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政務中のアインズのもとへ呼び出しをかけたシズがやってきた。アルベドは死者の大魔法使いたちと仕事中なので現在は別の部屋にいるため、今はアインズの側にアインズ番メイドが控えているだけなのだが、アルベドはこれも不満らしい。アルベドと同レベルで細々とした雑務を全て片付けられる側仕えを付けたいようだが、そんな有能な人材は全員何かしらの仕事を割り当てて働いてもらっているので側仕えに専念できる者はいない。本来そのような仕事をする筈のセバスすら他の仕事をしてもらっている状況だ。執事として生み出された存在なのだから本来は執事として働きたいだろうに、と思うと申し訳無さが募るがどうしようもない。
ナザリックには関与させない形で、魔導国の政務だけでも積極的に人材登用を進めていった方がいいのかもしれない。人材登用に関してはそれこそジルクニフに教えを請いたいところだが、話を聞こうとしても恐れられてまともに応対してもらえない気もする。どちらにしろアインズの側仕えともなればナザリックの機密に関わる話も山程聞くことになるので、ナザリックの情報を明かせない部外者を登用するわけにはいかないのだが、例えばセバスの代わりにエ・ランテルの業務を統括できる者がいればセバスを側仕えに回すこともできる。
ユリの考えるような教育を等しく与えるなどというナザリックの優位性を損ない、下手をすればナザリックを打倒する勢力を育てるかもしれない愚策を行う気はないが、ナザリックを脅かさない形で国を運営するための人材の確保は必要だし、そうなれば知識人層の育成もどのような形で行うか考えなければならない。領土なり金品なり、何らかの見返りを与える代わりに忠誠を誓える者を限定して育成を行うのがやはり現実的だろうか、平民だった頃は必要性が理解できなかったが、武力にしろ知識にしろ力というものが行き渡る先をコントロールしたい王の立場からすると貴族の制度というのは意外と実用的なのだなとどうでもいい事を考える。
「よく来たなシズ、わざわざエ・ランテルまで来てもらってすまない」
「大丈夫、問題ない、です」
「今日はお前の希望していた褒美についてだ。先方から返事が来たので、確認するといい」
書状を差し出すと、動かないシズの表情はそれでも少し明るくなったような気がしてアインズも嬉しくなってしまう。メイドが仲介して手紙を手渡すとシズはいそいそと手紙を開けようとして、急に動きを止めた。躊躇するようなその動きを不審に思いアインズは声をかける。
「……どうした? 遠慮せず読むとよい、内容を早く確認したいであろう」
「いえ、アインズ様の前で、許可もなく手紙を開けるのは無礼。でも、許可が出たので、読みます」
少し早口に告げてシズは手紙を開け、一度アインズに向かい礼をしてから目線を落とし始めた。熱心に読み進め、最後まで読み終わるとまた最初に戻るのを何回か繰り返す。先方が書いてきた手紙は聖王国語で記述されていたが、最古図書館の司書長により翻訳済みなのでシズが読むのに問題はない。ただ、シズ宛の返事なのでアインズは勿論読むのを遠慮している。故に返事がどうだったのかは気になるところなのだが、このままだとシズは手紙を読み終えたら最初に戻るループから自力では抜け出せなさそうだった。
「……シズよ、私にも先方の返事を教えてくれるか?」
恐る恐るアインズが声を掛けると、はっとした様子でシズは顔を上げた。
「喜んで伺います、という返事、です。私が迎えに、行きたい……」
「勿論構わんぞ。転移で行って帰ってきてもいいが、馬車で二人でゆっくりと来るというのもいいのではないか? シズはどちらが希望だ」
「エ・ランテルと聖王国を転移で移動したら、多分ネイアが、びっくりしすぎる……シャルティア様にお願いして、〈転移門〉で、馬車ごと聖王国に運んでもらって、エ・ランテルまでは、馬車で移動したい、です」
「ふむ、なかなかいい案ではないか? シャルティアには私から申し付けておくゆえ、詳しい日程は後ほどシャルティアと話すとよかろう。聖王国からこちらまでの旅程も急ぐことはないので二人で交流を深めながらゆっくり来るとよい」
「ありがとう、ございます」
