耳
春の陽気がぽかぽかと体を包み心地良いそよ風が頬を撫でる。桜咲き乱れるカムイの里の昼下がりは昼寝にはうってつけの環境といえ、今日も今日とてキキョウは広場のベンチで昼寝をしていたのだが、ふと目が覚めてしまいもう一度寝直す気にもなれなかったので、あくびをしながら背伸びして体を伸ばすと立ち上がりそのままふらふらと歩き始めた。一眠りしたら小腹が空いたので何かつまもうとキッチンカーの駐車スペースまで戻ると、側に出してある机にリンドウが突っ伏していた。腕と頭の下には帳簿らしきものが敷かれている。大方机を出して帳簿の整理を始めたはいいものの陽気に眠気を誘われて眠ってしまったのだろう。
昼寝ばかりせず働くようにとキキョウには普段から口うるさい割にはこの心地良い昼下がりの気候に抗えなかったと見える。こういう日は昼寝するに限るだろうと起きたら言ってやろうと決める。
「おい、起きねぇか」
「うぅ……ん……」
声をかけて肩を揺すってもリンドウは首を僅かに揺らしただけで起きる気配は全くなかった。昼寝にしては思ったよりも熟睡しているようだった。育ちがいいせいかは分からないがこの弟弟子は兎角警戒心に欠けているところがある。ここにいるのがキキョウだからいいようなものでこの無防備な状態で強盗なり、そこまではいかなくても財布を抜き取ろうとするような不心得者でも通り掛かったらどうするかなど想像もしていないだろう。単純だから口の上手い者の口車に乗って実際の価値よりも遥かに高い値段の壺なども買わされそうな気がする。外見だけ見ればしっかり者のような印象を与えるのに人の見た目など本当に当てにはならない。
尻でも蹴り上げて無理矢理起こしてもいいのだが、ちょっとした悪戯心がキキョウの中でむくりと顔を出す。左手を机に突いて体重をかけそっと右手を伸ばし、触れるか触れないかのところでリンドウの耳の縁を人差し指で静かになぞる。ぴくりと微かに肩が揺れたがまだ起きないようだった。
起きている時の反応の大きさを楽しむのもいいが、これでどこまで起きずにいられるか試すのもなかなか楽しめそうだった。幾度か耳の外縁をなぞり耳朶を軽く指で弾いてみるが、リンドウはいやいやをするようにゆっくりと首を横に数度動かしただけでまだ起きない。耳の骨に沿って指先を動かしても寝惚けているような声が低く漏れ肩が揺れるものの依然として目を覚ます気配はなかった。
「おい、起きてんなら狸寝入りしてねぇで顔上げろ」
一応声をかけて確認してみるが反応はない。顔を覗き込んでみても無防備な寝顔で、リンドウの性格上起きていたならこういう触れ方をされてこんな表情を保つ事はできないだろう。どうやら本当にまだ眠っているらしかった。こうなればどうあっても耳を触り続けて起きた時の反応を見たくなってしまった。丹念に念入りに、起こさないように細心の注意を払いながら産毛をなぞるほどの距離で耳に触れ続けていると、指先から逃れようともぞもぞと首を動かすリンドウの緩く開いた唇から漏れる寝息は段々と艶を帯びてきた。
これでもまだ起きないのだから大したものだと感心すればいいのか呆れればいいのか判断に苦しむ。あまり遊びが過ぎるとこんな昼間からその気になってしまいそうな気配もしてきた、ここらが潮時だろう。耳から指先を離し、代わりに体を屈めて耳許に口を寄せる。
「いい加減にしねぇと襲うぞ」
低く呟くと、突然リンドウが跳ね起きて後頭部がキキョウの額と軽く衝突する。不意に襲って来た痛みに額を押さえて後退ると、リンドウは辺りをきょろきょろ見渡し、斜め後ろで額に手を当てたキキョウに気付くといじられていた方の耳に手を当てた。
「あっ、兄弟子……? ななな、何が、えっ……どういう……何で? えっ……」
「おめぇなぁ、まだ仕事中だぞ、シャッキリしろよ」
「えっ、あ……はい……」
何が起こったのか全く理解が追いついていない様子ながらもリンドウは軽く首を傾げつつ前に向き直る。そういえば自分でもすっかり忘れていたがキキョウは小腹が空いていたからここに来たのだった。
「何か食うもんあるか、腹が減った」
「はい、それなら中におやつにと貰ったパンが置いてありますから食べてください」
「そりゃ丁度良いな」
中に入りかけてそういえばと思い出しキキョウは足を止めた。
「おい」
「はい、何でしょうか」
「こういう日は昼寝に限るだろ? 弱いところあんだけいじくられてもちっとも目ぇ覚めねぇくらいだからな」
振り向いたリンドウはキキョウの言葉を耳にすると見る見る間に首まで赤くなる。
「あっ、あっ、兄弟子! やっぱり何かしたんですね! 仕事中はやめてくださいとあれほど!」
「ハッ、仕事中じゃなかっただろ、起こしても全然起きねぇおめぇが悪い」
「兄弟子ーっ!」
尚も何か文句を言おうとするリンドウを無視してキキョウはキッチンカーに入り、小腹を満たすためのパンを探し当てたのだった。
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