11
まばらに植えられた木々の間を駆け抜ける。下草はよく手入れされていて足の動きを阻まない。
やや黒ずんだ鈍い金色をした、甲虫を連想させる異形――アンノウンは、走りはしないものの悠然と、一定の速度を保って四人を追っていた。
「あんたらは散れ!」
瀬文は叫んだ。護衛二人は当麻を庇うように囲みつつ駆けている。
狙われているのは当麻だ。護衛二人が別の方向に逃げたとしても、追われる可能性はない。瀬文と当麻の二人だろうが護衛を加えた四人だろうが、あれに対抗する手立てがない事実には何一つ変わりがなかった。
だが壮年の刑事二人は、役に立たない銃を片手に必死の形相で駆け続け、瀬文の言葉を黙殺した。予想していたとはいえ、ままならなさに苛立ちが湧く。SAUL到着が遅れれば、下手をすると四人仲良く犬死にとなる可能性だって十分にある。
この緑地公園は桜田門からそんなに離れていない。大分逃げ続けている気もするが、どれだけの時間が経ったのか正確なところは全く分からなかった。
当麻が脚をもつれさせてよろけ、地面に転び膝と手をついた。走り詰めだったし、彼女は体力的にそんなに優れてはいない。起き上がろうとするが、息が切れたのか足を止めている。
勢い余って追い越していった護衛が引き返して来る間に、アンノウンが突如速度を上げ駆け出した。
「ちっ!」
瀬文が舌打ちをして覆いかぶさるように立ち塞がる。アンノウンが血糊の乾いた鉄球を振り上げた。振り下ろされようとした刹那、横合いから発砲音が響いた。銃弾を食らいアンノウンは動きを止めてふらめいた。
横を見ればG3‐X、そして何故かアギトがいた。
「アギト……」
まるで呪いたいように、皺枯れた声で低く呻いたのはアンノウンだった。
G3‐Xが右手に構えたサブマシンガンから発砲を続けつつ歩いてくる。その後ろからアギトが駆けて跳んだ。
「二人とも、早く逃げないと」
護衛の一人が気もそぞろに呼び掛けたが、当麻は首を横に振った。
「私はあの人と、どうしても決着つけなきゃいけないんで。ここまで護衛してくださって、どうもありがとうございました」
面白くなさそうに呟いた当麻の視線の先にはニノマエの顔をした黒衣の青年が佇んでいた。
「何を言ってるんですか、危険です、後はSAULに任せて早く安全な所に」
「いえ、アンノウンはともかく、あっちは私が話をつけなくちゃ終わりません。後は瀬文さん程度で十分事足ります」
「それは認められない」
「さっき御覧になったでしょう、私に弾が当たらなかったの。私も超常能力を使うんです。お二人がいても邪魔にこそなれ、守ってもらう必要なんて元々ないんですよ」
いつも通りのしれっとした不貞不貞しい顔で淡々と当麻が告げた。眉をやや上げて小馬鹿にしたように目を軽く開き、唇をちょこんと突き出した、実に神経を逆撫でする腹立たしい顔付きだ。護衛二人はむっとして押し黙り、当麻を睨み付けた。
アンノウンはG3‐Xとアギトに二方向から攻撃を受け、徐々に当麻から引き離されていく。その脇を悠々と擦り抜けて、黒衣の青年は歩み寄ってきた。
「警察だ、君、止まりなさい!」
護衛二人は銃を構えて青年を威嚇したが、二人など目に入っていない様子で青年は歩き続けた。
「と、止まれっ!」
やや若い方の護衛が、銃はしまいこんで青年を拘束しようと拳を振り上げて駆け出した。眉一つ動かさないで、青年はその様子をちらと見て、軽く右手を翳した。
血気に逸った護衛が何か壁のようなものに突き当たったように動きを止め、吹き飛ばされた。相棒が吹き飛ばされたのを見たもう一人も飛び掛かるが、やはり何か見えない壁でもあるかのように、青年の手前の何もない場所で何かにぶつかったうえ吹き飛ばされた。
「左手を返してください、取り返しのつかない事になる前に」