聖王国に関する論功行賞で、デミウルゴスの後にシズにも希望する褒美を聞き与える約束をしていた。シズの希望した褒美は「ネイア・バラハを客人としてナザリックに招待する」ことだった。これから教祖として活動していくことになるであろうネイアをナザリックに招き入れ内部を見せることに関して何か不都合はないかデミウルゴスとアルベドに問うたが、あの時アインズの愚痴を偶然聞いて、アインズの真意を悟れなかったために遠ざけられているのではないかという不安から様子がおかしかったデミウルゴスはともかく、アルベドも反応や影響としてはカルネ村から招いた客同様のものだろうという予測をしていたので大きな問題はなさそうだった為に、シズに褒美として与えることを許可した。
褒美らしい褒美を希望しないデミウルゴスに比べれば、友人にナザリックを自慢したいというシズの希望した褒美の内容はアインズの満足のいくものだった。外の世界で友人を見つけたというその事自体も喜ばしいし、それをシズが大事にしているのもいい傾向だ。
外で外部の人間と親しくなったといえば他にはセバスもいるが、セバスもセバスでわざと報告を怠るくらいに助けたかった割にはツアレの扱いについてアインズには遠慮を見せる。主人であるアインズがツアレの希望通りナザリックに迎え入れると決めたのだからもっと堂々とすればいいのに、と思うのだがセバスにとってはそうはいかない問題らしい。憎からずは思っているのだろうが、個人的な恋愛感情というよりは困っている人を助けたいという願いの強さの方がセバスの行動の原動力となっていたのかもしれない。
「そうと決まればもてなす準備もせねばならぬな。宿泊は客室を使うとして、食事は……どのような物が好きなのかさっぱり分からんな……長い期間一緒にいたとはいえ戦時中でろくな食事はなかったしな」
「ネイアは……甘いものが好き、です。私の食事のドリンクを分けてあげたら、すごく喜んだ……」
「いやそれだと人間の食事としては少々な……もちろんデザートも出すつもりだが。まあ道中は長いだろうからエ・ランテルに着くまでの間に食事の好みを聞き出してくれ。定時報告の時に教えてくれればいい」
「了解、しました」
貧民層だった鈴木悟はまともな食材を使った料理などほぼ食べたことがないに等しいが、その昔人が誰でも食材を使って料理をしていた頃は、チーズなどの乳製品や卵、各種パスタや新鮮な野菜のサラダなどが女性には人気があったらしい。あまりにも肉肉しく脂っこすぎるものは恐らく控えた方がいいだろう。ホムンクルスは食欲旺盛で働き盛りの人間の男性よりもおそらく健啖なので、メイドたちの好みは女性の食の好みの基準としては使えそうにない。
まともな料理を少しだけでも食べられた数少ない記憶の一つに、アーコロジー内の居酒屋で開催されたアインズ・ウール・ゴウンのオフ会の記憶があった。フライドポテトに唐揚げ、焼きうどんや出汁巻き玉子。海が死の世界となったあの世界では鰹を始めとする魚は死滅して久しいし、昆布など栽培しようもないから、出汁は成分を再現した合成品を使っているそうだがそれでも食べたことがないほど美味しかったのをよく覚えている。肉も主に大豆を使った合成肉だというが、やはり鈴木悟が人生で食べたものの中では五指に入る思い出になった。
あの世界ではもう生命は循環しない。海で死は起こっても生命が誕生することはもうありえない。空は恵みの雨ではなく酸を降らせ、土も最早何も育むことはできない。人間が生存できるように調整されたアーコロジー内で生産されるものだけが細々と人類の命脈を繋いでいる。種として人類は行き詰まっていて、未来に何の希望も持てない閉塞しきった空気の中で歯車として使い潰されてすり減っていく毎日から目を背けるように鈴木悟はユグドラシルへとのめり込んでいった。ユグドラシルには仲間たちがいて、そこでなら鈴木悟は心から楽しかったし沢山笑うことができた。
でも、鈴木悟の居場所など本当はあの世界のどこにもなかったのかもしれない。もしくは、鈴木悟の居場所ではあったけれども、仲間たちはそれぞれの居場所をきちんとリアルに持っていた、あそこは仲間たちの本当の居場所ではなかった、それだけだったのかもしれない。
