで生きているようなブーケガルニもこれから征くべき道をきちんと見定めていた。この美しいレヴン島を盛り上げてもっと賑やかにしたい、そんなブーケガルニの夢が形になったような素晴らしい選択だと思う。
皆、どんどん進むべき道を決めていく。マジョラムも工業の国への留学を決めたし、オレガノもマジョラムと共に留学できることになった。ユーカリはこれからキッチンカーで商売を始めようとする人の手助けになるような事をしたいと言っていた。ネリネは自動パン焼き機の改良とその他の発明を工房の多い王都で続けるようだった。ディルはマルシェが終わったらすっかり馴染み故郷のようになったこの島に戻り、チューベローズはマジョラムとオレガノに着いていき魔法を教えるのだという。フェンネルはテシカに戻るが、バジルはフェンネルに着いていって、キラキラのケーキ作りのお手伝いをこれからもしたいっす! と輝いた目で言っていた。シオンは金光寺家に再び仕える為戻るらしい。
ただ一人キキョウだけは今後の事を語らなかった。キキョウのキッチンカーは出会った際に廃車になってしまったし、これからどうするのだろう。米から作った濁り酒を煽りながら島の男たちと何やら楽しげに話すキキョウをそっと見やって、聞くべきかどうかをリンドウは躊躇った。
このマルシェが終われば、キキョウはまた一人になってしまう。その時キキョウが孤独に戻らない為に、一体何ができるだろう。リンドウとて修行の身だ、これから先自分の道を自分で切り拓いていかねばならないが、例えばランチや仲間たち、父母や友人たちとの絆を離れていても胸に感じて自分は孤独ではないとリンドウが思えるように、キキョウにもそんな胸を満たす思いを与えることはできないだろうか。
別れの時は確実に近付いていて、キキョウもリンドウもそれぞれの道を歩いていくことになるだろう。キキョウの為だけではなく、自分自身の為にも離れていても繋がっていると思えるような絆が欲しかった。愛されるのでなくてもいい、兄弟子と弟弟子としての感情でも構わない。ただ、繋がりが欲しかった。
「おーリンドウ! お前も飲め!」
「いや、俺は酒はあまり強くないから……」
酒壺を持ったブーケガルニがやって来て、リンドウの言葉も耳に入っていない様子でリンドウの前に置かれた盃に酒を満たしていく。
「そんな遠慮すんなよ! 今日はめでたい日なんだからよ~!」
「遠慮ではなく……仕方ない、無駄にするわけにはいかんからな」
渋々盃を手に取り口をつける。米の濁り酒は口当たりも良く甘く飲みやすかったが、アルコールも強い。あまり飲みすぎてはあっという間に正体をなくしてしまうと思い口を離すと、ブーケガルニが不満そうな顔をする。
「おいおい、注いでもらった酒は飲み干すまで盃は置かねえのがマナーだぜ~?」
「そんなマナーは初耳だが……」
「そりゃそうだろうな、うちの島のマナーだからよ!」
がははとブーケガルニが豪快に笑うが、酒豪揃いのレヴン島の島民たちと一緒にされてはたまったものではない。とはいえマナーらしいので仕方なく盃は置かずに手に持ったまま、リンドウはブーケガルニを見て薄っすら笑んだ。
「ブーケガルニはすごいな。魔王城もそうだし、豪華客船の料理長も。夢を次々に本当に実現してしまって」
「な~に言ってんだよ、俺様はリンドウの方がすげえって思うぜ~? 頭も良くてしっかりしてて、なんかこう、なんつーんだ? 自分の進むべき道をビシッと分かってるって感じがしてよ~、いっつもカッコいいって思ってたんだぜ?」
「そんな事はない、いつも迷ってばかりだ。今のお前の方がずっと自分の進むべき道をきちんと分かっている」
浮かべた笑みは困ったような苦笑に変わるが、ブーケガルニはそんなリンドウを不思議そうに眺めた。
「リンドウは迷ってるかもしんねぇけど迷ってるところは見せねぇだろ? そんで自分の道をちゃんとブレねぇで見つけてる。充分カッコいいと思うぜ?」
そう言ってブーケガルニはにかりと満面の笑みを見せた。ブーケガルニの言葉が素直に嬉しく、手に持った盃を持ち上げるとリンドウは中身を一気に煽った。
「おっ、いい飲みっぷりじゃねぇか! ほらもっと飲めよ~!」
「ま、待て、これ以上は無理だ! 酒はそんなに強くないと言っているだろう!」
「酔い潰れて砂浜で寝ちまうのもなかなかいいもんだぜ~? 潮風が気持ちいいぞ~?」
酌を勧めるブーケガルニの勢いは止まらず、賑やかな宴席は夜半まで続いた。