静かな青年の声は、やや潰れ震えた早口で、必死さと真剣さがあった。
「その左手がなくてはあれを止められません、あなたが持っているべきではない」
「あれ……って何ですか」
「生まれてはならなかった者、究極の闇をもたらす者。彼の者が目覚めれば、どれだけの命が刈り取られるか分からない」
***
振り下ろされた鉄球の軌跡はもう見切っている。胸を抉るすれすれで身を躱すと、鉄球に繋がった鎖を鷲掴み、芦河は力一杯に鎖を引いた。
引き摺られアンノウンが体勢を崩す。頭の横にG3‐Xは拳から蹴りへと流れるように打撃を加えたが、アンノウンはよろけただけで、低く唸ると鎖を引っ張り返した。
今度は芦河が引き摺られ前のめりに体を崩す。肩口に拳が飛んでくる。まともに食らい後ろに弾かれるが、G3‐Xがそれ以上の追撃を阻む。
「芦河さん、駄目だこのままじゃ!」
南条の声はやや揺れて弱い。怯んだのかと芦河は軽く舌打ちするが、彼は初めての実戦で相手は恐ろしい怪物だ、怯むのも当然だった。
まともに食らったから痛みは強いが肩は動く。すぐに体勢を立て直すとアンノウンの脇腹に中段蹴りを浴びせるが、やはりびくともしない。
このままでは二人とも打撃の通らない相手を攻めあぐねて疲れるだけだろう。何か手はないか、顔前に迫った異形の左手の盾を避けながら考えを巡らすが、そうぽんと出てくるものでもなかった。
芦河が組み合う間に、G3‐Xはスコーピオンを構え、狙いを定めようとしている様子だった。なかなか定まらないらしく、銃口は忙しなく揺れている。
「おい、お前は何がしたいんだ!」
「関節ですよ!」
苛立った芦河が声を荒げて問うと、あっさりと短い答えが返ってきた。
南条が何がしたいのかはっきり分からないが、鉄球を躱してアンノウンの懐に潜り込むと、その勢いのままに胸に蹴りを浴びせた。アンノウンが体を開いて後退る。そこに、スコーピオンの発砲音が響いた。アンノウンの右の肘より少し上に弾丸がめり込み、昨日と同様吐き出された。
関節。成程、どんな甲虫でも、関節は動かさなければならない、硬く覆えずに脆いだろう。だが相手は激しく動き回るアンノウンだ、初の実戦で動く的を狙うのも不慣れな南条には、アンノウンの関節の(硬い外殻に覆われていないと推測される)内側を狙え、というのは少々荷が重いかもしれない。かといって、アギトに敵の動きを見極め、的確に弱い部分を叩く事は出来るだろうか。
――あなたがアギトに負けないなら、見える筈です、あなたの出来る事。
――変わっていくのは怖いけど、芦河さんなら強いから大丈夫。
らしくない弱く擦れた声を、唐突に芦河は思い出した。
そうだった、必要ならば、為すための力はあるのだろう。後は為すか為さないか、芦河の心一つにかかっている。
再び、唐突に芦河の意識にそれは浮かんで焼き付いた。あってほしいという願望ではない、人の可能性を潰そうとする者と戦う為の力だ、足りない筈がない。
G3‐Xは距離を詰められて、いつの間にか手にしていたスコーピオンも地面に転がっている、防戦一方の様子だが、耐えてもらうしかない。構えると芦河は右腰に掌を当て押し込んだ。
右腕が赤く染まる。青く変わった時とは対称に、右半身に特に力は漲っている。
昂揚はなかった。異形との戦いの真っ最中だというのに何故か、心はしんと凪いでいた。
耳鳴りがしそうな程の静寂、どこまでも遠くに視界は届く気がするが、くっきりはっきりと見えているのは眼前の敵の動き、息遣いすら把握できそうな程だった。音がしていない訳ではない、遠見ができるわけでもない。ただ、磨ぎ澄まされ鋭くなっている。
「俺が動きを止める、ランチャーを準備しろ!」
芦河が叫ぶと、アンノウンに地面へと叩きつけられたG3‐Xが、素早く体を起こして頷いた。