それでもやはりアインズ・ウール・ゴウンは他に何も持たない鈴木悟にとってはやっと手にすることができた己の全てだった。他には何もないから、アインズ・ウール・ゴウンだけは、仲間たちが遺してくれたもの全てだけは、どんな手段を使ってでも守り抜きたい。それは鈴木悟がアンデッド化に伴い残滓となり薄れてゆく今でも変わらない。どれだけ鈴木悟ではなくなってしまっても、それだけが元は鈴木悟という人間だったアインズという存在の核なのかもしれない。
アインズ・ウール・ゴウンというかつて存在したギルドの記憶を守るためだけの存在。NPCたちに自分の望みを持ってほしいと、自分自身が幸せになる為に生きてほしいと願っているというのに、アインズこそ己を幸せにする選択ができていない。上の者が手本を見せなければ下の者は付いてはこない、というのは口を酸っぱくして言っているというのに、有言不実行にも程があった。万一の可能性に縋りたいだけで望みなどない事は分かっている。ギルドメンバーはそもそもユグドラシルが終わる瞬間のあの時誰もログインしてはいなかったのだ。
それでも、ただ、会いたかった。
何の為にとか何の意味がだとか、そんな事はもうどうでもよかった。とにかくただただ会いたかった。あの頃の仲間たちとあの頃のような冒険を、あの頃のような楽しい時間を、望んでいるのはただそれだけだった。それだけが鈴木悟の全てだったから、他の望みなど分からない。
どうしてナザリックを守らなくてはならないのか、それはいつか仲間たちと再会するための他にはアインズの中に理由などないだろう。仲間たちに顔向けできないようにはしたくないから、他に理由などなかった。どれだけ願おうと実現のためにどれだけの努力をしてもどれほどの犠牲を払っても決して叶わない願いなのだと、分かりきっている答えを見ないふりをしながらアインズはただひたすらに願い続ける。
***
湖畔の村では漁から帰ってきた男たちが女たちと協力して新鮮な内に魚の血抜きをしているところだった。不意に姿を見せた上位者にリザードマンたちは作業の手を止め平伏しようとする。
「そのままでよろしい、手を止めず作業を続けなさい。魚の鮮度が落ちてしまいますよ」
リザードマンから向けられる敬意には大した興味もなく涼しい声で告げて、デミウルゴスは足を止めることなく村の奥へと向かっていった。最初はリザードマンの集落を任されただけだったコキュートスの支配圏はトブの大森林の征服が進んでいくにつれ広がっていき、今では大森林全体の種族を従えている。平時はこのリザードマンの集落に駐屯しているコキュートスにまず会うのが今日ここにデミウルゴスが来た目的の一つだった。
御方の事情を明かさずにどう話をしたものか、という点は慎重に話を進めなければならない。シモベがそう望んだからその望みを叶えるためにアインズ様は至高の叡智の持ち主として振る舞ってくださっていたのだから、本当はそうではないとしても否やを唱える不心得者などナザリックには存在しない。だが、偉大なる支配者に傅きたいというシモベの願いを叶え続けてやりたいという御方のお優しい心を勝手にデミウルゴスが無に帰してしまうことなど決してあってはならない。どうしても明かさなければ話が進められないならば、まず明かしてもいいかどうかをアインズ様に相談するのが筋というものだし、そんな手間をおかけしないよう上手く話を進めるべきだろう。
村の奥に建てられたコキュートスのこの村での住居に入る。この村落のリザードマンでデミウルゴスの顔を知らない者などいないため、警護の任を務めていると思しきリザードマンたちも深く礼をしてデミウルゴスをそのまま通す。
リザードマンの村落の統治についてコキュートスから要請があれば可能な限り協力するようにという下知がアインズから下され、恐怖によらない統治の実験という名目を提案した手前もあってデミウルゴスは可能な限りコキュートスに協力した。狩猟を生業とした原始的な暮らしを送る村落が発展するための改善点などいくらでもあるが、コキュートスから相談された急を要する案件について即座に改善案を提案し、実際に現場を視察し改善作業に立ち会い経過を観察もした。ナザリックが支配下に収める前から実験的に行われていた魚の養殖はその提案によって飛躍的に漁獲量を伸ばし、飢えの不安をリザードマンから縁遠いものにした。故にデミウルゴスはナザリックの階層守護者の中では直接の支配者であるコキュートスの次にこの村落の者たちから敬意を向けられている。