結局あれから何杯も飲まされたリンドウは、酔い潰れて砂浜の上で眠ってしまっていた。周囲にもリンドウ同様酔い潰れたと思しき男たちがごろごろと横たわっているし、その中には当然のようにブーケガルニも混ざっていた。水平線の方を見やると丁度夜明けの時間のようで、太陽が昇り始めていた。辺りを見回すと砂浜を進んだところに海を眺める人影が見えた。特徴的な癖毛から、すぐにキキョウと知れる。くらくらする頭を押さえながら立ち上がり、ゆっくりと歩いて近付いていく。
「おはようございます兄弟子、早いですね」
「おう、なんだか寝付けなくてよ」
「兄弟子が眠れないとは、珍しい事もあるものですね」
「今日はどうせ移動だろ、そん時に寝る」
「それならなるべく揺れないように気を付けて運転しますね。船に乗り入れたらどうしても揺れてしまうでしょうけど」
他愛のない会話を交わしながらリンドウも朝日が波頭を眩しく白く照らす海を見た。レヴンの風景は、いつどこを切り取っても美しい。北国生まれのリンドウには縁のない場所の筈なのに、どこかしら懐かしさすら覚えて胸が切なくなるような風景で満ち満ちていた。水平線の向こうには近くの島の影が黒く微かに見える。いくつもの群島からなるこの海域でもレヴンは大きな島の一つで、アクセスの困難さから訪れる人も少なかったが大陸から直行の客船が就航すればきっと大人気のリゾートになるだろう。
「……なぁ、おめぇは、このマルシェが終わったらどうすんだ?」
朝日を見つめたままキキョウが口にしたのは、リンドウがキキョウに聞くのを躊躇った内容の質問だった。答えるのにも少しばかり躊躇うが、意を決しやがて口を開く。
「今まで通り、キッチンカーで修行の旅を続けるつもりです。その他にも、カムイの和菓子屋は歴史があるだけあって素晴らしい店が多かったですし、そういう所で働きながら学んで技術を磨ければと思っています」
「そうかよ」
「兄弟子はどうなさるのですか……?」
「オレか? オレぁまだ……考えてねぇなぁ。キッチンカー買い直す資金稼ぐ方法でも考えるかな」
風は緩やかで、波が寄せ引く音だけが辺りを包む。キキョウの声は密やかで穏やかだった。心地よく耳に流れ込んでくるキキョウの声はどこか寂しげで、リンドウはちらとキキョウの横顔を見たが、特にこれといった表情を浮かべずに朝日を見つめていた。
朝日が昇る。別れの日がまた一日近付いてくる。こうして横顔をそっと見つめることさえできなくなる。長い睫毛の作り出す憂いを含んだ濃い影が落ちる瞳はやはりどこか寂しげで、ここではないどこか遠くを見ている。霞がかったような蒼と藤色がグラデーションを描くその瞳に自分を捉えてもらえたなら、それはどれだけ幸福な事だろう。今は、リンドウばかりが朝日に照らされる美しく整ったキキョウの横顔を目に焼き付けている。
哀しい気持ちが溢れそうになって、リンドウは目線を空に移した。橙から白、黄色、ピンクと透明なグラデーションを描いた空はやがて深い夜の紺碧を薄めたような蒼になる。この色も美しいけれども、これもキキョウの蒼ではない。もっと高く高く澄み渡り深く広がる色だ。あの色はやはりキキョウの心の内にしか広がっていなくて、哀しみも憤りも孤独も全てを含んでいるのだろう。その色にどうしようもなくリンドウは惹き付けられ魅了されてしまった。
「それにしても綺麗な朝焼けだな。この景色を和菓子にしてみるってのも悪くねぇかもな」
「ええ……きっと美しい菓子ができますね」
「おめぇも作れよ、どっちが上か勝負しようぜ」
「やる前から結果の分かっている勝負を受けるほど愚かではありませんよ」
「やってみるまで分かんねぇだろ、勝負なんだからよ」
そう言うとキキョウはリンドウの方に向き直り、口の端を上げて悪戯っぽくにやりと笑ってみせた。これは自分の勝利を確信している顔だ、その事がなんだかおかしくてリンドウもくすりと笑いを漏らした。
「ま、別に勝負する必要はねぇか。それぞれ好きに作ってみようぜ」
「それなら是非。この朝焼けを目に焼き付けておかないといけませんね、一生忘れないくらいに」
「オレぁ……一生忘れねぇよ。おめぇはどうだ……?」
すっと笑顔が消えたキキョウの顔は、目に焼き付けなければならない朝焼けではなくリンドウの方を向いていた。この言葉は本当のものだ、でも何に対しての本当なのだろうか? 確信と疑問が頭を過ぎる。