臍の辺りに手をやると柄が飛び出て、細身の両刃剣がずるずると引き摺り出された。異変に気付いたアンノウンが駆けてくる様は輪郭がくっきりとしていて、コマ送りのスロー再生のようにも感じた。体を斜めに腰を落として左の肩を突き出して、赤いアギトは下段に剣を構えた。
脳天を割ろうと振り下ろされた鉄球のどこを柄で弾けば跳ね返せるか、そんな事も思考を経ないで心がそのままに悟っていた。何故こんなにも静かなのだろう、不思議だった。
アンノウンは盾を翳すが、右の体が開いている。左の脚を内に捻って盾の内側へ爪先を叩き込む、盾が上がって体が完全に開く。脚を地に付いて膝を使って反動をつけ、赤いアギトは逆袈裟に斬り上げて、一気に剣を滑らせた。
狙いは、一ミリの狂いもなく精確だった。剣先は、アンノウンの右肘の内側、外皮の薄い部分を裂いた。
アンノウンは痛みに苦悶し、鉄球の付いた武器を右手から取り落とし、地鳴りのような低く腹に響く呻き声を喧しく上げた。
「芦河さん、離れて!」
やや離れた場所でG3‐XがGXランチャーを構えて発射態勢を取っていた。縋るアンノウンの腹に蹴りを与えて後退させると、赤いアギトは後ろに大きく飛んで、次の刹那にアンノウンの背中にGXランチャーの弾頭が着弾した。
大きな爆発が起きて爆風が巻き上がった。火はすぐに消え去って、後には身じろぎもせず立つアンノウンの姿があった。
赤いアギトもG3‐Xも警戒し構えるが、やがてアンノウンは背中を反らせて絶叫を上げ苦しみだした。頭上の光輪が膨張して、ややあって唐突に、内側から爆発を起こして、アンノウンは跡形も残さずに消え散じた。
「芦河さん、その姿は」
「知らん。まあ何にせよ緒戦から大戦果じゃないか、大したものだ」
「芦河さんのお陰です」
南条の声は案外素直なものだった。鼻っ柱が強いという評判とは違う、やや肩透かしを食らった気分で芦河はG3‐Xを見た。
「怖かったですが、あなたに出来るんだ、僕に出来ない筈がない。それに、二人で連携できたから太刀打ちできたんです」
「お互い様だ。俺一人では歯が立たなかった相手だからな。それより、被害者が気になる、戻るぞ」
言いながら赤いアギトは駆け出した。G3‐Xも後を追う。
当麻と瀬文は先程の位置から動いておらず、簡単に見付かった。
当麻と睨み合っているのは、黒の上下に身を包んだ年若い男だった。彼は眉を寄せて、怒りか悲しみかは知らないが、抑えきれない激情に唇をわななかせていた。遠くで、消防車や救急車のサイレンがひっきりなしに、近付いて遠ざかってを繰り返していた。
***
山が燃えていた。
それを囲む人垣は力持つ人々の群れだったが、そんな事は何の関係もなかった。
力を浴びせれば、王は力の存在を認知してそちらに意識を向けた。
誰が想像していただろう。まさか認識されただけで自分の体に火が点き一瞬にして燃え尽きて炭となるなど、想像する者はいない。
王は、未確認生命体第四号によく似ていた。ただ、その姿は第四号よりもずっと大きく刺々しく、禍々しさと強い攻撃性を感じさせた。
第四号とは違う印象を与えていたのは、何よりもその眼だった。
第四号の眼は明るい赤をしていた、大きな複眼だった。王の眼は形は四号によく似ていたが、色は曇り濁ったような黒だった。
燃やされる人が増えて、火もますます勢い良く広がっていく。王は、前に進むと手近な人間を殴りつけた。何の目的も感じさせない淡々とした動作だった。殴られた男は火の粉と黒い煙に覆われた下草の上に倒れこんだ。首は妙な方向に曲がって、首もやや伸びたように見えた。
煙は勢い良く天に向け立ち上った。狼煙のようにも見えるが、誰に助けを求められるというだろう。
焼けた人間の皮膚や髪の毛の匂いが肺を巡り吐き気を催させる。温度が余程高いのか、王に燃やされた者は燃え続けられない、すぐに消し炭になり簡単に燃え尽きた。燃え尽きるまでに激しい炎が飛び火して下草に燃え移りそれが木を焼いて、風に煽られて森は激しく燃えていた。