奥まった部屋の前に立つ衛兵のリザードマンに面会を申し入れ、しばらくするとドアが開いて中に座したコキュートスが見えた。
「やあ友よ、不躾に訪問してすまないね、お邪魔するよ」
「オ前ナラバイツデモ歓迎ダ。今日ハ何カ私ニ話デモアルノカ。経過ヲ見ルダケナラバ私ノ所ニ顔ハ見セマイ」
「前々から話していた件について少しね。キュクー・ズーズーを学ばせるために外の世界に出す、という話、あれが少し進展しそうなのでね。許可は既に君から得ているが、報告しておこうと思ったのだよ」
「ソンナ回リクドイ事ヲセズトモ、私ガ命令スレバ帝国ヘノ留学モ拒否ハスマイ」
「そうすれば手っ取り早いのは君の言う通りだ。だがそれでは村の中に閉じこもり安穏とするのを良しとするリザードマン達の意識はいつまでも変わらないだろう。アインズ様ももっと外の世界を見るようにとリザードマンたちにお話しになられたのだろう? 君の命令で行かせる、というのはそれならばなおさら悪手ではないかね」
「ムゥ……」
「君の配下の中には君を補佐できる参謀たる者が残念ながらいない。私が助けられればいいが、付きっきりというわけにもいかない。君自身の成長をアインズ様は望んでおられるが、君は将軍として成長すべきだし、作戦立案は本来参謀の役目。トブの大森林で支配下に置いた亜人や異形種をもし指揮して戦うことになれば、ナザリックの軍だけを指揮している時には考える必要がなかった兵站の管理や各種族間の関係の調整など様々な問題が出てくるだろう。全てを君が管理するのは現実的ではないし、今いる手勢にはそのような立案や調整に長けた者もいないのだろう。友人として君を手助けすることを惜しむつもりは一切ないが、君は君の使える手駒の中で御方が望まれる以上の最高の結果を出せるようにすべきだ。私としては君の参謀を育てることは急務だと思っているよ」
淡々と告げると、デミウルゴスの言葉を聞いたコキュートスはやや俯いて黙り込んだ。ナザリックの手勢を使えば作戦を立てるまでもなく力押しだけでも対抗できる者などこの世界にはほとんどいない。故に参謀などコキュートスには必要がないと言われれば確かにそうだとしか返しようがない。だがデミウルゴスは万一の最悪を考えてしまう。コキュートスは日々成長を続けているが、そもそも補佐できる参謀がいたならコキュートスはその言葉を聞いて初回のリザードマン部落の侵攻もおそらく失敗することなどなかった。武人としてコキュートスが成長する必要があるのは確かだが、将軍が全てを管理できる必要など全くない。むしろ部下それぞれに適切な仕事を任せる判断力と度量の方が必要だろう。
軍略に明るく適切な献策ができ、管理能力に長けた参謀がコキュートスにはいた方がいい。以前からコキュートスにはそう提案しており、そのための人材としてキュクー・ズーズーを帝国に留学させたい旨も話していた。
「一ツ聞カセテクレ。キュクーガソノ為ノ人材トシテ適シテイル、トイウノハ分カルノダガ……有能ナ者デアレバ、王国ノ姫ノヨウニオ前ハナザリックニ迎エ入レヨウトスルト思ッテイタ」
「彼女は特殊だよ、例外さ。キュクーに限らず基本的に外部の者をナザリックに招き入れたいとは思わないね。黄金の姫はそのような感情を度外視してでもナザリックに迎え入れるべき特別な才能だ。ただ、そこまでではないにしてもキュクーも知識を身に付け見聞を広げれば君の参謀を務めるのに十分な力を持っていると私は考えているよ。無論、魔導国という体制ができたのだから、ナザリックの存在は秘するとしても魔導国の政治体制に組み込む才能は今後必要になってくるだろう。国の規模が大きくなれば管理するための人材もより多く必要になるのは当然の道理だからね。アインズ様のお作りになられたアンデッドは事務処理には長けているが細やかな判断を下すことはできないのだから、各地を治める為に現地の才能を見出し登用することはどうしても必要になる。キュクーの件は今後起こるであろうそのような変化まで含めて考えての提案だと思ってくれ」
「ソウカ、分カッタ。外ニ出スコトニツイテハ異論ハナイ、説得デキタナラバ、イツデモ連レ出シテクレ」
「快く了承してくれて感謝するよ。それではキュクーに話をしてくるとしよう。私はしばらくナザリックに詰めているから、次に君がナザリックに帰ってきた時にはまたゆっくり酒でも飲みながら語り明かすとしよう」