いつしか陽は昇りきり、水平線は濃紺の海と澄んだ空の蒼に分かたれていた。空には雲一つない、今日もレヴンは快晴だろう。そうこうしている内に浜の向こう側が騒がしくなる。朝食を用意した女性陣が皆を起こして回っているようだった。二人の姿を見つけたランチがおーいと大声で呼びかけてくる。そちらに大きく手を振ると、リンドウは振り返りキキョウに声をかけた。
「……朝食ができたようですね、行きましょう」
「ああ、そうだな……腹も減ったし腹一杯になりゃよく眠れんだろ」
横合いから朝日を受けて穏やかにキキョウは微笑んだ。この表情をこそ、一生忘れられないのかもしれない。そんな確信めいた予感を隠すようにリンドウは前に向き直ると、人だかりの方へとゆっくり歩き出して行った。
まんぷくマルシェが次に訪れたのはルエラニだった。ここでのゴーマンストアとのバトルも既に四回行われており、今回が最後になる。早速広場に設営した店舗には何度かの来訪ですっかりまんぷくマルシェの料理の味のファンになった人々や噂を聞いた人々が集い、料理を買い求め笑顔で持ち帰っていく。
以前会議の礼を改めてランチにもと言いに来たアキノに言われたが、工業の国の人々の食への考え方は変わりつつあった。効率一辺倒ではない、楽しさや美味しさが心を幸福にし満たしてくれるそんな食事を、今はこんなにも多くの人が求めに来てくれる。食べる事は生きる事であり、そこには幸せや感動がある。美しさや愛らしさ、食感や匂いや味、そんなものが人生を変えるほど心を揺り動かすこともあるのだと一人でも多くの人にリンドウは伝えたかった。自分の作った菓子を買い求め笑顔で持ち帰る人を見かけると、今はまだ非力でも確実に一歩ずつ夢に近付いているのだという実感が湧いてくる。
そんな人々を眺めながら広場の掃除をしていると、見知った顔がまんぷくマルシェの料理の持ち帰り袋を抱えて姿を見せた。
「よっ、リンドウ、久し振りだな」
「アキノ、来てくれたのか、ありがとう」
「そりゃあな、俺はすっかりもうここの料理のファンだからな。昼飯にまた食えて嬉しいよ。時間、ちょっといいか?」
アキノに言われてリンドウは少し考え込む。掃除は粗方終わっているし、急ぎの用事もない。少しならば抜けても大丈夫そうな状況だった。
「少しの間なら大丈夫だが……外の話か? それとも何か大事な話か?」
「そりゃお前、ランチさんとの馴れ初めを聞くって言っただろ」
「なっ……な! だからそれは誤解だと!」
「ハハハ、冗談だよ冗談、そんなに赤くなるなって。ちょっとお前にはどうしても話しておきたい大事な話があるんだよ。抜けるなら誰かに声掛けてくるんだろ? 公園のベンチで待ってるな」
そう言い残すと背を向けて手を上げて振り、アキノは公園の方へと歩いていってしまった。丁度通りかかったユーカリに少しの間公園に行く旨を伝え、アキノの後を追う。公園に入ってしばらく歩いた道脇のベンチにアキノは腰掛け、昼食にするまんぷくマルシェの料理の袋を開いてコッペパンを頬張っていた。
「待たせたな」
「いやいいさ、先に昼飯食いたいからお前にもちょっと待ってもらうからな。このコッペパンとおにぎりってやつはいいな、色んな具と相性が良くて。俺はこのアスパラチーズコッペが一番のお気に入りだな」
「作った者に伝えておこう、喜ぶだろう」
そのままアキノの食事が終わるのをぼんやりと風景を眺めながら待つ。広場にほど近いこの公園は学生時代にもよく利用していて、他愛もない話や真面目な話など、時間を忘れて語り合ったものだった。今はこうして和菓子職人になったがあの頃の勉強も決して無駄ではなく、特に他国に関する基礎知識や語学はリンドウの修行の旅を大いに助けてくれた。
「ふぅ、食った食った。やっぱお前さんとこの料理が一番だよ。世界中で同じ味が食べられるゴーマンストアもいいけど、それぞれの個性っていうのか? 料理人ごとの味の特徴がすごく良く出てるお前さんとこの料理の方が個人的には好きだな」
「そう言ってもらえると嬉しい。俺たちが今守ろうとしているのは、まさにそういうもの、料理人それぞれに違う味への理想を追い求めることができる環境だからな」
嬉しくなって口元を緩めると、本当に変わったなお前、としみじみとした声色でアキノが言う。
「ほんと、自然に笑うようになったよ。お前が知らないお前の仇名教えてやろうか? 鉄仮面だぜ」
「……まあ、そういう仇名がついても仕方がないところもあったからな。それにもう昔の話だ」