王が燃える山を降りようとするのを阻める者はいなかった。彼らは例えば彼らの持つテレキネシスで王の身体を操ろうとしたり、空間を操作して王をどこかこの世界ではない場所に飛ばそうとしたのだが、攻撃を仕掛けると、いや何かのスペックを行使したその瞬間に王は即座にその者を認識して燃やしてしまった。岩石は王を押し潰したが、何事もなかったように岩を砕いて、王はまた歩き出した。
まるで息をするように。王が人を燃やし破壊する様は、ごく当たり前の事を行っている雰囲気があった。
王には破壊の意志など感じられなかった。黙々と(まるで息をするように、さりげなく自然に)ただ焼いた。
人里に降りようとしている。口をきかぬから、王の目的など誰にも分かりはしなかったけれども、彼は確かに人の住む街を目指し歩いていた。
***
時ならぬノックが響いたのは昼過ぎだった。
昼食は先程済ませたばかり、一体何の用事があるだろう。怪訝に感じつつ津上は、はいと返事を返した。
鍵が開きドアが開いて、マナが顔を覗かせた。
「王が目覚めたの」
言葉は簡潔でごく短かった。ふ、と不審げに眉を寄せてから津上は口を引き結び表情を固くした。
未確認の王というものが何なのか、どれだけの力があるものなのか分からないが、危険なものであろう事だけははっきりしている。
津上が立ち上がると、マナはやや眼を細めて津上を見た。
マナは眩しそうな様子で、気のせいなのだろうけれども、微かに微笑んでいるようにも見えた。
「マナちゃんが連れていってくれるの」
「そうよ、後もう一人」
頷いて歩き出し、マナは扉を開け放って廊下へ出た。津上もその後に続く。
一階へ降りる階段の前に中年の男が立っていた。
男は中肉中背、眼鏡をかけ薄汚れたベージュの帽子を目深に被って、同じ色の薄手のコートを羽織っている。目元辺りの厳しさと口元の結び方は、どこかで見た事があるものによく似ていた。
「あなた、芦河さんの……お父さん?」
津上は呟いたが、マナも男も返事を返さなかった。
「何でこの人も一緒なの、危ないんじゃないの」
「その人は、自分の目で見ないと満足しないから」
マナは当たり前の事のように、淡々と答えた。まるで興味のなさそうな、取りつく島もない冷たい口調だった。
「君の邪魔はしない。私はただ、あれを自分の目で見られればそれでいいのだよ。私の説が正しかったと知る事が出来れば、それで」
男はにやにやと、口元に笑みを浮かべた。だが目が笑っていない。
「知るって……何だかよく分かりませんけど、死んじゃうかもしれないんですよ、気にするなって言われたって無理です」
「余計なお節介だな。私とマナは、この日の為に生きてきたんだ、部外者の口出しは無用だ」
男は気分を害されたのか、口元の笑みを消して強い声で吐き捨てた。
「君には分かるまいよ。私にとっては知る事が全てだ。古代史の定説を覆す大発見だったんだ、命を賭けている。正しいものが認められなかった理不尽と悔しさは君になど分かるまい」
「……あなたは、そうかもしれませんけど、マナちゃんは?」
自信のなさそうな、遠慮がちな弱い口調で津上が呟いた。男は眉を寄せて眦を決し、忌々しそうに息を吐いてからマナの手首を乱暴に掴んだ。
「君と問答するつもりはない、行くんだマナ」
手首を掴む手の力が強いのか、マナは軽く顔を顰めたが、頷いて津上の肩に空いた右手を添えた。
津上は尚も口を開こうとしたが、次の刹那には階段の前から三人の気配は全く消えていた。急にしんとした廊下に人のいた名残は、踏みたてられ舞い散った埃がゆらゆらと沈む様だけとなった。
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