「アア、楽シミニシテイル」
コキュートスが頷いたのを確認して、軽く手を振りデミウルゴスはその場を後にしてキュクーの家へと向かった。
元鋭き尻尾族族長、キュクー・ズーズー。アインズ様に蘇生されてからは治めるべき部族が統合され消滅していたため一リザードマンとして生活しているが、それに留めるには惜しい才能ではあった。振るうべき才覚があるのならば、蘇生していただいた恩をアインズ様にお返しするために粉骨砕身励むべきだろう。リザードマン全ての中でも並ぶ者のない知能の高さを誇り、霜の竜の骨から作られ比類ない防御力を持つ代わりに装備した者の知能を奪い白痴化させる呪いの鎧を装備してなお的確な判断を失わなかったほどだという。呪いの鎧についてはコキュートスに両断された際に一緒に真っ二つにされて使い物にならなくなり、アインズに蘇生されて以降は呪いから解放された形となった。
そんなキュクーにも弱点はある。視野の狭さだ。魚の養殖をキュクーが思いつかずザリュースが始めたのは、ひとえにザリュースが外界に出て様々な考え方やものの見方を学んできた旅人であったからだ。リザードマンには魚を自分たちで育てて増やすという発想がそもそもなかったし、そのような発想が生まれるような教育も習慣も全くなかった。狩猟民族らしいといえばそうだが、食料は祖霊からの恵みであり、それを日々に必要な分だけ分けて頂く、という考え方だ。部族間の闘争を含め様々な脅威と戦いながら細々と暮らしていくならばそれでもいいだろうが、ひとたび平和が訪れ個体数が増えるとたちまち食糧難となり部族間で激しい争いが起こって二つの部族が消滅したという。そのような背景があり、解決の方法を模索するために新たな知識を求めてザリュースは旅人となったというが、知識を活かす智力と自由な発想力は関連性はあるが基本的に別物、ということでもある。自由な発想は現状の限界を知っていればこそ現状を打破しうる力となる、知識はどちらにしろ大切ではあるが、キュクーの持っているのはそういう種類の才能ではないのだろう。
智力はそもそも土台となる知識の豊富さがあってこそ活きる。先祖伝来の知恵というやつも馬鹿にはできないだろうが、コキュートスの参謀として必要なのはより体系化された軍略の知識、いわゆる軍学と部族よりももっと大きな集団を統治する政治の基本的な知識だ。定石を知るのが必要なのはそれが一番効率のいい学習方法だからだ。全ての状況に定石で対応できるわけではない、想定外は起こると常に考えていた方がいいが、定石を知らない者は一から試行錯誤しなくてはならない。定石とはつまり、過去から連綿と受け継がれた膨大な試行錯誤の結果蓄えられた知識であり、基本として考慮し可能性を除外するために有効となる選択肢だ。知っていると知っていないとでは効率が天と地ほど変わる。
キュクーには本来参謀として必要な知識を学ぶための帝国への留学を提案していた。王となるわけではないのだから帝王学など学ぶ必要はないのだが、これはこの村落から確実に連れ出す口実にすぎない。
村の外に旅に出た者は旅人となり、旅から帰っても村の中での発言権を失うという慣習がリザードマンにはあった。現在では制度としては廃止され、訓練のために村を出てナザリックに出向いた者も旅人となることはない。だが依然として村の外に出ることにリザードマンは拒否感を強く抱いており、ナザリックの命令ならばともかく自発的に村を出て見聞を広めようと考える者は今のところいないようだった。だからこそキュクーには命令ではなく折りに触れ提案する形を取り、結果断られ続けていた。
村の中に留まって村だけを維持するリザードマンの意識は変わらなければならないとデミウルゴスは考えている。村の中に留まっている限り、リザードマン達の力が魔導国ひいてはナザリックの為に有効に活用されることはないからだ。アインズ様の大いなる慈悲により救われたリザードマン達はアインズ様の為にもっと積極的に持てる力を活用すべきだし、そのように意識も変わるべきだ。だからキュクーには出来る限り自発的に留学に出てほしかったし、それをもって前例としリザードマンが外部に出る足がかりにしたかったのだが、今回のことは好機でもあるし背に腹は代えられないだろう。アインズ様の学友を務めるという頼みを一度は敵対し命を落としながらもアインズ様に蘇生されるという大恩を受けたキュクーが断れる道理はないし、完全に自発的ではないにせよ命令でもない、これで学問を学ぶことへのキュクーの意識が変われば帝国へ留学しもっと本格的に学んでくることも嫌がりはしなくなるだろう。