くすりと笑うと、アキノもどこか照れ臭そうに笑いを見せた。
「で、大事な話とは何だ?」
「それなんだがな……近年の動乱の原因は工業の国と魔法の国の積年の不和に原因があった事はもちろん知ってるだろう?」
「ああ」
「世界樹の国の王と王妃が世界中を奔走して外交努力をして下さった効果もあって、近い内に、両国の和平条約を締結する為の会談が開かれる運びになったんだ。交換留学生の話はその前段階といったところだな」
アキノのその言葉に、リンドウは驚いてはっと目を見開きアキノを見つめた。歴史的に幾度も衝突を繰り返し互いへの差別意識も高く遺恨も深い両国の和平条約締結協議はそれこそ電撃的な情報だ。こんな所で軽々に口に出していいものかと思わず心配になる。
「成程……話が急だとは思っていたが……しかしそんな機密情報を俺に話していいのか?」
「留学生の話で協力してくれたからな、特別に秘密で、だよ」
軽い調子で言うとぱちりと片目を瞑りアキノはウインクをしてみせた。
「それなら、もしかして世界樹の国の王と王妃はそろそろ国に戻られるのだろうか? 王子様は気丈に振る舞っておられるが両親がご不在で内心お寂しいだろうからな……寂しさをゴーマン商事に付け込まれ莫大な借金を背負わされた事もあったほどだ……なるべく早く戻っていただきたいものだが」
「ああ、これで諍いの種は当分はなくなるだろうからな、世界樹の国には返しきれない恩ができた、頭が上がらなくなっちまったよ。後は国民の差別意識を両国が変えていく努力が残ってるが、これまた大仕事だなぁ」
「その為の交換留学生だろう? 人の往来が増えて交流が深まれば誤解も減るだろう。もちろん国民全体の意識を変えていくお前たちの仕事も大切だがな」
「そりゃあもう、本当は俺たち自身の問題なのに世界樹の国にここまで頑張ってもらったんだから、ここから先は死ぬ気でやるよ。俺は、いや俺たちは絶対にこの国を変えてみせる」
前に向き直り空を見上げ、自分に言い聞かせるように強い調子でアキノはそう宣言した。まだまだ壁は高く、困難だらけの道が待ち受けているだろう。それでもやり遂げてみせるという強い意志をアキノから感じ取り、違う道を進めども成長している友をリンドウは心強く思った。
「それぞれ方法は違うが……お互い、より良い方向に何かを変えていけるようにこれからも励もう」
「そうだな。このマルシェも五回目だから今回で終わりだったよな? ゴーマンストアとの決着が付いたら、お前はどうするんだ?」
「また世界中を周って腕を磨く。一日でも早く一人前になりたいからな。どこにいても、お前やこの国の事を思っているし応援している」
「俺もだよ、一人前になったお前さんの和菓子を食える日を楽しみにしてるよ」
アキノが横を向いて肘を曲げ右手を差し出し、アキノの方に身体を向けたリンドウが右手でその手をがしりと掴む。
「アキノ、ありがとう、ずっと友達でいてくれて……」
「何言ってんだよ、当たり前だろ? 俺たちは一生友達さ……やめよう、なんだか今生の別れみたいになっちまってる」
おかしそうに苦笑するとアキノは手を離した。つられてリンドウも苦笑する。
「そうだな……しばらくはこの街にいるから、いつでも来てくれ」
「ああ、迷惑がられても毎日行くよ。新しく出てた蛸ってやつの料理とかどんな味なのか気になるしな……おっと、そろそろ戻らないとな。じゃあ、また明日!」
忙しなく席を立つと手を上げてリンドウに別れを告げ、アキノは早足に歩き去って行った。世界樹の国の王と王妃の外交努力が報われる。それは両親のいない寂しさに耐え続けた王子の頑張りに報いる結果であり、寂しさのあまり王子が作り出した莫大な借金を返そうと努力した世界樹のマルシェの日々が決して無駄ではなかったという事も意味していた。歩んできた道は間違ってはいなかった、その事実は大きな自信と誇りを与えてくれた。
後はゴーマンストアとの勝負を勝ち抜き、キッチンカーという個々の料理人によって十人十色の料理を出来たてで提供する販売形態の在り方が間違ってはいないと証明するのを残すのみだ。そして、このルエラニでリンドウは心のしこりを解決しなければならない。広場へと戻るため、リンドウもベンチから立ち上がり歩き出して行った。
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