キュクーは家の近くで他のリザードマンと狩りに使うのであろう銛を手入れしていた。デミウルゴスが近付いているのに気付いた者から順に慌てて立ち上がり、立ち上がったというのにすぐに平伏する。
「楽にしてよろしい、キュクー・ズーズーに話したいことがあるのですが」
「かしこまりました、むさ苦しくて申し訳ないですがわたくしの家で伺います」
品位のある場所などこの村落のどこを探してもない、という皮肉交じりの感想は口にせず先導するキュクーに従ってデミウルゴスはキュクーの家へと入った。丸太を切っただけの簡素な椅子を勧められ、キュクーは少し距離を置いて跪いた。
「今日は君にお願いしたいことがあってね。君に尊い方と共に学ぶ学友となることをお願いしたいのだが」
そう切り出したデミウルゴスの言葉には反応せず、キュクーは明らかに固まって目線だけを泳がせた。それはそうだろう、デミウルゴスが尊い方などと呼ぶのはこの世界でただ一人、それさえ推察できるならばこの反応は当然ともいえる。
「返事は」
「も、申し訳ございません、そのような大役がわたくしのような学のない粗野な亜人に務まるとは到底思えず……」
「以前から繰り返し話しているように、君には学を得てほしいからこそお願いしているのだがね? 君も受けた恩義を返す方法をそろそろ考え始めてもよいと思うのだが、このお願いはこれから恩義を返していく手始めとしてはうってつけではないかね? 尊い方に直接ご恩返しができる機会など私やコキュートスでもそうそうはない」
「仰られることはごもっともでございますが、粗野のあまり尊い方にご無礼があっては申し訳が立ちませんので……」
「先方には既にご許可を頂いている。御方がドワーフの国への道案内を頼んだ際にゼンベルがだいぶ無礼を働いた話も聞き及んでいるが、無礼というだけで故無く厳しい処罰をされる方ではないことはその事からも明白、君の懸念は杞憂でしかない」
どうにか断ろうとするキュクーの逃げ道を塞ぐことなど容易い。そもそも断ることなど最初から不可能な相談だ。命令ではない、という形式上の問題でしかない。この相談を断るということがどれだけの非礼なのか分からない者ならばそもそもこんな話を持ちかけることもない。
とうとう婉曲に断る言葉を見つけられなくなったキュクーは進退窮まり完全に動きを止め固まった。
「日時は追って沙汰する。尊い方がおわすのに失礼のない場所を選ばなければならないので、どの道しばらく村の外に出てもらうことになるからその心づもりでいるように」
「……かしこまりました」
「それから、尊い方と共に学ぶ事はコキュートスにも他の誰にも一切他言無用だ。万一漏れるようなことがあればどうなるかは説明の必要はないと思うが、君の想像の何倍も上を行く最悪の事態になると思っていた方がいいだろう。私はコキュートスのように情け深くはないのでね」
リザードマンはコキュートスの統治下にある、通常であればデミウルゴスは直接手出しはできないが、万一アインズ様の秘密が漏れるようなことがあれば、どのような手段を使ってでもリザードマンには死すら生温い報いを受けてもらう。その結果デミウルゴスがどうなろうとも、コキュートスと戦うことになったとしても構わない。そして目の前のリザードマンはその行いがどれほど愚かであるかくらいは弁えている。御方の力がどれだけ強大であるのかなど骨身に沁みて分かっているのだから。
「この村落がコキュートスの統治のもとナザリックの庇護下でこれからも平和であることを勿論私も願っているし、その為の協力は惜しまないつもりでいる。君ももちろんそうだろう?」
「……はい」
信頼を裏切るな、という言外の意図がはっきりと伝わっていることは間違いがなかった。キュクーは跪いて視線を真下に落としたまま動こうとはしなかった。恐ろしくて顔を上げられないのだ、というのはデミウルゴスにとっては殊更確認するまでもないことだった。
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